夏の記憶
8月の終わりだった。
高校教師になって10年。
担任を務める3年生の進路指導もひと段落し、誠一は数日間の休みを利用して、生まれ育った海辺の町へ帰ってきた。
母が亡くなって3年。
実家では今、父が一人で暮らしている。
「ただいま」
「おう。暑かっただろ」
「東京と変わらないよ」
「こっちは海風があるだけマシだ」
久しぶりに帰った実家は、以前とほとんど変わっていなかった。
玄関には父のサンダルがあり、居間の時計は相変わらず5分進んでいる。
ただ、母がいない。
3年経った今でも、そのことだけは帰ってくるたびに感じた。
夕食を終えたあと、父が押し入れから古いアルバムを持ってきた。
「写真を整理してたら、お前にも見せたいものが出てきてな」
「何?」
「まあ、見てみろ」
受け取ったアルバムを開く。
幼い頃の自分。
若い父と母。
海水浴、運動会、入学式。
知っている写真ばかりだった。
ページをめくっていると、1枚の写真が挟まっていた。
「これ……母さん?」
若い母が浴衣姿で写っている。
おそらく20歳前後だろう。
夏祭りの夜。
母はカメラを見ていなかった。
少し横を向き、写真の外にいる誰かへ笑いかけている。
誠一の知らない表情だった。
「こんな写真あったんだ」
「俺も忘れてたよ」
「父さんが撮ったの?」
「いや。俺が母さんと知り合う前だ」
誠一はもう一度写真を見る。
「じゃあ、誰が?」
「さあな。駅前の写真館じゃないか? 祭りのとき、よく写真を撮ってたから」
「まだあるの?」
「店ならあるよ。今は娘さんがやってるはずだ」
父はそれだけ言って、テレビへ視線を戻した。
誠一は写真をアルバムへ戻した。
けれど、なぜか母の笑顔が頭から離れなかった。
***
翌日。
誠一は駅前へ向かった。
子どもの頃に比べると、商店街はずいぶん静かになっていた。
それでも、昔からある写真館は残っていた。
色褪せた看板。
ショーウインドーには、七五三や成人式の写真が並んでいる。
「すみません」
「はい」
奥から70代くらいの女性が出てきた。
誠一はアルバムから写真を取り出した。
「昔、こちらで撮った写真かもしれないと父から聞いて。何か分かりますか?」
女性は写真を受け取ると、目を細めた。
「あら……懐かしい」
「覚えてるんですか?」
「この人、恵美ちゃんでしょう?」
母の名前だった。
「母をご存じなんですか?」
「知ってるも何も、同級生よ」
「え?」
「中学校まで一緒。高校は別だったけど、そのあともよく店に来てくれたの」
女性は誠一の顔を見て笑った。
「あなた、恵美ちゃんの息子さんね。目元がそっくり」
誠一は少し照れながら頭を下げた。
「この写真、母は誰を見てるんでしょう」
女性は写真を見つめた。
「たぶん、修司君ね」
「修司?」
「恵美ちゃんとよく一緒にいた人」
女性は店の奥へ行き、古いアルバムを1冊持って戻ってきた。
「父が撮った町の写真を、ずっと残してるの。夏祭りのもあるはず」
ページをめくっていく。
「あった」
同じ年の夏祭り。
そこには浴衣姿の母と、一人の青年が並んでいた。
2人ともまだ若い。
母は、実家のアルバムにあった写真と同じ笑顔をしている。
「この人が……」
「修司君。恵美ちゃんとは高校を卒業した頃から付き合ってたんじゃないかな」
誠一は写真を見つめた。
母に恋人がいた。
当然、そんな時代があってもおかしくない。
それなのに、自分の知らない母を突然見せられたようで、不思議な気持ちになった。
「長く付き合ってたんですか?」
「2年くらいだったと思う。でも修司君が県外へ就職することになってね。当時は今みたいに簡単に連絡できる時代でもなかったから」
「別れたんですか」
「そう聞いたわ」
女性は少し寂しそうに笑った。
「恵美ちゃん、しばらく元気なかった。でもね、ずっと引きずってたわけじゃないのよ」
誠一は顔を上げた。
「何年かして、あなたのお父さんと知り合ったでしょう? その頃の恵美ちゃん、すごく楽しそうだったから」
「父のことも知ってるんですか?」
「もちろん。結婚式の写真、うちで撮ったもの」
女性が別のページを開く。
今度は白いドレス姿の母と、緊張した顔の父がいた。
「お父さん、若いでしょう?」
「こんなに髪あったんだ……」
「あら、そこ?」
2人で笑った。
写真の中の母も笑っている。
夏祭りの夜とは違う笑顔だった。
どちらが本物ということではない。
どちらも母なのだ。
