1章(3) 容疑者
「あんた、噂だと水主の娘さんと一緒に飯食ったんだって?」
早朝の甲板でドーブがそんな話を振ってきた。
身体は良くはなっているようだが、未だ包帯を巻いている箇所が多い。
剣を一本腰に帯びて、手すりに寄りかかるようにして顔だけこちらに向けている。
アスラは、やはり朝焼けを見ていた。
曇りの空に広がる太陽の光は、まるで灰に残った火のように燻って見える。
水平線は、赤熱した刃で切りつけたが如く、緋色で細い。
船乗りらはこれを見ても何とも思わないかもしれないが、海原の真ん中で望む朝日は、晴れでも曇りでも、言葉に尽くせないほど雄大である。
その橙の光に双眸を細めながら、アスラはドーブの言葉に一瞬感じた何らかの違和感を追いかけようとしてやめた。
含みという訳でもなく、ちょっとした取り方のニュアンスだ。
幾つかの可能性が頭に浮かんで、そして消える。
腑に落ちるようなこともあるし、そうでないこともある。
本人から言質を取った訳でもない。
「そうだ。
噂が早いな」
高くなった声で応える。
船というのは閉鎖社会だ。
良い噂も、悪い噂も、たちまちに広がる。
アスラが食事を配膳して、しばらくセトナの部屋で談笑していたのを当直の水夫か護衛連中の誰かが見たのだろう。
特におかしな動きはない。
アスラもドーブなどとは話をするし、水夫らとも全く意思疎通をしないという訳ではないのだ。
どうしてこの程度のことが噂になるかといえば、無論、アスラという目立つ異分子が取った行動というのもあるが、おそらく別の部分に本因がある。
船上は暇なのだ。
設備の点検や、管理維持、掃除に航行と、行うべきこと自体は多々ある。
一つ手を抜けば、命を預ける船が壊れたり、病を呼ぶことになったりと、気を抜けないという意味でも過酷な労役と評価できるだろう。
暇なのは、仕事以外の部分。
ようは、娯楽がない。
「水夫の何人かは、あんたがセトナを手籠にしたんじゃないか、なんて下らないことを言ってる奴もいたぜ」
ドーブがそういってはにかむ。
中々気安くなってきたような印象を感じる。
アスラは、ふうん、と言って首をぱきぱきと鳴らした。
所謂、性欲の話をしているのだろうな、とアスラは思った。
〈守り人〉は生殖はしないが、相手への親愛の表現の一つとしてそのような行為に及ぶケースはある。
戦士として淘汰すべき煩悩の一つとされる性欲ではあるが、間違いなく『恋』や『愛』などと近しい所にあるものだろう。
『カイ』ら、過去の船乗りたちによれば、人は通常生殖で増える、とのことだ。
今まで培ってきた価値観からすれば俄かに信じがたい。
これに関しては、流石に情報の裏どりができていないが、そのような嘘をつくメリットが薄いのはそうだろう。
一つ言えるのは、彼らと〈守り人〉で繁殖の方法が根本から異なるとなれば、アスラもいよいよ世界が歪んで見えてくる、ということだ。
種族はもとより、成り立ち自体が全く異なる生物なのでは、などと深い疑念が溢れ出す。
知らないことは多いが、知らない方がいいこともまた多い。
何にしても、アスラは昨晩セトナに何かをした訳ではない。
彼女も刺繍や編み物が趣味だということで、他愛もない雑談をしただけだ。
素直になって、忌憚なき意見を述べるのであれば、楽しかった、というべきだろうか。
良い娘だ。
乱暴など全く考えの中に無かった。
この船の人間たちがどのような繁殖の手段を持つかは知らないが、仮に性欲と愛が地続きなのであれば、アスラがセトナに求愛をしたということになるのだろう。
出会った当日だ。
よくいえば一目惚れだろうが、悪くいえば単なる強姦魔である。
獣の繁殖期のような見境いの無さだ。
現実的な話、そのようなことになれば悲鳴の一つくらいは上がる筈。
部屋の場所からいっても、ネルガンあたりに聞こえない訳はない。
仮に、相手が抵抗をしなかった、ということであればそれはそれで、ある意味では問題がない。
中々に暇を持て余しているようだな、とアスラは首を少し傾けた。
右の首の筋が伸びるのを感じる。
心地が良い。
「したら困るのかえ?」
アスラは首に手を添えながらそういった。
ドーブは、おおう、などと狼狽したような感心したような妙な声をあげている。
海風が心地が良い。
髪と髪飾りが持ち上がっているのがわかる。
これでもう少し湿度がなければいうことはない。
「そりゃあな。
犯罪なんで。
しかし、あんた意外と冗談好きだよな」
ドーブもしていないと分かりきっていて口にしているのだろう。
苦笑しながらブロンドの頭を掻いている。
彼のいう通り、アスラは別に会話自体が嫌いな訳ではない。
状況としては、長い間独りでいたので、会話のやり方を失念していたというのが正しい。
頭で分かっていても、これが存外に難しい。
意識をしていないと、酷くぶっきらぼうになってしまうのだ。
この2年は本当に長かった。
暦としても、体感時間としても異様に。
ただ、幾らか錆が落ちて、口が回るようになってきたのも事実。
この船に乗ってから会話をする機会が増えて、勘が戻ってきている。
ずっとでなければ、人と話すのも悪くはない。
先のとおり、アスラの人生においての命題は『笑うこと』なのだ。
一人でにやにやするのはあまりに難しい。
「まあな。
これもリハビリだ。
お前は身体だろうが、おれは口だよ」
アスラは小さく笑いながら言った。
ドーブは、そうか、と薄く微笑んだ。
口元には、無精ひげが生え散らかっている。
アスラは横目で彼を見た。
ドーブは朝日を拝みながら、伸びたな、と短い髭をじょりじょりと手で撫でている。
前々から思ってはいたが、外界の男は髭が濃い。
