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序章(5) 流れ着いた男

 


 この名もなき孤島で、小さな奇跡が起こってより十四日の日が過ぎた。

 〈守り人〉の生き残り、アスラ・カルナは実に行動的に日々を送っていた。

 アスラの目標はこの絶海の孤島を飛び出し外界を見て回ることだが、これは言うには容易いが、実行するには様々な障壁がある。

 第一に島よりの脱出手段であるが、これがまず難儀であった。

 この島には原則的に船がない。

 漁をするための小舟程度ならあるが、航海に耐えられるようなものではなく、海がしければ容易く沈んでしまう。

 島の周囲に他の陸地が無いことは、昔に確認されていることだ。

 アスラには、丈夫な船が必要だった。

 無論、アスラは造船の技術など持っていないため、この島にあるもので船に準ずるものを用立てるしかない。

 当面の食料に飲料、要事のための薬草や、強力な日光を遮るための手立てもぬかりなく用意する必要があった。

 アスラは着々とそれらの準備を進めながら、日々をおくっていたのだ。



 ♢



 小気味いい音がして薪が転がった。

 アスラは散らばった薪を一纏めにすると、次の丸太を石の台に乗せた。

 再び肉厚の鉈が振り降ろされ、薪が散らばる。

 アスラは、見ての通り薪割りの最中であった。

 これは旅の準備ではなく通常の用事であり、日用の燃料が不足していたのだ。

 しかし手際がいい。

 鉈が木に突っかかることはないし、下の台が傷つく様子も微塵もなかった。

 不思議なのは、アスラが時折丸太に触れるか触れないか、という位置で鉈を止めることである。

 どうなるかといえば、丸太は割れるのだ。

 何やら特別の魔法を使っているわけでもなく、ただの技量によって妙な手品・・が行われており、アスラはそれを平静そのものの双眸で見つめている。

 人に自慢などをするような気質ではないが、この戦士の島で『最高の剣士』とまで呼ばれた熟練は、薪割り一つとっても鍛錬と考えているらしい。


 アスラが何をしようとしているのかといえば、炭焼きである。

 島で広く使われている燃料は主に2つで、薪炭しんたん、つまり薪とそれを加工した木炭であり、息の長い炭の方が利便性が高いということで、炭は大変に重宝されていた。

 南の集落ではトフーマと呼ばれる樹木が木炭として広く用いられていて、アスラも例にもれず炭の原料になる薪を割っていたわけである。

 アスラが薪割をしている場所のおくりには、窯があった。

 炭竃すみがまだ。

 風雨を防ぐ頑丈な屋根と壁に覆われた土色の隆起は、一見すると獣の巣穴のようであるが、奥まった場所には煙突が一本突き出して、これが排煙を必要とする工作物であることが分かる。

 六十年以上前に築造されたもので、これほど物持ちが良いのは、窯の材料に、北の大窯から窯出しされた粘り強い煉瓦れんがと良質の赤土が用いられているからで、経年の劣化は最低限に抑えられ、手入れこそ必要であったが、今でも問題なく炭を焼くことができているのだった。

 

 〈守り人〉の民はパブ・ダ神の教えに従って日夜鍛錬に勤しんでいるわけであるのだが、各々の家庭や血族で武芸の他に特色を持っていることが多い。

 それは鍛造の技術であったり、薬学の知見であったり、皮なめしのすべであったりと取り留めがなく多岐にわたるのだが、その一芸が島の日常生活を支えていた。

 つまり、似非的な専門家が存在していたのである。

 基本的に島の民は、必要な物資や知識があれば己の出来る範囲でそれを収集し、その経過が芳しくない、あるいは根本的に不可能であるとなれば、その専門家らに助力を申し出た。

 対価は単純に資材であったり、己の得意とする分野の技能であったり、時には武芸の手ほどきなどということもある。

 そのようにして島は回っており、公共の施設や明確な仕事がなくとも、一定のインフラストラクチャーが形成されるに至っているのだ。


 では、アスラは炭焼きの得意な家系なのかといえば、そうではない。

 アスラ・カルナという人間は、どうにも人に頼るというのが苦が手な人種で、己のことは己でやるという意識が非常に高いのである。

 炭焼きは一度に大量に作るのが効率が良く、時間も七日から十日ほどもかかる大仕事であるのだが、アスラは窯が空いている時を見計らうと、炭焼きの知人に申し述べて、いそいそと準備を整えては、家の炭を焼くことがあった。

 素人には到底できまい、という指摘が出てきそうなものであるが、島の民は器用な人間が多く、アスラもその例に漏れず要領が良かったがために、使用に耐え得る木炭を焼くことができてしまうのだ。

 その間、家事や子供の世話があれば炭だらけで家に帰ることもあり、アスラの妻はその度に苦笑していた。

 人に任せればいいのに、と妻が言うとアスラは決まって、


 「いや、いい」


 と、憮然(ぶぜん)と返すのである。

 炭焼きも往年は随分と上手くなり、アスラの焼いた炭を打ち鳴らすと、澄んだ綺麗な音が響いた。

 良質の証拠であり、炭焼きの家系の炭と遜色ない。

 誰にも言わないが、炭を取り出した時に良い音がすると、アスラは、


 (ちょっと嬉しいな…)


 と思うのである。

 実のところ、アスラは炭を焼くのが結構好きであった。

 つまり、たまの楽しみだったのだ。


 アスラが炭を焼こうとしているということは、島を出る段取りがあまり進んでいないことを意味していた。

 原則的に海の上で燃料を用いることは湿気の関係上不可能に近いため、これは純粋に普段使いのために炭を作ろうとしているのだ。

 それも、それなりの量を生産しようとしている辺り、アスラは島の脱出が一朝一夕では成せないと踏んでいる。

 こればかりは地道にやっていくしかないと、アスラは腰を据えていた。

 せいては事をし損じるというし、今更急ぐ理由もない。

 この島で、二年も孤独を味わったのだ。

 アスラは、達観の極みにあった。


 (さて、窯に薪を並べる前に入江に行かねば…)


