序章(3) 花ふぶき
アスラの姿は、海岸線にあった。
海風に、結った黒髪と長い服を靡かせて、凛然と佇んでいる。
翡翠の釣り気味の双眸は、光量を調節すべく細められ、長いまつ毛が眼球にひさしを作っていたが、その中にある瞳は、周囲の色を取り込んで、やや水色がかって見えた。
珍しい形の耳には、髪飾りや細い髪の束がしばしばからみつくらしく、その度に手櫛で後ろへと一緒に流されて、ぴこぴこと前後に揺れている。
光を浴びた肌は、白飛びをしたようにひたすらと明るかった。
(なるほど、良い日だ…)
仰ぎ見る空は幾分高くなったようだったが、身が染められるような青さは、何ら変わっていない。
そこには、僅か二色がおりなす、清涼な景色が広がっている。
白銀色の乾いた砂浜は、ときおり砂の煙を立ち上げながらも、星屑のように細やかに煌めいて、透くような静かな波が、寄せては帰っている。
桃色や薄い橙などの色をした小粒な貝殻は、寄せる波にさらわれて、消えたりまた現れたりと忙しいが、ゆく先には一面の海原が、きらきらと陽光を跳ね返して、眩く、終わりなく、豊かにふくらんでいた。
勢いのいい風を浴びるたびに、磯のかおりがつんと鼻をつついてかぐわしく、視界の青がより濃くなっていくように感じられる。
それにしても、暑く、眩しく、けれども心地が良い、とアスラは破顔していた。
基本的なサバイバルの知識として、太陽のある間において海岸部に足を伸ばすというのは、得策ではない。
上からの太陽光線と下からのそれの反射で、あっという間に熱射病になる。
この島は熱帯の気候であるから、その傾向はより顕著になると言ってよく、この場で汗らしい汗も流していないアスラは、おかしい。
実に、若い〈守り人〉は、この環境の鋭い牙を、容易く耐えてみせる。
人間としての作りが、土台から違うのだ。
とはいえ、アスラは先ほど、一刻も早く森の聖域を離れねば、と躍起にはなっていた。
森の中は危険である。
無論、虫や毒蛇といった細々した――これは軽視しているわけではない――危険もあるのだが、何より野生の獣に出くわしたくなかったのだ。
特に日が傾けば視界が悪くなることは元より、夜行性の獣どもが動き出す。
この小さくなった肢体では森に潜む脅威を十分に相手取れまい、とアスラは考えたのだった。
身体の勝手が随分と違うであろうし、相対的に丈の大きくなった服も実に邪魔である。
普通の獣ならいざしらず、深奥部に闊歩する黄虎などと出会っては命が危うい。
分布を考慮すれば遭遇する可能性は低いが、赤蛇や、白鳥も同様である。
それらの猛獣とやり合えば、場合にもよるが、地形が変化する程の激戦となることもあるのだ。
(身体を慣らさぬことには始まらん。
剣がまともに振れるかどうかも判然としないからな…)
と、アスラはそんな思いを胸に、細心の注意を払って森を抜けて来たのである。
普通なら気配を絶ったとしても、偶発的に幾らかの獣に遭遇するものだが、今回に限ってそれが無かったのは僥倖であった。
一方で、
(妙だった。
子猿の一匹も見かけぬとは…)
そこが、腑に落ちない。
アスラは、薄気味悪く感じた。
あの森は生命の宝庫であり、視界の一端にでも獣が写らないというような珍事は、まず無いといっていい。
獣の匂い自体はあった。
気配を探れば、隠れているような息の殺し方をしていたと思われる。
つまり、獣らは「何かから潜んで身を隠していた」という形容が正しく、ゆえに先ほどの森はいつになく粛然としており、強い警戒に満ちていたのだ。
森の獣は賢く、鋭い。
彼らは嗅覚や視覚も大変に優れてはいるのだが、危険を察知して警鐘を鳴らす第六感は、それこそ第三の目といっても過言ではない鋭敏さがある。
果たして、獣達の網には一体何が引っかかったのか。
あるいは、居眠りをしている間に、大事があったのか、とアスラは勘繰っていた。
人が他にいれば聞き込みをしてもいいが、生憎この島にはアスラ以外に人はいない。
森の異変については気になる所ではある。
ただ、アスラの中において帰りの道行でそれ以上に違和感を覚えたことがあった。
何をかくそう、アスラの身体のことである。
これの方が、よりおかしい。
言うまでも無く森は悪路である。
この島の森は密林といって相違なく、獣道でもない場所をゆこうとすれば、あまりに豪壮なる自然が道を阻む。
入り組んだ木の根や、無数の蔦、湿った泥のぬかるみ、不意に現れる斜面や崖、背の高い草、急流の河など、挙げればきりがないほど障害物は多い。
多雨林であるため一帯の湿度は非常に高く、無論、気温も同様に高い。
そんな天然の迷宮を急ぎ足で進もうというのは、想像以上に体力を要することだ。
当然のことながら、ある程度の身体機能も要求される。
それを、こんな慣れぬ身体と大きさの合っていない服で実行するのだから、随分と時間を必要とするのでは、とアスラは踏んでいた。
『森の暗闇は深淵に通ず』などという先人の言葉がある通り、この森は〈守り人〉にとって恵みであると同時に試練でもある。
熟練の戦士であっても、自惚れと慢心によって不意に緊張の糸を緩め、怪物らの餌食となるような例も珍しいことではない。
ゆえにアスラは油断なく音や気配を消しながら帰路についたのだ。
その為もあってか、早めに広場を出発したのだが…。
(かなり早くに海岸まで着いた…)
まったく計算外のことだ。
日が傾く位には着くか否か、とアスラは予想していたのだが、誤算であった。
日はまだかなり高い。
ともすれば、かなりの速度で移動したことになる。
若干の抽象性があるのは、アスラが森で少しばかり迷ったからなのだった。
幼少の頃より森の奥地に入るようなこともあったアスラは、当然森の地理に明るい訳であるが、どうにも身長が随分と縮んだこともあり、物の見え方に戸惑って、今一つ土地勘を発揮できなかったのだ。
ともあれ、この小さな肢体は思った以上に動けるらしい。
体力も、森を遁走できるくらいだから問題はないし、動いてみた感覚だと身体能力も存分にあるのだ。
一体この矮小な身体の何処にそんな力が込められているというのか、とアスラはにわかに胡乱な気分であった。
もともと、外界の人間と比べてこの島の民の平均的な身体能力は高い。
これは、外界の戦士――要は、賊どものことであるが――を実に二十年以上相手取って来て、アスラが感覚的に導き出した結論である。
この島の民の身体能力が高いであろう要因として、一つに技術があり、もう一つに恩寵がある。
戦士の文化があり、強者を崇拝する価値観のあるこの島では、島民は潜在的な身体能力を余すこと無く発揮できるよう、日夜鍛錬にてその術を刷り込んでいるのだ。
