1章(2) 水主
アスラは船首に立って朝焼けを望んでいた。
揺れる地べたに、少しずつ視界が動くのが面白くないこともない。
何もない藍色の画布に鮮烈な橙の色が小さく落とされて、しだいにそれが丁寧に広げられてゆく。
ネルガンが頭を抱えていた星々の光が朝日に塗り重ねられて、次第に細くしぼむように消える。
雲ばかりが、そこに黒っぽく、けれども赤いような色をたたえて残った。
海風は穏やかで、しかし酷く湿っぽい。
結った髪がじとじととしている。
アスラは後ろ髪をかすかにかき上げて、首を振るった。
昨日、この船の執務室にて船長たるネルガンから非常に興味深い話があった。
要約をすれば、なんらかの内通者がいるかもしれない、という内容だ。
この船を襲ったとされる化け物鯨、〈船飲み〉。
それが、その内通者によって誘き寄せられたものではないか、という推理がネルガンの中にあるらしい。
夜半に聞こえた笛。
強く、甲高い音。
黄虎の若輩が足を伸ばしていた浜付近で、嫌に響いていたかの化け物の鳴き声。
似ている。
その高い部分の音域を意図して取り出したような音だった。
ネルガンら、この船の人員はその音を拾うことはできないらしい。
〈船飲み〉は、この船の人員からすると、手に余る存在であるということはドーブやネルガンの証言から明らかな事実である。
ドーブは、勇敢にもその化け物に立ち向かって、剣を一本失い、大怪我を負ったとか。
無謀だ、ということはできるが、他に手がなく、一種の時間稼ぎなどを考えていたとすれば愚策ではない。
それでも、捨て身の動きではある。
〈船飲み〉を刺激する行為でもあるので、激しく船を襲わせる糸口になってしまう懸念もまたある。
殆ど博打だ。
先日その話を当人から直接されて、阿呆、と忌憚なき意見を思わず口にしてしまった。
受けてどこかしょんぼりとしたドーブが流石に可哀想だったので、まあ、勇気はある、と一言添えると、実に嬉しそうになった。
まあ、困った。
想像以上にかわいいやつである。
ドーブは今現在、療養をしている状況だ。
護衛ではあるが、戦力として数えることはできない。
非常に性格の悪い捉え方をすれば、見知らぬ異文化の人間を勝手に勧誘し、限りのある食料を食らうだけの穀潰しではあるのだが、彼の性格とこの船への貢献の大きさからか、煙たがられることはないようだ。
アスラからいわせれば、ここは海上の閉鎖空間。
他人と諍いでも起こすようなことがあれば、逃げ場はない。
神経を使って交友を図るべき場所だ。
そんな中、明らかに異色の人間を強気で勧誘し、それを咎められていないドーブは大したものだ。
強い信頼を集めている。
コルビンスのこともあるのだろうが、彼は彼で立派だ。
思考が横道にそれてしまった。
ドーブがどうにもノイズになる。
海風が髪を撫でるのを感じた。
包帯は常に湿っぽく、やや不快である。
翡翠の瞳を朝日に細めながら、アスラは再度内通者のことに思考を尖らさせた。
その内通者が行わんとしていることだが、これは大規模な無理心中と形容して過言はない。
あの化け物を使って、この船ごと海に沈もうとしていた訳だ。
今もその笛を吹いているということは、未だ諦めてはいないと取るべきだろう。
〈船飲み〉はここらの海では見かけない生物ということであれば、複数頭いる可能性はさほど高くはない。
あるいは、招くのに時間がかかると見るべきか。
どうすべきか、とアスラは頭を捻った。
このまま内通者が笛を吹き続けて〈船飲み〉が再び現れるとしたら、それは阻止すべきだ。
早い話が、海上にいるうちの安全を考えれば、今すぐにでも始末してしまった方がいい。
食料についても浮き、完全に脅威を排除できる。
ただ、問題はいくつかある。
まずは、内通者が一人でなかった場合だ。
仮想敵の作戦の主眼は、この船を沈ませるか、あるいはそれに伴い、積んでいる荷、あるいは人材をなきものにすることとしていいだろう。