 この後の予定は、島の脱出のための準備である。

 粘り腰で行くのは間違いないが、少しずつでも進めねばならないのも事実であった。

 思いついた案の中では真っ当なものを選別した筈なのだが、これがなかなかに骨が折れる。

 いや、これは終わりが見えないぞ、とアスラは少しばかり気落ちしていたのだった。


 アスラは、大きな丸太を腕に抱えている。

 最後の一本だ。

 立派な幹を持つトフーマであり、体躯が小さくなったアスラがそれを持っていると、さながら樹が動いているようにみえた。

 アスラは木材を丁寧に作業台に乗せると、その側面を鉈の平地の部分で何やら数回叩いた。

 こん、こん、という拍子が、間の抜けたように青空の下に響く。

 再び度し難い動きである。

 平地とは刀剣の側面の部位を指し、刃と峰の間の文字通り延べ板らしい(たいら)の地で、当たり前だが物を斬れるような場所ではない。

 すると、これまた奇妙なことが起こった。

 力感なくひらひらと打たれていた丸太の年輪には、いく筋もの鋭い切れ目が走り、気づけば細い薪になって、台の上で放射状に倒れ割れているではないか。

 アスラはやはりその光景を自賛するわけでもなく、そそくさと薪を集めて片付けをしている。

 木を()いて薪を割るなどと、まこと悪魔じみた手練の技であったが、呆気なく行われすぎるばかりに、今一つ驚きがない。

 見ているものもせいぜい壁にはっている小さなトカゲくらいのもので、その観覧者も首をかしげて地べたへ降りていった。

 からころ、と木材の擦れるような音が、しばらくそこで鳴っていた。

 

 アスラは、うーむ、と大きな伸びをきめて腰に手を当てた。

 窯の横にある薪置きに、几帳面そうに先ほどの薪が並べられている。

 取り急ぎ、雨よけの中に薪をしまって、次の作業に移るのだ。

 アスラは、空を仰ぎ見た。 

 目がくらむような明るさである。

 風は吹いているが、気温はすでに猛暑の先触れがあらわれて、体の中に熱が直接入りこんでくるようだ。

 憎々しいほどに青い空が広がっている。

 最近は馬鹿みたいに晴れが多いね、とアスラは思った。

 この島は雨季も乾季も無く、唐突に嵐がくるかと思えば、日照りのように太陽が顔を出し続けることもある。

 天気が安定していることは稀であり、「五日晴れの幸先よし、五日雨の暗雲は消えず」ということわざにもある通り、長く続く晴れや雨は、ちょっとした占いの意味すら持つ。

 ここ十日ばかり晴天がずっと続いており、吉兆ともいえる好天である。

 景気も良いし、さていくか、とアスラは炭焼き場を後にした。

 

 アスラは南西の入り江へと向かっている。

 何故かといえば、そこには船があるのだ。

 先の戦で外敵らが乗ってきた船の残骸で、酷い有様であるが、修繕をすれば乗れないことも無さそうだった。

 いかだを作るという案もあったが、素人の作った程度のひくい物など、およそ船舶の代替とはなりえない。

 川下り程度ならば行えるだろうが、海に乗り出すのは無謀である。

 他に目ぼしい案も浮かばなかったため、アスラは廃船を修理して海に出ようと考えた。

 これも馬鹿な目論(もくろ)みなのだが、奇跡的に比較的良い状態の船が残っていたのだ。


 アスラは、とん、と軽そうに地べたを蹴った。

 小柄な身体が宙に舞い上がり、羽のように風に乗ると、気づけば二十歩は離れた木の上へとアスラは飛び移っている。

 近くにあった藪を、飛蝗(ばった)のように跳ねてわたると、視界はまぶしくひらけ、広大な草原に出た。

 緑色の絨毯の上には鮮やかな羽を持つ生物がポツポツとおり、林から現れたアスラを長い首を動かして、好奇心ありげに注視している。

 足鳥(イエー)と呼ばれる地をはしる怪鳥の仲間であり、体躯は大人の二人分はあって、豊かな羽毛を持つのであるが、生えそろう歯列は鋭く、飛べない羽の腕の爪は長く、むしろ蜥蜴(とかげ)(わに)などに近い生き物だと言われていた。

 アスラは足鳥を一瞥すると、また一歩の跳躍で二十歩以上は距離を稼ぎ、あっという間に原っぱを過ぎていった。

 その姿を、足鳥がじっと物珍しそうに見て、首をかしげている。

 景色は低草が生い茂る草原から、白っぽい岩場に移り変わり、やがて海が左に広がって、陸地は入り組んだようにうねりだした。

 やがて、アスラの足が止まる。

 目的地に着いたのだ。


 入り江である。

 なだらかな坂が半円状に広がり、その中には青い海が丸く入り込んで、それを抱えるように陸の両端は海へと尖るようにせり出していた。

 波は穏やかで、様々な漂流物が浜に打ちあがっている。

 中には、岩に引っ掛かるようにして海水を浴びる船の存在もある。

 三日月入り江などとも呼ばれる場所であり、景観が綺麗で良いということで、島では著名なデートスポットとして知られていた。

 もともとはせり出した岬であったが、ある戦士が鍛錬のために技をふるい打ち削って(うら)をつくったという無骨極まる(いわ)れが残されている。

 岩場の陰になっているため、島にやってきた賊どもの一部がひっそりとこの場所に船をつけ、上陸を狙ってきたこともあり、ここにある船はその名残(なごり)なのだ。

 しかしながら、内側に窪んだ白の岩が作り出す陸地に、海の青が映えて美しい。

 昔に、アスラが知人とよく来ていたころと、あまり変わっていなかった。

 

