序章(6) 海の災い
男は、何度も親友の声を聞いた気がした。
だが、そんなはずはなかった。
彼は、動けるような状態ではない。
大概は、暗闇の中を彷徨っているような人生だった。
男は、人生を昼と夜のようなものと捉えていた。
身の凍えるような寒い夜があれば、幸福であたたかな昼もある。
大概はその繰り返しで、冷えた心を昼に温め、火照りすぎた感覚を夜で冷ます。
朝と夜は、交互にやってくるものだ。
片方に偏りすぎてはいけない。
肥え太りすぎても、やせ細りすぎても、結局は病にかかるように、両者の調和が取れていなければ。
労苦と幸福を、等しいくらいに味わうことこそが、真っ当に生きるということ。
片方が欠けるのは、ひどく歪だ。
ただ、そう思い通りにはいかないものである。
陽が頭上にあって、道を照らしてくれているときは、いつだって僅かだった。
男には、夜があった分、昼が等分にあるわけではなかった。
光が何かにさえぎられたり、一向に登らないようなことばかりだった。
だから、我武者羅に生きてきた。
後ろ暗い危険な職に身を投じ、時には世間から体をかわしながらも、こうして生きてきた。
男には、すでに分からなかった。
今は、頭上に陽があるのだろうか。
感性の目は曇って淀み、感覚は凍てついて、心はどこかさび付き、それでもただ生きている。
己はどこに居るのだろうか。
合っているとも分からない薄暗い道を、舗装されているような、いないようなそんな道を、徒然と歩んでいる。
どうすれば、人生に光が灯るのだろうか。
探しても、探しても、見つからない。
本当の幸せが、分からなかった。
己が今、幸福なのか。
家族が今、幸福なのか。
男には、分からなかった。
自分は、死ぬのだろうか。
あるいは、死ぬべきなのだろうか。
若いころに手を染めてしまった悪事への報いが、いよいよやって来たのだろう。
どこかの寺院で説法を受けたことを、不意に男は思い出した。
罪とは何か、などということを僧に漠然と質したのだったか。
儀礼服は随分と傷み、頬はこけ、指も節くれだっていたが、眼光は爛々と鋭く、声は大聖堂のパイプオルガンよりも力強くよく通る、清廉で立派な司祭だった。
僧は確か、こう言った。
簡単なことだ、と。
己の選択できる中で、最も簡便で、効率の良いことが罪であり、大概は悪なのだと。
例えば物を盗むことは無論悪事だが、必要以上に蓄える業突張りがいたとして、一方でやせ細った恵まれない貧者という二者間で事物を考えればどうか。
豊かなものが貧しいものから簒奪するのは明らかな悪だが、その逆はどうか。
己で働けず、人も頼れず、生き延びる手段が盗むということ以外にないのであれば、それは『営み』なのだ、と僧は言った。
罪とは、必要以上の効率を、楽を求めること。
人の命や、それまでに費やしたであろう労力を天秤にかけ、それを凌駕せんとする、己の側に傾く大義の無い行いこそが、罪なのだ、と。
また、こうも言っていた。
成してしまった罪は消えないが、消そうとする、改めようとする努力、その姿勢、心のありかたこそが正しいことなのだと。
時は戻らず、その当時の短慮、愚鈍さも改められることは決してない。
しかし、それが贖罪、つまりは進歩というものだ、と僧は言った。
何か己が罪を成してしまったと思うのであれば、それを道しるべとするのだ、と。
罪の忌々しさ、痛さ、冷たさを抱え、後ろ指をさされながら、己の過去の邪悪を神に嘘偽りなく伝え、魔道を避け、日々生きるために懸命に努力をする。
生きて、生きて、その生きざまで己の誤りを神にお伝えすることが、唯一の償いとなるのだ、と。
僧は、安易に死ぬな、と言っていた。
死んでも何も償うことはできない。
正しく生きることが、罪を成してしまったものの誠意なのだ、と強い言葉で諭してくれた。
男は、心中で僧に謝った。