端的に言って羨ましい。
今でこそ不本意ながら性別が変わってしまったが、アスラも男時代は髭を生やすのに大変な苦労をした。
〈守り人〉は目元から下の体毛が極めて薄い。
抜群に発毛効果があるという薬草が森の奥に生えているのだが、しばしばそれを採取してきては煎じて顎周りに塗ったものだ。
加えて、アスラは体質的に薬が相当に効きにくく、そういう意味でも難儀をした。
我ながらいい髭だった。
あれは、四十ほどから育毛を試み、苦節20年でやっと晩年に結実した努力の結晶である。
よもや、若返りの代償に消え失せてしまうとは。
考えようによっては、女になったことに比肩しうるほどに傷は深い。
ドーブは髭が鬱陶しいようだが、〈守り人〉の男性からしたらとんでもない贅沢だ。
世の中というのは、万事無いものねだりだな、とアスラはため息を一つ吐いた。
「それで、どうする?」
急に彼の声の質が変わる。
ドーブが、精悍な顔立ちから甘さを抜いて訊いてきた。
アスラは翡翠の目を細めてその変化を見た。
例の内通者の件だ。
暁が終われば、朝礼が始まる。
アスラは耳を澄ませて周囲の気配を探った。
波が船を揺らす音に混じって、寝息のようなものが聞こえてくる。
今晩の当直のものは、浅く居眠りをしているようだ。
船を危険に晒す途轍もない背信行為だが、この場に限っては都合がいい。
「お前にやってもらいたいのは、内通者と思われる人間のケアだ。
具体的には、精神的な部分での上がり下がりを監視して抑えて欲しい」
アスラは海風に髪を洗われながら言った。
船に塗られた薬剤の強い臭いが薄められる。
今回の作戦は、相手を封じるという目的が強い。
弾劾をしようという意味合いは薄いのだ。
最も恐るべきことは、必要以上に相手を追い詰めること。
それこそ、油でも撒かれて火をつけられでもすれば、この船はお終いだ。
〈船飲み〉を誘っていると思われる行為を防ぎ、ある程度の心理的圧迫を与える程度でいい。
軍事的な視点から言わせて貰えば、不穏分子として即刻の強制排除が望ましいのはそうだ。
だが、その者が内通者であるという確証すらない。
吊し上げた結果冤罪だったなどと、そうなれば船の秩序としては最悪だろう。
それもアスラ以外に聞こえない音によって判断がなされたとなれば、船員からすれば、圧制による理不尽極まる私刑という捉え方をして当然。
なんらかの難癖をつけるなら今だが、それも方法としては卑劣だ。
いたとしたら仲間を炙り出せないこともないが、純粋な善意による抗議がノイズになって踏み絵としては上手くない。
逃げ場のない海上だからこその迂遠な手なのだ。
「アスラ、本当に笛の音を聞いたのか?」
ドーブが、若干の憂いを含ませて尋ねてくる。
分からないでもない。
彼からすれば、この過酷な旅を一緒に切り抜けてきた仲間を疑え、とそう言われているに他ならない。
やはり、ドーブも音は聞こえなかった。
アスラの言葉を信じるか否か、ということがまず前提にある。
彼が現在進行形で行なっている確認の方法では、情報の照合としては意味がない。
嘘をついているかどうかを調べるなら、矢継ぎ早に質問をして、その内容に歪みや矛盾がないかどうかを検めてみた方が良いだろう。
つまり、彼はそのような意図で質問をした訳ではない。
信頼の依代にしたいのだ。
頓珍漢だろう。
けれども、嫌いではない。
「聞いたよ。
うるさい音だった」
アスラは、袋をかぶせた耳をぴこぴこ動かして言った。
ドーブが、あ、耳ぴこ、などと呟くように意味不明な感想を述べている。
何を言っているのだこの青年は。
「…いや、失礼。
あんたの耳は〈邪聴〉だもんな。
それほど長く尖ったやつは聞いたことはないが、多分〈雨琴耳〉だろ」
ネルガンも触れる程度に話をしていた。
〈邪聴〉。
あるいは、魔耳などとも呼ばれることがあるらしい。
異常聴覚、常人には聞こえぬ物音を拾ってしまう呪い、もしくは天資。
広義の意味では、呪い師も〈邪聴〉の持ち主と定義できるようだ。
ほとんどの〈邪聴〉は外観上に、何らかの特異な形質が見られる。
ドーブは、少し深掘りをしてくれた。
東の大陸にさる有名な楽器があって、それの形状に似た耳は恐ろしく音を拾う能力が高い。
三角錐を半分に割ったような風変わりなその弦楽器の名前を取って、〈雨琴耳〉の名が冠された。
高名な音楽家や、楽器の職人は、この耳を有しているケースが少なくないという。
〈邪聴〉の中では比較的穏便なものらしいが、その聴覚のあまりの鋭さから、地獄耳という物々しい異名までついているようだ。
確かに〈守り人〉は耳がいい。
そもそも、島の民が信仰するパブ=ダ神は、実際にその地獄耳と呼ばれるものを持つ。
神々がいます浄土を飛び越えて、苦しみが満ち溢れる穢土の地獄の中で、木の葉が一枚ばかり落ちた物音すらも聞き分けるとされる。
かの神は同様に、世界の全ての場所を覗くことができる千里眼を持ち、目を凝らせばその過去や未来さえも見透かすことができるとも言われる。
無論、〈守り人〉の民は通常そんなことはできないが、やはり五感はかなり鋭い。
ちなみに、アスラは故あって味覚のみやや鈍い。
料理がさほど上手くないのは、これに起因する不可抗力である。
「何にしても、おれがその音を聞いたという確たる証明はできん。
お前の葛藤は当然だろう。
まあ、耳ぴことやらに何か思うことがあるのなら、おれを信じてみてもよいのではないかえ?」
アスラは包帯のうちで微笑みながら言った。
彼のようなタイプには、このような言い回しが望ましいだろう。
肩の力も抜ける。
ドーブは、わかった、〈邪聴〉の耳ぴこを信じてみるか、などとやはりよく分からないが頷いている。