 アスラは、いくつか見られる廃船のうち、最も小さなものに近寄った。

 件の、状態のいい廃船である。

 恐らく定員十数名程の小型の船で、取り回しがよさそうな印象だ。

 船底には無数のフジツボが寄生しており、うかつに触ると指が切れそうである。

 外観はいかにも廃船といった有様なのだが、内部の腐食はさほど見られない。


 アスラは船に乗っかると、早速修繕を始めた。

 道具一式は船の中に置いておいたのだ。

 修理に使っている木板は、他の船の腐食していない部分をつかっている。

 不思議なことに、なんらかの(まじな)いがかけられているのか、長期間雨ざらしの有様であるのに、素材自体への損傷は少ないように感じられる。

 単純に強度を増してあるのか、撥水(はっすい)の何かを施してあると思われた。

 その効能が残っているのであれば材料として申し分ないし、ある程度成型してあるから、2次加工も容易である。

 問題は釘だ。

 例のごとく保存状態はさほど悪くはないが、そもそもの絶対数が足りないのである。

 釘は今あるもので全てであるが、もう百本もない。

 船底の修理に随分使ってしまったのだ。

 近々、鉄を打って拵える必要がありそうであった。


 今日は甲板の修理である。

 甚大な損傷は無いが、さすがに幾分脆くなっており、体重をかければ(きし)むし、下手をすれば穴が開いてしまいそうだった。

 成型した木板を補強の意味合いで要所へ打ち、ときには傷んだ甲板を引きはがしながらアスラは作業を進めた。

 太陽はだんだんと中天へと移ってゆき、降り注ぐ日差しは一層まばゆくなって島を照らしている。

 船に落ちていた影はしだいに無くなって、甲板はいちめん白く光ってみえた。

 アスラは、その中で汗ひとつかかずに黙然と槌を振るっている。

 たまに甲板に影がさすのは、海鳥がマストの先にとまって下をのぞき込んだりした時か、渡りの鳥が空を泳いでいる時だけである。

 海風は涼しかったが、やはり湿気(しけ)ていた。

 さざ波の静かな音と槌の騒々しい音が、しばらく重なって鳴っていた。


 アスラがそのまま暫く作業を続けると、太陽が真上へと昇った。

 昼時である。

 アスラは今打っている釘を最後にして作業を止めた。

 集中して行えたので、進行の程度は良かった。

 素人にしては上手い方なのでは、とアスラは思っていたが、実際その道の熟練者が行ったと見紛うような精緻な細工である。

 知識不足による(つたな)さこそしばしば垣間見えるが、それでも充足に機能を保てるように補修がなされているのだった。

 先述の通り、島の民は概して手先が器用であり、また要領がいいのである。


(飯にするか)


 アスラは金槌や釘を片すと、船から降りた。



 ♢



 昼餉を終えたアスラは、僅かに草の生えた岩場に横になっている。

 日向ぼっこに興じているのだった。

 子供の頃よりやっているもので、肌は弱くなったとはいえ、これはアスラの日課である。

 今日行おうとしていた作業は概ね終えていた。

 あとは夕食の準備や洗濯物の取り込みなど、雑事がすこしばかりあるくらいのものである。

 なんども言うように、急いても仕方がない。

 アスラは、心にゆとりをもつことの大切さを知っていた。

 根を詰めすぎることなく、何事も楽しむことが肝要なのだ。


 昼飯は、入り江に行った帰りに採った(きのこ)を食べた。

 森に入って地べたを見れば、じつに色とりどりの茸が生えているのだ。

 アスラが好きなのは『ラガンラン』と呼ばれる茸で、コウモリがひっくり返ったような傘をしていて、茎の部分は細く、日当たりのよい場所を好んで生育する。

 特有の風味はあるものの、食用として人気が高く、似通った毒茸もないということで、誤食による中毒の可能性もごく低いなど、安心して摂食できる点もよろこばしい。

 干しパンを蒸して柔らかくしたものに、ラガンランを薄く切って乗せたものを再度じっくりと焼き、それに塩漬けの肉を付け合わせて食べるのは、シンプルながら美味である。

 茸の風味は火を入れることで一層とかぐわしくなり、身は生地に少しばかり蒸されて柔らかくほぐれ、パン生地の香ばしさと乾いた歯触りは、不思議なほどにそれらと調和して、肉の強めの塩気が最後、口内に強烈に響き渡る。

 それにしても良く考えられた調理方法で、家庭料理の王道とも言うべき食べ合わせなのだ。


「ふうむ…」


 海風は絶えず穏やかに吹いて、アスラの寝転んでいる草はらががそよそよと揺らいでいる。

 慣れていないものであれば、日差しの強さと纏いつくような湿気に参ってしまいいそうな気候ではあったが、島の民からすれば涼しいもので、アスラも心地よい気分であった。

 実際に、ほのかな眠気のようなものが寄せてきて、(まぶた)が重みを増している。

 このまま昼寝をするのも悪くないか、とアスラは思った。

 いよいよと目を瞑ると、周囲の環境音が嫌でも心を満たす。

 風、草花の音、波の旋律、海鳥の声…。

 そうして自前の長い耳を澄ませてみれば、どうにも違和感がある。

 きい、きい、と連続する刺々しい音。

 鳥だ。

 そう遠くない場所で、鳥の群れがけたたましく鳴いている。

 おそらくは、海辺の方向か。

 アスラは上体を起こして視線を音源の方へと向けた。

 