身体が冷たくなって行くのを感じる。
意識が遠のくのを感じる。
目の前に、死が迫っている。
娘の姿を見た。
走馬灯というものだろうか。
愛しい娘。
〈始神様〉からの、天からの、何よりの賜りもの。
彼女と自分の、一番の宝物。
元気にしているだろうか。
父の帰りを心配しているだろうか。
帰りたい。
ただ、きっと帰れない。
ごめんね、と男は謝った。
次いで彼女の、妻の姿が脳裏に投影される。
幸福そうに、充足そうに、楽しげに笑っている。
今回の旅も、元気に送り出してくれた。
数日分だが、干し肉の弁当も拵えてくれた。
もう一人の、愛しいひと。
世界で一番大切なひと。
しかし、ぶれる。
彼女の姿がぶれる。
鼻筋の整った面貌が揺れて、微かに重なり合って、じきに歪む。
輪郭が、面立ちが、表情が。
彼女の姿は、いつしか二人に分かれていた。
右の妻と、左の妻。
隣り合って、男のボロボロの愛剣を抱いて、両者は柔和な表情をたたえている。
同じ顔立ち。
瓜二つの風てい。
まったく同一の人物。
しかし、笑い方が、所作が、声の起伏のつけ方が、ほんの僅かに異なっていた。
両者が同時に男の名を呼んだ。
声は、重なるようで完全には重ならない。
どちらだ。
本物は。
本当の彼女は。
二人の妻は微笑んで、腕の中のくたびれた剣を男へ差し出した。
別れたはずの両者が、再びゆっくりと重なっていき、次第に一人になる。
剣も一振りのみになった。
妻は、何かを、何かとても大切なことを男に述べた。
目の錯覚か、彼女の諸手に乗せられたボロボロの剣が、淡く、小さく、輝いたように見えた。
男が覚えているのは、ここまでだった。
♢
飛ばされないようにするのが精一杯だった。
嵐だ。
嵐と言ってもいいきれないような大嵐だ。
悪い夢の中にでもいるようだ、と男は思った。
唯一頼れる命の綱は、チュウオウシュロなどと呼ばれるヤシの樹の繊維から編まれた一級品で、きわめて丈夫で、腐食にも強い。
命を預けるのに幾分かでも心強いそれが、フォアマストのてっぺんの暗闇から一本伸びている。
一度手を放してしまえば、この闇の嵐に飲み込まれて、二度と帰ってこれないだろう。
命綱を掴む左の腕にあらぬ限りの力を籠め、冷え切った身体に活を入れる。
暖かいスープや、揺れない寝床、薪のいっぱいに入った暖炉などが夢に見れるほどに恋しいが、無い物ねだりをしている場合ではない。
進路がわからない。
この船は、いまどこにいる。
重ねて述べるが、なんという嵐であろうか。
空は墨を流したように黒く染まり、稲妻の閃光が白い爆発のように瞬いて、海の水をひっくり返したような豪雨が絶え間なく降り続いている。
彼方より颶風が全てを薙ぎ払うように吹きつけ、水面はまるで意思を持つかのように大波を立ち上がらせていた。
視界は波しぶきで白く染まり、風雨と海鳴りの音で聴覚すらもまともに機能しない。
無遠慮に逆鱗に触れられ、怒りによって我を失った海の神が、あらぬ限りの憤怒をまき散らしているかのような、凄絶な悪天が海に満ちて、暴れ狂っている。
まるで、黒い闇と白い闇が交互に繰り返すような地獄だ。
息をするのすら苦心をするような状況の中、いずこから怒号が飛んだ。
一切の天地が飛沫に覆い隠されている視界で、男は、響いた声と微かな色の濃淡で声の主を探す。
視界の端に人影が蠢くのを感じた。
どうやら、見知った輩らしい。
「おい!
どうだ進路は!」
水夫の歴が非常に長く、海の上で鍛え抜かれた屈強な肢体にもじゃもじゃとした髭を蓄えた好漢が、縄を伝って男の元にやってきたのだ。
平時であれば煩わしいほどに唸る声が、この風雨と波の中では丁度いい塩梅に薄められて、むしろ聞き心地が良く、頼もしい。
男は、はにかんで答えた。
「だめだ!
なにもわからねえ!」
そういうと、ずんぐりとした体躯の水夫は豪快に笑った。
「そりゃあ、いいや!