内通者が複数人いて、そのバックアップをするべく致命的な破壊工作をされる、ということも想定できうる。
ようは、どこまで考えるか、ということになる。
私怨にしては、行っていることの規模は大きいだろう。
20名強を道連れにしようなどという凶行だ。
動機はなんだ。
復讐、それも複数人を対象とした大きな憎悪。
あり得る。
なんらかの共通点が船員にあるかもしれない。
狂人による文字通りの狂気的な犯行。
可能性は低い。
刹那的に生きているのであれば、隠れ潜んで笛を吹いたりはしない。
最も厄介な、裏でなんらかの思惑を持った陰謀が蠢いている例。
十分にある。
交易を担うという立場、運んでいる荷物の価値、20名規模の団体。
ラベルをつけられる箇所は多い。
そういう意味では、この船が港に帰ってからのことまで想定し、大きなダメージは避けつつ、容疑者を適当に泳がせて、その背景に何があるのか、指示をしているものがいるのか、炙り出すのが望ましい。
朝の静けさを破るように、甲高い音が響き渡った。
アスラは眼球だけを動かして、後ろに気を配る。
例の笛だ。
アスラが背を向けているので、隙をついて吹いたのか。
大きな音である。
ほとんど刺激といっていいような刺すような高音。
寝ているものも流石に異常を感じるであろう。
聞こえていれば、の話だが。
長く聞いていたら、耳がおかしくなりそうだ。
だが、実のところ、頭を冷やした方がいいこともある。
そもそも、笛を吹いているものが本当に内通者なのか、ということ。
ネルガンの推理には妥当性はあるが、とりあえず確証がない。
笛は、なんらかの魔除けや、郷土の品で、人気のない場所で演奏するのが信仰や願掛けということもあり得るだろう。
ただ、これに関しては確認の方法がいくらでもある。
ネルガン自身がなんだが高い笛の音が聞こえるんだ、頭が痛いから心当たりがあるものはやめてくれ、などと適当に注意を促せば、流石に動きにくくなるはず。
聞こえないとされている筈の音が聞こえていた、というのは精神的な攻撃として十分な威力を持つ。
内通者でない場合はそれをやめるだろうし、内通者ならば他の手札を切らざるを得ない。
つまり、〈船飲み〉に頼らない船を沈ませる手段に注意を払えば良くなる。
食料か、あるいは船そのものへの工作、それか有用な人材を害するか。
もう一度ネルガンの部屋で話をするべきだろう。
ネルガンは、今や誰も信用できない疑心暗鬼に陥っているはず。
ある意味では、アスラを乗せられたのは奇跡だ。
ネルガンが頭を悩ませる〈聖地〉なる区分の、魔境の異邦人。
孤島に偶然いただけの、完全な部外者だ。
そんな人種に対し、裏切りなど想定する必要はない。
船に乗った動機からしても、内通者に唆される可能性は皆無。
力になってやるべきだろう。
さて、とアスラは陽光へと背を向けて口元の包帯を解いた。
朝飯である。
懐から燻した干し肉を取り出す。
食糧庫に貯蔵してあった分のものだ。
ひとかじりして、口の中を転がした。
バキバキと、肉を砕く。
少しずつ柔らかくなり、淡白な旨みがじんわりと口に広がる。
空きっ腹にいい。
ドーブの発案である石のようなジャーキーは、まだ保管されている。
アスラの干し肉はきちんと食料になるが、海上の保存食としては足が早い。
これから消費した方がいいというネルガンの指示だ。
合理的な考えである。
この時間帯に起きているのは、当直のもののみだ。
笛の音は止んでいる。
やはり、それを見られたくはないのか。
アスラは昨晩、夜風に吹かれながらも、瞑想をするふりをして静かにマストの上を見張っていた。
笛の音は当直のものがいる間、定期的に響いていた。
それ以外に主だった動きはない。
食糧庫は基本的に施錠してあり、必要分の食事はその都度配給される。
これは均等な食料分配を可能にするためだ。
また、ネルガンが船底を確認したが、昨晩の時点では漏水は無かったらしい。
主要な船の機能を司る部分も正常に動作したとのこと。