骨格や筋肉の知識といった基礎的なものから、それを推し進めた高等のものまで存在するその技法は、間違いなく〈守り人〉の戦士にとってのアキレス腱である。
そして、恩寵だ。
〈力の神の謎かけ〉などとされる修行を成した〈守り人〉は、我が身にパブ=ダ神の力の一端を賜る。
それがつまり〈力の加護〉、神の威光のひとかけらなどとされ、金剛力、駿足、堅強、戦士に必要なものを全て恵む。
生涯に困難は多く、死など茶飯の事態である狂った民族は、苛烈な試合、必死の果たし合い、病的な修行に生き残るべく、頑健な基礎に努力を積み上げるのだ。
そういった事実と照らし合わせた上で、この少女の肢体はどうか、とアスラは頭をひねった。
外界の同程度の筋肉、骨格をもつ人間と比較すれば、外見以上の優秀さであることはほぼ間違いないが、『この島の民』という敷居が高い括りにおいても、これはさすがに尋常ではない。
〈力の加護〉については、特有の感覚からして既に身にあると見える。
この少女の肢体が、元の肉体が変じたものとするのであれば、遠い昔に成したものを引き継いでいると考えられるが、そうなると良くない点が極めて多いというのがアスラの本音である。
これは我が儘ではあるのだか、そうであって欲しくはない。
話が逸れたが、なんにしても特筆すべき身体機能と形容していいだろう。
十分に鍛えた成人の〈守り人〉と対照したとしても、おおむね高い評価を下せるような印象を受ける。
無論、早合点はできないので、そのような可能性が高いという程度のものではあるのだが。
(いずれにしても、確かめる必要がある。
諸々とな…)
海岸線まで来れば、アスラの家まではそう遠くない。
後は、海沿いに歩いて行けば良いだけである。
ともすれば、随分と時間が余ったということになる。
日の傾き具合だと、夜の帳が下りるのはまだまだ先のことだ。
ならばどうするか。
そのまま家へと帰ってもいいし、晩の摘みを捕って来てもいい。
しかしながら、アスラの答えは一つであった。
(…剣を振ろうか)
折角それなりに動けそうな肢体を頂いたのだから、剣を振ろうというのである。
この肢体、正確にはこの肢体の心身についての考究については、一朝一夕ではどうにかなるものではないため、追々ということにせざるを得ないが、瞬発力や持久力、ひいては耐久力などについては、早い段階で目星を付け、精査する必要がある。
無論、ここ数年は病によって随分虐げられていたので、大いに運動をし、その鬱憤を晴らすという意味合いも少なからずあった。
だが、アスラという人間は、そんなものを抜きに剣を生業としてきた『剣客』である。
アスラは、腰の剣に指を這わせた。
気づけば、この闘争の島で剣に魅せられて幾星霜の年月が経っていた。
良くも悪くも、アスラにとりそれは無くてはならないものだった。
好きかと言われれば、最早そうでもなかった。
昔は光輝いて見えた優美な刃も、今は良く砥がれた凶器にしか思えない。
剣に生かされることも無論あったが、剣が呼んだであろう災禍に脅かされることもあった。
ただ、捨てられなかった。
剣の無いアスラ・カルナなど、およそ価値の無いものだったからだ。
正しくそれは、アスラの人生における中天にあり続ける灼熱の太陽であり、無二の恩寵であり、そして呪いだったのだ。
♢
剣は極めて正しき由緒のある武具である。
この島に剣士は多い。
なぜかといえば、武術の開祖であり、戦士の父とされる戦の神パブ=ダが、剣を得意とする戦士であるからだ。
パブ=ダ神は無双の神であらせられ、ありとあらゆる技と武器をおさめるが、うち最も大衆的で、印象深い伝承が残っているのが他ならぬ剣なのだ。
パブ=ダ神は、もとはただの人間で、法も秩序も無い時代を、木の枝を削りだした名もなき武器を手に闘った戦士であった。
雄々しい魂を持ち、清廉にして潔白なる心を持ったパブ=ダは、混迷の時流のなか、暴虐の徒とかしたものに憤り、しいたげられるものを憂い、弱きを助け、強きを挫く流浪をすることを、ある日立志した。
立ちはだかる無頼のものを、その武具ともいえぬ武具でたたきのめし、その終わるともない闘争のうちに、構えをつくり、技をあみ、力という概念を悟った。
ここで、最初にパブ=ダが創出したのが、剣の型であり、つまり剣技であったとされる。
天上の神々はパブ=ダの陰徳を見ておられた。
そして、その才知を驚いておられた。
武術とは神のみに許された御業であり、ゆめ、それが地上で興され、ただの一人によって振起されているなど、考えもつかない事象である。
神々は、この地上の戦士を涜神の罪のもとに罰することもできたが、そうはなされなかった。
下界の野蛮と暴力の混沌の中より、武術という天の光明を見出したという赫々たる功績と、その勤勉実直なる勉め方、またその技量の隔絶たること正しく神のごとく精良であると、神霊らはそれを褒めたたえ、いくつかの条件と試練を課し、それを合格するようであれば、この地上の戦士を神に召し上げることを決めた。
パブ=ダは採菓汲水に耐え、心頭滅却を尽くした果てに無事大悟へ至り、みごと神の座に召し抱えられた。
ここでパブ=ダが行ったとされる苦行が、俗にいう〈寂滅の八難行〉であり〈即身〉の試練である。
苦行の中の苦行とされ、その中でパブ=ダは現世の穢れを落とし、身を清め、神境へたどり着いたのである。
それにしても、パブ=ダ神の剣技の練り上げ方の素晴らしさときたら、神々も手放しで称賛せざるをえないもので、天宮の宝物庫より、ある強い権能を持つ神剣を貸付し、その力で持って、パブ=ダ神に地上の振興を幇助する役目を申しつけた。
ここで貸し下げられた宝剣が、かの有名な命を刈る無慈悲の鎌の剣であり、パブ=ダ神を剣士として印象付け、ひいては死神としての側面をかたちづくっている神器なのである。
ゆえに、剣は戦士の原点ともされる武具である。
有力な氏族には剣のわざを伝達してきた一派が多く、アスラらカルナ氏族もその例に漏れない。
ただ、カルナ氏でいえば、歴史的に見て槍や弓の名手の方が著名で、剣の使い手は、さほど武名が明るくない。
無論、近代に入り、アンラ=マンユ・カルナ、アスラ・カルナという不世出の剣豪を立て続けに輩出したわけで、剣の血族という印象も、ついてはきていた。
剣というのは武芸のなかでもとりわけ関心を集めやすい分野であり、また、それゆえに半端なものは武壇にて歯牙にもかけられず、痛烈な批評を浴びせられるということもままある、修羅の国でもあった。
そういう意味でも花形と称していい格式があり、数多の工夫と、研鑽によって、伝統が紡がれてきた気高い武器なのである。
