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第二十二話

二十二、


 病院での診察結果によると、高橋の肋骨には少しひびが入っていた。それと、全身を強打されたせいか青あざが体中にできていた。幸い手術するほどの大怪我ではなかったので、高橋は三日ほど入院すると病院を出た。もちろん、完璧に治ったわけではないが、病院側に無理を言って退院したのだ。その理由はいたって単純である。一日中、硬いベットに横たわりながら時間を持て余すのに嫌気がさしたからだ。唯一の楽しみといえば、食事ぐらいなものである。ここでは睡眠という欲もわいてこない。また、直子には連絡していなく、家族は遠くに住んでいるので、見舞いに来る者もいない。来る人といえば、あの時の警官ぐらいなものである。その警官も高橋から事情聴取を終えると、すぐに帰って行ってしまった。

 この時、高橋は伊藤の辛さを身をもって知った。人の気持ちを分かっているつもりでも、実際に自分が同じような状況に陥ってみないと本当には分からないのだ。人は苦労しなければいけないとはよく言ったものだ。辛い経験を通していろいろな人の気持ちを理解できるのかもしれない。この場合、理解というよりは共感という言葉の方が自然かもしれない。そうやって人は大人になっていくのだ。老人を敬うというのはそういうことであろう。年をとれば、それだけ経験が増える。その中には辛い経験も大いに違いない。故に、年をとるほど人に共感出きるようになっていく。そう考えると、それを乗り越えてきた人々には敬意を表する価値がある。それと同時に、自分はまだまだ大人にはなりきれていない、それに引き換え、伊藤は成長したのかもしれないとも感じた。

 高橋は久しぶりに家に帰った。三日ほどしか経っていないが、無人島から母国へ帰った気分だった。無論、家の中は以前と変わりはないが、しばらく喚起をしていないせいか臭いがこもっていた。けれども、自分の家というのは落ち着くのだろう、高橋は帰るやいなやベットに横になった。病院のベットとは違い、布団はふかふかしていた。また、枕にしみついた自分の臭いも心地よい。まるで、戦から命拾いをして家に帰ってきたようだ。しかし、うっかり寝返りを打つと全身の傷が痛んだ。特に、肋骨は大事にしなくてはならない。もう一度入院といのはまっぴらごめんである。

 天井を見つめたまま、高橋はなぜあんなことをしたのか振り返った。けれども、あの時は感情的になっていただけに、今振り返ってみても結論は出なかった。ただ腹がたったからやったのだ。さらに言えば、自分の大切なものを侮辱されたような気持ちになったからやったのだ。そのため、後悔などしていなかった。むしろ、自分は正しい事をしたのだという誇りに満ちていたくらいだ。この傷も勲章みたいなものである。

 それから天井がだんだんと薄暗くなり、いつの間にか高橋はすやすやと夢の世界へと入っていった。夢のなかで高橋は伊藤と話をしていた。伊藤はすでに退院し、体も以前と変わらぬ健康な姿に戻っていた。場所は新緑の緑が照り輝く山である。そこで、二人は山登りをしていた。

「今日はいい天気だな。」

「本当だな。こうやってお前と散歩するのも久しぶりだな。」

「まあ、俺は入院してたからな。ははっ。」そう言って伊藤は白い歯をのぞかせた。

「しかし、天気もいいけど景色もいいな。一体この山はなんて言うんだ?」

「それは分からないな。まあ、名前なんて後から人間が付けたものなんだ、大した意味なんてないよ。」

「それもそうだな。」

 山道のところどころには大きな岩が転がっていた。その岩には、こけがびっしりと生えている。また、大きな木の根元には、根が地表に浮き出ており、時折二人の足元をすくった。

「もう頂上かな?あの辺りがなんか開けてるようだけど。」と高橋は歩いている方向を指さした。

「んん〜、そうかもしれない。」

「走ろうか?」

「おお、競争するか?」

「いいね。競争なんて運動会ぶりだな。」

「それじゃ、お先に〜!」と伊藤は隙を見て駆け出した。

「おい。」と高橋も駆け出した。

 勝ったのは高橋だった。

「お前フライングしたのに遅いな。」

「だからフライングしたんだよ。しかし、お前は速いな〜。」

「まあな、こう見えて運動神経はいいからな。」

「はいはい。」

 それから、二人は調度よい高さの岩に腰掛けた。いきなり走ったせいか、二人の呼吸は荒かった。

「おい、見ろよ。海だぜ!」と伊藤はその方向を指さした。

「すごいな。山と海を両方堪能できるなんてめったにできないぞ。カメラ持ってくればよかったな。」

「目に焼き付ければ十分さ。」

 海は、太陽の光に反射されきらきらと輝き、船が何艘か行き交っていた。また、空には鳶が円を描きながら、上昇気流にのって気持ち良さそうに泳いでいた。それに肌には清々しい風が当たり、熱った体を冷やしてくれた。耳を澄ませば、風の音が聞こえてくるようである。目を閉じれば、風の香りを感じ取ることができる。高橋は風に匂いがあることを初めて知った。樹木の匂い、土の匂い、岩の匂い、海からの潮の匂い、風はそれらを運んでくるのだ。

「風っていい匂いだな。」と高橋は伊藤に言ってみた。

「ああ、俺もそう思ってたところだよ。」

「今は新緑だから、これは新緑の匂いなのかな?」

「それ、おもしろいな。じゃあ、紅葉の季節は紅葉の匂いで、雪の降る季節は雪の匂いがするのかもな。」

「雪の匂いか〜、一度嗅いでみたいな。」

「俺は、山桜が咲く頃の匂いがいいな〜。」

「あっ、それもいいな。」

「その季節にまた来ようか?」

「そうしよう!」

 二人は腰掛けていた岩から立ち上がると、頂上付近を歩き回った。そして、もう一度海を覗くと、先程の船が同じようなところに浮かんでいるのが見えた。遠くで見ていると、まるで玩具の船が湯船にぷかぷかと浮いているようである。水平線は微妙な弧を描き、両側に果てしなく広がっていた。当たり前の事であるが、教科書やテレビで見るのとはまた違うように思えた。

「あの水平線の向こうには何があるのかな?」と突然伊藤が言い出した。

「この海は太平洋だから、ハワイとかオーストラリアかな。あっ、アメリカかも・・・」

「お前は、夢がないな〜。」

「は〜っ?じゃあ、お前は何があると思ってるんだよ?」

「そんなの秘密に決まってるだろ。」と伊藤はニヤニヤしていた。

「なんだよ〜、もったいぶるのかよ。まあ、別にいいけどな。」

「あれ?気にならないのか?」

「別に・・・」

「おいおい、せっかくだから聞けよ。」伊藤は、高橋の方に腕をのせた。

「お前が秘密って言ったんだろ〜。」

「じゃあ、お前には特別に教えてやるよ。」そう言って、伊藤は高橋のわき腹を軽くつついた。

 その時、高橋には激痛が走った。痛みの原因は肋骨のひびであろう。それから高橋は、自分が見ていたのは夢である事に気付き、現実の世界へ戻った。しかし、それは実にリアルな夢であった。もしかすると、あの景色は実際に存在するのでは?そう思わせるほど感覚が残っていた。けれども、現実は厳しいものである。夢の感覚もすぐに怪我の痛みへと変わっていた。

 時計の針は、夜の八時を回っていた。今から眠れば、もう一度あの夢の続きを見られるかもしれない。そう思った高橋は目をつぶってみたが、痛みで寝る事はできなかった。


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