今の所、容疑者は笛を吹いているのみ。
やはり、なんらかの信仰なのか。
最初は〈船飲み〉を用いた魔術的な生贄の儀式か、などと思考を飛躍させすぎたが、そうでなくとも悪意なく化け物を引き寄せていたという形容しがたい事故のようなこともあり得る。
さてなあ、とアスラは首を左右に振ってほぐした。
実に不穏な気配漂う旅となっている。
賊どもの関係者という線は薄いと、少しばかり緊張を解こうとしたが、そうは行かなそうだ。
まあ、高潔だったコルビンスの言葉を悪用して船に乗った天罰だろう。
このくらいは甘んじて受け入れるべきだ。
仮に、本当に〈船飲み〉をおびき寄せるような動きを意図して行なっていた場合は、アスラも穏やかではない。
コルビンスは、優しい男だった。
奴がその対象者だったとは思いたくないし、恐らくは無関係だった可能性が高い。
己のような殺人者がこれをいうのも気味が悪いが、本件は罪なきものを巻き込んだ最低の所業だ。
犯人は捕まえて、ドーブとネルガンの前に突き出すのがいい。
本当に怒っているのは、何より穏やかでいられないのは、きっと彼らだろうから。
アスラは首を鳴らしながら、周囲を見た。
波が船首に静かに当たって、藍色の水面へと帰ってゆく。
涼しい風が、薄明かりの中を穏やかに吹いている。
この船は今、錨こそおろしてはいないが、帆も貼っていない。
つまり、動いていないのだ。
船は、夜間に止まるケースと進むケースがあるようだ。
食料の問題から、航海というのは単位時間あたりの距離をより稼いでゆくというのが常道らしい。
夜間は視界が悪く危険ではあるのだが、一日の少なくない部分を占める時間帯を、止まったまま過ごすのは勿体ないという思考。
沿岸部では岩場や浅瀬があるので航行は危険だが、沖合に出ればとりあえず障害物はない。
そういう観点からすれば、この船は夜動いてもいい。
ただ、ネルガンは止まることを選んだ。
ひとえに、星読みができないためだ。
アスラは未だに残っている夜の帳を仰いだ。
見慣れた暗い空。
星は流れてしまえば二度と同じものは現れない。
そういう意味では、アスラにも見慣れない星は多い。
けれども、ネルガン曰く、星は巡りますが、その位置や数は一定なんです、と錯乱したように口にしていた。
故郷の島は、外界から見るとおかしいらしい。
そうか、と口にし内心では、そうかあ、などと思ったものだが、これは深刻な困り事だ。
天が違う、などということは有りえて良い話ではない。
下手をすれば、島にも帰れず、外界にも出られず、この海で彷徨い続けるという可能性すらはらんでいる。
昔にきた船乗りたち。
船乗りたちのリーダー格は、『カイ』と名乗った。
陽気だが、あくまでも礼儀正しい雰囲気のある連中だった。
最も、アスラが一番交友を深めたのは『カイ』ではない。
少年の船乗り見習いだった。
剣を教えてくれといわれて、いくつかの教授をしたものだ。
手遊びに、色のない花吹雪も作った。
あの子はどうしているだろうか。
元気にしているのか。
彼らは嵐で島に流れ着いたといっていた。
航路もよくわからないと。
そういえば、その船にも確か祈りを行う人間がいた筈だ。
この船でいう水主なる職種だったか。
彼はずっと体調が悪そうだったが、今に思えば呪い師だったのかもしれない。
陽気な彼らは仲間内でも、また島民との会話も多く、〈耳の深酒〉がさほど深刻化せずに長期滞在できたのだろう。
結局のところ、現状の打開策はない。
だが、賊どもは狙って島へと船を運ぶことができていた。
奴らはどうやって航路を確立したのだろうか。
ネルガンの言う天が違うということであれば、なんらかの特異なアプローチがあると見るべきだろうか。
島に残された廃船は大概探り尽くしたと思うが、これといったものは出てこなかった。
〈聖地〉などいう異常な場所と、通常の世界。
それをどうやって繋げればいい。
何かの鍵のようなものか。
それとも、海流か。
はたまた、神話にあるように空と海が繋がるなどという超常の現象か。