こりゃあ、逝っちまうな俺たちゃ!」
まったく、冗談ではない。
水夫も本気では言っていないだろうが、現状を踏まえるにそのような帰結を迎える可能性は否定できない。
生と死の瀬戸際。
いや、この調子では死が近いのか。
だが、まだ死ねない、と男は思った。
妻と娘を港に残して来ている。
このまま自分が死ねば、彼女らは路頭に迷うことになる。
推し進めて考えれば、命を落とすことになるかもしれない。
ここでくたばるわけにはいかないのだ。
「冗談言っている暇があったら、水主のお嬢に呪いでも唱えてもらえ!
水難を払う呪文なら滑って転ぶくらいの事故は防げるかもしれねえぜ!」
男は、にかっと笑ってそう言った。
水主というのは、船旅に必ず帯同させる魔法使いのことを指す。
海は古より、人に大きな益と、併せて厄を齎すものとされてきた。
水難の災いは、船一つ、あるいは港一つ飲み込んでも足らぬような損害をしばしば生むことがある。
そのため、いつしか海の神へと祈りを捧げ、水難、海難を払う役割を持った、巫女や巫覡といったものたちが船に同乗するようになった。
それが、水を律するものとして、水主と呼ばれるようになった訳である。
この船に帯同する水主は港でも、いや恐らくは大陸でも指折りの祈りの名人ではあるのだが、その力をもってしても抑えられないこの大嵐は、何か尋常のものではないような気がしてならなかった。
ただ、この嵐でさえ状況としては最悪のものではない。
そう、この船の現状は総合して不幸中の幸いとでもいうべきものなのだ。
世界をかき混ぜるような、この大嵐に行き会うことが『幸い』とはどういうことかといえば、この船は数刻前まで化け物に付け狙われていたからなのだ。
化け物は、この辺りの海ではまず見かけられないものだった。
あれこそがまさしく海の災いであり、豊かで煌びやかな海の、深い深い深淵より出ずる、海神の冷たき手なのだ。
男も、噂で聞いたことがあった。
それに出会えば、生きて帰れない。
どんな水主でも、海の怪物を鎮めることは叶わない。
南の海では、怪談としてさえ語られる。
海が突然、深くなった。
そう感じるほどに水は瞬く間に暗くなり、かすれた唸り声のような、あるいは甲高い笛のような、奇妙な音がする。
海が、水面が、突き上げられるように持ち上がった。
次の瞬間、船は姿を消すのだ。
音のない海で、笛を吹いてはいけない。
〈船飲み〉が海の底からやってくる。
それは、帆船の数倍もあるような鯨の化け物で、時には水棲の竜さえ襲うとされるのだ。
南の果ての〈歌う海〉に暮らす筈の生物で、この付近の海域ではまず見られない。
これが大挙するという地獄から、あの白い航路は、選ばれた、それこそ命を顧みない冒険家以外は使用しないのだ。
ある大陸の南に位置する、港市国家よりこの船は航海を開始した。
つまり、くだんのように海を東へ渡り、異国と交易をするためだ。
この船は現在、復路の途中にあるといっていい。
往路である異国には無事辿りつき、そこで商品を売買し、その帰りが今現在である。
といっても、現在の荷は貿易国の珍しい品ではないらしい。
詳しくは聞いていないが、商会からの依頼の品ということだ。
荷主によれば重要な機密とのことで、かなりの報酬を約束された、と男は聞いている。
大きな仕事。
これが〈船飲み〉による襲撃でなければ、何らかの作為を疑ってしまう。
ここらの温暖な海域で、なぜ白い航路に暮らすはずの〈船飲み〉が姿を現したのか。
直近の港では、怪物が現れた、などという風聞は無かった。
国でも、異国でも、そのような不穏な影は全く見られなかったといっていい。
商会の、海さえも跨ぐ情報網においても同様だ。
何か、おかしなことが起こっているのかもしれない。
それは、あるいは世界の規模で、ということすらもあり得る。
今の大嵐にしてもそうだ。
〈始神様〉は、世界を美しく、規律正しく、何にも平等に作られた。
生み出された黎明の世界こそ、一切の穢れのない真の楽園であったという。
しかし、それも神話の時代のこと。
この世の秩序は、乱れつつあるという。
山は崩れ、海は荒れ、大地は枯れて、人は傷んでいる。
