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序章(2) 悪夢

 暗い水底に沈んでいくようだった。

 深く、深く、落ちていくようだった。



 ♢

 


 暗い場所だった。

 音も、光も何もなく、そこには墨をいたように黒いうろが広がっていた。

 空は暗澹あんたん(かげ)り果て、地平は垂れ込めた闇によって見いだせない。

 何かの中のようでもあり、野ざらしの外のようでもある。

 冷たく、静かな場所だった。

 風は無く、何かが触れ合うおとも無く、生き物の息遣いすら聞こない。

 ただ、水滴の落ちるようなだけが時折鳴っていた。

 闇はたまに蠕動をするように蠢いて、つつくらを揺らしてかき混ぜ、その余波で空間に濃淡が起き、波紋のようなものが静かに伝っていくようにも思われる。

 雪もなく、霜がおりているわけでもないのに、嫌に涼しく、底冷えするような、妙な液体が満ちているようだった。


 一色の黒の中に、その色が微かに薄くなった部分が、いつからかあった。 

 それは、いずこからか流れ着いた漂流物のようだった。

 どうにも、人らしい。

 浅黒い肌をした老翁だった。

 闇色の水面(みなも)に、音も無く浮かんでいる。

 (しかばね)のように見えた。

 体格こそ大きそうだが、肋骨は明瞭に骨ばって浮き上がり、皮膚は干からびて細かく裂けた地べたのようにしわが折り重なっている。

 顔と胸元以外は黒い色に(ひた)されてみえず、黒の中でひときわ目立つ霜の降った長い髪の毛が、墨につかるように闇に落ちていた。

 身じろぎもせず、かさついた唇は呆けたように開かれて、落ちくぼんだ翡翠の瞳が、四方に満ちる暗闇を大した意思もなく漫然と映しこんでいる。


 どれほどの時間が経過しただろうか。

 その暗闇に浮かんでいる老翁ーー男が身じろぎをしたように見えた。

 色の無い波紋が、かすかに広がる。

 男には、息があった。

 正確には、意識らしきものがあった。

 長い長い夢から醒めたような気分だ、と男は思った。

 僅かな安心感と、ほのかな夢の残り香と、形容しがたいような寂寥(せきりょう)感がある。

 また戻ってきた。

 また、また、と男は頭の裏側でうごめくような意思を持たない思考でそう考えた。

 男には、先ほどまで自分が何をしていたのか思い出すことができる。

 一方で、自分が誰なのかを思い出すことができない。

 ただ、使命を帯びていた。

 大きな、大きな使命である。

 それを成すために現世(うつしよ)へと生まれて落ちたのだ。

 

 赤子(あかご)()き声が男の頭の中で響いていた。

 それは産声(うぶごえ)のようだった。

 己の子供のものではない。

 しかし、どこかで親しみがあり、血の中にその記憶が溶けているように思われる。

 収拾しようにも、薄く、薄く引き伸ばされて、到底すくえない。

 ()く、()く、()く。

 どうして()く。

 なぜこの子は()くのだ、と男は思った。

 赤子は泣くのもの、ましてや産声をあげない子供などいないのに。

 

 赤子はどこで()いている。

 嫌に静かな場所だ。

 声の反響は無いが、どうしてか明瞭に音がひびく。

 なんと暗い場所だろう。

 何一つとして色が無い、その子以外は。

 その子は、闇に浮いている。

 たった一人で、哭きながら漂っている。

 どこだ。

 どこだ。

 男は、知っていた。

 ここで哭いている。

 いや、ここで()いていた(・・)

 ずっと、ずっと昔に。

 

 赤子のそばに、何者かの姿があった。

 背丈も、恰幅も、装いすらも朧げな、影のような、それでいて周囲の闇よりも少しばかり明るいような、妙なものだった。

 そのものが、赤子に触れた。

 腕らしき部位も、酷く(かす)んでとらえられないが、男は確かに触れたと感じた。

 なにやらひと言ふた言口にしたが、言葉は宙へと消えている。

 赤子の()き声ばかりがそこにあるように思われる。

 

 ただ、男は知っていた。

 そのものが誰であって、何の言葉を紡いだのかを。

 名など知る由もなく、素性も、なぜこの空間にあるのかすらも不確かな存在ではあったが、男はその双眸を覚えていた。

 頬に触れた手は酷く冷たく、無骨であった。

 それこそが、男をさかのぼった時に行き着く原点だった。

 かすれた言葉で、願いを託された。

 後がないのだと。

 どうしても、それを成さねばならぬのだと。

 頼んだ、頼んだぞ、とそう言われたことを記憶が伝えていた。

 

