第十六話
十六、
次の日、大学の講義は、朝から夕方までびっしりと詰まっていた。他の学生はともかく、高橋にとっては読書と居眠りの時間であるが、さすがに一日中座っているというのは大変である。そのため、講義が終わると軽い脱力感におそわれた。そして、直子や他の友達の誘いを断り、高橋は一人家へと帰った。
最近忙しかったせいか、家の中は強盗が入ったようにちらかっている。壁と床の境目や隙間には、どこから来たのか、埃がたまっている。トイレや風呂場、洗面台においては赤や黒のカビたちの住家となっている。第一、部屋の中には服や新聞、雑誌などが散乱しており、歩くのがやっとである。かといって、高橋は掃除ができない訳ではない。むしろ、綺麗好きであり、掃除で体を動かすのは好きな方である。
風呂場のカビや床の埃を根こそぎとってしまうところを想像していただきたい。これほど気持ちが良いことはないだろう。けれども、今の高橋には、それらを楽しむ気力はなかった。せいぜい散らばった雑誌や新聞をまとめるのが精一杯である。
それから、高橋はベットに横になった。天井を見ると一匹のハエが飛んでいた。いつもならその命を頂戴するところだが、今日ばかりはハエの運の方が良かった。そのハエは、部屋中をさまようと電球に止まった。それはただ羽を休めているだけなのか、それとも電球の温かさがたまらないのか、はたまた明るいのが好きなのか、理由は分からないが、その場に落ち着いたようだ。しかし、ハエは高橋を馬鹿にするかのようにまた部屋中を飛び始めた。なんの目的があって飛んでいるのか、そもそもハエが生きている意味などあるのだろうか。そんなことを考えていくと、人間はどうかという壁にぶち当たる。はたして人間はどうなのだろうか。
元来、生物というものは自分たちの子孫をいかに残すかを競って生きてきた。それならば、生きる意味というのは子孫を残すことだといえよう。ほとんどの動植物たちはそうして生きている。それも本能的に。しかし、人間も同じかと言うと、一概にそうとも言えないだろう。人間の中には一生子を儲けない者もいる。また、子孫を残すだけでなく、趣味を楽しんだり、文明の発展に貢献したり、生きる目的は一つではない。さらに、自殺したり仲間を殺したりするのも人間特有の行動である。その行動は、生物の生きる目的と根本的に矛盾する。我々はいったい何者なのだろうか?我々はこれからどこへ向かおうとしているのだろうか?これは哲学である。そして、難しいことを考えていると眠くなるものである。高橋は、ハエの羽音を聞きながら、いつの間にか寝入ってしまった。
それからどのくらい経っただろうか、高橋の部屋にはチャイムが鳴り響いていた。高橋は、こんな時間に誰だと思いつつ、ベットから身を起こした。それから、ドアの穴を覗くと高橋の眠気はいっきに吹き飛んでしまった。ドアの向こうに立っていたのは、新聞の勧誘でもなければ、宗教の勧誘でもない、伊藤の両親である。高橋は、写真で見ただけで実際に会ったことはなかったが、なぜかピンときた。
高橋が無言でドアを開けると、
「こんにちは。どうもお邪魔してすみません。高橋君ですよね?先日はどうも。私は隆の父です。いつも隆がお世話になっています。」
やはり、高橋の予想は当たっていた。大方、伊藤のことで何か話があるに違いない。
「いえ、こちらこそ。それより、どうぞ中へ。」そう言うと高橋は二人を招きいれた。
「それでは失礼します。」と二人は抵抗なく中へと入っていった。
無論、高橋の部屋は散らかっている。三人どころか一人座るのがやっとである。
「すみませんが、大分部屋が散らかっているので他の場所で話をしましょうか?」高橋は仕方なくそう提案した。それは礼儀で言ったのではなく、本心で言ったのだ。
「いえ、そんなに長居はしないので充分です。」と伊藤の父親が答えた。伊藤の母親は会ってから黙ったままである。
それでは、と高橋はおおざっぱに辺りを整理し、なんとか三人が座れるだけのスペースを確保した。それから、父親が口を開いた。
「今日来たのはもうお分かりだと思いますが、実は伊藤のことであなたに聞きたいことが・・・」
「はい、なんでしょう?」高橋の部屋の空気は、いっきに重々しいものとなった。
「この間、家に電話をくれましたよね?それと隆を病院まで運んでくれたのもあなただと聞いています。」
「はい・・・」
「ありがとうございました。そこで、あなたとうちの隆は特別仲がいいと思いまして、あなたが何か隆のことで知っていることがあったら教えて頂きたいのです。」
「確かに仲はいいですが・・・」高橋は返答に躊躇した。
「実は、今日・・・」と父親が言いかけると、母親はそれを止めるかのように夫に目で合図をしているようだった。しかし、父親はそれを遮り、次のように続けた。その間、母親は下を向いているばかりである。
「実は、今日隆が病室で狂乱しまして、自分の頭をベットのパイプなどに激しく打ち付けたみたいなんです。医者によると、隆は幻覚を見たらしいのですが、親としては信じがたいのです。それで、先ほど病院に行ってきたのですが、どうやら本当のようで・・・」
「本当ですか?」高橋は思わず聞き返してしまった。母親の面持ちは、先程に増して暗くなった。
「ええ・・・、そこであなたに聞きたいんです。最近の隆の行動等を。」
高橋は困惑した。なぜなら、高橋も同じようにあの事故のこと意外、最近の伊藤の行動が分からないからだ。ただ、ここであの事故のことを打ち明けても大きな変化はなさそうである。なにか、高橋も知らないことが伊藤を包み込んでいるに違いない。高橋は、これは厄介なことになってきたと思った。
「何か心当たりはないですか?」父親は一生懸命である。
「申し訳ありませんが、ありません。」そう言って、高橋は頭を下げた。
「そうですか・・・」伊藤の両親は肩を落とした。それから母親が始めて口を開いた。
「あの子は、根は真面目なんです。なので、狂乱したということは今でも信じられないんです。あの子は、私たちだと本当のことを話してくれません。けれど、あなたなら違うでしょう?だから、今度隆に会って話をして欲しいの。よろしいですか?」
「もちろんです。少し時間がかかるかも分かりませんが、頑張ってみます。」
「よろしくお願いします。」そう言うと、二人は菓子折りを置いて高橋の家を後にした。