全ては〈始神様〉の試練であり、人が乗り越えるべき課題であると、説法などでは言われる。
今こそが、この悪夢こそが、あるいはそれの象徴なのもしれない。
(だがよ…)
それは宗教観で見れば、ということだ。
現実的な分析も必要である。
例えば、明確な目撃情報が出ていないという事実は無視できない。
生存者が極めて少ない、という推測を成り立たせることは十分できる。
〈船飲み〉は襲った船全てをその胃袋へおさめているのではないか。
実に恐るべき事実である。
海上であの化け物の相手ができるものは、呪い師か射手くらいのものだ。
それにしても、いたずらに刺激するよりは逃げの一手を打つ方が良い。
間違ったような大きさの、どうしようもないほどの質量を持った相手に、人間ができることなど限られている。
船自体に強力な武装があればまた話は違うのだろうが、この船は生憎そのようなものは備えていない。
代わりに、疾風のような速力を誇ってはいるが。
実にそれのみが、首の皮一枚で命を繋げたと言って良い。
やや小ぶりで交易船としては小回りが効きすぎるほどであるが、じゃじゃ馬とさえ言って良いほどの軽捷さが、すんでの所で化け物の襲撃を躱したのだ。
そうして遁走を続け、北も南も分からずに海を割って進み続けた挙句、この大嵐に遭遇したという訳だ。
〈船飲み〉を巻くには恰好の条件であり、流石の海の怪物もこのおおしけではまともに追跡などできる筈がない。
ゆえに、『不幸中の幸い』。
死地から死地へと流れるようなものだが、とりあえずは怪物を振り切った。
次は、この嵐だ。
男は、暗闇の中で天を仰いだ。
視界は滲み、酷くぼやけて、到底目を開けていられない。
とてつもない環境の騒音に混じって、マストのあたりから木が軋むような音がする。
目視はできないのだが、嫌な予感がした。
男はロープを伝いながら、船の中央へと、よろよろ足を運ばせた。
ブーツの中は既に水で浸されて、歩を進めるたびに不快な感覚が足裏を撫でる。
足先が冷たい。
凍えそうだ。
しかし、やらねばならぬことがあった。
風が強い。
強すぎる。
恐らく、先ほど畳んだはずの帆の数枚が、緩んで落ちてきているのだ。
帆をもう一度畳まねば、マストがぼっきりと折れるか、あるいは転覆するだろう。
沈んでなるか。
死ねない。
まだ、死ねないのだ。
「コルビーーンス!」
男は、大声を出した。
この嵐の騒音に負けないよう、腹の底から声を導く。
幸い、返事はすぐに帰ってきた。
「どうした!
ドーブ!
いよいよ、小便でもちびったかよ!」
コルビンス、つまり先の髭の水夫が暗闇で返事をした。
『ドーブ』、これは男の名であるのだが、珍しい愛称である。
男は、ドルゴブム・エットラという。
剃る神などと、その名前はいかにも剣士を彷彿とさせるが、実際に剣客である。
体格は相当に大きく、筋肉質の厚みのある身体をしていた。
無精髭を伸ばし放題にし、茶色っぽいブロンドの頭髪も雨風でいたく荒らされているために無骨すぎるような印象ではあるが、実年齢はかなり若い。
青みがかった黒の瞳は大陸南部の人種に多く見られる特徴で、日焼けをした褐色の肌に、整った鼻筋は存外に容貌が悪くないことを暗に伝えていた。
ドーブは、端的に言えば雇われの護衛である。
交易商船の護衛任務は、商会が囲っている衛士が通常は行う。
どうしてかといえば、どこの馬の骨とも知らぬ輩を雇い、一度海に出てしまえば最後、それが積荷を奪う海賊に化ける、などということもあり得る訳だ。
信用に足る人間かつ、腕利きでなければならない。
幸い、近海で行われる交易の手法は成熟している。
積荷には特殊な技法で絵付けがなされる手形が施してあり、港での荷受けには書面と、その印の照合が行われ、合致しないものは抜け荷とされて荷主は厳罰に処される。
無論、もぐりの港で荷を下ろせばその限りではないが、有力な沿岸部については大抵国か領主が管理をしているので、人を寄せ付けないような海流の激しい岸壁に、月明かりすら無い夜に船を接岸させるような、神業に近い操舵の技術がなければ、それは通らない。