 繰り返すが、男は今まで己が何をしてきたのかを思い出すことができた。

 人を殺してきた。

 実に多くの命を冥府へとおくってきた。

 ここの闇に積み上げても、あるいは小島のひとつはできるだろう。

 例の、()いている赤子は、男の記憶の中でいまだに声をあげている。

 殺生のことを考え出した途端、その赤子はいっそうと()きじゃくった。

 ちぎれて枯れそうな幼い声が、頭の中に反響して響き渡る。

 黒い景色がぼやけて揺れ、金属音のような耳鳴りが驟雨のごとく男をたたいた。

 天地が揺れるようにうごいて、空間という概念すらも消え果てて、男は闇の中へとただ放り出された。


 暗く、ひたすらに黒い闇だけがそこにあった。

 地べたのようなものがあり、足がつく。

 温度は感じない。

 ぬくもりはなく、冷たさもない。

 視界の端に赤子はいた。

 しわくちゃの顔で、小さな口で、声を枯らすように()いている。

 男は、いざなわれるように足を進めていた。

 鏡を打ち砕いて妙な角度になったその破片で、世界をバラバラに歪んで捉えているような断片的な視界のまま赤子のもとへ歩く。

 その度に、男の風体は変わっていった。

 枯れ木のような老爺は落ち着いた初老の大男に変わり、それもすぐに長身の美丈夫にかわり、いつしか男とも女ともつかないような線の細い少年へと遷移した。

 あと数歩、もう僅かで赤子に手が届く。

 そうして、突然、男は頭痛に襲われた。

 脳の奥に赤く熱された鉄の延べ板をねじ込まれたような、筆舌に尽くしがたい苦痛が唐突にそこへ生まれいでたのだ。

 途端に視界は不明瞭になり、五体の感覚などは機能を麻痺し、赤子の声さえ耳へと届かない。

 ただ、そこへ別の声がする。

 冷然とした、しかし、まるで血を吐くように切迫した声がする。

 まるで、泣哭(きゅうこく)だ。

 男はかぶりを振った。

 自己の基底にあって、様々な色合いをつくってきた、心か、あるいは精神のようなものから、何かが引き剥がれる音がした。

 糊付けをしたものを無理やりに剥離させるような、糸を引きちぎるような、塗料をこそぎとるような、耳障りな音がする。

 猛毒を摂食してしまったような、拒否反応めいた猛烈な吐き気が、肺腑が挟まれて潰されるような息苦しさが、肌の一切が(あわ)立つような激甚な悪寒が、一斉に五体を蝕む。

 しかし、男は不思議であった。

 どうしてか、胸がすく。

 思考が、思想が、晴れやかになるのが分かる。

 まるで、心中の異物が除かれていくように思えるのはどうしてなのか。

 全てが(すす)がれてゆく。

 乱雑に置かれた物品や調度品を一斉に処分して、部屋を整然と掃除したときのような、不必要の無駄を省くような、痛烈な清々しさが、身を包む。

 耐え難い痛みと苦しみは、しだいに穏やかさに転じている。

 落ち着く。

 なんと(しず)かなのだろう。

 ただ、凪のように安穏あんおんである。


 記憶が溶けてゆくのを感じた。

 心にある底が抜けて、大事に貯めてあふれていた思い出が、次々に流亡してゆく。

 濁流にのまれて跡形もなく流される木っ端のように、それらは暗い闇に落ちて消えた。

 止まらない。

 どうしても抑えることができない。

 しかし、急速に漂白される意識の中、何かがわずかにひっかかった。

 激しい瀑布の川べりに、偶然、流木が石などに留められるように、その思い出は本当の瀬戸際で、心中にどうしてか残っていた。

 かすかな温度を、そこから感じる。

 暗闇の中に、淡い光が漏れて出た。

 少女が笑っている。

 脇で、少年が。

 女性が、吾子(あこ)が。


 なるほど、大したことのない、どこにでもあるような人生の記憶だった。

 快活な、明朗な、笑い声がする。

 緑の草原で、赤い花の畑で、木漏れ日の注ぐ森の中で。

 何某かが、微笑んで、笑って、はにかんでいた。

 特段の意図もなく、起伏もなく、漠然と平穏な日常を切り取ったような、そんな陳腐な映像だ。

 男の名を呼ぶ声が聞こえた。

 短い名前。

 なんの変哲も無いよくある名前を、気安く、どこか親しげに呼び止める声がした。

 それは、あっけなく終わった。

 あたたかな余光のように、男の心象の中に漂って、名残惜しくもすでにない。

 赤子の声は止んでいた。

 頭痛も、悪寒も、耳鳴りも、まるで最初から存在しなかったように、全く無くなっていた。

 気づけば、男は再び暗闇の水の上に浮かんでいる。


 お前は何をしていた、と男は誰ともなく(ただ)した。

 人殺しをやっていた、と己は(いら)えた。

 それは、そうだ。

 きっと、それを得手として現世に生を授かったのだ。

 外道になるべく、生まれて落ちたのだ。

 だが、それだけか。

 確かにこの暗闇に亡骸の山を積めるほどに、人を殺めた。

 (おぞ)ましい足跡。

 呪われた生涯。

 だが。 

 だが、それだけではなかった。

 それだけでは。

 

 水滴の音が鳴った。

 何かが、流れてゆく。

 流してもないのに、この黒の中を流れてゆく。

 男は、闇色の天井に己の姿を映し見ていた。

 暗い鏡には、睫毛(まつげ)の長いつり気味の緑眼(りょくがん)が目を引く、華奢でひ弱そうな少年が映し出されている。

 よく見れば、胸元には尋常ならざる様子の傷跡が、痛々しく残っていた。

 男は不意に、己の薄い胸板を撫ぜた。

 なるほど、冷たく、静かだった。 


 男のすぐわきを、何かが流されていった。

 人だ。

 血色は悪く、四肢はこわばり、顔には物言わぬ死相が張り付いていた。

 亡骸(なきがら)だ。

 一人、二人、三人と、川上らしきところより下ってくる。

 男には、彼らに見覚えがあった。

 ただ、誰かは判然としない。

 分からないが、きっと同胞か、友達か恋人か、親しいものらであった気がした。

 

 いつしか、闇の中に山がそびえていた。

 大きな山である。

 黒の濃淡で、かすかにその輪郭をうかがうことができる。

 綺麗な成層の格好をしているようだったが、どこか歪に感じられる。

 山の(いただき)に、一筋の光がさしていた。

 この晦冥(かいめい)の中にあって、そこだけに色がついて見える。

 恐ろしいほどに清澄(せいちょう)な光だった。

 白いといってもなお白く、透いていると形容しきれないほどに澄んでいる。

 

 男は黒い水からあがって、山の岸に足を踏み出した。

 酷く寒い。

 肢体(したい)はこわばりきっている。

 男はもろ手を軽く振るって水けを飛ばし、吐息でかじかんだ指先を温めた。

 裸足の足裏には、冷たく、柔らかく、しかしどこか骨ばったものが折り重なっている、酷く不快な感覚のみがあった。

 長い髪から、黒い水が幾滴も滴り落ちて、その黒い山の地べたのようなものへと落ちている。

 男は、山の頂を睨みつけた。

 天より注ぐ細い光で、微かに山肌の一部が伺える。

 その山肌らは、何かに怯えるように(まなこ)を開き、赤い血を流していた。

 


 ♢



 夢と現実の狭間で、懐かしい声がこだましていた。

 アスラ、アスラ、と呼びかける声がする。

 太陽のような温もりのある声。 

 もう居ない筈だ。

 己に呼びかけることはない筈だ。

 胡蝶の夢だろうか。


 起きねば、と男は思った。

 もう夢から醒めねばならぬのだ。

 彼女の姿を、微かな光のなかに見出すことができる。

 深い海の底から、水面のマダラ模様の光の散乱を目にしたようで、それは酷く不安定なひかりの束だった。

 そうだ。

 もう体を起こさねば。

 こんな所へと、もう(・・)来てはいけない。

 アスラは、水底から浮上するような感覚を受けながら、その光の方へと体を委ねた。



 ♢



 頬を、風が撫でるのを感じた。

 ほのかに土の匂いも混ざった湿潤な空気が、鼻孔から肺腑へと送られる。

 目の上に乗った瞼が遮ることのできなった光が、暖かな色になって閉じた視界を染めている。

 何時もなら病のおかげで(むせ)かえりそうな所だが、不思議とそうはならない。

 まどろみの余韻を味わいながら、アスラはゆっくりと意識を起こした。


 瞼を上へと押し上げ、視界を開く。


(……む)