アスラは海原の方を向いた。
太陽が、曇りの空にゆっくりと登ってゆく。
夜が明ける。
カーン、カーンと静けさを破るように鐘の音が響き渡った。
細かい音の機微まで拾って見せる持ち前の〈雨琴耳〉が、力強くも澄んだ音色を鮮やかに頭蓋へと伝える。
起床を告げる朝鐘だ。
ネルガンの執務室の壁際には、真鍮製の大きめの鐘が掛けてある。
これはいわゆる号鐘と呼ばれる船の連絡用の鐘で、時間を知らせたり、当番の交代を合図したりする。
ネルガンは不思議な砂時計を持っている。
それは一日をかけて落ち、上が完全に空になると、ひとりでに逆さまになってまた落ちる。
それを確認しながら、彼は合図を打つのだ。
アスラもその時計が個人的に気になっている。
硝子の容器には必要以上の捩れが造形としてあり、内部の砂は青空のように澄んだ水色をしていた。
中央の容器を囲うように支柱が並んで、すぼまった部分を挟み込むように横棒が渡され、そこを起点としてくるくると縦軸に回転ができるような機構があるようだ。
かなり珍しい品らしいことはドーブから聞いた。
時間の管理をするものからしたら、垂涎の道具なのではないだろうか。
アスラとドーブは少しの間見合って船首から歩き出した。
橙の光の中に伸びる足元の影は、だんだんと短くなっている。
ドーブが前を進んで、デッキの中央に降りてゆく。
アスラは船首の高い場所からそこを見下ろした。
敷かれた木版は所々が歪み、持ち上がったり沈んだりしている。
側面の手すりは一部が欠けて折れ、その周辺の箇所は内側に凹むように船体が損傷しているのがわかる。
〈船飲み〉が残した爪痕。
ドーブの話では、あそこでコルビンスは負傷したとのことだ。
溺水もあったろうが、彼を死に至らしめたのは間違いなく腹元の深い傷だろう。
なんかあったか、とドーブが逆光に目を細めながら翻る。
ブロンドの髪がきらきらと海風になびいて、赤い光に照らされた包帯まみれの痛々しい姿が視界に映る。
アスラは少し目を細めた。
奴もそうだ。
戦士の魂である武具を失い、小さくない怪我を負う羽目にあった。
一連の事故は、何者かの策謀か、それとも単なる天災なのか。
アスラは、雲に覆われた天を見上げた。
綿の海につけられた火が延焼でもするように、赤い色が水平線より大きく空へ広がりつつある。
焼けて落ちるか、はたまた。
♢
穏やかな波の音に混じって、がやがやと雑談の声が響く。
水夫らが狭いデッキの上に集まり、統率が取れているような、いないような微妙な整列を見せている。
やや汗臭い雄々しい臭いが、海風に薄められて漂っていた。
護衛連中とドーブはその集団から少し離れた場所に並んでいる。
アスラはその最後列にいた。
よそ者であるということもあるが、この位置どりは理想的だ。
ネルガン以外の人間において、最も状況を俯瞰しやすいポジションに収まることができた。
表情こそ伺えないが、所作や無意識に出る動揺などを一方的に検分することができる。
それにしても、人口密度が高い。
この船は小ぶりらしく、甲板はそう広くないのだ。
ドーブが、振り向きながら、なんかいい匂いするな、などと軽口を叩いてくる。
この世で有数にどうでも良い話をなぜ今振るのか。
アスラは、おれの髪の香油だろう、と端的に返した。
朝礼が、今まさに催されようとしている。
朝礼は定期的に催されるようだ。
そもそも、水難事故と隣り合わせである船では、安否確認のために点呼を毎朝行う。
通常では、水主が音頭を取って〈始神〉と海の神への祈りが、簡易的にではあるが行われ、その後に点呼がなされるという流れらしい。
近々はセトナが床にふせっていたので、祈りはネルガンが見よう見まねで行っていたようだ。
細かな配置確認まで入ったり、あるいは全体への知らせがある場合は、格式ばって朝礼という形が取られる。
食料を勝手に盗んだり、作業の当番を怠るようなことがあれば、この場で注意されたり、あるいは罰が言い渡されたりもする。
そういう意味では、朝礼という形をとる場合は、少し穏やかならぬ雰囲気が漂うといっていい。
ただ、断罪される身に覚えがないものや、娯楽に飢えているものなどは、この瞬間を楽しみにしているような傾向もあるようだ。
やはり海上は娯楽が乏しい。
執務室の扉が開いた。
赤毛を後ろに撫で付けた長身の中年男性が部屋の暗がりから姿を現す。
ネルガンだ。
日焼けをした浅黒い肌の中で、海のような青い瞳が爛々と光を放つ。
整った赤毛の顎髭は、アスラの中でも評判がいい。
紺のチョッキの下に、クリーム色の仕立ての良さそうなシャツと黒の細めのズボン。
この厳しい環境の中で比較的身綺麗な装いは、いかにも威厳がある。
がやがやとした声がおさまり、水夫らも姿勢を正している。
これは、尊敬を集めている良いリーダーであるという証左であろう。
実際に彼は、嵐と化け物という難事を脱して、航海を続けられるだけの資源を再びかき集めてみせた。
運もあるだろうが、部下からすれば頼りがいはあるだろう。
少し遅れて、下の階の扉が開く。
黄色っぽい光の中で、この船の水主が甲板に足を踏み出した。
茶色っぽい髪に、ややつり気味の大きな灰の瞳。
セトナである。
昨晩話した限りだと、彼女は朝に弱いらしい。
毅然とした表情を取り繕ってはいるが、一瞬だけ頬が膨らんだように見える。
欠伸を噛み殺したのだ。
なるほど己で言うだけはある。
セトナは呪い師らしい長い杖を携えて、ネルガンを仰ぐように執務室を見上げた。
姿勢は美しいが、指先が曲がっている。
眠気はまだあるようだ。
「さて、諸君。
よく寝れたか?」