 鳥が大勢で騒ぐのは、編隊飛行の際の何らかの威嚇行為か、あるいは単純に望外に大きな餌がある場合だ。

 この島における割合で言えば、後者が圧倒的に多い。

 沖合であれば、魚群。

 浜辺であれば、打ち上げられた大きめの魚か、あるいは動物。

 いる。

 海と空の青の中に、太陽光を照り返してやや白っぽく見える灰色の鳥群がある。

 浜辺の海岸線の少し上あたりに大挙しているらしい。

 目当てのものは、おそらくはその下にあるはず。

 アスラは、目を凝らした。

 一般に極めて優良な視力を持つものであってもしっかりと輪郭を捉えられないであろうそれを、アスラの尋常ならざる作りの眼は明瞭に視認して見せた。

 

 (あれは…)


 アスラは、思わず目を見張った。

 いや、そうせざるを得なかった。

 人だ。

 人である。

 久しく目にしていなかったシルエットが、そこにあった。

 数は2つ。

 体格からして、恐らく性別は男。

 浜辺に打ち上げられて、横たわっているらしい。

 息があるかどうかは、流石にここからでは分からない。

 鳥の妨害もあって完全には見えないが、〈守り人〉の民ではないことは確かである。

 つまりは、()()()()()()()

 アスラは、微かに釣り気味の目を細めた。

 頭を巡る感情、情報は極めて膨大にある。

 ここらの海流の動きを考えると、彼らはこの浜の近海か、あるいはもっと近くの沖合ほどで海に落ちた可能性が高い。

 少なくとも、この島から遠くない座標まで近接していた見るべきである。

 アスラも専門外すぎる分野なので良くは分からぬことだが、海を渡るのにもきっと地図やあるいは道案内のようなものがいるはず。

 外観、服装などから判別をするのであれば例の賊どもの可能性は薄そうだが、この島にやってきた外界のものはといえば、前の船乗りたちと〈守り人〉の不倶戴天の敵といえるその連中のみ。

 この島そのものを見知っているか、あるいは地理的な情報を得ている、ということが前提になるのであれば、自ずから答えは出る。

 すなわち、高い確率で賊どもの残党か、その息のかかったものたちと見なすのが相応だ。

 最悪のケースでは、彼らはデコイの役目を持っていて、アスラを引き付けて強力なまじないを放つ、というようなことも考えられうる。

 戦争屋のような思考になってしまうのは悪癖ーー実際にアスラは半生を戦時下で過ごしたので仕様がない面が多分にあるーーであるが、変に浮ついていないことは悪くない。

 我ながら実に人でなしだな、とアスラは自嘲した。


 とにかく近くに寄ってみないことには話が始まらない。

 アスラは取り急ぎ、耳を澄ませながら周囲を見渡した。

 索敵である。

 ここは沿岸部に近いし、それなりに高さのある場所である。

 そんな見晴らしの良い地点から敵影が確認できないとなれば、彼らがデコイや息を殺した尖兵である可能性は低くなる。

 無論、この島の地理をある程度把握しているのであれば船を岩陰に隠す、などという芸当も可能にはなるので油断はできないが。

 アスラはさながら千里眼のような異様に良い目を凝らして四方八方を確認したが、怪しいものはなかった。

 慎重なように見えるが、人工にんくが絶望的に足りないのだ。

 観測をするものと偵察に行くものと、予備人員と、とそのような配置は望むべくもない。

 戦になる可能性が僅かでもあるのであれば、丁寧に動いて損はない。

 さて、鬼が出るかそれとも、とアスラは剣を片手に跳躍をした。

 足元の草花がほんのかすかに揺れると、アスラの姿は青の中にあった。

 結った長い髪と髪飾りをなびかせながらことも無さげに宙返りを決めて、妙なことに足跡さえ残さずに砂浜に着地している。


 アスラは砂浜を駆けた。

 鳥の声が次第に大きくなる。

 白波がなでる眩しい海岸線に、黒っぽいような人影がある。

 先ほどから、主だった動きはない。

 遠方からでも目立つ行為であろう高い跳躍を行ったが、その空中でも、着地をしてからも特段の注意を払うべき気配は感じないのだ。

 かなりの速度で人間が近づいてきたからなのか、地べた付近でとまっていた鳥らが、一斉に飛び上がる。

 数枚の羽がその場に残されて、非難するような鳴き声ばかりが空から降ってきた。

 ぴしゃ、ぴしゃと濡れた砂浜を歩いてアスラは倒れている人間に近づいた。

 手前側は、壮年から中年ほどの年齢の男だ。

 若干の引き潮であるので、足先がわずかに波に触る程度で済んでいる。

 ブーツは片一方が脱げて素足になっており、砂でぐしゃぐしゃに汚れたズボンに、同じく湿って砂に塗れた紺色に染めたシャツ。

 頭髪はかすかに後退し、あまり手入れがなされていないのか、髭が散らかって生えている。

 肌の色は小麦色で、それなりに屈強な印象を受ける。

 アスラは静かに屈んで男の背に手を当てた。

 ぴく、と動きがあった。

 ここから随分前の位置より息があることはわかっていた。

 アスラが己の長い耳をしかっりと澄ませれば、遠くで小さく息を吐く程度の物音であっても、十分にそれを識別して拾うことができる。

 この男も、奥に倒れる男も生きてはいる。

 しかし…。


(血の匂い…)