分からない。
きっと、ネルガンも頭を悩ませているはずだ。
外のネルガンと内のアスラ。
互いにそれぞれの知識はあるのだろうが、それを繋げることができていない。
やはり、密に情報交換をするべきだろう。
内通者容疑の件もある。
アスラは最後の肉片を口へと放り込んだ。
やはりバリバリと噛み砕いて小さく、柔らかくする。
船上は静まっている。
木の軋むような音と、波の音、それに風が通り過ぎる音以外にはない。
今は殆どの人間が寝静まっている。
朝日が伸びてきて、湿った甲板とマストを茜の色に照らしている。
アスラの影が、その鮮やかな色の中に異質なシルエットを投げる。
視界の先、橙の色に染め上げられたネルガンの執務室の扉が開いた。
ネルガンだろうか。
彼は赤毛で身長が高いが、どうにも背はそこまで高くなさそうだ。
マストが邪魔をしてよく分からない。
いや、髪が長い。
これは、療養をしていた水主か。
アスラは肉を歯ですり潰しながら翡翠の目を細めた。
さて、どうだろうか。
アスラが思うに、今回の〈船飲み〉騒動において、水主もかなり怪しい。
『呪い』という、ある種オールマイティーに近い鬼札。
化け物を直接呼ぶ、あるいは、特殊な呪いで笛に細工をして、例の音を出させるようにする。
無限の可能性がそこにある。
ただ、彼女は数日間に渡って床にふせっていた。
加えて、〈船飲み〉に抵抗していたとドーブは口にしていた。
疑念はあるが、聞く限りでは素行や履歴に香ばしい箇所はなさそうな印象だ。
まあ、バイアスはあるだろう。
どんな形にもなる鍵があるとして、それで近隣の住宅で盗みがあった、などとなればその鍵の持ち主は潔白であっても疑われるだろう。
万能というのは、便利でもあり、不便でもある。
彼女も、己などが考えようのない苦労をしているのだろう。
どうにも思考を深めるほどに血が冷たくなるのを感じる。
アスラは肉を噛みながら、橙と青のグラデーションになっている美しい空を見上げた。
このような良い天気に何をしているのか、と野暮な気分になった。
意外かもしれないが、アスラの趣味は『飯・睡眠・笑うこと』である。
これが血肉を作ってくれる。
逆にいえば、これがないとくそ人間になってしまうのだ。
昨晩もまた徹夜をしてしまった。
2日は碌に横になっていない。
倦怠感などは、あるような、ないような鈍いものだが、まあ寝た方がいい。
水主を一目見たらば仮眠をするとしよう。
景気付けに、口の中の肉が無くなったらあくびでも一つ入れるか。
水主と思われる娘が、高い位置にある執務室から甲板への階段へと降りてくる。
波の音に混じって、とんとん、と軽快なブーツの音が響く。
足取りからして、体調はかなり良くなったのだろう。
〈耳の深酒〉。
文字通り、多量の飲酒をした際のような病態を示す奇病。
アスラはそのような症状を経験したことはない。
〈守り人〉の民は耐性が高いのか。
はたまた、外界の民の耐性が低いのか。
マイノリティでいえば、やはり〈守り人〉だろう。
ドーブとネルガン以外の船員がアスラを不気味がるのも、まあ無理はない。
人は己と違うもの、またはマジョリティと異なるものを嫌厭する傾向がある。
これは社会性における一種の高度な防御反応なのだろうが、同時に差別や偏見を生む諸刃の剣でもある。
対応策は一つ。
無理に交わろうとしないこと。
ずっと昔に誰もが仲良くなれるのではないかと、アスラ少年は思っていた。
結果として、そんなことはなかった。
人は生きるために人を蔑むし、痛めつける大義名分を魔法のように創り出す。
物理的な距離がその緩衝材になる。
世界が広いのは、きっと棲み分けがなされるためなのだ。
あるいは、〈守り人〉もそうなのかもしれない。
無情の神を崇拝する、狂った民族も。
被害者意識などではない。
ただ、俯瞰をしてみてそのように思えた、というだけの話だ。
水主が甲板に降り立ち、今度は船首へと上がろうとしている。
