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宿命という名の書き割り 3

 だが、その言葉をまた聞いた瞬間、僕の中で、張り詰めていた糸が切れた。  それは、諦めではない。むしろ、疲弊しきっていた心が、冷たい水で研ぎ澄まされるような「目覚め」だった。


(違う……違うんだ)


 僕は、震える足で祭壇の上に立ち上がった。腰を抜かした神官が、泡を食って何か叫んでいるが、もう耳に入らない。


 足元から、鼻を突くような嫌な臭いが立ち上っていた。  石造りの祭壇、その隙間からどろりと滲み出している黒い液体。村人たちはそれを「神の怒り」だと怯え、平伏している。だが、僕の耳には、それとは別の「音」が届いていた。


 祭壇の底から響く、不規則な……ひどく不快な、空気を噛んだような異音。それは新宿の古いビルで、排水管が詰まって逆流しかけている時の、あの不気味な音に酷似していた。


「……喜ぶが良い、供物よ。お主の血がこの澱みを清め、ゴウリュウ様を鎮める。それが数百年続く、この地の守護の儀式なのだ」


 老神官の誇らしげな声が響く。だが、その言葉が、僕の中で決定的な「ノイズ」となった。  清める? もしこの場所が神聖で、正常な仕組みで動いているなら、そもそも汚れる(澱む)はずがない。何かが滞っているから、外から「清めるための燃料」を投入する必要がある。


(……これ、宗教じゃない。単なる『不適切なメンテナンス』だ)


 エネルギーの正体なんて知らない。これが魔力なのか精霊なのかも分からない。けれど、目の前の黄金の竜が放つ「混じり気のない」輝きと、足元の「濁りきった黒い泥」は、どう見ても同じ設計思想で作られたものとは思えなかった。


 この美しすぎる竜が、そんな泥水を好んで飲み干すはずがない。  システムが正常に回っていない。その「エラー」の感覚だけが、これまで自分を殺して周囲に適応してきた、僕のささやかな生存本能を研ぎ澄ませていく。


「……あんた、本当はこんなもの、食べたくないんだろ」


 僕の呟きに、竜の動きが止まった。 「……何だと、人間」


「これ、あんたのせいじゃない。……この祭壇、もう寿命なんだ。下に通っているはずの力の道が、どこかで詰まって、大地を巡るはずの何かがここで腐ってる。あんたは、その腐ったものを押し流すための『洗浄剤』として、わざわざ人間の魂を使わされてるだけじゃないか」


 神官が息を呑む音が聞こえた。村人たちは、僕が何を言っているのか理解できず、ただ呆然と口を開けている。  けれど、竜だけは違った。その黄金の瞳が、これまでにない密度で僕という存在を貫く。


「……お前、なぜそれに気づいた。我がこの数百年、誰にも言えず、飲み込み続けてきた屈辱を」


「気づくよ。あんたがあまりに『本物』すぎるからだ。そんな混じり気のない存在が、こんな汚いやり方を好き好んで選ぶはずがない。……あんたをこんな汚い役に縛り付けているのは、あんた自身じゃないし、そしてそもそもこの世界ですらもない。この世界の古い決まり事と、みんながどこかで自分達の力で何かを始めることを忘れてしまった。それが原因なんだ」


龍は身じろぎもしなかった。


「それは僕たちが本来の意味と何かを失って、まるで壊れた操り人形みたいにわかりやすいことで納得しているだけなんだ。まるであんたが今いる、この壊れた台座みたいにね」


 僕は縛られたままの手で、祭壇の一角、不快な異音が最も激しく響いている場所を指差した。


「ここを、あんたのその純粋な力で一突きすればいい。こんな祭壇なんかなければ、あんたは自由になれるんだ。生贄なんて要らないんだろう。あんたの悲しげな眼がそれを語っているよ。誰も理解してもらえなかった長い歴史をそこにあるのを感じる。何で感じるかって、僕も同じ気持ちになったことがあるからだ」


カエデはそんな龍のような深遠な何かではなかったが、もといた世界で感じた孤独の中にあるいいようもない苦しみがどうもこの龍の中にあるように感じてならなかったのだ。限界状況にあったから、そんな感覚が芽生えたのか。


「こんな祭壇をたたき割ってしまえよ。まあ気に入らないなら僕ごと叩き割ってくれていい。それであんたが本当の何かになれるなら、こんな現実をまたここでも見るのはもう僕はうんざりなんだ」


 黄金の龍の巨躯が、物理的に揺れた。 その双眸が大きく見開かれ、僕の姿を、これまでにない密度で捉え直す。


「……面白い。数万年、我が背に『祈り』という名の泥水を浴びせてきた者たちの中で、お前だけだ。我を、そんな哀れみの目で見、その不自由を指摘する者はさあその覚悟を我はいただくぞ」


 龍の声から、殺気が消えた。 代わりにそこにあったのは、凍てつくような静寂だった。


 龍の黄金の瞳の端から、一筋の、熱い光が零れ落ちた。 それは悲しみではない。 自分の孤独を、自分の耐えてきた汚辱を、たった一人の人間に「不本意だろ」と言い当てられたことへの、魂の震えだった。  龍の涙が祭壇に落ち、不浄な黒い液体を一瞬だけ白く浄化した。


「……お前は、我という巨大な『綻び』を、どうしたいのだ」


 声は穏やかだったが、その響きには、初めて対等な存在を認めた重みがあった。 僕は、震える足で祭壇を踏みしめ、龍を真っ直ぐに見据えた。


「決まってる。……あんたを、その不味い食卓から引きずり出してやるよ。どうせ死ぬなら、最後くらい、本当のあんたを拝んでからにしたいんだ」


 龍は、ゆっくりと首を下げた。 それは、初めて自分の内側の傷に触れることを許した者が抱く、狂おしいほどの驚愕と、静かな決意に満ちていた。

第3回をお読みいただき、ありがとうございます。


「これ、宗教じゃない。単なる不適切なメンテナンスだ」


カエデが口にしたこの一言こそが、彼がこの世界で見つけた最初の「綻び」でした。

魔法でも奇跡でもなく、ただ「構造の矛盾」を突く。

それこそが、周囲の顔色を伺い続けてきたカエデが手に入れた、鋭利な武器なのかもしれません。


次回、いよいよ第1話が完結します。

数万年の「宿命」を壊した先に、どのような景色が広がるのか。

黄金の竜が選んだ、驚きの「答え」をぜひ見届けてください。

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