ネルガンはシニカルな笑みを浮かべながら第一声を発した。
まあまあだ、それなりに、と水夫らがまばらに返している。
下らないように見えて、このようなコミュニケーションが存外に大切だ。
気を払っているような言葉。
親しみやすさもあるだろう。
「では、祈りを行おう。
セトナ」
ネルガンがそう言うと、セトナは、はい、と短く答えた。
彼女はこちら側に体を翻して、いくつかの言葉を紡ぐ。
風が吹く。
セトナの髪が広がる。
「海の星なる神よ、荒れ狂う波から我らを守り、安らかなる港へと導きたまえ」
厳かな言葉。
海への尊敬と畏れを短く表したような祈り。
水夫連中もそれを復唱し、重なるようで重ならない祈りが海へとなされる。
セトナは小さな布巾のようなものを取り出して、その一端を摘んで腕を伸ばした。
布巾はだらりと広がって、海の風にゆられる。
これは、風を占う儀式だという。
帆船は風を受けて走る。
進みたい方向に風が吹くとは限らず、それこそ向かい風など吹こうものなら帆を畳んで機嫌を窺うしかない。
ドーブが言っていた。
船は神の乗り物なのだと。
何故かといえば、人は厳密にそれを操作できないからだ。
世界のどこへ向かうかは、風と海の流れが決める。
つまり、神が船を導くのだ、という信仰が底に流れているらしい。
面白い宗教感だ。
「良い風です。
きっと港へとつけるでしょう」
セトナは微笑みながらそう言った。
水夫連中も頷いて、そうだよな、帰れる、と呟いている。
良い働きかけだ。
水主というある意味では最も海に近い人種がそう言えば、嘘だとしても信頼はされる。
士気を落とさないようにするマネジメントとしては上策だろう。
ネルガン発案の巧手か、あるいは本当にセトナの占いにはそう出たのか。
「では、点呼を行う」
ネルガンがそう言って乗組員の名前を読み上げ始める。
水夫連中は己の名が出るたびに返事をして、体調などを伝えてゆく。
これは船の健康管理をも兼ねているのである。
中頃に差し掛かって、ある水夫の名前が呼ばれる。
「テザム・オンモル」
はい、と返事がなされる。
海の男らしい力強い声。
赤いバンダナを頭に巻いた、中肉中背の三十がらみの男。
アスラの脳裏には、一昨日の夜半の光景が映し出されていた。
闇が垂れ込めたマストの上で笛を吹く男。
一帯に響き渡る、〈船飲み〉の鳴き声に酷似した高音域の音色。
このテザム・オンモルこそが、ネルガンの疑念の渦中におり、そしてアスラが笛の奏者だと目視で特定した人物なのだ。
彼は、煩わしくない程度に明るく、仕事は真面目で、ドーブも、仕事場にいたら快いタイプだ、と口にしていた。
態度に刺々しさはない。
この船を沈ませようなどという狂気は、今の所うかがえない。
一方のネルガンも平静そのもので、語調が強いだとか、目つきが険しいだとか、そのようなことはない。
企みを気取られることはまずないだろう。
そうこうしているうちに、アスラの名前が呼ばれる。
本名は非常に長いので、『アスラ・カルナ』でいい、とネルガンには伝えてある。
名前は大事だが、機能性もまた重要だ。
はい、と答えて、健康状態に問題はない旨を申し添える。
ネルガンは、全員いるな、と頷いた。
動きそうだ。
連絡事項がある、とネルガンがいよいよ本題を切り出した。
「さて、諸君。
〈聖地〉から出港して2日ほど経つが、実のところ困りごとがある。
ああ勿論、旅が長くて飽きてきた、ということではないが」
ネルガンが軽快に言葉を並べる。
少しの笑いも起きた。
上手い。
緊張を削ぎながらも、うまく話を繋いでいる。
「私は一昨日、酷い頭痛に襲われたのだ。
まるで笛の音色のような幻聴も聞こえ出し、〈船飲み〉の鳴き声にすら重なって思えたのだ。
〈聖地〉に入ったことによる、何らかの作用だとは思うのだが…。
私は一応この船の責任者という立場があるので、できれば体調を万全に戻したい。
また、このような病理を示すものが私以外に出ないとも限らない。
症状に心当たりのあるものや、良さそうな療法を知っているものがいれば、ご教示いただけると助かるのだが」
良い言い回しだ。
断定はせず、音のようなものがネルガンに対して明らかな作用を与えていると、そのようなニュアンスの発言。
それも、〈聖地〉をきっかけとして、特殊な病を得てしまった、というエピソードまで付随している。
〈船飲み〉と笛の音色を漠然と重ね合わせるという、最も行って欲しくないであろう行為を、偶然を装って行っている。
強い踏み込み。
相当に圧力のかかる発言。
何だろうな、などとにわかに騒めく甲板で、ぴく、と少々毛色の違う反応を示したものがいる。
例の水夫、テザムだ。
え、と小さく呟いたのをアスラの耳は拾っていた。
夜半に笛となれば、流石に因果は明白だ。
テザムの笛がネルガンに何らかの影響を与えていたのは殆ど間違いない。
ここで申し出れば、それは悪意の無い信仰などによる演奏だったと分かる。
ネルガンは怒っている訳ではなく、何だろう、という疑問を投げているだけだ。
申し出ないのであれば、それは後ろめたい何かがあると言外に説明することになる。
誰が笛を吹いていたか判明しているのであれば言い逃れはできないが、今はそれが叶うのだ。
逃げ道と思われている場所は、実のところ最も強く光があたり、何ら隠れられない場所だったなどと、夢にも思うまい。
テザムは、結局手を挙げることはなかった。
発汗が多い。
動揺は目に見える。
他の水夫で、特筆した反応を示したものはいなかった。
単独犯の可能性が高いだろう。
「うむ。
何か思いついたものは、遠慮なく私に言ってくれ。
その他、何か共有したい事項があるものはいるか?