こちらには気づいていないのか。
今は逆光なので、服装などが良く分からないのかもしれない。
水夫か何かと勘違いをしているのか。
まあ、時間的にも寝起きだろう。
別にこちらに来られて迷惑ということもない。
この船からすれば、むしろアスラが異物なのだ。
あまり烏滸がましい思考はするべきではない。
肉が存外に無くならない。
アスラは最後の肉片が思ったよりも大きかったことを思い返して後悔した。
流石に厚めの燻製肉なだけはある。
リッチすぎる。
口が小さくなったことも影響しているだろう。
ひと齧りが随分小さいのだ。
この身体も〈守り人〉の民だけあって、犬歯はかなり鋭く、歯も丈夫だ。
噛みちぎるのは容易だが、それを咀嚼するのは小さな口なので難儀である。
アスラは少食だ。
もともとの体躯は長身の〈守り人〉の中でもとりわけ立派なものだったが、食事は細いことで有名だった。
なんであれば、細身の妻の方がよく食べるくらいだったのだ。
料理や食事は趣味なのだが、作るのも食べるのもやや苦が手という妙な人種なのである。
船首に登るための階段から音がする。
水主が交互に板を蹴っている。
アスラは依然として肉がなくならない。
憮然とした表情のまま咀嚼を続けている。
ついに水主の頭が見えた。
若い。
二十歳にもなっていないのではなかろうか。
朝日をあびた栗色の髪が、海風で後ろに洗われている。
やや釣り気味の灰色の瞳に、肌は橙色の光を浴びせられているが、かなり白っぽい。
いかにも繊細そうな印象をうける娘だ。
法衣のようなつくりの服が、やはり風にはためいている。
「おはようございます」
少し低めの声で挨拶がなされた。
アスラに向けてのものだ。
逆光に目を細めて、髪を手櫛で撫で付けるような仕草。
なるほど。
しかし、困ったことがある。
口がまだ使えない。
彼女も良いタイミングで挨拶をしたものだ。
アスラは静かに手を前に出した。
水主の娘はぎょっとして、歩みを止めた。
アスラの身なりに気が付いたらしい。
仕様がないとはいえ、流石に威圧的すぎる可能性もある。
しかし、むしろこの宗教的な衣服こそが、日除けの包帯が生む違和感を大分緩和しているのだ。
日に弱いというウィークポイントを隠すという戦術としては実際悪くない。
印象が悪いというのは、トレードオフと割り切った方が良いだろう。
なれ合いをしたい訳でもないのだ。
アスラと水主はじっと見合った。
正確には、無言のまま咀嚼を続けるアスラを水主の娘が観察しているのが正しい。
風が両人の髪を静かに撫で付ける。
小さな咀嚼の音と、波の音ばかりがそこにある。
やがてアスラは口の中のものを飲み込んで、水主に向けていた手のひらを下げた。
気まずいような気もする。
「おはよう」
アスラは何も無くなった口を使って発声した。
水主の娘はじっとアスラを見ている。
当然のことだろう。
彼女が倒れていた間にぬるりと船に乗っていた部外の者だ。
注意や好奇があって然るべきである。
アスラは解けていた包帯を巻きなおして、水主と向き合った。
あ、などと微かに彼女から声が漏れる。
言葉を探しているのか、あるいは外観に何か思う所があるのか。
仮に〈守り人〉の外見的特徴を知っていたとしても、それをアスラと結びつけるのは難しい。
白くなった肌の色が邪魔するだろう。
更に、このような素肌を晒す行為も大切ではある。
日光を病的に避けてはいけない。
つまり、明らかにそれが苦が手であると行動で示すのは、うまくないということだ。
あえて日中に包帯をほどくことで、日光を遮るための手段ではないのだな、と誤認させることが肝要。
信仰によるものという注釈をしたなら、尚更大胆に動いた方が別の箇所に視点を誘導できる。
誰と戦っているのだ、という話にもなりそうだが、戦士とはこういうもの。
力にものをいわせるだけが武人ではない。
いざ戦になった際に、有利な位置取りを事前に行うのが真の武士だ。
「あの、旅行者の方でしょうか?