 眩しい光がじりじりと眼球を照らし、アスラは再び瞼を中ほどまで引き下げた。

 半分の視界には、円状に開けた森の広場と、蒼窮を極めた空が僅かに映った。

 視界の端に映る青と、大半をしめる赤茶けた枯れ葉は対比としては美しかったが、残念なことに十分に見慣れていた。


 (ふむ……)


 かなり深く眠ってしまったような気がしたが、杞憂だったようだとアスラは思った。

 はあ、と思わずため息が漏れてしまった。

 昼寝は基本的に好きなのだが、苦手な箇所もある。

 しばしば、嫌なもの(・・・・)を目にするからだ。

 夢なのか、一種の心象の具現なのかは知るところではない。

 また、今に始まったことでもない。

 記憶には、その断片のみが散らされたように残る。

 冷たく、暗く、陰惨で、手に取るのも憚られるような黒いかけらとして。

 静謐な光で装飾された森の聖域が、この鬱然とした心持ちをすすいでくれればいいものだが。

 とかく、空は全く赤らんでいないし、空気もまだ暖かい。

 あまり長い間まどろんでいた訳では無さそうである。


「んん…」


 アスラは伸びを一つして身体を解した。

 年が(かさ)んでくると身体はさび付き、動きが悪くなる。

 筋肉は凝り固まり、関節は軋みあがるから、こういった潤滑をする行為は思った以上に大切なのだ。


 アスラの腰がポキポキと音を鳴らした。

 何時もなら酷い腰痛がその心地よさをかき消すが、どうにもそれが無い。

 純粋な快感が腰のあたりを走る様は、一服の清涼剤といって相違ない。


(ふむ、身体が軽くなったようだわい)


 と、アスラは望外に機嫌を良くした。


 何故かは知らないが、身体の凝りや痛みがほとんど感じられないのだった。

 それに、病による慢性的な息苦しさもまったく無い。

 今しがたの仮眠がよほど効いたのだろうか、すこぶる調子が良い。

 ここ数年で一番の好調さといっても、過言ではないだろう。

 死んでも構わない、という気概で取った仮眠で調子が良くなるとは、得てして妙な話だ。


「嘘のように調子が良いな…」


 アスラは思わずそんなことを口にすると、機嫌の良さそうな高いハスキー(・・・・・・)な声が森に響いた。

 違和感、と形容するのが正しいだろう。

 声変わりをする前のような、男とも女ともつかないような微妙な声質だ。

 アスラは暫し、声の余韻に浸り…。


「……何?」


 と、頭を捻った。


 今のは誰の声だろうか。

 いや、アスラである。 

 声を出したのは他でもないアスラ本人であった筈だ。

 ならばなぜ、あのような異様に若そうな声が出たのだろうか。

 確認の為、アスラはもう一度声を出してみた。


「あ、あー、あー?」


 再度耳に入ってきた声は、やはり、先ほどの高い声だった。

 アスラの声は、低く野太い濁声(だみごえ)である。

 もともと口数が多い方ではないので使う機会もあまりなかったが、男としてもかなり低い方であると自負があった。

 間違っても高くはない。

 まして、これはいっそ中性的といっていいほどに高い声だ。


「あ、あー…」


 何度やっても、声は高いままであり、音源はアスラの喉だ。

 声が変質するなど、尋常ではない。

 しかし、


 (まあ、不可解ではあるが気にするほどのことではないかや)


 と、アスラはすぐに開き直った。

 まあ、このような人種なのである。

 冷静に考えてみれば、声など、どうなっても変わりはしない。

 高くても、低くても、喋れればいいし、そもそも会話をする相手だっていないのだから、とアスラは極めて淡白に考えていた。

 アスラは、


(あるいは、病状がより末期に近づいたと捉えるべきなのかもしれぬだろう。

 身体の調子が存外にいいことも、一過的な小康状態に入ったと見るべきか。

 確たる根拠があるかは知らぬが、危篤になる寸前には若干の快方の傾向を見せるような例が多いとも聞く…。

 なんにせよ、一先ひとまずそれでよい)


 と、乱暴に結論付けた。

 丁寧な病理観察をした所で、余命も幾許(いくばく)も無い。

 あるがままを受け入れるということ以上に、逃れ得ぬ死へと対峙する巧手はない。


(まあその内には治るであろうし、このままであっても生活に支障などでまい)


 もともと残り少ない余生である。

 声がどうこうなど、些末(さまつ)な変化だ。

 あるいは、同じような日々の繰り返しに起伏ができたと、そのような取り方もできる。

 どうしようもないのであれば、抗わずに受け入れることである。


 アスラはいつもの癖で、髭を撫でようと顎に手を伸ばした。

 一種の催眠というか、暗示のようなもので、髭を撫でると落ち着くのである。

 老境に入ってから生やし始めたものだが、存外に格好が良く、そこそこ気にいってもいた。

 そして、指が顎髭に触れ――。


「…おや?」


 ――なかった。


 無い。

 髭が無い。

 そんな馬鹿な、とアスラは首筋に手を這わせてみたが、すべすべ(・・・・)とした地肌の感触しか感じない。

 数多く生え揃っていた筈の髭が、一本残らず姿を消しているようだった。

 アスラは基本的にあまり己の容姿に頓着がないが、先の通り数少ない気に入っている点が他ならぬ(ひげ)であった。

 〈守り人〉の民は概して眉睫(びしょう)の毛と頭髪はかなりの毛量があるのだが、一方で体毛が極めて薄い傾向にあるので、髭をたくわえるというのは存外に大変で、年長の男のステイタスといってもそう過言ではない。