 アスラは、目の前の男の脇腹を見た。

 おそらく、何かの木片だと思われるが、深々と身体に刺さり込んでいる。

 見れば、シャツの紺の色で分かりにくいが、出血もある。

 海の中を漂っていたとすれば、かなりの失血量と見るのが妥当だ。

 刺さった位置からして、腹腔内にまで木片が達していれば、臓腑の損傷の可能性も低くない。

 あまりにも痛痒が酷い場合は、ショックによる突然の致死の懸念もあるだろう。

 総合してこの男は生きているのが不思議なくらいの重傷であり、早急に手当を行う必要がある差し迫った状況だ。

 少なくとも、止血を行わねばまず間違いなく命は無い。

 アスラは男の耳に口を近づけて、外界の言葉を発した。


「意識はあるかえ?」


 男はほんのわずかに瞼を開けた。

 アスラの包帯まみれの風采に、いくらかの驚嘆が瞳にゆらいだが、すぐにその動揺は消えた。

 消え入りそうな声で、砂浜に口をつけながら何かをいっている。

 訴えかけるように、細い息を繋ぎながら。


(なるほど…。

 これは2つ目に習ったものか…。

 賊どもの言語ではないな)


 外界には、言語が複数存在するらしいことが知れている。

 この島には〈知のもの〉と呼ばれる賢者たちがあった。

 闘争の文化が色濃い戦士の園であるこの孤島で、日夜勉学に励むという毛色の全く違う人種だ。

 何を隠そう、アスラの亡き母も、この〈知のもの〉であったのだ。

 四千年もの歴史を持つと言われるこの島には古文書と呼べるような貴重な資料が無数にあって、〈知のもの〉らはそれらの管理も行なっていた。

 言語は、その書物の中に書き記されていたのだ。

 モア=セン神が穢土に海を創られる以前は、この世界は陸で続いていたとされる。

 パプ=ダ神も地上の戦士であった頃は、流浪の旅をしていたと言われている。

 蔵書は、その頃からのものとされる石版、碑文すらも存在する。

 あるいはパブ=ダ神ご自身が集められたかもしれない、世と隔絶される前の叡智が、まさしくそれらなのだ。

 

(それにしても…)


 アスラは、この男が言った言葉に強く気をひかれた。

 男は、ともだちが、と言った。

 近い場所に、もう一人流れ着いた人間が倒れている。

 この男よりもやや若そうな雰囲気を感じる、立派な体格をした男だ。

 こちらも、無事かどうかはわからない。

 足元の男は、彼を気遣ったのだ。

 己も相当の、過言ではなく命に関わるような重傷なのにも関わらず、倒れている友達を気にかけていたのである。

 痛いはずだ。

 苦しいはずだ。

 それでも、友達が心配だというのである。

 アスラは、己を冷血漢だと評価している。

 これを懇切丁寧・・・・に説明するのは困難を極めるのである程度割愛するが、アスラは理性で感情のようなものをっている。

 物事を捉える際には感性で受け止めることがうまくいかず、連続した判断によって人なみの結論を導いているといって良い。

 だからこそ、アスラはこの類の人種が嫌いでは無い。

 心で身体を動かすような、まっすぐなものが。


(弱いんだよな、こういうやつには…)

 

 未だ、ブービートラップや何者かの策謀という可能性は否定しきれない。

 それでも、アスラはこの大怪我をした男が気に入った。

 人は、余裕が無い時にこそ心根の色が外面に顕在化する。

 己を取り巻く装飾や緩衝材が何も無くなった時に初めて、そのものの本音が世に響くのだ。

 この男は、おかしい。

 己の命よりも、友人の命が大事だという。

 つまり、酷く優しいのだ。

 アスラは、利害なく他人をおもんばかれる人間が、また実に嫌いではない。

 