失礼ながら、私は昨日まで体調を崩しておりまして…」
水主の娘は、恐る恐るといった感じで言葉を紡いだ。
不安となんらかの期待が混じったような、妙な視線を投げてくる。
どういうことだろうか。
この娘は今現在どのような情緒なのだ。
「いや、護衛だと思っていただければ良い。
ある事情があって、この船に乗ることになった。
ネルガン殿に伺えば詳らかになるだろうが、要事につき同氏とドーブ氏から助力を依頼されたのだ」
娘は、そうなのですか、と少し灰色の目を細めた。
なるほどな、とアスラは眉をあげた。
彼女は正しい現状把握を試みているのだ。
アスラは現在、当然のように剣を帯びている。
客観的に見れば、攻撃的な外観の第三者が堂々と船首で飯を食らっている訳だ。
経緯の説明にしても、当然ながら裏どりは叶わない。
もしかすると、この船に潜入した何者かが、豪胆に振舞って彼女を人質に取ろうと隙を窺っている、とそのように捉えることもできる。
さて、どうしようか、とアスラは再度空を見た。
雲が燃えるように赤い。
東雲とはまさにこのこと。
「ふあぁ…」
アスラは欠伸をこいた。
水主は、きょとん、としている。
若干ではあるが毒気を抜かれたように見える。
ようし、とアスラは内心で頷いた。
ドーブが得意としているであろう、慮外の行為を行う無法の戦術だ。
これは馬鹿なようで有用。
最初に彼が大声で叫び、何やら拍子を打っているのを目にした際、脳が焼かれるような感覚があった。
処理の閾値を超えるであろう言動を行い、相手を錯乱させる高度な一手。
これでいい。
「眠いのですか?」
娘が尋ねてくる。
ペースを掴んだ。
こっちのものだ。
「ああ、少し。
昨晩何やら耳鳴りが酷くてな。
一晩中ずっと鳴っていて参っていた。
それで、寝不足気味でな」
軽く餌を撒いてみる。
どうだ。
あるいは、笛の音とも結びつけられるような境界線上にある言葉。
話の流れとしても雑談の範疇は超えていない。
「そうなのですか…。
きっと、お疲れなのではありませんか?」
アスラは、そうかもしれない、と返した。
乗ってはこない。
今甲板には当直と、アスラと彼女以外にはいない。
当直に関してはマストに登っているので、異常な聴覚を有していない限りは盗聴の可能性も低い。
水主が仕掛け人ならば、どんな耳鳴りなのですか、などと深掘りをしてきてもいい。
これも雑談の内容としておかしくはない程度の探りだからだ。
とりあえず彼女は、明らかな容疑者候補、という訳ではないだろう。
ふう、とアスラは息を吐いた。
「貴女はこの船の巫女殿かえ?」
一応の確認を行う。
身なりからするとその可能性は高いが、これも勝手な思い込みという説もある。
単に体調を崩していた人員かもしれない。
「はい。
セトナと申します。
当船の水主をしております」
やはり水主だ。
簡易的な自己紹介が返ってくる。
「アスラと申す。
短い間かもしれないが、よしなに頼む」
アスラも同じ程度のものをセトナへと投げた。
セトナは、アスラ、と何か口の中で転がすように反芻をした。
さて、とアスラは手すりに腰をあずけるようにして足を屈めた。
彼女には悪いが、もう寝る。
不審者ではと勘繰っていよういがいまいが、この場で堂々と仮眠をされれば手に負えまい。
無害であるという強引なアピールにもなる。
当直のものがまだ上にいる、ということは勿論無視できない。
しかし、見れば甲板の船倉から金髪の男が這い出してくるのが見える。
ドーブだ。
あれは怪我をしてはいるが、一応剣は吊っているし、声も大きい。
コルビンスのために激情を生み出せる彼が内通者ということはまずない。
そういう意味で、この船における数少ない良心ともいえるだろうか。
もし犯人が勇み足をして、大きな動きをみせるようであれば、むしろ好都合ではある。