先述の通り、現今において抜群の武勇の誉れを得た剣客が二人ある。
それが、剣鬼アンラ=マンユ・カルナであり、ここにある魔剣アスラ・カルナである。
両人とも悪名高いほどの剣狂いであり、戦の神に愛され、その天資を受けた戦士であった。
カルナの血の底に流れていた剣才を絞り固めて人の形に注ぎ込んだような俊豪ぶりは、まことしやかに、『生まれながらに剣の振り方を知っていた』などという噂がささやかれるほどだった。
それは半分正解であり、半分誤っている。
とはいえ、その片割れであるアスラも、生まれより剣を自在にあやつれたわけではない。
最初はまともには振れず、構えられず、ただふり回すだけだったのだ。
はるか、六十と余年の前の話である。
そんなアスラは、上半身裸で浜辺に立っていた。
片手に、鞘に収められた剣のみが握られている。
そこに往年の老戦士の姿は無く、つんとした美貌の剣士が物静かに佇んでいるのだった。
男にするにはたおやかで、女にするには凛々しすぎる、あまりにも中性的な印象である。
上背は、それほどない。
腰の位置は間違えたように高く、腹もとは皮下の筋が薄く見えるほどに引き締まり、つくりものめいた小さな顔が、絹のような黒髪をともなって、ちょんと首に乗っている。
雪のように白い首筋から鎖骨を伝って伸びた腕は、剣に添えられていた。
伸びた腕を突くふくよかな胸は、はりがあり、形が良く、美しいほどに美しい。
膝の半ばまで捲りあげられた黒染のズボンからは、すらり、と贅肉のかけらもなさげな、象牙のような、なめらかな素脚が覗いていた。
特に、アスラに露出癖はない。
自身の身体に欲情している訳でもなかった。
剣を振るうのに邪魔なものを取り払っただけ――今日に関しては服の丈が合っていないから脱いでいるのであって、日ごろから半裸で鍛錬を行っている訳ではないことを記しておく――なのだ。
心配といえば、日焼けが心配である。
アスラは剣の柄に手を掛けた。
柔い手の平が、荒い布の感覚を伝える。
ピラバガの脚の骨で拵えた頑強な柄だ。
その上に丈夫な布切れを巻きつけ、滑り止めとしてある。
アスラが剣を抜き放つ。
鞘走りの音が静かに鳴った。
湾曲した細身の剣身が太陽光を跳ね返し、粛と輝きを放っている。
刃渡りおよそ三十五エルデ。
柄まで入れれば四十五位であろうか。
業物ではあるが、銘は無い。
なかごに、細工を切ることができないからだ。
どういう意味かといえば、文字の通りである。
それほどの剛剣なのだ。
島北部の水底に口を開ける海の奈落『大海溝』、その底深くでのみ産出される特殊な鉄と、ある重要な神事に用いられる古い祭具――祭具とは名ばかりの、造形の希薄な鋳塊ではあったが――の一つを合わせ金にしたものを剣材にしてこのつるぎは鍛えられた。
この島においては通常、刀剣は作者の銘と共に柄の裏側に傷を彫りこむ。
彫り刀は四本存在し、それぞれが一定の端金を用いてつくられたもので、これらの彫り刀を力一杯引いて傷がつくか否かによって〈傷無し〉から〈四つ傷〉までの品評を行う。
アスラの剣は〈傷無し〉あるいは〈無銘〉と評価されるもので、『一の彫り』と呼ばれる最も鋭い彫り刀――八百年以上に前にうたれたもので、彫り刀でありながら名剣中の名剣とさえいわれる――でさえ傷をつけられないものである。
古い言い方をすれば、〈名を拒むもの〉や〈傷を退けるもの〉とも言われ、穢土では無上の武具であるという称号なのだ。
(実に久しいな。
気兼ねなく剣が振れようとは…)
アスラは、少しばかり高揚していた。
この肢体の運動能力は、先ほどの遁走から――驚くべきことであるが――それなりの領域にあると見た。
ならば、剣を振るうのには十分である。
少なくとも――こういうのも可笑しな話だが――晩年の頃よりかは、間違いなく高い。
アスラに、全盛期の頃のように戻りたいなどという我儘は元よりない。
全力で剣が振れる、そのことが何をおいても重要である。
微かに、風がざわめいた。
磯の匂いに混じって、甘くしとやかな香りがする。
アスラがいる位置は海岸線ではあるが、すぐ近いところまで森は根を伸ばしている。
いずこかで開花して散ったであろう赤い花びらの一枚が、ひらりひらりと森から泳いで、アスラを追い越して海へと飛ばされようとしていた。
アスラは、それをぼうっと眺めていた。
いっそ眠たげで、肢体は脱力を極め、剣はだらりと握られて大地へ伸ばされている。
実に、次の瞬間であった。
晴天のもとに閃いた紫電が、須臾の間に現れて花びらを捕まえた。
アスラが、剣を横なぎに振るったのだ。
花びらは、中央から対称になるように斬り裂かれて、再び風に乗った。
恐るべき手練の技である。
事実、剣閃のあまりの鋭さに、浜には一陣の風が吹き抜けた。
その剣風に煽られ、乾いている浜砂が宙に踊る。
波はかすかに弾け、白泡となって消えていた。
そして、胸が大きく弛んで、残心における重心が、図らずも大きくぶれる。
アスラは、苦虫を嚙み潰したような表情を浮かべていた。
巻きあがった砂塵が海風に攫われてゆく。
浜は再び静けさを取り戻した。
波の寄せる音だけがあたりを満たしている。
そんな中、胸の違和感を迅速に頭の隅に追いやったアスラは、つりぎみの眼をほのかに細めた。
(なるほどな…)
アスラにしてみれば、今の剣は、実に粗く、程度も悪く、あのように砂が舞い上がるようでは、到底及第ではない。
しかし、悪くは無かった。
身長が縮み、剣が相対的に長くなったことや、体重が低下し、躰が安定しないことや、胸が不可思議に膨れて邪魔なことを酌みしても、中々の手ごたえがあったのだ。
一本目から違和感よりも好感が勝るとは、これまた驚きである。
アスラは、地べたに点々と落ちている赤い花びらをもう一枚ばかり拾い上げた。
白い手のひらに乗せられた赤い花びらは、まるで滴った血のひとしずくのように見える。
顔前へと手のひらは持ち上げられ、軽い吐息がアスラの口から放たれた。
まるで、蠟燭を消すような仕草である。
花びらは小さな揚力を得て、空中に舞い上がった。
アスラの視界には、その花びらのみがあった。
周囲は暗い。
その動きの軌跡は、実に緩慢である。
脳裏に、仮想の動きを描き出し、それをこの小さな肢体に落とし込む。
アスラは今一度息を整えた。
胆の辺りに力を通す。
じわり、じわり、と力が満ちる。
意識が、身体が、感覚が、透き通り、それでいて充実していく。
澄みきった力が心の臓を通り、頭の頂を通過し、両の腕に至る。
指の一節にも欠けずに力が浸透する。
