第二十九話
二十九、
翌日の朝、高橋は強い尿意を感じ、目が覚めた。決して、いい寝起きとは言いがたいが、尿を出すと変な満足感を覚えた。そして、冷蔵庫から一〇〇%のフルーツジュースを出して、パックのまま口元に運んだ。
昨夜は、いろいろ考えていてなかなか眠れなかったが、結局は寝てしまったようだ。所詮、人間の思考とは、その程度のもので、最後には本能的な欲に負けてしまうのだ。それよりも、昨夜は何も食べていなかったので、朝とは言え、腹が減っていた。あいにく、家にはこれといって食べる物はなく、ジュースだけで腹ごしらえするのは至難の業である。このまま、昼まで寝てしまってもいいが、昨夜のようにはなりたくない。それに、今日に限って寝むたくなかった。
そのため、高橋は、しぶしぶ家を出た。そして、家から一番近いコンビニに向かった。そこでおにぎりを買うと、歩きながら食べ始めた。海苔の香りとパリパリとした触感が、朝のひんやりとした空気とマッチし、高橋の体を目覚めさせてくれた。おにぎりは、全部で三個買ったが、家に帰るまでには全て平らげてしまった。そうして、家に着く頃には、高橋の体には力がみなぎっていた。
ちなみに、大学の講義は午後からだった。そのため、家に帰っても特にする事はなく、暇であった。無論、暇を持て余すのは慣れている。けれども、伊藤や直子のことを一人で考えているのは、それなりにしんどかった。ならば、考えなければいいではないかと言われるかもしれない。しかし、高橋も人間に産まれてきた以上、考えずにはいられない。
高橋は、家に帰るとコタツに入った。それから、昨日の蜘蛛はいないかと部屋の中を見回してみた。蜘蛛はいなかったが、部屋の角には小さなゴミがたまっていた。いつからか分からないが、しばらく掃除をしていないのは確かである。そろそろしなくてはと思いつつ、コタツに入ってしまった今、その考えはあまりに無力だった。
高橋は、コタツに入ったまま、しばらく時間が経つのを待っていた。そんな時、携帯に電話がかかってきた。
「もしもし、信幸。」
「ああ、母さんか。」電話の相手は、高橋の母親だった。
「さっき、テレビ見てびっくりしたんだけど、お前の通ってる大学の学生が自殺したんだって。」
「もう知ってるよ。伊藤のことだろ。」
「そうそう、伊藤って言ってた。お前知ってるのかい?」
「知ってるも何も、友達だよ。」
「驚いたね〜。あんた友達だったの?」
母親は、この事件に関して、可哀想というよりは面白がっているようにも取れた。そのため、高橋は、母親の質問に答えているのが苦痛でたまらなかった。伊藤の死は見せ物ではないのだ。そもそも、テレビでやっていることさえ不愉快でたまらない。
「なんで、自殺なんかしたんだい?」
「そんなの知らないよ。」
「彼とそんなに仲良くなかったのかい?」
「そんなの母さんに関係ないだろ。」
「なんだいその口の利きようは。お前の身近で起きた事だから心配してるのに。」
「心配?楽しんでるようにしか見えないけどね。」
「なんで、お母さんが楽しまなくちゃならないの!」
「伊藤は俺の親友だったんだ。それがどの位のものだったか、母さんには分からないよ。」
「心配してるのに、分からない子ね。」
「分からないのはどっちだよ!とにかく、この件についてはあんまり話したくない。」
「あっ、そう。なら聞かないわ。」
「そうしてくれよ。」
親子の会話は、ぎくしゃくした形で幕を下ろした。高橋は、昨日の直子との電話もこんな感じだったなと感じた。もしかすると、直子も自分が母親に感じたようなもどかしさを感じたのかもしれない。もし、そうだとすれば、直子に申し訳ないことをした。
人は相手にいやな事をしても、それを理解できない。本当に理解できるようになるには、同じような事を自分も経験しなくてはならない。しかし、それに気付いた頃にはもう遅いことが多い。直子にしても、もう遅いかもしれない。そう思うと、高橋は、急に心細さと後悔の念を感じた。けれども、こんな時邪魔になるのは、変なプライドや意地等といったものである。高橋は、今さら直子に頭を下げるといったことをしようとは思わなかった。人の世というのは住みにくいところである。いっそ伊藤のように、あの世に行った方が楽なのかもしれない。