この場所であれば、十分に気配を探れる。
何かあっても、すぐに対応はできるだろう。
仮眠は完全に太陽が上がりきるまでの短い間で十分だ。
剣を鞘ごと帯から外して、抱くように体を丸める。
セトナは剣に手をかけた一瞬だけ、びく、と身体を震わせて険しい顔になったが、しだいに怪訝そうな表情になっている。
悪いな水主殿。
日の光が暖かい。
まあ、中々いい気分かもしれない。
「あの…」
とセトナが声をかけてくる。
困惑が見て取れる。
「悪いが、おれは寝るよ。
先の通り、寝不足気味でね」
アスラはそう言って首をゆっくりと下げた。
良い風が吹いている。
眠れそうだ。
♢
その日は、ネルガンの舵取りで長い距離を移動した。
穏やかな天気。
波もおとなしく、海原は雄大で美しかった。
アスラは仮眠を取った後、その場にいたドーブに挨拶をして再び警戒に移った。
笛を吹いていた水夫は既にマークをしてある。
もとより、ネルガンからの依頼は監視だ。
彼も、アスラを完全に信用できてはいない。
万が一にでも誤認で捕まえて尋問などしようものであれば、この船の秩序は崩壊するかもしれない。
容疑者は、壮年ほどで、中肉中背の水夫だった。
比較的明朗な印象を受け、人柄も悪くはなさそうではある。
ここが、厄介なのだ。
アスラの眼の精度は高い。
彼を見たのは夜の闇の中だったが、実際に笛らしきものを目視で確認できていた。
材質までは流石に断定できなかったが、太めの指ほどの、それこそ鳥笛のようなもの。
その後、明るいうちに音が鳴ることはなかった。
主だった動きもない。
ネルガンも複数の観測を試しながら進路を取っているようだったが、上手くはいっていない様子だ。
結局、何ら手応えはないままに陽が暮れていった。
また、ネルガンたちにとって見知らぬ夜空が一面に広がる。
ネルガンはやはり船を停泊させた。
アスラは執務室へと赴き、情報共有を行なった。
天体のことではなく、目下の問題である内通者疑惑についてだ。
特に、どう動くべきか、という論点において深い掘り下げがあった。
ネルガンとしては、静観よりも揺さぶりをかけるべき、と決断したようだった。
分からないでもない。
今はまだリソースが豊富にあるが、無くなってからでは焦りがちになり、思考はにぶくなるし、動きも同様に悪くなる。
破壊工作の威力もより高まるといっていい。
アスラの考案した、笛の音が聞こえるふりをする計略が採用される流れになった。
無論これはリスクもある。
まずは相手に心理的な圧迫を与えるので、下手をすると破れかぶれの動きを誘発させかねないこと。
また、音を聞いたのはアスラのみである事実がある以上、基本的には世迷言、幻聴の類だと大多数は考えるという点だ。
そのようなデメリットからアスラが直接口にしても良いのだが、これは怪しいよそ者が唐突に口にすべきことではない。
ネルガンは船長であるから命令権がわかりやすくあるし、全体を招集して注意を促すのだから、アスラの発言に重きを置くネルガンの立場はどうなのだ、という話にもなる。
下手をすれば、取り込まれているのではないか、武力による脅しがあるのでは、とそのような疑念さえ生む。
ネルガンには悪いが、矢面に立ってもらう。
決行は、明日の朝礼だ。
アスラはネルガンに忠言を一つ入れた。
もう一人信用でき、かつ諜報活動ができるような社会性を持つものが欲しい。
つまり、ドーブをこの作戦に勧誘しようということだ。
ネルガンは頷いた。
彼も、今回の一連の動きと、その人間性などから内通者の可能性は低いと判断したのだろう。
心配なのは奴がそのような手合いに不向きな傾向があるということだが、流石に2人では全ての監視を行うことは厳しい。
人工などいくらあってもいい。
少し風が強くなってきた。
雲が厚くなり、〈聖地〉の星空を覆い隠す。
天候が崩れつつあるらしい。