腕で握り込む剣をもが、身体の一部、延長された四肢となったような感覚がアスラを包む。
(よし)
アスラの剣が再び瞬いた。
今度は、連続である。
宙を舞う花びらが、唐竹、逆風、袈裟斬り、逆袈裟、と白い線によって撫でられる。
目では到底追えぬ速度であり、技を繋ぐ瞬間、その瞬きもできぬようなわずかな間に、陽炎のように鈍い光の刃が姿を現しては消える。
足さばきの流麗さは水のようで、アスラの足元からは、砂ぼこりがほんの微かにしか立っていない。
業の精度は、さきの打ち込みでも第三者からみれば凄まじいものであったが、それが一層と研ぎ澄まされ、無骨で飾り気の無い型であるのにも関わらず、それが舞踊のごとく感じられる。
驚嘆すべきことは、他にもあった。
花びらは縦に割られているのではなかった。
まして、横でもない。
薄くなっている。
鉋で木材をひくように、あるいは、果物の皮を剥くように。
剣で厚さを削いでいる。
意味の分からないことだが、花びらは次第に透けるようになっていっているのだ。
ひと薙ぎのごとに枚数は増え、その分だけ色は薄くなり、遠景がそこだけにわかに着色されているように見える。
技はそうしている間にも紡がれていった。
右の斬り上げ、左斬り上げ、胴、逆胴と、花びらの薄すぎる側面へめがけ、アスラの剣がはしる。
有り得ぬことだった。
最初の一太刀からして、刃の太さは花びらの側面よりも遥かに厚い。
仮に、木の棒などに花びらを乗せて、ある程度の固定ができたとして、そのようなことができるだろうか。
それを、宙に浮く、自由に風に乗る、ほとんど存在しないような薄い面へとめがけて、寸分の狂いなく斬撃を加えるなどと。
すでに、花びらは空の色を写していた。
滑らかすぎる断面は、日光をわずかに反射して、まるで天上の絹のようにきらきらと輝いている。
そよ風に浮く、鳥の羽毛のような、花の綿毛のような、重力を感じさせない体運びで、均整の取れたアスラの四肢が鞭のように、柔軟に、それでいて強靭くしなる。
翡翠色の瞳が、爛々と、まるで針の先のような鋭利な光を湛えている。
剣戟は、颶風のごとく熾烈で、そして春風のように静かだった。
しかし、鋭い。
あまりにも鋭かった。
花びらは、いよいよ無彩の花吹雪となって浜を舞っている。
細氷が光の悪戯で小さな宝玉の雨のごとく見えるように、そこには無数の星が昼夜の概念もなく散らされているようだった。
空気が、剣のまわりを逃げるように、触れてはならぬように避けて通る。
一方で、花びらはまるで、剣を呼んでいるようだった。
剣もその軌道に花びらを寄せるように、瞬く間に両者はまみえて、また離れてゆく。
浜に身を置けば、痺れるような、立ちすくむような感覚を覚えただろう。
あまりに幻想的な光景がそこで作られていたが、死の気配がねばつくように浜辺を覆っている。
無機質の、鋼鉄のような冷血さを秘めた研ぎ澄まされた殺気が、一振りのごとに剣尖より匂いたち、一帯の温度がその度に低くなっていくようにすら思われるのだ。
アスラのつんとした鼻筋の顔には、酷薄な笑みが僅かに浮かんでいた。
鋭い犬歯を赤い唇から覗かせた、恐ろしく獰猛な表情である。
こんなものは、アスラからすれば手遊びであった。
肩慣らしの遊戯だ。
いつか、外界の船乗りらにも披露したことがあっただろうか。
それにしても、やはり嫌いではない。
剣に惹かれる。
こんなことでも、割合いと面白いのはどうしてだろうか。
練磨を行い尽くして、その兇悪さに辟易して、軽蔑をしつくしたような分野なのだが、思い切れない。
ひとたびそれを握れば、奇妙な全能感が脳を焼く。
このために生まれて、これを極めるよすがとして人生があるのだと、確信めいた感覚が身を浸す。
アスラの指先に、実に微細な違和感が走った。
ち、ち、と舌打ちが二つばかり打たれる。
虚空を飛び回っていた鈍い色の光は、ぴたりと止まった。
アスラは無骨な剣を地べたと水平にして、刀身に空を写し込んだ。
蒼穹の色が曲線を描いて投影される中、鋒に何かが乗った。
綿毛よりも頼りなく、硝子よりも色の無い、クラゲの断片のようなものである。
実によくよくと見れば、ほんのかすかに穴が空いているようだった。
針でつついて開けたような極めて小さいものだが、確かに中心近くに風穴がある。
これは、剣線がぶれた証拠である。
アスラは、ふん、とつまらなそうに鼻を鳴らした。
(及第だな。
勘が鈍ってはいるが、こんなものだろう)
切先に乗った花びらが、風に乗った。
硝子細工のような儚い花ふぶきは、この世界に溶けてしまうように風の流れに消えてゆく。
腕試しは、取り急ぎこんなものだろうか。
アスラは改めて感心していた。
林中の遁走で薄々感じてはいたが、この少女の肢体は想像以上にできる。
単純な筋力という点では隆盛の頃の己と比べるべくもないが、少なくとも、アスラが数々の修行にて鍛えぬき、いじめ抜き、それに加えて成長によって体格が著しく良くなった、十代後半程度の頑強さと、しなやかさは備えていると見てよい。
これならば、仮に、賊どもが再び寄せてきたとしても、それなりに対応できるだろう、とアスラは心中で算段を立てた。
(まあ、確かに相当にうごけるが…)
アスラは、どうしてか気分が晴れずにいたのだった。
体調を気にすることのない運動は良いものだし、剣もまあ悪くはない。
しかしながら、どうにも名伏し難い情緒がある。
剣を握る手に視線を落とせば、あくまでも小さく、やわらかく、手首、上腕と視線を這わせれば、筋肉が無いわけではないが、やはり細く、少々頼り無いだろうか。
それを吟味して、実にちぐはぐで、歪な身体だ、などと心のどこかが罵る。
別に外観に見合わぬ力というのも悪いことではないし、幼子が優秀な身体能力を持っていても、良い筈だ。
世には、難しい事情の童があるのかもしれないのだから。
どうして、嫌悪感がある。
精神の奥底で、暗い感情が澱んでいるのか。
憤っているのか。
素直に喜べないのは、どうしてなのか。
(そうか…)
アスラは、ゆったりとした動作で剣を鞘におさめた。
漏れ出てしまったように、微苦笑が口元にたたえられている。
表情はあくまで穏やかだったが、どこかに愁いを含んだ湿り気がにじんでいるようだった。
その翡翠色の双眸には、彼方にある青の色が静やかに映されている。
アスラは、空を見ていた。
その先の何かを見ていた。
鞘を握るアスラの手には、かすかに力が籠っているだろうか。
浜は相変わらず美しく、あまりに穏やかだった。
波は優しく、一定の拍子で砂をそっと撫でている。
風も、爽やかだった。
