第十七話
十七、
次の日、高橋は悩んでいた。その悩みの種は直子である。一昨日は、一緒に伊藤のお見舞いに行くことを約束してしまったし、昨日は昨日で晩御飯の誘いを断ってしまった。今日は、必ず伊藤と話をしなくてはならない。かと言って直子を連れて行くのは気が引ける。けれども、約束は約束である。男である以上、一度口にしたことは死んでも守らなければならない。そう思い、高橋は直子を連れて行くことにした。
直子は、俄然うきうきしていた。病院に着くと高橋もそうであったように、その大きさと綺麗さに驚いているようだった。
「はじめて来たけど、本当に綺麗な病院ね。」
「まあね、俺も最初は驚いたよ。」
「信君はここに来るのは何回目?」
「え〜っと、二回目・・・いや、三回目かな。」最初高橋は、伊藤と救急車で来た日を数えるのを忘れそうになった。
「もうそんなに来てるんだ。」
そんなことを話しているうちに、伊藤の病室の前に着いた。
「ここが、伊藤の病室だよ。」と高橋はドアを指差した。
そして、軽く三回程ドアをノックすると、恐る恐るドアノブをひねった。向こうの空間には、どんな伊藤がいるのだろうか。不安はあったが、今日は直子もいたので少し強気になれた。こればかりは直子に感謝である。
「伊藤、入るぞ〜。」
「失礼するわよ〜。」と直子も声をそろえた。
「おう、今日は二人でどうしたの?」伊藤はベットに腰掛けながら外を眺めていたようである。こちらに振り向くと、そう言ってさわやかな笑顔を見せた。しかし、頭には包帯がぐるぐるに巻かれ、上からネットが被せてあった。おそらく、狂乱した時の傷だろう。
「今日は、直子も来たいっていうから連れてきたよ。」
「どう、体の調子は?」と直子は伊藤のそばに歩み寄った。
「心配かけてごめんな。今日は大分いい感じだよ。」
「そう、それなら良かった。」直子は微笑すると、さらに続けた。
「それにしても、最近大学は来ないし、どうしたの?」
「ははっ、たまにはさぼりたい時もあるだろ。」と伊藤は頭を撫でながらそう言った。
「まあ、そういう細かいことはいいだろ。」と言いながら高橋も伊藤の近くに歩み寄った。
「それもそうね。とりあえず、今は体を治すことが先決ね。」そう言って直子は納得したらしかった。
どうやら、今日の伊藤の精神状態は安定しているようである。けれども、この状況ではまともに話をすることができない。直子にあの事故のことを話せれば楽になるのだが、伊藤の手前、そんなことはできない。しかし、自分がやらなくてはいつまでたっても解決しない。そう思うと、高橋は自分を奮い立たせた。
「そういえば、この部屋暖房がついていて、のど渇かないか伊藤?」
「んん〜、言われてみれば少しのど渇いたな。みんなでなにか飲み物買いに行こうか?」
「それいいね。行こうか。」と直子ものってきた。
「いやいや、病人は静かに寝てなくちゃ駄目だよ。」
「それもそうね。」と直子はどっち付かずである。
「確かにそうだけど、お前が言うほど病人じゃないぞ。」と伊藤は不満そうである。
「まあまあ、飲み物は俺が奢るから。」
「仕方ないな〜。」それならと伊藤は納得したようである。
「俺が奢るから、直子買ってきてもらっていいかな?」
「いいわよ。その代わり、ちゃんと奢ってね。」
そうして、高橋は直子に五百円玉を渡した。
「お釣はいいよ。」
「なんか今日は気前がいいのね。それで、二人とも飲み物は何がいい?」
「俺は、何かさっぱりしたもの。」
「信君は?」
「俺は、炭酸が入ったやつならなんでもいいよ。」
「は〜い。」と言って直子は元気よく部屋を出て行った。
高橋は、やっと伊藤と二人きりになれたと思った。しかし、ゆっくりとしている暇はない。直子が飲み物を買ってくる前に話を済ませなければならない。そうして高橋は口を開いた。
「その頭はどうしたんだ?」
「ああ、昨日そこの階段で転んじゃってね。」
「おいおい、俺に嘘は通用しないぞ。転んだくらいでそんなになるか?」
「なる時もあるのさ。すごい転び方だったんだぜ、思わず・・・」高橋は、伊藤の話が終わらないうちにこう言った。
「実は、昨日俺の家にお前の両親が来たんだ。」
伊藤は少し沈黙を置いてから口を開いた。
「そうだったのか。」
「どうして、そんなことをしたんだ?」
「俺にもよく分からない。今は落ち着いているけど、見えるんだよ。」
「はっ?いったい何が見えるんだ?」
「・・・」
「おい、俺には何でも話してくれよ。あの事を知っているのは、お前と俺だけなんだぞ。話して楽になった方がいいじゃないか。そうだろ?」
またしても伊藤は沈黙を置いた。それもさっきより長い沈黙を。
「蛆虫が見えるんだ。それも体中に・・・。頭についたそいつらは俺の鼻や目から脳の中へと入り込んでくるんだ。俺の脳に寄生するためにな。だから、俺はそれを振り払うのに必死だった。最初のうちは手やシーツで体中を擦ってみたけど、あいつらは際限なく湧き出てくるんだ。それで、頭に入り込んだ蛆虫たちを追い出すために頭を打ち付けたんだ。そうしたら、あいつらは堪らず口から飛び出してきたんだ。だけど、あいつらはいくら振り払おうとしてもきりがない。これは夢なんかじゃない、かなりリアルな話さ。」
「・・・」高橋は絶句した。
「おかしいだろ?でも実際本当のことなんだ。」
「それは医者に相談したのか?」
「もちろんしたさ。」
「医者は何て?」
「幻覚みたいだ。」
「原因はなんだって?」
「原因は・・・」と伊藤が言いかけたところで直子が戻ってきた。
「おまたせ〜。」
「ありがとう。」と二人は言った。直子が帰ってくると、伊藤の表情も少し明るくなった。
これで、伊藤と高橋の会話は終りである。もっと話をしたいところだが、もう直子を使うわけにもいかず、三人で普通の会話をした後、病室を後にした。おそらく、伊藤は今日も蛆虫に食われる幻覚を見るに違いない。はたまた、もっとひどい幻覚を見るのかもしれない。その原因までは聞けなかったが、その真相には深いものが隠れていそうである。いったいあの事故の後、伊藤に何があったのだろう。すぐ隣で自転車をこいでいる直子には、高橋と伊藤が悩んでいるなどと思いもしないだろう。直子は、街に飾られたイルミネーションを見ながら、何か高橋に言ってきているようだった。しかし、その声は高橋には届かない。唯一、高橋が感じ取れるのは、憂うつな気持ちと、もう夜になったということだけであった。