 アスラは迷いなく己の帯を緩めると、男ができる限り苦しまないように仰向けにした。

 男は、アスラのおそろしく丁寧な手捌きと、その力の強さにわずかに驚いたようだった。

 アスラは、大丈夫だ、と扱う言語を変えて日除けの包帯越しにはにかんだ。

 男はまた少し目を開いたが、荒く、細く息をするのみである。

 大量失血時の応急的な対応であれば患部の圧迫が望ましい。

 しかしながら、今以上に苦痛が増すようであれば痛みによる死という可能性がより高まる。

 アスラは男に、


「痛むぞ。

 気を張れるか?」


 と、端的に言った。

 男は、小さく口角を上げた。

 アスラは頷いて、手早く己の帯を男の腹部に巻き付け強く縛った。

 男は圧迫によって痛みが増したのか、小さく呻いて脂汗を流している。

 アスラは、改めてまじまじと男の容態を観察した。

 最も酷い外傷は側腹部の刺創。

 先に述べた通り、穿通性せんつうせい外傷の疑いもある重傷だ。

 両足の擦り傷は恐らくこの浜辺でついたもの。

 仰向けに寝ているために分かりにくかったが、下向きに潰されていた右の腕は前腕部および上腕部に腫脹しゅちょうが確認される。

 恐らくは双方ともに骨折、よくて不完全骨折。

 手のひらの内側に擦り傷と皮膚の剥離がある。

 これは何かを強く握っていて、それがこすれたことでついたものだろう。

 呼吸が促迫しているのは失血によるものか。

 日焼けをしている顔色と手足は、やや青みを帯びているように感じられる。

 これは窒息時に確認される所見で、溺水をしていたことは間違いない。

 少なくとも武器によるものと思われる創跡や、防御創(ぼうぎょそう)が見られないので、抗争や内紛の犠牲者という線は薄いか。

 船上でなんらかの事故に遭った挙句、海に投げ出されたという所だろう。


 今いる場所は影になるような遮蔽物もないので、日差しが非常に強く、それに伴って気温も高い。

 少なくとも、日差しを避けられて、ある程度涼しい場所で安静にさせなければ治療も何も無い。

 時間が惜しい。

 アスラは、意識を飛ばすなよ、と男の頬に手を当てて言い残すと、もう一人の状態の確認に向かった。


 奥の男は、剣客風の身なりをしていた。

 特筆すべきは、剣を二本差しにしていたらしいことか。

 らしい、というのはうちの一本が紛失しているからだ。

 いかにも古く随分とくたびれた様子の品と、比較的新しいと見える中々に立派な鞘に入れられていたであろうもの。

 長剣の二刀使いか、とアスラはこんな事態でなければにわかに好奇心をくすぐられる来客に、しっかりと目を向けた。

 茶色がかったブロンドの頭髪に、いくらか擦り傷の見られる褐色のはりの良い肌。

 無精髭が目立つが、顔立ちは精悍そうな印象だ。

 捲れ上がった服から、鍛えられた腹部と胸部が見える。

 胸部から腹部にかけて、大きな打ち身の痕跡。

 視診では伺い取れないが、肋骨や内臓についても何らかのダメージがあるような印象がある。

 右肩に腫脹が見られ、やや肩の丸みが失われているように見られる。

 肩甲骨の相位からすると、まず完全脱臼をしているだろう。

 その他、両腕の指と手首に腫れが見られ、熱を伴っている。

 骨折、捻挫、あるいは亜脱臼などが疑わしい。

 加えてこちらも、手足の末端部が青色がかっている。

 溺水の程度で言えば、より酷いか。

 こちらは対人戦の痕跡こそないが、何らかの生物、それもかなりの質量を持った敵と相対していたような残り香を感じる。

 アスラには、男が一本無い方の剣で、大きな生物に突きを放つような姿が幻視された。

 その末に、海に落ちたのだろう。

 幸いなことに、意識こそ戻らないようだが呼吸はあり、出血を伴うような外傷はない。

 この男は、この灼熱の浜辺から移動させ、安静にさせれば回復する可能性は低くない。

 

 アスラは、両人を自宅へと搬送することに決めた。

 集落の建物は随分と手が入っていないので、すぐに使える状態にはならない。

 幸いなことに、アスラもごく最近まで病におかされていたこともあって、薬草の類の備蓄はある。

 大怪我をしている男に関しては、まず痛みを緩和するという処置が望ましい。

 鎮痛と増血の効果が期待できるような薬をこさえることが最もクリティカルなアプローチになる。

 アスラは、荒く浅い息を続ける男を抱き上げた。

 負担がかからぬように精緻に、けれども拙速に。

 肉食の海鳥の鳴き声がけたたましく響く。

 餌になると思っていたものが、どこかに連れ去られることを予感しているらしい。

 アスラは内心で、悪いな、と謝罪した。

 彼らからすれば、極上の餌を発見して心躍っていた所に水をさされているに他ならない。

 人は、意図せずとも世の営みを歪めるもの。

 しかしながら、力こそが己の欲を、意見を通すのに必要な要因であるという冷たい事実もまたある。

 文句があるのであれば、アスラから餌を奪い返す他にないのだ。


 アスラは、翡翠色の眼をゆっくりと閉じた。

 浜の眼球を焼くような光の放射とその反射が、橙色の光となって瞼の裏にうつる。

 それもしばらくすると遠ざかり、静かな闇が周囲を覆う。

 気づけば、異様に澄んだ水面みなもが眼前に広がる。

 海原のように、水平線が見えるほどの巨大な水の溜まり。

 〈力〉だ。

 穢れを落とすように、けれども清くなりすぎぬように、足を浸す。

 大した出力はいらない。

 そもそも、怪我人の身体が持たない。

 足の指先で、ほんのわずかにそれを触る。

 次の瞬間、アスラの身体から燐光のようなものがかすかに溢れた。

 年若い少女の皮膚の中に満ちる筋肉は密度を増して膨れ上がり、細い骨は厚く固くその堅牢さを増し、それらを繋ぐ腱はよりしなやかに、へたらぬよう頑強につくり変わる。

 抱かれた男も尋常ではない感覚を受け取ったらしく、目を見開いてその現象を観測している。

 〈守り人〉の民が十八番おはことする技だ。

 基礎の基礎と呼ばれる〈力の可視〉、そして水行に似た感覚から〈垢離オンマ〉と呼ばれる〈力〉の運用。

 強さを天に捧げる民族の、臨戦体制である。

 

 辺りにたむろしていた鳥たちは、一斉に威嚇するような声をあげて、その場を離れるような動きを見せた。

 予兆を受け取ったのだ。

 アスラが砂浜を蹴った。

 地べたを押した力の反作用で、恐るべき速度をもってアスラと男は空中へ跳び上がっていた。

 景色は絵の具を指で伸ばしたように長く、境界は曖昧になり、ぬるく湿った空気が突風のように向かってくる。

 しかし、どうしてか衝撃などはなかった。

 ありえないほどの風切り音、はためく服の騒々しさ、考えられぬような速度で移動しているのは間違いない。

 大怪我をした男は、己を抱いている人間をかすむ眼で見た。

 顔は包帯まみれで殆ど伺うことができず、翡翠色のまつ毛の長い両眼りょうまなこだけがかろうじて露見している。

 髪は結って纏めている部分と編み込んで垂らしている部分に分かれているようで、巻かれた包帯の下から吊るされたように、長い髪と髪飾りが落ちている。

 耳と思わしき部位は薄手の布の袋で覆われて、顔の左右から殆ど真横に長く突き出しているらしい。

 この人は誰なのか、ここはどこなのか、混濁しつつある意識で男は考えていた。

 