しかし、アスラの耳には、優しい潮騒の音も、涼やかな風の音も、届いてはいなかった。
阿鼻の声が聞こえていた。
金属と金属が打ち鳴らされたような甲高い衝突音が、肉を穿つ刃の音が聞こえる。
ひどい腥風がふき、血潮の海が赤々と広がる光景が、アスラの眼前にあった。
無数の敵が絶え間なく押し寄せ、そのおびただしい数の暴力に、たった数人の戦士が気炎を吐いて、満身創痍のいで立ちであらがっていた。
忘れもしない。
幻視されたのは、この島末期の攻防だった。
(未練があるのだな…。
俺も…)
動ける肢体、戦える身体。
確かに望外の授かりものではあった。
ただ、今では無かった。
本当にそれが必用だったのは。
詰まらぬ男だ、とアスラは心中で揶揄をした。
このような奇跡があれば、きっと、あの戦は長きに渡ることもなかっただろう。
戦友も、長く穏やかな余生を過ごすことができただろう。
だが、そんな子供じみた妄想など不毛なのだと言い聞かせたつもりであった。
そのような逃避は何も生まず、傷に膿をもたせるばかりで、痛々しく、見るに堪えない。
加えて、戦争がそのような甘いものではないことは骨身に染みていた。
戦とは、『絵』なのである。
敵陣と自陣、最後にどちらが、思ったような全体像を描けているかという勝負。
つまるところ、小さな部分での勝ち負けは、大きな絵画を構成する色の点でしかなく、様々な絵の具が塗り重ねられるうちに、混ざり合い、溶けてゆく。
人の死など、戦という画布の上では、かすかな染みにしかならぬほどの些末な事象だ。
犠牲は対価であり、投資である。
そのような考え方が、冷淡ながら肝要である。
戦士にとってみても、『死』は絶対の恐怖の対象ではない。
天に召されるということは、浄土へ、パブ=ダ神の膝もとへゆくということ。
それは、古き教えに基づけば祝福のたぐいであり、嫌厭する事象ではない。
特段、戦や修行での死は勇気あるものの証であり、誇るべき落命だとされる。
戦士は、闘うために生き、また、死ぬために闘う。
その内で誉をえる人種であるから、散りざま一つにしても武張ったものが良しとされるのだ。
アスラも、それは重々承知している。
しかし…。
(死ねば、それまでなのだよな…)
それは、ある種の扇動だ。
臆する精神にかつを入れるための方便なのだ。
血が通った人間の感性では、とうてい受容できるものではない。
アスラは、数々の死相をみてきた。
苦悶、恐怖、無情、悲愴、いずれも陰惨なものである。
死は恐ろしく、痛みは辛く、諍いには身が竦む。
常に正しく、何よりも勇敢で、神にさえ届いた大戦士パブ=ダとは違う。
名誉の死など、きっとありはしない。
勝利の勝どきをあげても、すべてが煌びやかに修飾されても、悲傷は消えず、怨嗟は淀み、死者は黙して帰らない。
本当の幸福は、命の温かみによって生まれる。
死は、死でしかない。
冷たく、暗く、ただ悍ましい。
(下らぬ奴らだった。
野卑で命知らずな、馬鹿な連中だった…)
あの時、この島の地獄の中で、ちっぽけな勇者達が命を散らしていった。
誰にも語られない、何の記録に残るでもない、ただの衰えた男たちだった。
未来を託し、命は賭して、それでも志を捨てずに抱いて、運命に逆らうように奮戦したのだ。
技の冴えも、身体のきれも、既に全盛期をとうに過ぎ、積み上げた精神力と小手先の技巧のみでそれを支え、来る日も、来る日も、立ち上がった。
家族や友は既に逝き、霊木は半ば枯れ果てて、縋るもの無く、しかし、その家族や友が愛した島を、霊木を、命の限り守り戦うことは、まさに行き着く先のない道をひた走るような辛苦の日々である。
足搔きだった。
ささやかな抵抗と言ってもいい。
勝てない戦だった。
それは紛れもなく、戦の神が賜った、島の民が華々しく死ぬことを見つける場所だった。
アスラは、たった一人生き残った。
運がよかっただけのことだ。
だからこそ、血の味がするようだった。
誰もがあの地獄で、神に、精霊に、人ならざる力を持った存在に縋った。
奇跡が欲しかった。
神の導きが。
〈守り人〉の民を救済しうる、超常の意志が。
(なぜ、あの時ではいけなかったのか。
どうして、今、おれが奇跡を賜ったのだろうか…)
この天意は、やはり気まぐれなのだろう。
精霊樹の栄誉ある導きだとしても、身に余るような奇跡だとしても、それは遅すぎた。
神々は、ときおり善悪の分別の無い子供のように、残酷で、実に不穏当な側面を見せる。
まさに、『試練』などと耳障りの良い言葉を並べ立てて、人を弄んでいるのだ。
アスラには声が聞こえていた。
魂がゆさぶられるような声である。
強い決意と、命を捨てる覚悟を持った、威勢のいい掛け声である。
アスラは、空の彼方を見ていた。
その先の、神々の国を見ていた。
海風が、異様に強かった。
♢
時は、すこしばかり経過して夕刻である。
勇ましい陽光を放っていた太陽も、いよいよ沈む時が来たらしかった。
空は藍の色に、沈みゆく日は橙に染まっている。
青い中に溶けるように、朧げであった月の姿が、明瞭に現れ始めていた。
島を包む空気も、心なしか清涼を帯び始めている。
アスラといえば、森の入口に居た。
いましがた一通りの鍛錬を終え、森の入口にある小さな沼で行水をしている最中であった。
先の身体慣らしの鍛錬では、途中で妙に感傷に浸ってしまい、やや時間を無駄にしてしまったが、その後は有意義に過ごすことが出来た。
様々な型を試し、肉体と、アスラの脳内の感覚をすり合わせ、それなりに納得の行く段階まで慣らしをすることができた。
勘も、腕も、そこまで錆びついていないことが、なによりも嬉しいことだった。
アスラは、勢いよく沼の水面に頭を潜らせた。
黄昏の水場に大きな波紋が立ち、水草のいくつかが、その波に当てられて揺れる。
長く浜にいたせいか砂ぼこりを随分と浴び、長い黒髪はじゃりじゃりと埃っぽく、潮風を全身に感じていたためか、身体はいやにべたついていた。
水の中は黄金色のうすぐらで、外よりもひときわ涼しい。
水中で適当にぶくぶくとやり、頭を冷やす。
まとわりついていた汚れがきよめられていくのを感じる。
頃合いをみて、ぷはっ、とアスラはかぶりを振りながら顔を出し、水の滴る髪の毛をかきあげた。
程よく火照った肢体に、温度差が実に心地良い。
久方ぶりに思い切り身体を動かし、清々しい気分であるというのも大きかった。
この沼の水は実に澄んでいる。
飲用にすら耐えうる水質である。
行水にはもってこいの水場であり、事実、重宝されていた。
今となってはアスラ以外使用していないが、十年ほど前までは島でも有名な行水場所だったのだ。