 その苦労して育てた自慢の髭が、仮眠を取っていざ起きたら全て抜け落ちていたとは、これは中々の事変である。

 少なからず気落ちするのはそうだが、これにはアスラも混乱せざるを得なくなった。


「なぜだ…」


 そう口から洩れた声は、やはり高い。

 アスラは、ううむ、と髭の抜け落ちた顎に手を当てた。


 (これは流石に気にすべきだろうな…)


 声はまだ喉の調子が悪い等で無理矢理納得できるが、髭はそうもいかない。

 髭に調子の良し悪しなどないし、寝ている内に全て抜け落ちたりはしないだろう。

 背の方に手を伸ばせば、髪は依然として健在でありそうなことが分かる。

 恐らく、頭髪については無事だろう。

 すると、現状喉から顎の周辺、あるいは広げて顔の周辺に何らかの異変が生じているということになる。

 声の変調と髭の脱毛、それらが同時に起こるなど、いかにも尋常ではない。

 そのように思考を寄せていけば、いかにも他の部位が健常かどうかが心配になってくる。


 (ふむ)


 アスラは考えた。

 もしや自分の身体には何らかの、病や老いなどとは全く別種の、それも重大な異変が起こっているのではないか、と。

 実際にもう幾つか起こっているし、ある程度検証してみるのも悪くはない。

 さて、妙な寝起きだ、とアスラは静かに愚痴をこぼした。



 ♢



 事態は思ったより深刻だった。

 というのも、身体がおかしいのだ。


 まず、目につく所で手である。

 これにはすぐに気が付いた。


 〈守り人〉の民は、原則として褐色肌である。

 人によって多少のグラデーションはあるが、総評としてはそう言えるだろう。

 加えて、アスラは幼い頃から剣を握って来た。

 二つになる頃には手にして遊んでいたから、もう六十年以上は手にしている事になる。

 無論、手に握っていただけではない。

 鍛錬や狩りを数えきれないくらい行った。

 そのせいか、アスラの手にはその(いさおし)が刻まれていた。

 褐色で、無骨極まる手というのがアスラの自己評価である。


 ――しかし、である。


  (手が、白い…)


 アスラの視界に入った手は驚くほどに白かったのだ。

 皮膚の色が大幅に変わるなどというのは、あり得るのだろうか。

 さらに言えば、この手は小さい。

 アスラはかなり体格の大きい方で、手もそれ相応の大きさであったが、これは記憶にある物より一回(ひとまわ)り以上小さかった。

 表面を覆っていた傷や、剣ダコ、皺なども一切無い。

 むしろ、非常にしなやかで、染み一つ無い綺麗な手だ。

 弾力もぷにぷにとしており、(わらべ)のようである。


 (ううむ…)


 次いで、服。

 いや、あるいは体格だろうか。

 これもまたおかしかった。


 アスラの服装は上から、刺繍の施してある長めの衣、短剣などをしまっておける細工のベルトに、脇に大きくスリットの入ったズボン、皮のブーツといった出で立ちだ。

 非常に民族的な格好である。

 ともかく、島では――男女で多少の差はあるが――このような服装が普通であり、アスラも例に漏れていない。

 全体的に大きさに余裕のある服装であったが、無論ブカブカという程ではない。

 そんなことでは急時に迅速な対応ができかねるし、森の中ではなお危険である。

 そもそも、服一式は亡き妻と一緒に(こしら)えたものであるからして、実に良い按排(あんばい)であった。


 だというのに。


  (こんなにもズボンの裾が余っておる…)


 履いて来た時は丁度良かった長さのズボンだが、座っていても分かるほどに丈が余っていた。

 というのも、ブーツに仕舞い込んである裾が踵まで達しているのである。

 こんなにズボンが長い筈などない。

 殆ど引きずるようになってしまっている。

 上着もあきらかに大きさが合っていない。

 ベルトは到底腰に閉まっておらず、その間から長すぎるカーテンのように生地が地べたへ落ちている。

 身体に比べて長く、大きすぎる印象だ。

 ブーツも同様である。

 足先が完全に遊んでいる。


(いや、まさかな…)


 何事も相対の評価をもって考えなければならない。

 考えられるのは、服が大きくなったか、あるいはそれを身に纏っている肢体(したい)が小さくなったか。

 当然両者ともにある筈がないが、事実として服の丈が明らかに余ってしまっている。

 服が大きくなっていないとしたら、まさかアスラの方が縮んだのだろうか。

 これもまずもってあり得ない。


(そういえば、ずいぶんと手が小さくなっておったな…)


 アスラとしては、後者の方は少々的を得ている気がした。

 この服の異変は小さくなった手と関係がありそうである。

 身体が小さくなったのなら、双方とも今の状態の説明がつく。

 頭痛がしてくるような意味不明の事象だが、現実に発生している可能性が高いのだ。


 それはさておき――実際はさて置けないのだが――である。

 次が問題だった。

 これは極め付きだ。

 何かといえば、違和感の極めつきである。

 これに比べたら先の異変であれど、大したことのない物のように思えるほど特大の違和感。


 それは、胸であった。


 というのも、先ほどからどうも胸の辺りが変なのだ。

 まるで、擦れるような、揺れるような。

 アスラにしてみれば、形容し難い違和感を禁じ得ないのだった。

 老境に差し掛かる前は、胸板は相当に厚かった自負があったが、それに勝るとも劣らない、しかし何か経験したことのないようなニュアンスを含んだ主張が、確かにそこにあるのだ。


 問題の胸部は、服の下に隠れておりその全貌は窺い知れない。

 心なしか盛り上がっている気がしないでもないのは、錯覚なのか、あるいは。

 アスラは、いよいよ本格的に頭痛がしてくるようだった。

 あくまでも気のせいで終わればそれで良い。


(まあ、気のせいだろう…)

 

 そんな希望的観測が心の机へと投げられた。 

 しかし、その卓に座った委員らは、顔をしかめて難しい表情をしていた。

 

