許しは、死んでからも
私を裏切った元婚約者を、死んだあとの天界でまで対峙しなくてはいけなかったのは、なんの因果だったのだろうか。
私はまだ、彼に振り回されないといけないのだろうか。
私は生きている間に真実の愛というものを理由に婚約を解消されて、そのあとすぐに全く関係のない理由で事故死した。
私が煩わしくて元婚約者が殺したというわけでもなく、その婚約解消のゴタゴタに疲れて領地で静養しようとして向かっていた馬車の事故だった。
ただの事故死だったのは、この天界で死んだあとにも地上を観察していたから知っている。
誰もが予想していなかった出来事だったし、裏の仕事人のような連中が儲かった様子もなかった。
だから、それには納得していた。
むしろ、あの中であることないこと囁かれながら生きるよりは、ここから地上の眺めて気持ちの整理をする方が幸運だったとも言えるかもしれない。
幸い、時間はたっぷりあった。
元婚約者とその真実の愛、両親、両陛下、領民など、歳を重ねていくのをぼんやり見ながら私は次第に生きていた頃の未練を溶かしていった。
そうして、地上のことがほとんど気にならなくなった頃、この天界の神に任務を与えられた。
「お前さんは適任だと思う」と言われただけで、こんな仕事をもらう者は珍しいらしい。
死んだ人間が並んでいる列を行くべき場所へそれぞれに捌いていくだけの仕事だった。
それすらも慣れてきた頃、元婚約者も死んで、この死者の列に並んできたのだった。
地上の時間で言うのなら、直接会うのは50年ぶりとかだったのかもしれない。
若くして亡くなって、天界にいる時間の方が圧倒的に長くて、地上とも流れている時間が違うものだから、体感としてはもはや孫やそれ以降の子孫にでもたまたま出会したような長さだった。
だけれど、あんなになんとも思わなくなっていた心が、またほんの少しざわつくには十分だった。
「……生前はご苦労様にございました。あなた様の進み道はこちらにございます」
他の死者に言う言葉と一字一句違わなかったが、まるで心から言えないセリフに変わったのは、この仕事を任されて以来はじめてのことだった。
すっかり老け込んだ元婚約者は、私に気づいている様子もなく、「はあ…」と覇気のない返事をした。
死んだのだから、覇気なんかなくて当然なんだが、それが無性に腹立たしかった。
私が、今この瞬間に道案内を怠って、本来行くべき方向ではなく苦痛の道に導くこともできるのだろうか。
そんなことが過ってしまうくらい、私はとっくに死んだのに心が死んでいない自分に驚いた。
私は、この人に復讐したかったのかしら。
この人がここで苦しんで、それで何になるの?
生きていた時間の苦しみって、今もまだ必要…?
「あの、こちらで進む方向は合っていますか?」
元婚約者の声にハッとして顔を上げると、彼は振り当てられた正しい道の方を指差していた。
表情は曇っていて、視線は合わない。
私は若い頃に死んだからあの頃のままだが、彼は白髪まじりのおじいさんになっている。
どうやら、私が私だと認識していないようだった。
そもそも、もう死んでいるというのに『私』は『私』って、なに……?
「あのぉ」
もう一度声をかけられて、慌てて返事をした。
「は、はいっ」
「道は合っていますか、お姉さん」
『お姉さん』と言われて、すごく不思議な感じがした。
この人との生きる時間は大昔にはもう交わっていなかったんだなと、腹の底から納得できたような気持ちで、それがとてもスッキリしてくるのだった。
「お姉さん…?」
「あ、はい。合っておりますよ、あなた様の道はこちらにございます」
苦痛を味わわせてやるみたいな最後の憎しみは消えていて、私は笑顔で本来の道案内ができた。
元婚約者は、「そうですか」と言って、そのまま進んでいった。
この人は、私と婚約している時には、自分より若い人や権力のない人に敬語なんて使わなかったのに、いつから変わったのだろう。
いつからか私が地上を見なくなった時から、そんなことになっていたのだろうか。
「あの…っ!」
私は引き止めるように、その後ろ姿に声をかけた。
もう鳴るはずもない心臓に苦しくなりながら、なんとか彼に言葉を残した。
「道を、間違えずにお進みくださいね…!」
「はあ、ご親切にありがとうございます」
はっきりしないような言い方の返事が返ってきて、それから彼はとぼとぼと彼の進むべき道へと歩いていった。
私はその背中が見えなくなるまで見つめて、それから深い息を吐いた。
「どうだった、お前さんの興味の対象が来た気分は」
神様はいつの間にやら私の隣に立って、優しく微笑んでいた。
「……興味があったわけではなくて、私を亡くしてからどう反省していくのか見たかっただけで」
「それを興味と言わずしてなんと言う」
「……心情的に違います」
「くくくっ、もう死んでいるというのにか」
神様は愉快そうにくつくつ笑いながら、肩を揺らしている。
「私に適任を言ったのは、このためだったのですね」
「さあ、どうだろうね。まあ、生前の憂さ晴らしができるいい機会ではあるだろうなとは思っていたけれど」
「やっぱり……」
最後の最後に、私にチャンスのような時間をくれたのだろう。
それはよくもあり、よくもなかったというだけだ。
ただそれだけで、私はうまいこと受け流すことができたのだろう。
それができるようになるくらい、随分と時間が経ってくれたものだ。
「もう死んでいるのですから、意地悪しないでくださいよ」
「ふふふっ、いい試練だっただろ」
「……今更、地獄行きにならずにすみそうでよかったですわ」
「あっはっはっ、それは心配していなかったさ」
神様は私の心とは裏腹に、豪快に笑い飛ばすのだった。
それを見て、ようやく胸のつかえが取れたような気がした。
まあ、とっくの昔に死んでいるんですけどね。
これで本当におさらばというやつなのだろう。
了
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268日目。