森の奥に行けば水の澄んだ場所など幾らでもあったが、手軽に来れる上に危険の少ないこの小さな沼は、島民にとり気軽に行ける鍛錬後のオアシスであった訳である。
(いや、しかし、いやに白い肢体だな…)
と、アスラは水をすくいかけながら、己の身体らしいものを改めて見た。
染みも無く、傷も無く、あまり骨ばっていなく、そして丸みを帯びた、いかにも女性らしい肢体である。
とはいえ、アスラが今まで培ってきた感覚として、褐色ではない肌はどうにも心地が悪い。
血色が悪いように思えてならないのだ。
それに、すこしひ弱に見えるような気がする。
頭で、そんな下らないことを考えながら、要所を手で擦って洗ってゆく。
邪魔な乳の間は中々に蒸れるので、念入りに洗った方がよさそうだった。
こんなことになるならば、昔のつれや、妻に胸があることの注意点を訊いておくべきだった、とアスラはにわかに後悔をした。
腰を洗った流れで、アスラは股間に目が行った。
一度確認した所であるが、つるり、と何もない。
他人事のようだが、大した違和感である。
それなりに隆起のある身体のようだが、どうしてあるべき突起だけがないのか。
アスラにしてみれば、妻も既に逝ってしまった所であるし、何一つ使いどころのない物であったが、無くなるというのはいただけない。
家族に見せたら、どのように思われるのだろうか。
笑われるような気もするし、何やら軽蔑されるような気もした。
この身におきた変化を、懇切丁寧に説明する手間が省ける訳であるから、案外、孤独というのも悪いことばかりではないか、とアスラは肩をすくめた。
次いで、髪を洗った。
水を手で掬い、撫でるように洗うのである。
島民は髪を大切にする。
髪は、島の民が崇拝する戦士の神が長髪であることはもとより、精霊様の加護を最も強く受ける場所であると伝承されており、霊力の源らしいのだ。
故あって、島の民は例外なく長髪である。
かくいうアスラも、どの年代でも艶のある黒髪を腰ほどに伸ばしていたのだが、今に至っては、身長が縮んでしまったせいで、髪の先端が太ももあたりまで達してしまっている。
これは、さすがに長い。
髪を切るのは一種の儀式であり、年始の月の満ちた日に行うのが常である。
今年は始まったばかりのため、しばらく待つ必要がありそうである。
髪の編み込み方によっては幾らでもやりようはあるのだ。
ややあって全身を洗い終わった。
アスラは水から上がった。
水滴が、髪や身体を伝って落ちてゆく。
手ぬぐいを引っ掴むと、乱雑に身体を拭く。
心なしか肌がヒリヒリしているような気がする。
途中で何度か絞り、四度絞る頃には拭き終わった。
髪は当然乾ききらないので、編まずにおく。
アスラはブカブカの服を、スポリ、と被ると、ズボンは履かずに家へと歩き出した。
♢
アスラの家は、島の集落の跡地にあった。
跡地というのは、アスラ以外人が住んでいないからである。
海岸から少し歩くと、高台になっている場所へと着く。
そこが集落の跡地の一つであり、アスラの家がある場所であった。
島の集落は全部で六つあり、海沿いにそれぞれ点在していた。
アスラらが暮らしていた集落は島の南側にあり、賊たちの相手をした回数が最も多い集落であった。
島では一番大きな集落だったが、今となってはアスラ一人である。
というよりも、島にはアスラ以外人がいないのだから、今となっては集落も何もないのだが。
アスラは人気のない集落を、トボトボと歩いていた。
石造りの家々は、もう随分と手入れがされておらず、苔むしている。
黄昏も終わり、闇夜の暗さを存分に落としこんだ石の家並みは、少なくない寂しさを抱かせる。
ほぼ均一に十年程前に空き家となったのである。
他ならぬ、死班病にやられたのだ。
屈強な戦士達も、そうでない者も、皆亡くなった。
あれは、悪夢の具現であった。
もがき苦しむ訳でもなく、悲鳴を上げるでもなく、ただ、ただ、仲間や家族が弱って行く様は、地獄絵図と云わずしてなんと表せようか。
アスラには、一生忘れられそうになかった。
(神の御加護は、我ら〈守り人〉にはなかった。
定めであったのかもしれぬな…)
と、アスラはそんなことを考え、細い顎をやんわりと撫でた。
程なくアスラは家に着いた。
西側の家から数えて、十二軒目がアスラの自宅であった。
他と同じで、石造りの頑丈な家である。
唯一違う点があるとすれば、幾らか生活感があることくらいであろうか。
家族が全ていなくなってから久しいが、一人でも住んでいるのといないのでは、随分の差があるらしい。
もっとも、外観は他とそれほど変わりはないのだが。
玄関の布を捲りあげて、アスラは自宅の中に足を踏み入れた。
ブーツを脱ぐと、床に敷かれた簡素な絨毯の上にどっかりと座りこむ。
結っていない髪が、フワリ、と床に広がった。
惣暗の闇を、四角の窓から流れ込む月光が静かに切り裂いている。
今夜は、満ちの月である。
アスラは、しばし月を観賞した後、火打ち石を打って、壁に挿してある松明に火を付けた。
室内が橙に薄く染められ、キシの実の油の匂いが立ち込めた。
アスラは、ふう、と息を吐くと、反対の壁まで行き、酒壺の蓋を開けた。
トックウッドの実から取れる液体を醸してつくる、穀物酒である。
死ぬ前に飲もうと残しておいたものだ。
木の椀で掬い取り、一口煽る。
口内に、甘く、辛い、トックウッド特有の風味が広がる。
舌の上で酒が転がり、ストン、と喉へと落ちて行った。
じわり、とした熱が腹の中に生まれ、鼻孔を爽やかな余韻が突く。
(うむ、飲める。
美味い)
身体は酒を拒否しなかった。
まず、アスラはそれに安堵した。
受け付けない可能性も、否定はできなかったのだ。
旨い酒だ。
飽きる程飲んだものだが、今は格別の名酒のように感じられる。
二口目を煽って椀を空にすると、もう一度掬って、グビリ、と一口に飲みほした。
酒壺からあと一杯だけ掬い、蓋を落とした。
一度に飲みきってしまうのは、勿体ない。
酒など最近は作っていなかったので、今ある酒はこれのみである。
思わず椀が進んでしまうが、一先ず我慢である。
最近は体調のせいか、酒なども気持ちよく飲めなかったが、体調が改善されたためか、あるいは久方ぶりに気兼ねなく口にできるためか、実に旨く感じられる。
アスラは部屋の奥に行き、皮の包みを開けると、中に入っていた燻製の肉を数切れ出した。
良い時間なので、夕餉にしようというのである。
鍛錬の後の飯は、定番であり、また美味だ。
それに勝るものといえば、家族で囲む飯ぐらいなものである。
水壺から柄杓で鍋に水を張ると、石を打って火に掛けた。
干した海草と香草を沈め、出汁を取る。
