第一・二話
一、
落ち葉を踏みしめながら山道を登っていく。今日は、やけに落ち葉を踏みしめるミシミシという音が、耳に心地よく感じられる。高橋は、何か考え事があると、名も知れぬこの山へと足を運んでいた。紅葉も終わり、葉の落ちた樹木は、どこか寂しげな雰囲気を出しつつ、高橋を歓迎しているかのようにも見える。そして、高橋は、それに誘われるかのように足を運んでいた。半時も歩くと視界が開け、目前に錆のこびり付いた、いかにも古そうな展望台が見えた。高橋は、その展望台へと上り、背筋を伸ばすと、ため息をひとつついた。吐息は白くなったかと思うと、どこかへと消えていった。しばらく手すりにもたれ掛かり、沈黙だけが続く。そして、冬を告げるような冷たい風が、高橋の胃をさすのだった。
高橋信幸は、某有名大学に通う学生である。成績は普通で、友人は多く無いが、親友とも呼べる人が幾人かいた。気の合う者同士で騒ぎ、気の合わない者とは一線を引く、それが高橋の考えであり、また、それが彼を普通とは一風変わった人間だという印象を周囲に与えた。かと言って不快な印象は無く、むしろ、そのさっぱりとした印象から周囲の好意が伺えた。そのせいか、高橋には直子という恋人がおり、度々食事に出掛けては、たわいも無いことを話し、ふたりで楽しんでいた。
「直子はどう?」
「どうって、なにが?」
「大学だよ。最近講義が退屈でね。」
「そうね、私も同じよ。というか、みんなそうなんじゃないかな。大学生活にも慣れてきて、まんねりしてきているんだよ。最近は、試験やレポートも多いし、でも、大学での生活なんてそんなに力むものじゃないと思うよ。とりあえず、卒業して、就職できればいいんだよ。若いうちしかできないこともたくさんあるし、今は楽しもうよ。」
「それもそうだな。じゃあ今度の土曜日にどこか出掛けようか?」
「ごめん、今度の土曜はバイト入ってる。日曜日は?」
「日曜は、友達とレポート書かなくちゃいけないから無理だな。まあ、また今度にしよう。」
「うん。」直子は軽く笑みを見せ、頷いた。
その時、レストランの柱時計は、夜の八時をまわっていた。高橋たちの他には、若いカップルが一組と年を取った男性が一人いるだけだった。若いカップルは、なにやらもめており、その一角だけ空気がよどんでいるように見えた。一方、それとはお構いなしに、老人は新聞を片手に、コーヒーを飲んでいた。古い柱時計、いい具合につやの出ているテーブルや椅子、人の歩く場所が模様のようにすれている床、どれをとってみても綺麗とは言い難いが、店全体になにやら懐かしい空気を漂わせていた。
「そろそろ出ようか。」
「うん。」
ふたりが若いカップルの脇を通り過ぎようとした時、微かではあるが、若い男が女に別れようと言ったのが聞こえた。高橋が勘定を終え、店を出ようとした時、ふと女の方を見ると、顔をテーブルに伏せて泣いていた。男の表情を伺うと、悲しいというよりは、どこか自信に満ち溢れているようにも取れた。いつか別れる日はきっと来る。そう思いつつも、自分自身に当てはめてみる勇気はなかった。
「なんか、あのふたり気まずそうだったね。女の人泣いてたよ。かわいそうだったな。」
かわいそうなのは男の方、きっと女に振り回されていたのだ。そうでもなければ、あんなにいい表情をしているはずがない。そう直子に言おうとしたが、高橋は、そうだねと言って流した。男と女では、元来考え方が違うのだ、それは認める。けれども、それが原因で自分たちまであの二人のようにはならない、高橋はそう思った。
「今日はありがとう。私、明日早いから、今日はこれで帰るね。」
「了解、今日も家まで送ろうか?」
「ううん、まだ九時前だし、たまにはひとりで帰るよ。いつもいつも悪いし、御飯もおごって貰っちゃったし。それじゃ、またね。レポート頑張って。」
「分かった、直子も気をつけてね。」
帰宅途中、高橋は少し遠回りをし、河川敷の堤防を自転車を押して帰った。川はコンクリートで固められ、ペットボトルなどのごみが生き物のように浮いていた。また、その流れは不気味なくらいにゆっくりとしており、波一つ無く穏やかであった。河川敷には、これといって大きな木はなく、コンクリートのない場所にひっそりと、すすきや背丈の低い雑草などの植物が生えていた。こんな場所では季節が感じられない。一年中同じような景色ではないか。本来、人間は川と共に生きてきた。メソポタミア文明など、四大文明は大河があったが故に生まれたのではないか。この川は人間の手により、こんな姿になってしまった。けれども、その裏には反抗することなく、穏やかに流れている姿がある。川は静かである。その力強くも健気な姿が、高橋の感情を動から静へと誘うのだった。
ふと気づくと、川辺には、レストランで見たようなカップルが肩を寄せ合い、座っていた。なぜこんなところで、と思いつつ、「たまにはひとりで」、直子の言ったこの言葉がやけに頭に残った。今まで、ずっと家まで送っていたのに、今日はどうしたのだろうか。レストランでのこともあり、なんだか直子が遠くに行ってしまうような気分になった。
自分だってひとりになりたい時だってある。しかも、今夜は、何も気まずくなるようなことは なかったはずだ。自分は、生まれつき考えすぎてしまう癖がある。きっと、今回もその類だろう。あまり深く考えないことだ。そう自分に言い聞かせ、自転車にまたがり冷たい夜の風を切り裂いた。そして、家に着くとその日は何もせずに寝てしまった。