 ♢



 アスラは目の回るような異常な速度で倒れた二人を自宅へと運び込んだ。

 昼寝をしていた場所からは4000歩ほどの距離があるが、それを徒歩で移動する際の十分の一にも満たないような僅かな時間で往復をして屈強な大人二人を回収したと言えば、これが通常の感覚では度し難いような奇跡の搬送であることが分かる。

 アスラは今に至るまで警戒も緩めないでいた。

 しかし、やはり動きはなかった。

 この男らは、単純に海難に遭って流されついたものたちであるという結論を出しても良さそうだ、とアスラは判断した。

 故にこそ、アスラは己の力の全てをかけて治療にあたった。

 そして、アスラの処置は、器用な素人としては間違いなく望外だった。

 重傷の部位を固定し、口には無理のない程度の水を含ませ、薬を煎じて少しずつ飲ませた。

 整復が可能そうな外傷部位に関しては、まるで機械のような精密さで徒手整復を行なってみせた。

 剣客風の男の容態は、安定していた。

 皮膚の変色もじきに消えてゆき顔色も良くなり、心なしか表情も険しさが薄れていっているように思えた。

 ただ、問題は大怪我をした男の方だった。

 友人の状態が良いと見るや、みるみると衰弱していった。

 男は怪我との戦いを放棄しているわけではなかった。

 単に相当の重傷で、それを気力でおぎなって命を繋いでいるにすぎなかったのだ。

 アスラら〈守り人〉の怪我の感覚と、外の世界の人間の怪我の感覚は違う。

 仮にこの島の戦士らが脇腹に深い傷を負ったとしても、それが仮に臓腑に達していたとしても、彼らは戦闘を続行できる程度には動けるし、予後も死ぬという可能性は高くない。

 しかし、男は〈守り人〉ではなかった。

 それを考慮すれば、奇跡のような体力と気力の持ち主であったと評価できるだろう。

 薬が効いて少なくとも痛みは引いたのであろう、血の気が戻らない顔は若干ではあるが穏やかになっている。

 アスラは、濡れた清潔な布巾を使って、大怪我をした男の顔を丁寧に拭っていた。

 男は、掠れた声で、けれども落ち着いたような調子で、静かに言った。


 「あんたは…」


 黒っぽい瞳が、閉じかけているまぶたから小さくのぞいている。

 焦点は、おそらく殆ど合っていない。

 はっきりと言えば、言葉を発している場合ではない。

 そんな余力があるのであれば、身体を癒さなければならない。

 高かった日はすでに傾いて、室内はやや薄暗くなり、斜陽が古い家屋の石の壁を鮮やかに照らしている。

 蝉が鳴く音が一帯に響き、遠くで潮騒しおさいが聞こえた。

 ぬるい風が窓から屋内に入って、天井から吊られていた干物が乾いた音を立てる。


 「ごろつきさ」


 アスラも静かにいった。

 横たわる男の肺が少しばかり膨らんで、息が数回吸われた。

 浅い呼吸。

 全く良化していない。


 「俺もだ…」


 男は、小さく笑った。

 アスラは僅かに翡翠色の眼を細めた。

 思えば、久々の人との会話になる。

 真の孤独を味わった身から言えば、嬉しいような気持ちが滲んでも良い。

 ただ、そのような心の機微はなかった。


 「あまり喋るな。

 身体に触るぞ」


 本心であった。

 可能性は、希望はまだある。

 いらぬところに力を使っている場合ではない。

  

 「俺の好きだ…」


 男は、口角を引き攣らせるように上げてそういった。

 アスラは再び眼を細めた。


 「その通りだ」


 アスラは、男に死んで欲しくはない。

 先ほど会った男ではあるが、妙に気に入っている。

 強硬な手段で寝かしつけることも考えられるが、男には体力がない。

 つまり、手詰まりなのだ。

 したいようにさせるしかない。


 「名前を、聞かせてくれ」


 窓から差し込んだ光が、男の散らかった髭を夕焼けの色に染めていた。

 風が強い。

 玄関の布がはためいて、ばさばさと音を立てている。

 道の脇に茂った背の高い草が、強風に揺られて長い葉を飛ばした。

 アスラの髪飾りも、床に着きながらも小さくなびいている。


 「アスラだ」


 男は、あすら、と無声音に近いような反芻をした。

 俺は、と続けて、


 「コルビンス」


 と言った。

 聞き慣れない音の綴り。

 いかにも外界の民というような風情がある。

 アスラは、外の世界のものの名前を殆ど知らない。

 以前の船乗りたちからは直接紹介を聞き、あるいは賊どもの主力の戦士などは仄聞(そくぶん)するような格好でその名を知った。

 それでも、数えるほどだ。

 奇妙な感覚がある。

 異国の、新たな風が吹き込むようなこの情緒は何なのだろうか。

 彼女(・・)は、これを待ち望んでいたのだろうか。

 

 「アスラ、というのは、珍しい名なのか?」

 