いなければこれにて解散とする」
アイサー、と声が重なって、各員が散ってゆく。
テザムも、汗を拭いながら持ち場へと歩んでいった。
アスラとネルガンは、微かに視線を合わせて小さく頷きあった。
最後に、ドーブの背中を軽く小突く。
ドーブはやや険しい顔をして、ああ、と小声で応えて離れて行こうとした。
あまり良くない傾向だ。
確かに疑念はかなり強まった。
ドーブからすれば、テザムが親友の仇である可能性がぐっと増したということだ。
心中穏やかでないのは当然だ。
アスラは、おい、とドーブの服を掴んで近くに寄せた。
うおおっ、などと力の強さに狼狽して、たたらを踏んだ彼の頬に掌を静かに添えて、アスラは言った。
「殺してもいいぞ」
我ながらなんと穏やかな声だろうか。
ドーブは、驚愕の表情を浮かべて、その後に難しい顔になった。
釘を刺されたのを承知したのだ。
ただ、アスラとしては半分は本心である。
人殺しは、人に殺されなければならない。
ドーブは、苦い表情のままゆっくりと姿勢を正した。
「分かった。
分かっているさ。
ここで殺すよりも、相手の本当の意図を探った方がいいんだろ?」
「そういうこと」
阿呆、馬鹿、耳ぴこ、などと悪口らしい言葉を並べながらドーブが去ってゆく。
賽は投げられた。
吉と出るか、凶と出るか。
アスラは腕を組みながら、しかし、耳ぴことは、と首を捻った。
♢
日が沈んで随分の時間が経った。
アスラは例のごとくネルガンの執務室へと赴き、意見交換を行なった。
ネルガンの中では、テザムは殆ど黒に近い。
彼にしては珍しく、強い憤りを滲ませて言葉を吐いていた。
リーダーとして怒りに任せて振る舞えないのだろうが、それでも漏れ出るものはあるようだ。
アスラも同様の意見だった。
テザムは、罪ともいえないような軽い迷惑で済むうちに、自己申告をしなかったのだ。
ネルガンは圧制を敷いている訳でもなく、針の筵になるような言い方も努めて避けていたのにも関わらず、だ。
裏は間違いなくある。
アスラとネルガンは長くならないように話を終えて、また監視に移ることにした。
今は、犯人が動く可能性が最も高い。
強く追い詰められ、別の手札を切らんとしていても不思議ではない。
アスラは執務室を後にした。
夜空は昨日と一緒で、厚い雲に覆われて、その模様を伺うことができない。
海らしい磯っぽいような匂いと、甲板の薬じみた香り。
ずいぶんと嗅ぎなれてきた。
すると、アスラの耳が妙な音を拾った。
セトナの部屋の前に誰かがいる。
食料の配給はすでに済んでいる。
特段の用がなければ、水主の部屋へと足を運ぶ必要はない。
アスラはにわかに翡翠の瞳を細めて階段を降りた。
壁に張り付くようにして、水夫が俯いていた。
テザム・オンモルだ。
日中、彼は特段の動きを見せなかった。
表情には焦燥のような感情が見て取れたが、それのみだ。
仕事も無難にこなしていた。
ただ今は、明らかに元気がないように思える。
アスラは階段を降りながら、テザムの懐を注視した。
明かりがないので通常であれば見て取れないだろうが、微かに膨らみがある。
小ぶりの刃物か。
何か、強行な手段に出ようとして踏ん切りがつかなかったのか。
狙いは、セトナかネルガンだろうか。
アスラがネルガンと話をしていたので、動けなかった、と取るべきかもしれない。
当直の水夫も別で甲板にいる。
船の後方を見れば、ドーブが夜風に当たっていた。
奴もしっかりと動いているようだ。
「もし、どうなされた?」
アスラはテザムに声をかけた。
水夫は、びく、と明らかに体を跳ねさせて、顔を上げた。
月のない暗さも相まって、幽鬼のような表情に見える。
ネルガンの揺さぶりは間違いなく効いている。
あるいは、効果がありすぎたか。
心中まがいの凶行を実施しようと画策していたのであれば、精神性としては破綻がありつつも図太いものがある、とアスラは犯人像を捉えていた。
けれども、誤りなのかもしれない。
ただ、闇を抱えただけの普通の人間。
世の中が、ひたすらに荒んでいるだけなのかもしれなかった。
「お、お前…。
ああ、確かアスラだったな…。
何のようだ」
複雑な心持ちが顕在化したような、ふらふらとした会話。
己が今、外からどう見えているのか、ということが俯瞰できていない。
「気分が悪いのかえ?
俯いていたようだが…」
セトナの部屋の前。
ドーブが目を光らせていたとはいえ、やや危険な域にはあった。
ただ、最もわかりやすいのは、現行犯での捕縛だ。
セトナやネルガンを狙って凶刃を振りかざした、となればこれは流石に言い逃れができない。
勝手に部屋に入ろうとするのも、また然りだ。
セトナの部屋には鍵がかかるようになっている。
今は施錠がなされており、防犯としては一定の効果があるだろう。
故に、ドーブは状況を見ていたのだ。
ネルガンがアスラと己以外のものには部屋を開放しないように、と彼女に申し伝えたようだ。
昨晩、セトナの無防備な祈りは、リスクマネジメントとしてどうなのだ、と寝る前にネルガンに忠言したところ、あの子は何をやっているのだ、と彼が頭を抱えていたことが思い出される。
組織運営も苦労が絶えない。
「何でもない」
そう言って、テザムは俯いた。
アスラは視界の端で何者かが動くのを感じた。
ドーブだ。
船の奥からこちらへ降りてくる。
大きな足音が、ごとん、ごとん、と甲板に鳴る。
「よう、テザム。
見てたが、調子が悪い感じだな」
気さくな笑みを浮かべてドーブがいう。
ただ、目が笑っていない。
その奥に、煮えたぎるような憤怒を確かに感じる。
「平気だよ。
ほうっておいてくれ…」
アスラとドーブは一瞬だけ視線を交錯させた。
この位置にテザムを放置する訳にはいかない。
いかにある程度の防犯ができているとはいえ、安全である保証はどこにもない。
人の多い船倉で、ドーブや周りの目がある状態の、監視下におくべきだ。
どう動かす。
あまりにここに居座るようであれば、不審ではあるので、連行の大義名分にはなる。