 恐る恐る胸に手を伸ばしてみる。

 すると――。


「む………?」


 案の定とも言うべき感触があった。

 白い手はある程度まで服に落ち込むと、ムニ、という弾力を寄越して跳ね返された。

 柔らかな、それでいてはりのある手触り。

 そこに、丘があり谷ようなものがある。

 ゆったりとした服の下にあったのは、柔らかい膨らみ。

 即ち乳房だった。


「……おいおい」


 アスラは、とうとう己は気が狂ったのかと思い始めた。 

 あるいは、知らないうちに、幻覚作用のある食物を摂取してしまったのだろうか。

 そう勘繰ってしまうほど、文字通り、理解不能の事態だった。

 むしろ理解しろという方が困難であろう。

 寝て起きたら胸が膨らんでいた等と、そのような珍妙な話は聞いたことがない。

 いや、前例など無くて当然の話である。

 先人がいる方が困ってしまう。

 髭、声、恐らく四肢、そして…胸。

 なぜこのような変化が突然として身体に起こっているのか。


 (胸、なあ……)


 しかし、男に胸とはこれまた変わった組み合わせだ、とアスラは考えていたが、思考を深めていくうちに、背中に冷たいものを入れられるような感覚を覚えた。

 特に、男と胸の取り合わせが悪いと言っている訳ではない。

 それもまた然りであり、そのようなアイデンティティーを持っているのも悪くはない。

 ただ、なにやら不穏な雰囲気を感じたのだ。

 改めて宣誓するが、アスラ・カルナは男である。

 生まれてこの方、六十と余年を男という意識で歩んで来た。

 今の異変を考慮するに、どうにも『男らしさ』というものが欠落していっているように思える。

 特筆すべきは乳房なのだろうが、その他の変わりようも、たおやかな(・・・・・)変貌を遂げていると言って過言ではないだろう。


 (まさか寝ている間に女になった訳でもあるまいな…)


 そうなのだ。

 流石にそれは困る。

 大変に困る、とアスラは口の中に苦味のようなものを感じていた。

 何を気にすることがあるのだ、と言われれば感情論としての反論しかまともに出てこなそうな所ではあるのだが…。


 アスラは、実に嫌な気分だった。

 極めて恐ろしい仮説が立ってしまったのだ。

 理由は全く分からないが、上半身には女性的な変化が起こっていた。

 が、上半身だけが変化したとは考えにくい。

 身体には下半身もあるのだ。

 下にも何らかの変化があると考えて間違いはないだろう。

 まことに言葉に尽くせない寒気がある。

 別に人も居ないので世間体を気にすることはないし、女性を軽視している訳でもないし、きっと絶対に男でいなければならない理由もないのだろう。

 しかし、こればかりはどうしたってきつい。

 心がついていかない。

 己の意思を持って変わるなら兎も角、寝て起きたらそんなこと(・・・・・)になるなどと、殆ど嫌がらせである。

 アスラは、今まで随分と行なってきた殺生(せっしょう)の報いか、とも考えたがそれにしても内容が(とが)っている。

 もっと単純に苦痛を与える罰を下した方が良いだろう。

 本当に何が起きているのだろうか。


(考えてみれば、股の間が少々淋しくなったような気がするが…)


 勘弁してくれ、頼む、頼む、とアスラは思った。

 今度こそ勘違いでなければいけない。

 絶体に妙なことなどあってはならない。

 男として、ここだけは譲れないのだ。


 小さく、白くなってしまった手を、恐る恐る股間に伸ばす。

 手が震えるのを止められない。

 恐ろしくて仕様がない。

 手が進んで戻ってと、空をさまよっている。

 喉が異様に渇く。

 大丈夫だ、とアスラは自身に言い聞かせた。

 ただ、嫌な予感がする。

 当たって欲しくはないが、どうにも外れているような気もしない。

 静かに股の間に手を這わす。

 すると――。


 ――ある筈の存在が無かった。


「……や?」


 今度は膨らみが消えている。

 そこには、なにも無かった。


「っ――」


 アスラは、声にならない悲鳴を上げた。

 ()った。

 なんということだろうか。

 どういうことだろうか。

 もぬけの空である。


 悪い夢か、とアスラは思った。

 現実感がいよいよ無くなった。

 何故が笑いが込み上げてきそうになる。

 そして、涙すら溢れそうになって来た。

 一種の錯乱状態といえるかもしれない。

 ただ、


「無い…」


 それだけは真実であった。

 アスラは人生で初めて、もう昼寝辞めようかな…と思った。



 ♢



 しばし呆然とした後、アスラはどうにか復活した。

 ある程度気持が落ちついてきたのだ。

 もっとも冷静になったのは表層的な部分だけに留まり、深層部は今だ混沌の極みにあるのだが。


 (これは、(まさ)しくとんでもない事になっとるな)