海賊らからしても、荷を強奪するというのは骨が折れることなのだ。
近海においては、近代に入って大きな戦争を起こしている国が隣接しておらず、主人を失った水軍が賊に転じるような例が多くないことも、比較的安穏な海域であるという事実の裏付けにもなっているだろうか。
しかしながら、交易商船が気を使う点は多いのだ。
賊でなく、商売敵からの刺客などとすれば、それは話が変わってくる。
販路を潰せば良いだけ、妨害をすれば事足りるとなれば、ごろつきを雇って船を襲わせれば良い。
何人もひとを介して依頼をすれば、足もつきにくいだろう。
そのようなことへの対抗手段としても、あるいは威嚇としても、腕利の用心棒を雇うことは重要だ。
ドーブ・エットラといえば、なるほど武名が通っている。
そもそもが名のある剣道院の出身で、商会の衛士らとの交流試合においても、その実力は如何なく発揮され、豪剣を持って常に良好な戦績を残していた。
国の南岸部では、一端の剣客であると世間からも見られているだろうか。
「馬鹿言ってないで帆を畳むぞ、コルビンス!」
ドーブが、剣の打ち込みように激しく声を発した。
この窮地で幾度も軽口を叩く余裕があるのは、流石に熟練の水夫であるといえるが、急がねば。
もはやどこに水平があるのかすら定かではない。
船酔いに対する耐性がなければ、胃の内容物を全て吐き散らしているようなところだ。
「ようし、やるか!
てめえら、けつの穴を締めろ!
帆を思い切り畳めや!
人生かけて縄を引け!」
髭水夫コルビンスが、品のない罵るような口調で檄を飛ばした。
雷鳴のような声である。
おう、と視界も利かない闇の中から応えがあった。
風雨の暴音に混じって、縄がきしむような音が混じる。
ドーブは、暗闇の先に消えているマストを仰いだ。
わずかに、帆が巻かれて短くなっている。
悪くない。
ドーブは、這いつくばるようにしながら操舵をする荷主の方へと向かおうとした。
その時である。
何かが聞こえる。
環境のあまりに騒々しい轟音に混じって、高い笛のような音がする。
すでに冷たくなった背筋が、氷を入れられたように凍てついた。
これは。
この鳴き声は。
「コルビンス!
聞こえたか!」
ドーブは屈みながら近くの壁に手をついた。
あまりの揺れにバランスが取れない。
コルビンスは、どうした、と綱を引く雄々しい声をあげる合間に相槌を返した。
「笛みてえな音だ!
これは、〈船飲み〉の化け物の声だ!」
コルビンスは明らかに動揺して、一瞬手を止めた。
耳にした言葉をうまく嚥下できないような様子で、少しばかり笑みが漏れる。
「おいおい、馬鹿言えよ。
この気違いみたいな大嵐の中を、追って来たってのか!?」
コルビンスがそう言うのも無理はない。
ドーブも船に乗ったことは複数回あるし、悪天候に遭遇したことも数多ある。
しかし、これほどの嵐になど遭ったことはない。
今、船の中に張られた結界の中で、水主の娘が祈りを捧げていなければ、この船は間違いなく海の藻屑と化していたはずだ。
それほどの荒れ模様。
どうやって追って来ている。
先など見えるはずもなく、音など拾えるはずがない。
何か、目印のようなものがなければ。
「何か見えるか!」
コルビンスが、近くの水夫らに言った。
〈船飲み〉がいないかどうかを訊いたのだ。
恐らく、あまり期待はしていない行為だろう。
コルビンスやドーブを含め、誰もまともな視界を確保できていない。
だめだ、見えないぜ、などと次々に声が返ってくる。
切迫した状況。
波しぶきの中、豪雨の中、金属音のような声がまた鳴る。
気のせいでなければ、近づいて来ている。
音が、やや明瞭になっている。
もし、完全にこの船を捉えているのだとすれば。
以前の逃走時よりも状況は悪くなっていると言わざるをえない。
絶望的な天候、それゆえの作業効率の悪さ、人工は殆どが船の状態の維持に回されてしまう。
この悪条件の重なる中であの〈船飲み〉を相手にすることは、いよいよできない。
船上の筆頭戦力たる水主も、嵐を鎮めながら〈船飲み〉の相手は厳しいだろう。
「何にしても俺たちなんかじゃどうしようもねえ!