時間を置くか。
アスラがそう判断しかけた時、セトナの部屋の施錠がとかれるような音がした。
何だ。
少しして、扉が開かれる。
もとより、灯りがともっていたので、彼女が居るのは分かってはいた。
しかし、なぜ部屋を開放したのだ。
「あの、大丈夫ですか?」
扉の隙間から、明かりとセトナが顔を出した。
この娘は、アスラが評するに純粋で非常に優しい。
人並みに警戒心はあるが、懐に入ってしまえば、それも随分薄くなる。
船に乗って長い連中との仲であれば、セキュリティなどあってないようなものだ。
外からの会話に耳を立てて、テザムが心配になったのか。
ネルガンが頭を抱えるのもわかる。
これでは策を弄するまでもなく、ほいほいと外へ誘い出されてしまい、防犯も何もない。
彼女の善意は、暗い海に灯された松明のようなものだ。
迷えるものに道を示すのだろうが、同時に招かれざる魔を誘い寄せる。
優しいものは、生きられない。
故にこそ、護衛などがこの世には要るのだろうが。
「あ、ああ…。
いや、何でもない。
何でもないんだよ」
テザムは見るからに焦り出した。
やはり、狙いは彼女か。
距離は近い。
すぐに武器をはたき落とせるように備える。
幸い、アスラの服の裾は広く、長い。
先の方は透かすような織り込みになっているが、動きは気取られ辛いだろう。
「いや、でも…。
テザムさん、お辛そうですが…。
もしかすると、ネルガンが言っていた不思議な症状でしょうか?」
この娘は偶にネルガンを呼び捨てにする。
アスラは思う所があるが、深入りはしていない。
セトナはあくまでもテザムを気遣っている。
清い子だ。
このような暗い策謀に巻き込まれるべきではない子供。
「ああ…。
その…」
テザムの様子がいよいよおかしい。
懊悩が全身を覆っているようだ。
目線は定まらず、言葉は澱む。
どうした。
何と戦っている。
善意か。
それとも、悪意か。
「…なあ。
なあ、セトナ…。
歌を、祈りの歌を聞かせてくれないか。
君が、隠れてうたっている、あの不思議な歌…」
テザムは、何かを飲み込んだように、そう言った。
迷って、迷って、聖職者に救いを求めているようだった。
彼の息遣いが、逃げるようなものから、縋るようなものへと変わる。
歌。
何だろうか。
彼女が祈ることはアスラも承知している。
しかし、歌とは。
神に捧げる、讃歌のようなものか。
テザムは、心を洗って欲しいのだろうか。
悪くはないかもしれない。
自白へと誘導できる可能性が見えてきた。
ドーブと目が合う。
奴は、力強く頷いた。
私刑には走らないということだろう。
「いや、あの…。
あれはおと、いやネルガンに禁止されておりまして…。
その、隠れてだったらいいのですが…」
すぐに引っ込めた単語は一旦いい。
歌を禁止する。
どういうことだ。
この娯楽の少ない船の上で、音楽や歌などは、悪くないストレス解消に繋がる筈。
つまり、これは単なる禁止事項ではない。
深い意味のある抑制。
祈りの歌。
ある種の呪いなのか。
彼女は祈祷の名手。
それが、この船の上で大きな効果を持っている、ということか。
「頼む、頼むよ…」
腹芸ではない。
彼は今、何かに救いを見出している。
神とは、祈りとは、元来そのようなもの。
どうしようもない時に、世界に責任を転嫁したり、あるいは無に可能性を幻視したりする、歪で美しいもの。
テザムは、セトナに神を見ている。
この海の化身に、己を救済して欲しいのか。
彼女を害そうとして、よくやる、とは思う。
〈船飲み〉を、おそらく誘引し。
コルビンスを副次的に殺害し。
この船を、見知らぬ〈聖地〉へと流し果たした。
邪悪。
まごうことなき咎人。
しかし、人は強くはない。
邪悪で、穢れていて、それでも笑って、そして儚い。
テザムは、まさに人らしい。
怖いのだ。
恐ろしいのだ。
「テザムさん…。
分かりました。
ネルガンには秘密ですよ?」
おじおじと、静かに扉を閉めてセトナは甲板に身を晒した。
船首の方へと、3人で歩く。
無言のまま階段を登り、暗い海原を望む。
光のない空。
重い雲が垂れ込めて、一面の闇に見える。
セトナが、声を出した。
まるで、澄み渡った氷晶のような、危ういほどに綺麗な声質。
何の言葉だろうか。
アスラもこの言語は知らない。
いや、あるいは明確な単語や接続はないのか。
世界に語りかけるような、とろけるような歌。
特異な歌唱の方法だ。
アスラは己の〈雨琴耳〉をぴこぴこ澄ませた。
何か、複数人が声を出し合って斉唱をしているような音の重なり方がある。
しかし、肌寒い。
アスラは周囲を見渡した。
船首に、微かに霜が降っている。
ここらの気候に似つかわしくない、冷涼な風が正面から吹き付ける。
白い何かが、視界に映り込んだ。
風花である。
音のない暗黒の海原に、静かさが重なるように、しんしんとそれが落ちてくる。
いや、これはれっきとした雪だ。
よもや、歌の一つで天候を完全に操ったというのか。
なんだこの呪いは。
アスラが戦争で見てきた様々な術の中でも、規模だけでいえば比較的に大きい方だ。
明確に天を操るなど、尋常ではない。
戦争当時はこんなものだろうと思っていたが、改めて考えれば、あれらも異常だろう。
雷を豪雨のように降らした呪い師もいたか。
ネルガンは、何を思ってセトナのこれを禁止している。
祈りとしてあまりに絶大な効力を持っており、それが悪目立ちをするためか。
あるいは、アスラが察知できないような、強力な効果がまだあるのか。
「綺麗だ…」
テザムは、涙を流していた。
吐く息は白く、落ち着いている。
闇を少し薄めるように、雪が海原に白い点を落とす。
幻想的な光景だ。
アスラも包帯越しに息を吐いた。
気温が随分落ちてきている。
当直の水夫が、くしゃみをする音が聞こえる。
あ、とセトナ歌を止めた。
雪は穏やかになり、船首の霜が薄くなる。
アスラは首を振るった。
髪にまとわりついた雪がぽろぽろと落ちてゆく。
「あの、これくらいで宜しいでしょうか?