 と、アスラは思った。


 実際、アスラの身体に起きた事はありえぬ事ばかりである。

 声の変調から始まり、髭は綺麗サッパリ抜け落ち、身体は縮まり、胸は柔らかく膨らんで、股は風通しが良くなった。

 ついさっき背の髪を目視で確認してみた所、霜の降っていた髪が青年の頃のように黒く染まっている。

 手の肌のはり等から考察するに、恐らく年も若くなっている可能性が高い。


 総評としては、およそあり得ない。

 否、ありえる筈が無い。

 どれか一つだってこの身に起これば大事だが、こうも重複して起こるなど、全くもってありえない。

 異常だ。


 ともかく、一度自分の姿を確認する必要がある、とアスラは思った。

 視界に入る身体の部位は人間らしい物だが、いずれも変異していることに間違いはない。

 今までの流れではあり得ないことではあるが、今だ確認していない部位――顔など――が、特異的に変異している可能性も否定できないのである。

 息はできるし、視界も悪くないので、骨格は尋常の範囲に収まっている公算が高いのが幸いだろうか。

 それに、客観的に姿を確認した方が変化に気付きやすくもなる。


 アスラは生憎、鏡などは持ち合わせていなかったが、腰に剣を吊っていた。

 少々映りは悪いかもしれないが、代用は十分に可能な筈だ。


 アスラは、腰帯から鞘に入ったままの愛剣を外した。

 無骨な鞘に押し込められた剣相を顕にしようと、小さくなった白い手に力を込め、握りの部分を横へと擦らせて行く。

 鞘鳴りの音が滑らかになりながら、剣身が見えてくる。


 半分ほど鉛色の剣身を露見させると、目の位置まで持ってくる。

 鈍く光る剣が、アスラの姿を薄く投影した。


「……面妖な」


 アスラは思わず呟いた。

 そこに映し出されていたのは、老いた戦士では無かった。

 剣身に映っていたのは、恐らく少女である。


 髪の色は漆黒で艶のあるそれが複雑に編み込まれ、瞳は森を彷彿とさせる青々とした深緑色。

 血色が悪いくらいに白い玉の肌には染み一つ浮いておらず、非常に艶々としている。

 顔立ちは彫が深く、それでいて線が細い。

 歳の頃は、十代の中頃程だろうか。

 幼さが残っており、頬がもっちりと柔らかそうである。


「ふうむ……」


 ひどく若い、とアスラは思った。

 瞬きを試みると、鏡面に映った少女も瞬きを返す。

 右を向こうとすれば、少女も右を向く。

 最後に、鏡の少女は、呆れたような、悩んだような、難しい顔になった。

 己の若い頃の容貌など覚えていないが、当然皺やたるみは無かったのだろう、などと頭が妙な思考をしている。

 気味が悪いほどに、肌のはりが良い。

 ブカブカの服を身に纏う姿は、実際以上に華奢な印象を与える。

 肩幅はかなり縮まって、鎖骨のあたりの骨も細くなっている。

 体格は相当に(しぼ)んだようだ。


 (おれの見慣れた姿ではないな)


 剣を鞘に戻すと、アスラは疲れたように精霊樹へと身を預けた。

 何故かは一切不明だが、どうにもこの剣に映った少女が今の自分のようである。

 髪の編み込みの具合と、瞳のつくりや色、身につけている衣服が同じことくらいしか元の面影を残していないが、まあそうなのであろう、とアスラは思った。

 それ以外は客観して別人だとしても、である。

 とりあえず人間のようで良かった、と喜ぶべきであろうか。


 (さて…)


 今現在で確認した異常はこれで全てである。

 結論としては、年若い少女になってしまっているということらしい。

 身体が縮んだらしいのは、その不可抗力と考察するべきか。

 いずれにしても、全くもって理解不能である。

 何がどうなって、どのようなロジックでこのような事態が生まれたのかが、甚だ分からない。

 取り急ぎ、腰痛や胸の鈍痛が無くなったことは、とりあえず喜べる所であろうか。


 現状の俯瞰が一段落付いた所で、この異常事態の原因究明に移りたい。

 基本的には、仮眠を取って、起きてみたら身体が変わっていたということにはなる。

 自然、仮眠を取るまでは日常(・・)という訳であったのだから、そこからが非日常、逸脱した何かがあったとするのがわかりやすい。

 とはいえ、仮眠など人生でいくらでも試みてきているものではある。

 何か、特別の取り合わせか、あるいは異常がそこに無ければならない。

 少なくとも、この聖域の近くに妙な気配は感じなかったし、何かをされた感覚はアスラには無かった。


 (例のごとく嫌な夢見ではあったが…)


 直近、かなり夢見が悪いという事実は間違いなくある。

 死が近づいてきているからなのか、しばしば、暗くて冷たい悪夢にうなされた。

 しかし、これこそ幼少の頃からの常であり、頻度こそ高くはなっているが、特筆するものではない。

 老いと病で体力が落ちて、満足に寝れなくなって来ていると考えるのが普通であろう。


 (一体どういうことなのだろうか。

 女子(おなご)の身体に霊魂が入ってしまったのか。

 はたまた、おれの身体がこのように変化したのか)


 霊魂が人に乗り移る、ということがあるらしい。

 年長者が言っていたことである。

 ある時、霊魂が、スルリ、と身体から抜け出で、他の人物に乗り移るということであった。

 なんでも、強靭な精神の持ち主は、憑依した者の意識を奪い取ってしまうのだとか。

 乗っ取られた人格は、永久(とこしえ)の闇に消えるらしい。

 迷信ではあったが、アスラには思う所があった。

 現状と似通う点もある。


 ただ、着慣れた服装と、気合を入れて編んで来た髪型が変わっていない点から考えてみると、その線は薄い。

 そもそも、島にはアスラ以外人が居ないのだから、乗り移る対象などないのだ。


 となれば、やはり身体が変質してしまったということになるだろうか。

 こちらも同じく、通常ではあり得ることでは無い。

 前の状態と比べれば、アスラの措かれている今の状態がいかに有り得ないかが分かる。

 年齢も明らかに若返っているし、体の不快な痛みも無いし、第一性別も違う。

 つまり、肉体の年齢が若返り、病が――恐らくだが――(おさま)り、性別が逆転して初めてこのようなことになるのだ。

 どれもこれも、奇跡に、〈神の力〉に準ずるものである。

 百歩譲って、病が治ったのは勘違いや幸運で済ませられるが、後の二つはそうもいかない。


 ともすれば、考えられうるのは外界にあるという『魔法』の類である。

 アスラも実際に賊たちの扱うそれを何度も目にしている所である。

 あずかり知らぬ所ではあるが、非常に便利そうな技法だといえる。

 島の者は、魔法などに興味を持たなかった――むしろ、賊の扱う蛮術だと毛嫌いしていた者も居た程である――ので、事情にとんと疎いのだ。

 ともかく、何もない場所から火や水を取りだし、使役出来るのだから、身体の変異くらいならば…。


 ――と、一度は思ったアスラであったが、それはありえぬな、と考え直した。


 仮に、魔法の中に身体を変異させる呪いがあったとしても、島には生憎、そんな秘術を扱える輩は存在していない。

 アスラ以外に人がいないのだ。

 無論、アスラはその様な術など使えない。

 最近は賊を含め、来訪者もいないので、外部の者の仕業でもないだろう。

 そもそも、死に損ないの老いぼれに、歳が若返り、かつ、性別を転換させるなどというトンチキな魔法をかける意味が無い。


 (しかし、これは間違いなく人外の力が働いているぞ。

 それだけは違いない)


 まじないの類でも無いとしたら、一体何か。

 起こったことは、間違いなく神意を汲んだであろう奇跡だ。

 常人には到底成しえないことである。

 それこそ、神々や、精霊の力でも借りれば話は違うだろうが…。


 (…精霊(ジア))


 アスラはあることが頭に閃いた。


 (もしや、精霊様)


 精霊の木(ジア・ルジャ)ならどうだ。

 太古からこの島に根を張り、戦士達が長い間守り続けて来た存在。

 この島で最も長寿な生き物であり、なによりも高貴な古木。

 その樹齢は、数千にも及ぶと聞く。


 (精霊様ならば、あるいは…)