水主のお嬢に化け物が来てることを知らせなきゃな!」
粗方の作業を終えたコルビンスが言った。
言い終えて、ドーブの方に向かおうとしてコルビンスは頭から転けた。
あの体力自慢で知られるこの男が、この悪い足場とはいえこれほど派手に。
平時であれば大いに笑えるところだが、今はそのような温度感ではない。
膝が笑っているようだった。
豪放磊落、怯えるような性質ではない。
足が限界なのだ。
無理もないことである。
もう一日近く寝ていないどころか、満足に休めてすらいない。
食事どころの騒ぎでもなかった。
気力でどうにかその穴を取り繕おうと、埋めようとしてはいるが、それも尽きかけている。
ただでさえ船上の作業は随分の体力を消耗する。
この大嵐の環境の中で、それも〈船飲み〉の化け物に追われながら、殆ど飲まず食わずのまま働き続けるなど長時間持つはずがない。
皆、限界は近い。
「おい、大丈夫…」
ドーブは、それを言い切ることができなかった。
何か、爆発があったような大きな音と衝撃が唐突に襲って来たのだ。
船が、重く、大きなものにぶつかったような感覚。
ドーブは身体を支えきれずに地べたを滑り、濡れた甲板を舐めた。
口に塩の味と、かすかに鉄のような味が混じる。
くそ、と少し揺らされた頭を振りながらドーブは顔を上げた。
一瞬の激しい雷鳴で、船上の状態が低い目線からでも伺えた。
手すりの一部は折れて無くなり、甲板は若干歪んで濡れた木の版がひしゃげるように曲がり折れている。
この惨状は、とドーブは状況の整理に移りかけたところで、それを目にした。
巨大な何かが、海へと潜っていく。
それが、妙に遅く見える。
〈船飲み〉。
ついに、ついに再度捕捉された。
恐らくは、その巨体をこの船にぶつけて来たのだ。
いや、正確に言えば偶然にぶつかった、という程度だろう。
あの化け物が本気でこの船に体当たりをしてきたというのであれば、耐えられるはずがない。
ただ、勢い余って頭をぶつけたというような認識でいる方が良い。
ドーブは、親友の姿を探した。
顔見知りの水夫の数人は、やはり地べたを舐めながらも立ち上がりつつある。
船へのダメージが心配だ。
この大しけでは、少しの浸水でも命取りになる。
そうなれば、船に詳しい輩が音頭を取って、各所の状態を確認するというのが先決だ。
髭もじゃどら声のかの水夫は、船大工見習いをしていた経験もあるほど船に通暁している。
頼りになるし、この窮状では彼に頼らざるを得ない。
コルビンス、と大声で名を呼びかけてドーブは視界の一端にそれらしき姿を発見した。
視界が悪すぎるので確信は持てないが、恐らくはかの水夫だ。
未だ甲板に横になったまま、動かないでいる。
頭を打ったか、あるいは状況を見ているのか。
ドーブはのそのそと這うように動いてコルビンスらしき人物のもとに向かった。
結果として、その人物は確かにコルビンスだった。
しかし、ドーブは青ざめた。
コルビンスは、負傷していた。
それも、生半な怪我ではない。
折れた手すりが脇腹に深く突き刺さり、多量に出血している。
右の腕は先ほどの衝撃の際にどこかへ強くぶつけたのか、腫れ上がりつつある。
医者に見せなければ不味い、あるいは適切な手当をしてもらったとしても、それでも命を落とす可能性すらあるような重傷だ。
ドーブは、息が乱れるのを感じた。
心臓の音が、あまりに強く聞こえる。
深く、暗い絶望感が湧き出て、己を浸すのが分かる。
親友が死ぬかもしれないという焦燥、不幸に不幸が重なるという悲壮、世の理不尽に対する怒り。
それらが多量の絵の具を混ぜ合わせたように黒く、粘ついて心を覆う。
なぜこうなる。
この気持ちの良い男が、どうしてこのような目に合わなければいけない。
「コルビンス!