これ以上は船長にバレてしまうので…」
セトナが困ったように告げる。
テザムは、未だ風花の舞う暗い夜空を見上げていた。
涙が音もなく流れる。
表情は、どこか晴れやかに見えた。
憑き物が落ちたようだ。
「ああ、ああ…。
ありがとう…。
ありがとう…」
アスラはドーブに目配せをした。
彼はいよいよ複雑な感情を抱えて頷いた。
親友の仇。
けれども、触れれば崩れてしまいそうな脆さ。
人とは、何と捉えるのが難しいのか。
アスラは、良いか悪いか、基本的に感情が優位にはならない。
しかし、内心では冷たい意志が蠢いてはいる。
かの、優しい男を亡き者にせしめた外道。
首を引っこ抜いてやりたいような感情もなくは無い。
だが、今ばかりは実利を取るべきだ。
テザムの堰は、決壊が近い。
寄り添ってやりながら、その真意を引き出すのが最も長期的な利益につながる。
耐えろ、ドーブ。
偽りでいい。
冷たい抱擁でいいのだ。
腑を吐かせるように自白をさせてやれ。
本当に臓腑を引きずり出すのは、その後でもいい。
「ちょっと、心を落ち着けてもいいか…。
飲み物でも飲みたい」
テザムは、ドーブへ向けてそう言った。
ドーブは、分かった、と同伴した。
奴がついていれば平気だろう。
船倉では人の目もある。
おかしなことはまずできない。
比較的親しいドーブがうまくテザムをケアできれば、その本懐が知れる。
恨みか。
それとも、何者かの指示か。
彼の様子を見ると、やや後者よりな気もしないでもない。
船ごと沈めようという深い怨恨があるのであれば、葛藤などしないでセトナを殺害していた筈。
奴は、良心と戦っているように思えた。
ネルガンから、先ほどテザムが行ったであろう破壊工作についても証言があった。
食料への毒物の混入、そして船底への穿孔。
どれも、中途半端に終わっている。
前者は軽度の食中毒、後者はあっさりとコルビンスに発見されて、修繕されている始末。
何か、気づいて欲しかったのか。
己の置かれた立場を。
そして、どうしようもなくなって最後の手段である、〈船飲み〉を呼ぶ笛を使ったのではないか。
脅迫、あるいは、それに近いような強権的な指示。
裏で何かの意志が、彼を捨て石の傀儡にしているような気がしてならない。
「アスラさん、テザムさんは平気でしょうか…」
セトナがいかにも物憂げに訊いてくる。
大きな灰色の目は、下がった眉に合わせるように少し沈んでいる。
諸手を胸の前に抱き、船内へと降りる縄梯子を見つめていた。
「分からないな。
おれが一つ言えるとすれば、自分の機嫌は自分で取らなければいけない、ということだ。
欺いても、抗っても、嫌っても、絶対に他人にはなれないからね」
セトナが、無理してから元気を出していた、ということですか、と聞き返してくる。
なるほど、ややこしい言い回しになってしまっていた。
アスラは、そんな所さ、と包帯越しに微笑んだ。
はい、と返しながらも彼女は腑に落ちていない。
知る権利はある。
しかし、知る必要はない。
セトナは部屋へと帰って行った。
アスラがそう勧めたのだ。
何があるかわからない。
ネルガンがそう決めたのなら、アスラも船員としてそれは尊重する。
彼の位置を揺るがしかねない。
アスラは、手すりに残った霜を撫でた。
石を擦り合わせるような音がして、少しばかり氷が剥がれる。
手甲越しでも冷たい。
不思議な術だ。
海へと落ちた雪は、すでに溶けてしまっている。
まるで、一瞬の幻のような光景だった。
アスラは耳を動かした。
甲板の下がなにやら騒がしい。
バタバタと人が走り回る。
さらに耳を澄ませる。
医者、などという単語が識別できた。
なんだ。
テザムが癇癪でも起こして、懐の刃物でも取り出したのか。
甲板のハッチが開け放たれて、ぎしぎしと縄梯子を登る音が聞こえる。
声がはっきりと聞き取れるようになった。
船長を呼べ、などと焦った声が挙げられている。
ブロンドの髪が床から生えてきた。
ドーブだ。
「アスラ、アスラ!
テザムが毒を飲んだ!」
「なに…!?」
馬鹿な。
毒を飲んだだと。
血の気が引いてゆくのを感じる。
何故この可能性を重視しなかった。
アスラは己の不甲斐なさを呪った。
船員の毒殺を試みたということは、それが今も残っているかもしれないということだ。
先の会話。
自分の飲み物にそれを添加し、自死を図ったというのか。
失策だ。
このままでは、この事件の真相は闇の中に消える。
「ドーブ、ネルガンに報告を。
テザムはどうだ?
息をしているか?」
「浅い。
多分良くはない」
「ありがとう」
言って、アスラは船蔵に飛び降りた。
音もなく着地がなされ、アスラはそのまま前傾した。
皮肉なものだ。
死ぬべき相手の命を気にかけざるを得ないとは。
しかし、これもまた人の世の常だ。
暗がりに人影がある。
「おい、テザムは」
アスラは、廊下にいた水夫を捕まえて訊いた。
水夫は、じっと船蔵の奥を見ていた。
彼はアスラを一瞥して、また船倉の奥に視線を戻した。
息は荒く、弱いランプの灯りに汗が光っている。
妙に静かだった。
嫌な予感がする。
「今、奥から連絡があった。
死んだよ」
一瞬また、アスラと視線が交錯した。
それは睨むようでも、縋るようでもあった。
単に仲間の死を受け止めきれていない男がそこにいる。
死んだ。
死んだだと。
これほどに呆気のないものか。
自死。
手が震える。
脳裏にへばり付いた、血の凍るような光景が蘇る。
口の中が乾く。
どうしてもこれが好きではない。
アスラは、身体から力が抜けるのを感じた。
廊下の壁に手をついて身体を支える。
「そうか」
やっと返事を返す。
バタバタと上階から足音が聞こえる。
アスラも、じっと船倉の奥へと視線を投げた。
わずかな灯りと、人の声が漏れている。
♢
アスラは、ネルガンと共に船首で曇天を仰いでいた。
先ほどまで船上では、テザムの葬儀が執り行われて、喪にふくした重苦しい雰囲気が未だそこに残されている。
あまりに静かな夜。
先ほどまでは嘆きや悲しみで満ちていた甲板は、闇だけが垂れ落ちて、物音すらもしない。
風もなく、波もまた弱い。
凪だ。
「笛が彼の持ち物にありました。
アスラ殿に音も確認して頂いた。
動きや反応からしても、テザムは犯人でした」
ネルガンが独り言のように呟いた。
手には、何か骨でも削って拵えたような、白っぽい笛がある。
例の呼び笛。
テザムの品だ。
船長であるネルガンが、一時的に預かっている形になっている。
その笛からは、確かに〈船飲み〉のような音が鳴った。
テザムはこれを処分しなかった。
あるいは、これが何らかの証拠になると、残したのか。
分からない。
彼は、神の国へと旅立った。
「…そうだな。
ネルガン、何か心当たりはないかえ?
