十年子守唄
少女はときどきしにたくなるので、そう思わなくなるようにさっさと自分を殺めたのだと云う。少女には世界はおろか自分のことですら分からず、すべてを恐れていたのだ。
加絵。
空を這ってしんだ少女はいま、あたしの隣ですうすう眠っている。呼吸をしている、生きている人間として疲れを癒している。
花にお願いがあるの。あたしはいまも十年前に加絵が云った言葉を覚えている。云うときの眼のいろから声ににじみ出た懇願の塊たちまで鮮明に覚えてしまった。
*
「花に歌を歌ってほしい」
何を言い出すのか、と理由もつけずに願いだけを述べた加絵にわたしは「どうして」と間髪をいれずに返した。「どうしてわたしが歌うの? 何を歌うの」
あたしは少しだけ浅はかだった。そして同時に賢明な判断を下すことに勤めていた。加絵が必要だと云うなら本当は歌うことなど容易い頼みごとだった。
しかしひとの直感ほど激しい衝動を生むものはない、あたしはそれに負けて理由を欲した。
「……花はとてもすてきな力を持っているわ、わたしは一度それを見たいの」
「歌うことがすてきなの?」
「うん。すてき。どっかの国のレクイエムでもセレナーデでもいいから歌って頂戴」
「あたしの力って何なの」
一度疑問が生み、それを吐いてしまうと無意識のうちにわたしはミルフィーユを作り上げてしまう。何層にも重なった疑問のミルフィーユ。
加絵はそれをどうにも食べるのに抵抗を要したらしい。すこしだけなみだぐんだ声をして、
「花は自分の能力が分からないでしょう。だったら、歌ってみればいいんだよ。あたしにもあたしが分からない。加絵が分からない。それを知るためにあたしは花の力を借りたい」
呼吸の少ない素早い口調になった。あたしは加絵の涙が顎から落ちていくのをどうしても見たくなくて、そこでようやく「分かった」と了承をした。加絵は濡れた声を嘘みたいに乾かせて「ありがと」と小さく云う。
前向きに考えていいのだろうか。そう思った突如に窓を開いて風を浴びるような気分になれそうな予感がした。心は小さく細やかな跳躍を繰り返している。不安を滲ませつつも歓喜に似た色を強くはなっている。
「二言は、無い、よね」
加絵が先程の声とはまた違う、濁った発音で確認をするのであたしは瞬時に「本当によかったのか」と小さな後悔を抱いた。錯覚だと跳躍の余韻で言い聞かせるが心の内壁に何かがへばり付いているようだ。勿論よと胸を叩く動作をつけながら誇らしげに云いつつも眼だけがうまく晴れない。自分に云い聞かせるためにあたしはしばらく胸を張り続けた。「女に二言は無いもの」
加絵は安堵に染めていた顔を「じゃあ本題ね」と真面目な面持ちに取り替えた。
「あたし、しぬことにしたの。正式に云う……いえ、一般的な言い方をするなら自殺することにしたわ」
何を云っているのかはいまいち理解できなかった。日本語を聞き取っているのに躊躇なく選ばれている詞が異国語のようにしか聞き取れない。しかし咄嗟に反応命令を出した脳が乾いた唇を動かす。悲嘆にくれたようなヒロインの声が声帯から織り成されていく。
「そんな!」
「二言は無いんだよ、ね」
ふわりとした笑顔を加絵は浮かべているはずだったのに、あたしにはそれがどうしようもなく恐ろしいものにしか見えなかった。さくさくとあたしの心を食べていく虫のようだ。反論などしても無為な好意にしかならぬと指先までが物凄いスピードで説得されていく。
「分かった」
あたしは躊躇いを隠せない重たい声を出す。思いとどまって欲しい、と切に願っては先程からあたしと眼をあわそうとしない加絵の顔を穴が開くくらい凝視した。加絵はきっとあたしが黙っていても暗黙の了解で済ますつもりだったのだ。
「だけどね」
加絵はあたしが言葉を生み出せなくなったことによって生まれた沈黙を「早く詳細を教えなさい」と解釈したようだった。相変わらずおぞましく妖艶にも見える笑顔を絶やさないまま続ける。
「あたしは完全にしぬのが怖いわ。痛いのも嫌い」
自殺する癖に身勝手なのね。あたしは心の中でささやかに冷やかな思考を作った。それで? 少しだけ冷めた細い声で問いかける。すると加絵は「物分りいいよね、花って」と呟き、すうと空気を肺一杯に吸い上げた。まるで酸素が無いと何も云えないように。それが勇気を持たせる薬だとでもいうように。
「だから花の力が必要。……自殺に付き合わせるようで悪いけど、精神的な自殺だから安心していて」
一体どこが大丈夫なのだろうか。あたしは友達である加絵が自殺の二文字を持ってきた時点で荒んでしまっている。もう戻らない。損なわれた穴は埋まらないのだ。
いまもきっと、唯、穴に気付かないふりをしているだけ。加絵もまた同様にしているはずだ。
「とりあえず花は歌っていてくれるだけでいいよ」
加絵はすろんと笑い無表情に顔を塗り替える。あたしはアイシーとしか云えなかった。アイシーアイシー。だけど気は進まないんだ。それがせめてもの訴えであり、ラストチャンスだったのに加絵はあたしを知ろうともしない。
「じゃあ、飛び降りでしのうと思うから屋上に行くね。落ちるときは合図するよ。歌ってくれないとあたしはしんじゃうし、痛いよ」
それがあたしが最後に聞いた加絵の言葉だ。分からないことは恐ろしい。加絵のなかで渦巻いていた固定概念に似たそれがあたしはどうしようもなく知ることしかできなかった。悔しくて泣きたくて、加絵がしぬという行為に憧れた現実がなにより壊したかった。
今すぐ加絵に殴りかかればいいのかな。しぬ前だから何をしても同じ結果しか呼ばないのかな。あたしは愚考しかめぐらない脳みそを投げてやりたくなった。……もう手遅れ?