煙は家の構造上外へと逃げるので、煙くなる心配はない。
しばらく放っておき、煮立つのを待つ。
干し麺麭が少し残っていたので、それも出しておく。
幾らかすると、鍋が煮立ってくる。
ツンと鼻をつく馨しい香りがある。
香草を取り除くと、煮立つのを待っている間に取って来た、エベの根と、セルウ草、ココカキの実を入れる。
いずれも、近くに生えているものだ。
エベの根は苦味が強く癖があるが、ココカキの実と共に食べると、これは格別の味である。
セルウ草は、単に味がよく、身体にもいい。
竈に薪を放り込み、火力を上げる。
パチパチと、音を立てながら新しい薪が燃える。
最後に干し肉を投入し、塩で味を整えた。
後は、煮込めば完成である。
アスラの髪が乾ききる位に、スープは完成した。
実に食欲をそそる匂いである。
鍋を火から下ろして、鍋敷の上に乗せた。
木のレンゲで椀に掬い、味見をする。
(うむ、美味い)
スープは良い出来のようである。
舌をベーっと出しながら、アスラは頷いた。
汁が少々熱く、舌が火傷気味になったのは情けないが、どうにもやや猫舌になっているらしい。
スープと、麺麭、酒を並べると、夕餉の出来上がりだ。
絨毯の上に座ると、アスラは目を瞑った。
島の風習である。
糧になってくれた食材に感謝をするのだ。
この弱肉強食の縮図のような島では、こういった考え方が普通である。
故に、飯は決して残してはならない、というのも常識だった。
感謝の黙想を終えると、早速頂いた。
待ちきれないような気持ちもあった。
スープを、ふぅーっと冷まし、一掬い飲む。
シャク、シャク、と具材を噛みしめた。
やはり、良い味である。
ざっくりと斬った苦味のあるエベの根と、柔らかい風味の紅いココカキの実が口で踊る。
香草の風味が余韻として残り、セルウ草の爽やかさも漂う。
柔らかくほぐれた干し肉も、出汁を存分に吸い、噛めば噛むほど旨みが染み出る。
麺麭を汁の中に浸し、柔くすると、これも美味い。
そして、椀に掬ってある穀物酒を一口。
辛口の、ぴりり、としたこしのある風味が、溶けるように喉を過ぎる。
(ああ)
至福だった。
これ程美味に感じられる食事はいつ以来だろう、とアスラは思った。
作った分のスープを全て平らげ、酒も三杯おかわりし、食事を終えた。
腹一杯である。
元々アスラは少食で有名であるが、久々の健康な食事はそれを置いても甘美なものであった。
結果、酒が底を尽くという不可抗力もあったが、これは致し方ないか。
全て飲むつもりはなかったのだが、少々押さえが効かなかったのだ。
酒の風味の残る椀に水を掬い入れ、アスラは、グビリ、とあおった。
食後の黙想をし、片づけを始めた。
当たり前のことが、ただ有難かった。
♢
アスラは、家の外へ出ていた。
飯の片づけを終えたので、寝る前に夜風に当たろうというのだ。
剣の検めは先ほど終えていた。
夜は存分に更けている。
満天の星が、闇のとばりに散りばめられていた。
湿り気のある海風が、威勢のいい音を立てて吹いている。
下の切り立った岩場には、大きな波が打ちつけ、飛沫を上げているのが見える。
少々波風が荒い。
明日は嵐かも知れない、とアスラは思った。
アスラは風に吹かれながら、今日は不思議な一日であった、と思っていた。
寝起きは良くは無かった。
悪い夢を見た。
例の、暗闇を俯瞰する夢だ。
具合が悪くなった時、精神的に疲弊した時、まるで抵抗力を失った五体に侵食する病魔のように、その悪夢は夢枕に入り込んだ。
ただ、いざ起床すれば体調は思いのほか悪いものではなかった。
長い戦いを演じていた病魔が、今日は碌に活動していなかったのだ。
アスラは、しめた、と思い、鎮痛の薬湯で口を湿らせると、剣を佩び、ふらふらとした足取りで森に向かったのである。
森の獣共には、大して合わなかった。
それでも、流石に体力は殆ど底をつきかけていた。
今思うと、いつ食い殺されてもおかしくない状態で、森の深部によく辿り着けたものだ。
広場に到着すると、久しぶりの日向ぼっこに興じ、程もなく仮眠を取った。
精霊樹に、旅がしたい、などというふざけた願いを託して。
しかし、あの夢。
また、あの夢だ。
悪夢と言って差し支えない暗澹としたものだが、腐れ縁とでもいうべき長い付き合いではある。
あそこまで深く夢に浸ったのは、久方ぶりだった。
記憶の底に堆積した陰鬱で醜悪な思い出の、泥のような、淀みのような濁りの中をさらに進むと、暗闇に満ちた水へと潜ることができる。
深く、深く、身を沈めると、底には何故かまた水面がある。
色の無い水面が。
そうだ。
断片の記憶しかないが、声が聞こえた。
あの場所へ行くと、必ず彼女の声がする。
ここへは来てはならぬと、現世へと呼び返す声がする。
きっと、あの声がなければ戻れない。
そして夢から覚めたら、どうしてか女子になり、若返っていた、という訳である。
言葉にすれば、なんと滑稽なことか。
ここだけ切り取れば、悪夢を見ると、人は女になってしまうのだ、というような論評もできよう。
無論、これは冗談ではあるが、あの夢も、何やら人生の重要な局面で度々目にするような気がしてならない。
それほどに、頻度が高いということでもあるのだろうが。
この世に起こる事物の全ては、天の神の御意思によるもの。
酷い理不尽もそうであるし、翻って思いもかけない僥倖も、神の視点から見れば、雑然とした帳尻合わせの一環でしかない。
アスラの身に起きた奇跡も、当然、何かの意味を持っているのだろう。
老いぼれた屑を一人ばかり若返らせることの意図は汲めないが、アスラ・カルナにはまだすべきことがあるらしい。
旅に出るということが、きっと進むべき道しるべになる。
それは、アスラがあのような願いのもとに奇跡を賜ったことからも明らかである。
しかし、見聞を広めるべきことは多い。
最たるものが、外界から見たこの島のこと、そして当時世界で何が起こっていたのかということ。
〈守り人〉という民の最後の生き残りとして、その因果だけは、どうしても把握する必要があるとアスラは思った。
この島を攻めた意義、寄せた連中の目的、その背後にあるであろう巨大な思惑。
突然降ってきた戦火は、二十と余年にも及ぶ、長い長い期間に渡ってくすぶり続けた。
島を落とさんと向けられる兵の数は、無尽に等しい物量だった。
武器も、防具も、乗り物も、呪い師という人材も、ただではないだろう。
恐らく、一つ、二つの共同体が意思を共有したのではない。
膨大な、それこそ何か『世界の一部』と明確に言及できるほどの人々が、その志を胸に抱いて、この島に出征したのだ。