貴殿も承知しているとは思うが、これは大きな陰謀のひとかけらである可能性が高い」
ネルガンは商会という組織に属している、それなりの立場がある人間だ。
敵がいないということはないだろう。
例えば、商売敵。
あるいは、内部で競争をする身内。
視野をさらに広げれば、『国』とかいう大きな枠組みの仕掛けたものであるということもあり得なくはない。
狙いは、船か。
はたまた、ネルガンか、セトナか。
背景の解像度が未だ高くない。
あらゆる線が見えて、推理にならない。
「それは…」
ネルガンは少し言い淀んだ。
何か心当たりがありそうだ。
アスラがそれを追求しようとした、その時であった。
何かが聞こえる。
穢れのないような、澄み渡る声。
セトナの歌か。
「また、彼女が歌っているのかや?」
アスラは揺さぶりも兼ねて、ネルガンへと言葉を投げつけた。
ネルガンは、怪訝な顔をした。
これは、見覚えがある。
笛の音が聞こえると、最初に伝えた時の表情。
まさか。
「どうされました?」
彼には聞こえていないのか。
馬鹿な。
なんだこれは。
いや、よく聞けば先ほどの歌とは違う。
斉唱のように、声が重なっているような感覚は受けない。
独唱だ。
しかし、誰が。
アスラは後方を振り返った。
セトナの部屋に明かりはない。
彼女は先ほど深く悲しんで、少なくない涙を流していた。
疲れたような様子もあった。
あるいは、セトナならばテザムを弔って歌う可能性もあるのだろうが、音源は船の方にないのだ。
海だ。
海原から歌が聞こえる。
「あれは…何だ」
ネルガンが海原に向けて言った。
アスラは身体を翻して、ネルガンの視線を追った。
暗い海に、何かが見える。
船。
船か。
そして、異変はもう一つあった。
アスラはやはり片方の手のひらを上へと向けて、それを乗せた。
風花。
闇の空から、また雪が落ちてきている。
何が起こっている。
我々は、今何に遭遇しているのだ。
アスラはよくよく目を凝らした。
随分と遠い位置にその船はある。
しかし、望遠できないほどでもない。
じっと目に〈力〉を込める。
視界が暗い海原を走り、その船を捉えた。
アスラは目を細めざるを得なかった。
これは、廃船だ。
この船に対して垂直に位置取りをしている。
船上は荒れ果て、帆を張るためのマストは曲がって折れている。
人気は無く、どうしてか妙に輪郭が青白い。
いや、よく見れば船首の方に誰かがいる。
白地の丈の長い服を纏った、線の細い、恐らくは女性か。
彼女だ。
彼女が、この歌を歌っているのだ。
栗色の髪に、灰色の瞳。
どうしてか、セトナに良く似ている気がした。
「ネルガン、船に誰かいるぞ」
「アスラ殿にもあれが見えるのですか…」
彼女も、海原に向かって歌をうたっている。
白い雪が降る。
まるで、空の雲がちぎれて舞っているようだ。
その遠くの船が、ゆっくりと向きを変えた。
船首をこの船と平行にして、船尾しか伺えなくなる。
舵をとっているものなどいない。
歌が、次第に遠ざかってゆく。
そして、その船は降りしきる白い雪の中に消えていくように見えた。
アスラの目はそれを確かにとらえた。
船は、まるで雪の彫像が溶けて水に帰るように、その形を失ってゆく。
夢か、あるいは幻か。
不思議な歌は止み、雪も随分と弱まった。
厚い雪の雲に、切れ目が見える。
久しく拝めなかった夜空が、その間から、深い藍の色の下地のごとく顔を出す。
ネルガンが身を乗り出して、その裂け目を覗いている。
「馬鹿な…!?」
ネルガンの声は震えていた。
次第に月明かりが広がって、空が明るくなってゆく。
アスラは、その空に見覚えがなかった。
〈聖地〉の天は、まやかしのように消え果てている。
数日前に見た星の明かりは、一つたりともそこにない。
闇の中に漂う風花が、まるで星の屑が削られて細かく舞うように、海風に乗っている。
ネルガンが言った。
知っている夜空が帰ってきました、と。
抜け出たのだ。
故郷の島の海域から。
アスラは、思わず呟いていた。
「何が起きているのだ…」
ネルガンは白い息を吐いた。
分かりません、という小さい独白と共に。
白い雪の結晶が、アスラを通り過ぎて甲板に落ちた。
それはすぐに色を失って、闇の中へと溶けていった。
用語集
・邪聴
異常聴覚。邪耳とも。邪視や邪触と並ぶ、五感異常の一つ。
天恵とも呪いとも評価され、いずれも常人には聞こえない音域にまで聴覚を澄ませることができる。ものによるが、聴いた音を媒介にして、現実に干渉をするような危険な耳もある。
作中では地獄耳の異名を持つ、『雨琴耳』が登場している。