 コルビンスは、荒い息をはきながらいった。

 首を起こすような力もない。

 目を薄く開いて、アスラの方向を漠然と見ている。


 「良くある名さ。

 だが、嫌いじゃない」


 アスラは、薄く笑った。

 コルビンスも青い唇を少し上げて笑った。


 「おれ、もさ…。

 つまらないが、嫌いじゃ、ない」


 詰まるように息がなされる。

 不規則で、弱い。

 アスラは、コルビンスの手を取ると強く握った。

 ごつごつとした手のひらだ。

 剣や、槍や、それこそ武具を使う手ではない。

 だが、何かを懸命にこなしてきた者の(てのひら)だ。

 この男、コルビンスが何を生業としていたのかは知らない。

 アスラが分かるのは、彼が友を想うことができる好漢であるということだけだ。


 「気を強くもて」


 アスラはこの嫌な予感を知っている。

 どうなるかを予想できている。

 けれども、手立てがない。

 人は容易に殺せる。

 だが、人を助ける(すべ)は持たない。

 医療の知識や、手当の知識などを言っているのではない。

 それは、才能の欠如だ。

 人を助ける素養がない。

 

 「あいつには、妻と、子供がいる…。

 アスラ、頼む…」


 手が、弱い力で、しかし強い意志を持って握り返された。

 あいつとは、恐らくはもう一人のブロンドの男のことだろう。

 この男は、最期の最期まで友人のことを気遣って逝こうというのか。

 できるだろうか。

 このような振る舞いが。

 何らかの不運の中にあって、死にさえ触れようとしていながら、高潔な心を保つことが。

 

 「大した、人生じゃ、なかった…」


 コルビンスの声が小さくなる。

 すでに瞳は閉じられて、息はあまりに浅くなっていた。

 

 「そんなことはない」

 

 アスラは、気づけば断じるように言っていた。

 世の中の連中がどう評価しているかなど知らない。

 興味もない。

 ただ、アスラはこの男を、コルビンスを尊敬していた。

 まっすぐに優しい男だ。

 戦士ではないが、雄々しい魂を抱いた男だ。

 そのコルビンスは、それを聞いて、薄く、本当に薄く笑ったように見えた。


 「そうか…」


 それを最期に、コルビンスは静かになった。

 黄昏の光が、眩しく屋内の三人を照らしていた。

 コルビンスは、穏やかに瞳を閉じて、二度と動かなかった。

 奇縁。

 唐突に降って湧いた妙な邂逅。

 一日に満たない、希薄な関わり。

 唐突にはじまり、呆気なく終わってしまった。

 人は死ぬもの。

 そんなことは、重々と分かってはいる。


 暗くなった気持ちに追い打ちをかけるように、アスラの精神の冷たい箇所が、酷く乾いた意見をぶつけてくる。

 この男は、きっと優しいからこそ死んだのだ、と。

 あまりに冷血な感受。

 考えられぬほどの侮辱(ぶじょく)だ。

 しかし、しかし。


 (優しいものは、生きられぬ…)


 何かを庇い、守り、手を取り、そして代わりに傷を増やして。

 傷つけまいと、ただ傷をつけられ。

 コルビンスが、そうして生きてきたかはわからない。

 けれども、アスラは彼の最期に献身者の片鱗を見た。

 ()いこと。

 優しいこと。

 世をいきるうえで、これほどに(むご)いことはない。

 そのものらが過ごすには、穢土(トゥアン・カナァベ)には(いた)みが多すぎるのだ。


 「コルビンス、か…」


 アスラは、この男の生き様を見て、どうしてか息子の顔を思い出していた。

 風貌は、にても似つかない。

 名前も似ていない。

 ただ、優しい子だった。

 繊細で、人の痛みがわかる子だった。

 この戦士の島に生まれなければ。

 アスラが剣を使わなければ。

 戦火さえなければ。

 あの子も、剣を取ることは無かったはずだ。

 そうして、アスラの息子は戦で亡くなった。

 誰一人、人を殺すことなく。

 最期は、笑っていた。

 そして、泣いていた。

 あれは、正確には戦死ではない。

 自死だ。

 この荒んだ世に苦しみ果たしたものの、あの何より優しい子の、せめてもの、力のかぎりの抵抗だった。

 

 因果、運命、アスラはそのような言葉は好きではない。

 ただ、漠然と抗いようのない流れを感じることがあり、それを便宜上そのように呼称することはある。

 だとすれば、その運命とやらは凄惨(せいさん)だ。

 神の悪ふざけの最たるものだ。


 アスラは、コルビンスと、その脇で寝息を立てる暗めのブロンドの髪の青年をみた。

 お前の友達は大したやつだったよ、とアスラは内心で男に言った。

 赤い夕日に照らされたその男は、未だ起きる気配がない。

 結局、この若者達が何者なのかは分からなかった。

 彼らの背景を憶測することはできる。

 ただ、解像度を高めることができる判断材料は現状殆どない。

 敵意が無いとしても、敵でないとは言えないというのが正直なところだ。


 情報は有益だ。

 非情なようだが、コルビンスとの会話も本来であれば何らかの情報抽出をすべきであった。

 得られたものは、彼の扱う言語の種類、それに彼の名前と、ブロンドの男の家族構成のみ。

 戦略的な見方をするのであれば、薬草や時間の消費、あるいは移動によって自宅の場所を周知させるコストに見合っていない、との評価もできるだろう。

 アスラは、昏睡しているブロンドの青年を見た。

 足元のコルビンスは、穏やかな表情で眠っている。

 アスラは、そっと彼の顔に手を添えた。

 約束は守るよ、とアスラはハスキーな声で小さく口添えた。

 どこか物悲しい蝉の声が、黄昏の集落跡を包んでいた。



 


用語集


・力の可視

己の中に満ちる〈力〉を、泉のように捉える瞑想法。

戦闘の基礎の基礎とされ、これを行えるか否かというのが、ひよっことそうでない素人との差と言われる。

自身に秘められた〈力〉を知覚しきり、それを泉に注ぎ切ることが真髄であるとされ、この〈力〉の泉を探すこと、湧かせることこそが、戦の民族、守り人の民の歩み始めなのである。

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