 荒唐無稽な話だが、大いなる存在が、神霊が宿ると言い伝えられたこの樹なら、もしかするかもしれない。

 かつてパブ=ダ神が現世(うつしよ)の戦士だったころ、天啓を賜り、その御身(おんみ)を導いたのが精霊の樹(ジア・ルジャ)とされるのだ。

 それでなくとも、長く生きた生命は、相応の力を持っているものである。

 (よわい)が千年を超えた生き仏のような霊樹であれば、尚更のことであろう。


 しかし、だとしても何故なのか。

 アスラ・カルナは、間違ってもこの樹に導かれるような戦士ではない。

 パブ=ダ神と同等に考えるなど実におこがましい。

 戦の神パブ=ダは、神々より課された難行に身を投じ、心身を錬磨し、魂を昇華させて天へとのぼった。

 地上では、パブ=ダ神に比肩しうる戦士などいなかったし、それでなくとも無類の研鑽を積んできた偉大なる武人であった。

 無二の才能を持った傑物が、神々に見初められたからこそ、この霊木が啓示を下したのだ。

 アスラも鬼才だなんだと風評されはしたが、現今は戦士の水準が下がってきており、(いにしえ)の時代の戦士が現代に蘇れば、すべからく天才、傑物とされるだろう等という、武壇による厳しい論評もあった。

 事実、アスラも己を評価しかねている。

 それなりに剣はつかうのだろうが、息子を戦死させてしまったことは痛恨の極みであり、晩年にしても、精根を絞り切ったのか、もうすこしやりようがあったのでは、と懊悩や自責など無数にあった。

 なるほど、大した戦士ではない。

 もし仮に、眼鏡にかなうであろう一定の水準に達していたとしても、アスラには特に肉体を変化させられるような覚えも――。


 (いや、まさかな……)


 馬鹿げたことではあったが、心当たりはあった。

 ほんの少し前である。

 アスラが寝る前に、まどろみながら心の中で願ったあのことだ。


 ――精霊様、聞いておりますか。

 愚老はもう長くありませぬ。

 ですから、許されるのであれば、一つばかり願いを聞いて下され。


 確かに、アスラは精霊の木に願った。


 ――この愚老に来世が許されるのであれば、世を見聞する旅がしとうございます。


 アスラは、じっと枯葉の積もった大地を見ていた。

 この霊木は、導きの樹(ジャルダ・ルジャ)の別称も持つ。

 パブ=ダ神より始まり、島の民の営みを長きに渡って導いてきたからだ。

 確かに、第二の人生という点では、現状もそう間違ってはいない。

 驚くべきことに身体が若返っているのだ。

 視点を変えれば、なるほど、こういった成就の仕方もあるのかもしれない。

 アスラ・カルナはパブ=ダ神のごとく、神の座へと導かれる存在ではないが、〈守り人〉の民として、樹に導かれる最低限の資格は、あるいは有しているかもしれない。

 

 (まさか、あの悪ふざけのような願いが届いたというのか…)


 が、アスラにしてみれば、そこがどうにも引っかかる。

 精霊の木は確かに尊い霊木だが、願望を叶える力はない筈だ。

 重要な儀式や祭典において神と同様にまつられることはあるが、それはそれであるし、例の疫病が流行った時など、島中でパブ=ダ神や精霊樹に祈りが捧げられていた。

 その時に、願いが聞き入れられてもおかしくはない。

 島一つの願いと、老いぼれの悪ふざけでは、重みが違う。


「……」


 しかし、もしかするというのだろうか。

 あのような祈願が、〈守り人〉の戦士の風上にも置けないような、罰当たりな願いが。

 本当に推論でしかない話であるし、希望的観測も極まる考えではある。


 アスラ・カルナに、性別や年齢を操るすべは、現状において基本的にはない。

 行った覚えも、その感覚もない。

 第三者はこの島にはないし、来訪者もいなかった。

 アスラの背には、精霊の樹(ジア・ルジャ)があり、アスラは、戯れでもなんでも、旅がしてみたいなどと願った。

 気が付けば、身体は若返り、病は消えはてた。

 なんのことはない事実の列挙。

 大した意味もなく、都合のいいように事象をトリミングして、それらに朧げな概形を持たせてるいるだけにすぎないだろう。

 ただ、それでも。

 かすかに、心にささやかれる言葉がある。

 これは、ある種の(ねぎら)いなのではないだろうか、と。

 樹は、気まぐれで導いたのではないか。

 最後の島民を。

 ただ一人残った、老いぼれた戦士を。


 ♢



 アスラはゆっくりと立ち上がった。

 すると、ズボンがスルリと落ちた。

 風通しの良くなった股と、漂白されたように白い太ももが顕になる。

 腰回りが大分細くなったことで、ズボンが脱げてしまったようだ。

 紐をきつく縛る必要がありそうである。


(随分と視界が下がった気がするな…)


 ズボンを履き直して腰紐を締め込みながら、アスラはそう思った。

 改めて立ってみると、頭一個分くらいは視線が下がっている。

 森の大きな木々が、余計に大きく見える。

 加えて、膨れた胸も、妙に重量がありひどく重心を損なう。

 これは慣れるのに苦心するかもしれない。


 (この辺りは追々慣らすしかあるまい。

 それと、丈の余っているズボンとブーツも調節せねば)