平気か!
今手当をする!」
ドーブは倒れるコルビンスに手を添えながら言った。
手当。
馬鹿な。
この揺れる船上で、あるいは船内で。
あのような〈船飲み〉の襲撃があるやもしれぬ中で。
満足にできるわけがなく、その余裕すらない。
不誠実な言葉。
ただ、口をついて出てきただけの妄言。
「へ…。
かすり傷だぜ、こんなもん、はよ」
コルビンスは、荒い息を吐きながらそう言った。
髭もじゃの顔には、例の如く強盛な笑みが浮かんでいる。
ドーブはいよいよ驚嘆した。
この男の精神力はけたが違う。
もともと、船乗りというのは豪胆なものが多い。
『船の旅は、片道のあの世ゆき』などと冗談で言われるほどに船旅は危険だ。
その中で、この男は、無論運もあるのだろうが、あらゆる困難を乗り越えて生き残ってきた、猛者の中の猛者だ。
胆力、あるいは体力において、そうそう比肩するものはいない。
あるいは、余人の倍はあるかもしれない。
ドーブは笑った。
普通の男であれば、死ぬ。
しかし、この男であれば。
コルビンスであれば、死なない。
何をセンチメンタルになっているのか。
ドーブは、己を鼓舞した。
やれることをやるしかない。
死が目前に迫っているならば。
それが、およそ定まっているのであれば。
逃げられる目算が無いのであれば。
迎え打つ。
破れかぶれではあるが、黙って消えてゆくよりは遥かにマシだ。
呪いでも、あるいは剣でも、沈まなければ船自体を使ってもいい。
それに、やられるばかりではつまらない。
ドーブは、護衛の連中を呼び集めた。
そして、己の決意と考えを伝えた。
一同は流石に驚いたが、その背景と己たちの置かれた絶体絶命の状況を俯瞰し、概ね同意した。
手の離せない荷主と水主へ伝令を飛ばす。
少し待てば、これも同意を得られたという返事があった。
機会は、〈船飲み〉がこちらに仕掛けてくる一瞬。
それも、真下からではどうしようもない。
正面、あるいは左右、背面の何処かでなければならない。
予兆を敏感に感じ取り、それに対してごく迅速に反応をしなければ。
甲高い音が鳴る。
船全体を包むように響く。
化け物が鳴いている。
ドーブは、視界の一端にどうしてか風花が舞うのを見た。
水主の仕業だ。
化け物が来る方角を知らせたのだ。
心なしか、船の揺れがつよくなって、軋む音も大きくなった。
リソースをこちらに割いたことで、嵐に負けそうになっているらしい。
これ以上の援護は期待できない。
ただ、それで十分だった。
ドーブは己の腰に丈夫そうな縄をくくりつけ、二本差しにしている剣の一本を抜いた。
それなりの業物。
青鉄や、赤鉄のものではない。
ダイマラス鋼を混ぜん込んだ鈍鉄を鍛え込んだ、いわゆるエーフ刀と呼ばれるつくりの剣。
重量はあるが、頑強さは折り紙つきで信用ができる。
港の蚤の市で、望外に手に入れられた武器だ。
これであれば、化け物にも効かぬことはないだろう。
決死行に出る。
死ねばそれまでだが、悔いは少なくて済むはずだ。
「来た!」
水夫の一人が声を上げた。
右舷側。
先ほど衝撃があった方向だ。
護衛連中は、闇の中へと一斉に弓を放った。
ドーブは剣を握ったまま、じっと機会を窺っている。
技がいる。
それも、甚だ強烈なものでないとならない。
倒すという無謀よりかは、撃退を目標と定める方が良い。
あの巨体に大きな威力を叩き込むには、歩法が重要だ。
すでに疲れ果てた身体に再度鞭を打ち、残った搾りかすのような余力を集める。
笛の音のような鳴き声が、まさに正面から上げられた。
重心をさながら振り子のように移動させながら足を前へと運ぶ。
膨らもうとする軌跡を筋肉で押し留め、回り返ってくる力を推力へと変えてゆく。