自殺を止めてあげることが加絵曰くあたしの能力だったらいいのにと願ってみる。しかし加絵の口調からしてその可能性は皆無に等しいのだろう。世界は無常だ。
しばらくすると見上げた屋上で靴下を脱いで白いはだしで地面を蹴っている加絵が見えた。行くね。加絵は手を振り空を這う。しかし、飛べない。重力に負けて落下を始める。
あたしは怖くなって眼をきつく閉じた。震える声で「翼をください」を歌う。加絵に翼をあげて! 無意識にその歌を選択したつもりだったがそんな願いばかりが胸をついていた。
どさり。鈍い音がして恐る恐る眼を開くと眼を塞ぐ加絵が倒れていた。なんなのだ、これは、知っているひと? 分からないよ。なんなの。
加絵加絵。いやだいやだ。あたしは何も考えられない状態の中でその単語たちだけを叫び続けた。加絵はしんだの? 落ちたけど、しんだの?
唾を飲み込み加絵の唇の上に手をかざす。
「お願い……」
あたしはその二秒ほど後、大きく息を吐いた。生きているらしい。それも規則的な呼吸している。信じられないけれど眠っている姿だ。
これが……あたしの力なのか。指先で唇に触れながら加絵の健やかな寝顔を見る。そうか、死のシミュレーションによって自殺の真似をしてみたのだ。あたしは納得すると深い深い安堵に沈んだ。立ち上がることが困難だと思えるほど力が抜けている。
加絵、起きて。あたしはもう儀式は済んだのよ、と笑いながら加絵の肩を揺すった。一秒、二秒、三秒と経つが加絵は起きない。強く揺すろうが頬を軽く鳴らそうがぐたんと頭を垂らしている。
すると加絵の傍らに白い紙が落ちた。もしかして。期待という予感が心を走っていった。ここに加絵を起こす術が表記されているのか。ゆっくりと紙を開く。
現れたのは加絵の丸い字で綴られた三行だった。白い穢れのない紙の上を走る文字。
ありがとう。
花のおかげであたしはきっと眠っているのでしょうね。
因みにあたしはあと十年ほど眼を覚ましませんので。
泣きたくなった。何よそれ。あたしへの支障が大きすぎるよ、加絵は身勝手だよ、ひどいよ。
酷い落胆にくれた。十年。そんなの一度自殺をしてみるのと半分変わらない。十年も人生を休むなんて人間の精神は破壊してしまいかねない。
あたしは泣いた。糸が切れるように抑圧のきかない涙を、誰にも気付かれぬよう大量に出した。加絵の名前を呼んでも返るのは声じゃない、息だけだった。
そして蘇る。お願いがあるの、と懇願をした少女のすべて。
加絵の呼吸と伴って膨らんでは凹む胸をあたしは強く握った拳で小さく殴った。莫迦。起きなさいよ。何するのって怒りなさいよ。そうしないとあたしは虚しい怒りしか抱けない。「こっちの台詞よ」なんて快活な声が二度と出せない。
加絵はそのまま眼を開けず、彼女の家のベッドで十年の歳月を過ごした。皆十年という月日を信じなかった。もう無理だと諦めていく人が大勢居た。
あたしは加絵をしかる為に根気よく待った。そして何より加絵に会いたかった。
*
加絵。
「起きて、もう十年経ったわよ、きっかりと経ったわ」
あたしは加絵の肩を十年前と同じように揺すった。起きてよ。あたしは十年も罪悪感に似た思いとともに待ったわ。
加絵は五度ほど揺られた後で眼を薄く開け始めた。あたしは少し嬉しくなる。加絵、会いたかった。死体みたいに眠ったあなたじゃなくて加絵に会いたかった。
「あれー、花。どうしたのお?」あたしは少しだけ大人になった頭で、あまり成長をしていないと思しき花がそう云うだろうと予測する。そして第一声として「酷いじゃないの」と泣きながら云ってやろうと寝ぼけ眼から逃げるのに四苦八苦している加絵を見て考えた。
無理やりに纏めた感覚が否めない作品です。ファンタジーになるのでしょうか、これは。