特に、復讐の意図はない。
死んだものは帰らないし、滅んだものも戻らない。
ただ、どうしても、アスラは冥府の同胞らに伝えたかった。
妻へ、息子へ、娘へ、そして彼女へ。
我々が滅んだ裏にある真意を、この世界の理の下に幕がおろされた、この島に秘められた何かを。
アスラは細い顎を手で数回撫ぜると、
(さて、何にしても準備を進めねばならぬな…。
順序立てて、拙速に行動に移すべきか)
と、実にさばさばと、頭の中で考えを纏め上げた。
アスラは暫く風に当たっていたが、程なくあることを思い出し、家の裏へと向かった。
家の裏は殺風景なものだった。
薪を置いておく倉は前にあるし、井戸などはもとよりない。
端的にいえば、そこは断崖だ。
ただ、藍の海原が一望でき、瞬く星の垂れ幕があるのは、風情があるといえば、そうであろうか。
僅かに草が生えてはいるが、峻厳な岩がゴツゴツとしていてあくまでも荒涼である。
崖の形に添うように、五本の木の棒が並んでいた。
薄い月光にやんわりと照らされ、淡い影を湛えている。
雨風に吹きさらされている筈だが、よく手入れされており、傷みは少ない。
それぞれの根元に、赤い花が挿してある。
一説によれば、花言葉なのか、何なのかは良くは知らないが、幸せの象徴だという花だ。
他ならぬ、アスラが挿したものであった。
なにかといえば、これらは家族の墓である。
一日に一回ここへと来るのが、アスラの日課であった。
家族が亡くなって以来、欠かしたことはない。
今日は墓参りに来ていなかったことに今しがた気づいたのだ。
アスラはゆっくりと墓に近づくと、その一本に手を当てた。
墓が大きくなった気がしたが、そうか、身体が縮んだのであった、とアスラは笑った。
まだまだ、この身長には慣れそうもない。
墓から手を離し、一歩下がると膝を折り、目を閉じて祈った。
死者の魂は、精霊の樹の周りを二周すると、天へと昇り、神々らの住まう楽園、つまりは浄土へとたどり着くらしい。
穢れのない、苦しみのない場所。
魂の安息地。
辺り一面に清らかなる泉が広がり、美しい金色の蓮がそこに咲き誇り、色鮮やかな蝶が虹の光のようにその間を飛ぶ。
白亜の宮殿には神々がいまし、浄土の霊魂をねぎらっては、下界を覗いておられるらしい。
不安はなく、欲求はなく、恐ろしき死はない。
閑かで、穏やかで、凪いだ水面のように澄んだ世界。
そこで魂らは俗世の穢れを落としきり、赤子のように無垢で美しい心を得ると、また新たな生を受け、地上に再び生まれ落ちるらしい。
精霊の樹の膝下に満ちる聖なる泉は、水底で天の国の河と繋がるとされる。
神々らは純白の魂を蓮の葉で包み、祝福と共に星屑の河へと流される。
天から落ちる煌びやかな星の流れがこの現世につながる夜、〈守り人〉の民は霊木の根元に湧く、命の泉より産声を上げるのだ。
今や母なる霊樹は朽ち、命の泉は枯れて果てた。
天の国より、新たな〈守り人〉は流されてはこない。
常識が、秩序が、理が乱れている。
浄土は、変わらずに安穏だろうか。
死んでいった同胞は、友人は、家族は楽にしているだろうか。
アスラは、死後の世界などのことは分からない。
半ば、信用していないようなきらいすらある。
しかし、今ばかりは信じて祈る。
祈ることしかできない。
魂の安息を。
この現世は、なんと惨く、厳しく、不平等なことか。
心根の優しいものからたやすく命を摘んで、一方で小賢しい輩をこそのうのうと生きながらえさせ、邪悪な存在をさも魅力的に演出し、罪もない、歪みもない、朴訥な感性を持つ人らが、傷ついて、亡くなってゆく。
これは、どだい説明できるような感覚ではない。
憤りでも、悲しみでも、達観でもない。
無念だ。
ただ、無念であるだけだ。
――おとうさん!
アスラの脳裏に、満面の笑みを浮かべる少女の姿が浮かんだ。
頬に浮かぶ笑窪が可愛らしい。
静やかに細められた目元は利発そうだったが、どこか己の面影があった。
(すまない)
アスラは程なく立ちあがり、海原の彼方を覗いた。
洞々とした水面の彼方に、波が立ちあがる。
白い飛沫を孕んだそれは、月明かりを浴びて、輝いているようにも思えた。
ふと、アスラの視界に赤いものが映った。
花びらである。
墓に挿してあったものが、風で散ったのだ。
海風に煽られたそれは、天高く飛んでゆく。
光の加減で、一瞬鮮やかに咲いて、夜の闇に溶けていった。
――父さん、また剣を見せてよ!
少年が、赤い花びらの草原を忙しそうに駆けている。
手には、簡単なつくりの木剣が握られていた。
優しそうで、どこか繊細そうな面立を、夕日にさらしながらはにかんでいた。
(すまない)
――あなた、あまり刺激の強いものは見せちゃダメよ。
窘めるように声が続いた。
逆光で少しばかり見えづらかったが、女性が困ったように笑っていた。
花畑から摘んだ赤い花の束が、大切そうに抱かれている。
そして、女性の腕から海原へむけて、花びらのひと房が風に乗って飛んでいった。
記憶の女性は、軽くかぶりを振って赤い花びらの軌跡を追った。
花びらは、遠く、遠く、飛ばされていった。
――赤い花は、幸福の花なんだってさ!
溌剌な声が耳をよぎる。
赤い花ふぶきの中に佇む、茅色の髪の人影。
ひるがえって、花が咲いたように、にこやかに笑う太陽の少女。
ついぞ、アスラはなんの論拠があって、赤い花を幸福の花と断じているのかは分からなかった。
明るく、温かい、不思議なひと。
もういない。
誰もいない。
遥かな海原の先を望んで、アスラは呟いていた。
「そろそろ開花の時期、か…」
続けて言葉が紡がれたが、それは闇へと散っていた。
強い海風が、その呟きを何処か遠くに運んで行く。
アスラはそれきり何もいわず、ただ、静かに海を眺めていた。
用語集
・傷無し
島における最上の武具に与えられる称号。
鍛え終えられた武具は最後の仕上げに、金の端に等間隔に傷を彫り込むという作業がなされる。四本の掘り刀を用いてその工程は行われ、わずかな深さで、かつ力いっぱいに引いて武具の強度を試す。
彫り刀は、一の彫り、二の彫り、三の彫り、四の彫りの順に用い、傷がつかなくなった時点で作業を終え、傷の少なさが即ち武具の等級を示すことになる。「二つ傷」は相当な業物、その上の「一つ傷」といえば稀代の名物という評価が下される。
しかし、ごく稀に。神のいたずらのような確率で、現世において最も鋭い剣のひと振りといわれる一の彫りでさえも刃をたてることができない武具が鍛え上げられることがある。それこそが「傷無し」であり、この地上における無二の武具であるという「証の無い証」なのである。