「恵美ちゃんね、結婚してから一度だけ修司君の話をしたことがあるの」
「何て?」
「若い頃に好きな人がいたことを、なかったことにはしたくないって。でも、戻りたいわけでもないって」
女性は結婚式の写真へ目を落とした。
「その時間があったから、お父さんと出会ったときに、この人と生きていきたいって思えたのかもしれないって言ってた」
誠一はしばらく何も言えなかった。
「思い出って、そういうものなのかもしれないわね。大切だからって、そこへ戻りたいとは限らないのよ」
店を出たあとも、その言葉が胸に残った。
***
夕方。
誠一は海沿いの道を歩いていた。
学生時代、何度も自転車で走った道だ。
防波堤の向こうでは、夕日に染まった海がゆっくり揺れている。
母にも、自分の知らない青春があった。
誰かを好きになって。
別れて。
泣いて。
それでも前へ進んだ。
そして父と出会った。
結婚して、自分が生まれた。
教師という仕事をしていると、生徒たちから時々、将来について聞かれる。
この進路で正しいのか。
この大学でいいのか。
夢を諦めたら負けなのか。
誠一はそのたびに、正解なんて後からしか分からないと答えてきた。
けれど自分自身は、どこかで人生には正しい道が1本あるように考えていたのかもしれない。
母の人生を知って、少しだけ考えが変わった。
叶わなかったことも。
別れた人も。
選ばなかった道も。
全部抱えたまま、人は次の場所へ進んでいく。
それでいいのだ。
***
翌朝。
誠一はまだ暗いうちに目を覚ました。
眠れないわけではなかった。
ただ、海を見たくなった。
海沿いまで歩くと、東の空は厚い雲に覆われていた。
夏の終わりを告げるような、重たい空だった。
波の音を聞きながら、母の写真を思い出す。
「人生って、思い通りにならないものだな」
誰に言うでもなく呟いた。
そのとき、海から吹いた風が雲をゆっくり動かした。
灰色の空に小さな切れ間が生まれる。
そこから一筋の朝陽が差し込み、海面が金色に輝いた。
誠一は思わず足を止めた。
母も、こんな朝を見たことがあっただろうか。
修司という人との別れを受け入れた朝。
父との人生を選んだ朝。
自分が生まれた朝。
きっと母にも、いくつもの朝があった。
思い出は、人を過去へ閉じ込めるものではない。
今の自分を作ってきた、大切な時間なのだ。
家へ戻ると、父が朝食を作っていた。
「朝からどこ行ってた?」
「海」
「昔から好きだな、お前も」
誠一は食卓につきながら、父に聞いた。
「父さん」
「ん?」
「母さん、幸せだったかな」
父は味噌汁を置く手を止めた。
「急にどうした」
「昨日、写真館で母さんの昔の話を聞いた」
「ああ」
父は驚かなかった。
「知ってたの?」
「昔、好きな男がいたって話ならな」
「気にならなかった?」
「そりゃ若い頃は少しな」
父は笑った。
「でも、俺にだってお前の母さんと会う前の人生はある。母さんにもあって当たり前だろ」
「そうだけど」
「それに」
父は誠一の茶碗へご飯をよそった。
「幸せじゃなかったら、30年以上も俺と一緒にいないだろ」
「それ、自分で言う?」
「本人がいないんだから、今くらい言わせろ」
誠一は笑った。
「母さん、お前が生まれたとき泣いてたぞ。嬉しくてな。あんな顔してた人間が幸せじゃなかったなんて、俺は思わんよ」
その言葉で十分だった。
東京へ戻る列車が、ゆっくりとホームを離れた。
窓の向こうに夏の海が見える。
誠一は膝の上のアルバムを開いた。
夏祭りで誰かへ笑いかける母。
父の隣で笑う母。
幼い自分を抱いて笑う母。
どれも同じ人の人生だった。
過去の恋があったから、父との人生が偽物になるわけではない。
叶わなかった未来があったから、選んだ未来の価値が薄れるわけでもない。
人はきっと、いくつもの記憶を抱えて生きていく。
忘れる必要もない。
戻る必要もない。
ただ、その記憶と一緒に次の季節へ進めばいい。
窓の向こうで、雲の切れ間から朝の光が海へ落ちていた。
新学期が始まれば、また生徒たちが進路に悩むだろう。
今度、迷っている生徒がいたら何と話そう。
正しい道を探しすぎなくていい。
選ばなかった道も、遠回りした時間も、いつか自分の人生の一部になる。
そんな話をしてみてもいいかもしれない。
誠一はアルバムを閉じた。
夏はもうすぐ終わる。
けれど、その記憶まで消えるわけではない。
列車は海辺の町を離れ、新しい季節へ向かって走り続けていた。