二、
高橋が目覚めたのは、もう正午になろうかという頃だった。ベットから降りると、冷蔵庫から一〇〇%のオレンジジュースを取り出し、飲むというよりは口の中へと流し込んだ。これを行うことにより、気だるい体に生気を吹き込むのだ。高橋はベットの上に座り、テレビのスイッチをつけた。今日は、土曜日ということもあって、昼前からバラエティ番組が多く、ブラウン管からは笑いが絶えなかった。しかし、どれも大した事は無く、もうさめざめとしていた。そのため、高橋は昼前のニュース番組に切り替えた。ニュースを報道していたのは、この時間帯によく出ている少し細身の中年男性だった。「昨夜未明、東京都世田谷区で都内の中学校に通う女子生徒が、自宅の部屋で首吊り自殺をしました。原因は、残された遺書から、いじめであったと思われます。」最近は、こんなニュースが増えたなとニュースを聞くたびに思った。 少し前までは、友達や親族を殺すといった事件が世間をにぎわしていた。けれども、最近は学生の自殺が多くなってきている。死ぬ気になれば、何でもできるのではないか?いじめが原因なら、いじめているやつをぎゃふんと言わせればいいではないか。はたして、それができない から自殺へと走るのだろうか。実のところ、理解しようとしても、高橋には理解しがたかった。そして、理解できないもどかしさと内容の退屈さから、テレビを消してしまった。
今日は土曜日である。直子はバイトであり、レポートをするのは明日と決めているので、特にすることは無い。高橋は、ベットに横たわり、昨日のことを考えた。昨日、俺はなぜ直子が遠くにいってしまうような感覚になったのだろう。レストランでのカップルのせいかだろうか?それとも、寒くなってきた季節が、俺の心を感傷的にしているのだろうか?今考えてみても、まったく分からなかった。けれども、今考えてみると、昨日のような心配はいっさいなかった。今思うと、あんなに考えていた自分がばからしく思えてきた。
高橋の部屋は六畳ほどであり、大学生としては、まあ一般的である。掃除はほとんどしないままであったが、余計な物がないので意外とさっぱりしていた。建物自体も大きな道路から離れているため、昼間でも静かだった。そのためか、ひとりでこの部屋にいると、どことなく寂しい気持ちになってくるのだった。その日も例外ではなく、高橋はひとり寂しい気持ちになってきた。「よし、とりあえず外に行こう。」そう心の中で自分を奮い立たせ、携帯と財布を持ち、木枯らしの吹き荒れる世界へと出だしていった。
外は意外と寒かった。そのため、高橋はラーメン屋に入った。店は、熱気でむんむんしており、席もほぼ満席といった状況で、外の凍える世界とはまったく別世界であった。高橋は、カウンターに空いている席を見つけると、そこに座り、ラーメンとチャーハンのセットをたのんだ。店長と思われる人物は、料理人というよりはプロレスラーといった感じで、筋骨隆々の肉体に濃いひげをはやしていた。周りで働くアルバイトらしき人たちは、高校生か大学生なのであろう、顔にはまだ幼さが残っている。そうこうしている内に、高橋の前に目的の品が登場した。透き通ったスープ、金色に輝くチャーハン、いずれからも湯気がとめどなく立ち上がり、いい香りが高橋の空腹を刺激した。ちぢれた麺をすすり、スープを口に含むと、凍ったからだが解凍されていくような気分だった。量は意外と多くなかった。けれども、高橋の空腹を抑えるのには十分であった。食べ終わると鼻をかみ、勘定を終えると速やかに店を後にした。それから、古本屋に行こうと思い立った。
高橋は本を読むのが好きであった。けれども、ただ読むのではなく、彼なりのこだわりがあった。高橋は、まず図書館で本を借りたことがなく、ほとんどの本は本屋で買っていた。なにか他人の物を借りているという責任観と、自分の物ではないという所有力のなさがそうさせていたのだろう。しかし、いつまでも新しい本を買っていたのでは、財布が底をついてしまう。そのため、よく古本屋に行くようになったのである。まあ、本屋にとっては喜ばしいことであるから、以上のことはよしとしておこう。
その後、高橋は古本屋の中をぶらつき、目ぼしい本を見つけては所々読み、また、目ぼしい本を見つけては読み、を繰り返していた。しばらくすると足が疲れてきたので、近くにあったパイプ椅子に腰掛けた。ここの古本屋は、日本でも一級に大きいものだそうで、江戸・明治・大正の頃の書籍や巻物など、大学の教授しか読まないようなものまでたくさんあった。また、本だけでなく、レコードやCD、昔のポスターまでもが売られていた。それらの品数が店の大きさを暗に物語っているのだ。言い換えれば、ここは本好きの天国であり、楽園である。高橋はここに来るたび、家の近くにこの店があることを幸福に思うのだった。
本を物色して三時間ほどたっただろうか、高橋は結局なにも買わずに古本屋を出た。そして、家への帰り道にスーパーに立ち寄り、今晩のおかずの材料を買うと、帰路についた。
戸を開けると、部屋のこもった臭いと、夕方なのに薄暗い玄関が高橋の帰りを待っていた。食品を冷蔵庫に入れると、音楽をかけてベットに横になった。高橋の疲れを受け止めるのはいつもこのベットである。晩飯までにはまだ時間がある、一眠りしよう。そうして、高橋が次に意識を取り戻したのは、夜の八時過ぎであった。