〈船飲み〉の表皮の厚みを考えれば、突き以外の方法はない。
肩越しにエーフ刀を構え、船外へ向けて猛進する。
化け物の運動エネルギーと、こちらの推力。
相対速度を考えれば、一定以上の威力になるはずだ。
そして、その瞬間はきた。
化け物が船を沈ませようと、横合いに鼻先を押し付けるようにぶつかってくる。
少しばかり速度が遅い。
あるいは、水主も力を振り絞って何らかの妨害に出たか。
まさしく、完全無欠のタイミングでドーブは剣を差し込んだ。
〈船飲み〉の鼻先に、エーフ刀が深々と刺さりこみ、あまりの衝撃からか、ドーブの諸手からミシミシという異音と、無視できない衝撃が身体を抜ける。
息ができない。
業物のエーフ刀が一瞬で大きく歪曲し、かけ折れた。
再度〈船飲み〉が船へと衝突したことで、全体が大きく揺れ、船上の全員がたたらをふむようにバランスを崩す。
ドーブはたまらず大きく飛ばされて、船外へと落ちた。
化け物は、存外に苦しんでいる。
耳を揺らすような声を盛んにあげており、少しずつそれが遠ざかってゆく。
もしかすると、偶然ながら急所のような場所に攻撃をすることが叶ったのか。
ドーブは、やや混濁した意識で己の状況を俯瞰した。
大波が体にあたり、冷たい水が体温を奪っている。
口に海水が入り込み、苦しい呼吸をまともに行うこともできない。
己は、海面に浮かんでいるらしい。
ドーブは、飛ばされる最中に感じた。
縄が切れた。
あまりの威力に耐えられなかったからか、あるいは、すでに傷んでいたのか。
身体が鉛のように重い。
良い一撃だった。
乾坤一擲の勝負。
無論、勝ってはいないだろうが、時間は稼げたのではないだろうか。
少し遠くで、水夫連中と護衛連中が何かを言っているような気がした。
ドーブは、雨と海水で滲む視界をゆっくりと閉じた。
やれることをやった。
身体はもはや動かない。
精魂は、先ほどの剣にその全てを注ぎ込んだ。
人生が終わるのか、とドーブはふと考えた。
記憶の底。
どうしてか鮮明に思い出せない経験。
先ほどエーフ刀を抜いて、化け物に斬りかかろうとしたその時。
とても重要な何かが、己の思い出の底に沈んでいるような気がしてならなかった。
愛剣。
二本差しにしているうちの、使わぬ剣。
若い頃に仕様がなく手に取っていたが、実際は実用に耐えうれないような、古く、粗雑なつくりの刀剣。
ドーブにとって、それは武器ではなくお守りだった。
妻が、彼女が気に入っていた剣。
(マリアナ…)
遠い国で待つ妻。
そして、幼い娘。
彼女らを養う己が、易々と死んで良い筈はない。
しかし、もはや自己の力ではどうしようもなかった。
ドーブは、身体が海に沈んでゆくのを感じた。
息が白いあぶくとなって、黒い水の中を微かにいろどる。
「ドォーーーーーーブ!」
どうしてか、髭もじゃの水夫の声がする。
彼のごつごつした手が、暗闇から伸びてくるような幻が見える。
コルビンス。
彼なら、あの重傷でもきっと生き残ってみせる。
嵐さえ抜ければ、船内のハンモックで療養もできる筈だ。
死ぬなよ親友、とドーブは海に沈んでゆきながら、最後にそう思った。
用語集
・歌う海
白い航路とも。南の果てに広がるとされる魔の海。
船飲みと呼ばれる化け物クジラの巣窟として有名で、海上にある限り常に彼らから捕食される恐怖を味わうことになる魔境。
名の由来は、船飲みの鳴き声が複数重なると、甲高い歌の重唱のように聞こえることによる。
入ったらばまず生きては帰れない船の墓場として知られるが、一方でどの国家、勢力も容易に手を出すことができないということでもあり、未開の地を目指す冒険家や、お尋ね者となった海賊らなどが稀に船を走らせるという。