 いずれにしても現状ではどうしようも無いので、辛抱である。

 気に留める必要はあるが、神経質に気にしていても仕様が無い。

 そういう類の物である。

 まあ、応急措置としてできる事は行う。 

 具体的には、ズボンを捲る位はしようと思う訳ではある。


 苔むした精霊樹の根元から少し離れて、アスラは大きく息を吸い込んだ。

 空気で膨らんだ肺腑が音をたてるが、息は全く苦しく無い。

 森の聖域の清涼な空気が、全身に染みるようである。

 なんと気持ちの良い事なのだろうか。

 身体が変じ、病も一掃されたと考えてよさそうである。

 鎮痛の薬草を用いても引き切らない痛みが、全くないのがその証拠であろう。


 アスラは身体を翻し、精霊の木と向き合った。

 縮まった身長で見上げると、思わず後ずさりをしてしまいそうな高さが、威容が、大きさが、視界いっぱいに広がる。 

 幹は山のようで、枝葉は暗い空のようである。

 ただ、力なく枯れていた。

 居眠りをする前と、何一つとして変化していなかった。

 アスラは、うっすらと苦笑いを漏らした。

 このような奇跡を、身をもって味わったこの上である。

 もしや精霊の木が生命力を取り戻したのでは、と淡い期待を抱いたのだが、どうにも見当違いであったようだった。


「御身が願いを叶えて下さったのですか」


 アスラは、()いた。

 当然の如く、古木は何も喋らない。

 代わりに、静かな風の音だけが辺りを満たしている。

 アスラも、暫し黙って巨木を見つめた。

 降り積もった枯れ葉が、サラサラと地を駆け、大地から生え伸びた草にあたるなどして、止まって、動いてを淡々と繰り返している。

 閑雅(かんが)だった。

 眩しさはなく、されど木漏れ日は優しく、空気の流れは穏やかで、草木の匂いだけが豊かにあった。

 この世に、アスラと精霊樹ばかりしかないようだった。

 粛然と、両者は見合っている。


 憶測の域を出ないのは確かである。

 なにぶん、その現象を一から観測できた訳でもなく、突拍子もないような想像上の話も大いにある。

 しかし、アスラには、この奇跡は精霊様の力によるものである気がした。

 それは、そうであれば光栄であるというのもそうだが、この樹の、この島の、〈守り人〉の、残された気力の一雫(ひとしずく)が、己の身に垂れたのだと、そう思いたかったのだ。

 同胞、同士などという言葉に惹かれたことは少ないが、今ばかりは、老境に差し掛かってからは、微かに良い単語だと感じるようになった。

 風俗として良いか悪いかは置いておくが、『戦士の島』という文化が、己が死ぬことでこの世から消え果ててしまうというのは、形容し難い寂寥の感がある。

 この奇跡は、この戦士の島に送られた、最期のはなむけではないのだろうか。


 そして、現状から推察できることがもう一点。

 アスラにとってはこちらのほうが重要だった。


 (これは、精霊様の言伝(ことづて)なのではないか…)


 強き戦士を育み、精霊の木を守るのが〈守り人〉という民族の使命。

 〈守り人〉と精霊の木は四千年以上も共に暮らしてきた。

 しかしながら、アスラの、外界を見聞したい、などという莫迦な願いは、どういう訳か聞き入れられた。

 アスラがこの島を出れば、〈守り人〉の戦士はいよいよ居なくなり、木を守ることは叶わなくなる。

 アスラには、精霊様がもういいと言っているように思えた。

 もう自分を守る必要はないのだ、と奇跡を通して伝えているように。


 今思えば、若者たちが去っていったのも精霊様の力ではなかろうか。

 若い命を無駄に散らさせぬように、と夢枕なぞに立って意思を誘導したのではないか。

 今回も、最後に残った頑迷な輩はこれくらいしないと分らぬだろうと、仕様がなく奇跡を起こしたのかもしれない。

 アスラには不思議とそう思えたし、そうすると妙に納得もできた。

 〈守り人〉の戦士は、精霊樹が無くとも、故郷を失っても、天にその強さを捧げるだろう。

 故に、〈守り人〉は眠らない。

 か細くも、その個々の祈りは、パプ=ダ神のもとへと届くのだから。


 (捧げます。

 この愚老の剣を、技を、力を。

 パプ=ダ神と、精霊様へ)


 アスラに生きる当ては無かった。

 やり残したことも、行うべきことも、目標も、夢も、希望も、何もありはしない。

 それが老いであり、きっと死への近接なのだ。

 しかし、それらを見繕うことが、華やかに飾りたてようとすることこそが、人生の根幹だともアスラは思う。

 目指すべき場所は陽炎のように現れては消え、己も浮かんでは沈んで。

 夜も眠れず、飯も食えず、笑えなくなったとしても、それでも生きる。

 生きて、生きて、小さくとも営みをして、わずかに良くなって、いつかは何かを成すのが人なのだから。


 (そうだ)


 〈守り人〉、いや『アスラ・カルナ』の意識が残っている以上、やらねばならぬことがある。

 剣以上に人生をかけた趣味が、アスラにはあった。

 笑って、寝て、食って、遊ぶ。

 暗い(うろ)を、ほのかに照らし出してくれた、あの微笑みを思い出す。

 彼女(・・)の夢を、馬鹿げた妄想を、今こそ叶える時が来たのだ。

 世界を見よう。

 樹に祈ったように、旅をしようではないか。

 彼女の記憶を、思いを、今へ、そして未来へと連れ出すのだ。

 使命は消えたが、目的は据えた。

 この島の最後の生き残りとして、アスラ・カルナとして、成すべきことを成さねばならぬ、とアスラは心中で静かに誓った。


「戦士アスラ・カルナ、今少しだけ、この島を、貴方様をお守り致します」


 と、アスラは言葉を告げた。

 翡翠の瞳は、強い決意に満ちていた。



 ♢



 アスラは精霊の木から視線を上げ、少し高くなった空へと目を向けた。


 ――青い。


 何処までも、果てしなく青い。

 つい二日前までは大嵐だったとは思えぬような、垢ぬけた晴天だ。

 雲など始めから存在していないような清々しい空である。


 森の広場の上を一羽の鳥が飛んで行った。

 霞んだ赤い色をした鳥である。

 見たことのない鳥だ。

 どこか知らぬ土地から飛んで来たのであろうか。

 空の青にポツンと浮かぶその淡い赤は、どことなく美しかった。


 アスラがぼうっと視線で追っていると、鳥はあっという間に広場の上を通り過ぎ、遥か蒼穹の彼方へ飛び去っていった。


 アスラは天を仰いだまま、


「うむ、良い天気だ」


 と、呟いた。


 アスラの長い髪飾りが、風に吹かれて揺れた。


用語集


精霊の樹(ジア・ルジャ)

「守り人」に信仰されている霊木。導きの樹(シャルダ・ルジャ)とも。

精霊ジアとは、大いなるもの、特別なもの、などの意味を持つ。地上に生まれた第一の生命であるとされ、神々が戯れで投げ落とした果実の一房が大地で芽吹き、育ったのがこの樹である。守り人の子供は、冥界からこの樹を目指して流されてくるという。樹の根本にある泉には、ある時期になると赤子が蓮の葉に浮かべられて水底から上がってくる。これが、守り人の誕生であり、分娩なのである。

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