船も揺れが大きくなり、何かにつかまっていなければ暗さもあって足元が危うい。
休憩もかねての停止なのだが、これでは到底休めない。
船の状態が急変する可能性もあるため、水夫らは気を張っている。
ネルガンからセトナの部屋に食事を届けて欲しいと依頼があった。
彼女は、現在故あって個室に篭っている。
日中の昼休憩の際、ネルガンは自室でセトナと何やら話し合っていた。
どうにも、彼は己の考えをある程度聞かせたらしい。
何のつもりなのだろうとアスラは思った。
ネルガンはどうにもセトナを強く信頼しているようだ。
申し訳ないが、本件において呪い師はやはり怪しくはある。
ただ、ネルガンはセトナに不用不急の出歩きは控えてほしいと、そのような事を申し述べたようなのだ。
水主がシロであった場合は、非常に手堅い。
この船の要職を担う彼女が危険に晒される可能性を大きく削ったのだ。
一方で、これは部屋に篭らせる大義名分を与えたのと同義である。
何か、大掛かりな呪いでも行使されようものなら、この船は〈船飲み〉を待つまでもなく沈んでしまうかもしれない。
逆説的にいえば、ネルガンはセトナが信用に足る人物であるとの裏付けがあるということだろう。
ただ、それであれば、彼女に助力を乞うた方がいいのもまた事実。
アスラやドーブなどよりも、遥かに様々な事ができる筈。
下手をすれば20名近い人間が海の藻屑になる危うい状況なのだ。
ネルガンは何を考えている。
食料の配給を受けたアスラは水主の分の干し肉と少しの塩、それに果物を手にしていた。
船倉の中にある食料庫前である。
火事にならないように頑強に固定されたランプの弱い光がうようよと闇を照らしている。
配給役のネルガンが頷いて、アスラはそこを後にした。
アスラが配給を受けるのは決まって最後だ。
ネルガンと話し合った結果そうなった。
いらぬ緊張を生まぬため、水夫らとあまり同じ空間にはいない方がいいだろうとの判断である。
余談だが、アスラは個室こそないが、船員らとは離れた、船倉の別の区画に場所を当てがわれた。
無論、上述の配慮をするためそうなったのだ。
ネルガンに頼んだ3つの条件の1つにもそのような内容があった。
アスラは甲板への縄はしごを登りながら、ふと思った。
どうにも、配給に水がない。
今朝アスラはワイルドにも、干し肉を単体で齧るという圧倒的な食事を披露したが、これはあまり褒められたものではない。
干し肉は基本的に固く、水か何かでふやかさなければ摂食するのに相当な労力が必要になる。
口が小さいとか、中々無くならないなどと、そのようなことは気にしていられないほど食べ辛いのだ。
セトナも効率を優先した戦士の食事を嗜むというのだろうか。
何にしても、アスラは頼まれたことをやるのみだ。
ネルガンは無為に終わるかもしれないとわかりつつも、情報の整理や比較を行なっている。
船のリーダーとして、最善を尽くすという意気込みを感じる。
ある程度手が空いており、かつ信用にたる人員というのが殆どいないのだ。
ドーブは手負いなので、雑事を頼むのも憚られる。
アスラは鍛錬として瞑想をしばしば行なってはいるが、仕事は見回りとドーブの世話をいくらかするくらいだ。
それも、ドーブは何か恥ずかしいことがあるのか、あまり身の回りのことに干渉をしないで欲しいような雰囲気を感じる。
まあ、彼も成人男性だ。
体面もあるだろう。
そのような背景もあり、アスラは配膳を引き受けた。
明日の作戦のこともある。
彼の心労を少しでも和らげてやることが現状の最善手。
この程度は安い御用だ。
セトナの個室はネルガンの執務室の下にある。
甲板に直接アクセスできる位置に扉があり、その奥に彼女の部屋があるのだ。
ハッチを押し上げて、外へと出る。
開けた瞬間に風が吹き込んで、アスラの髪と髪飾りを乱暴に揺らす。
アスラは少し首を振って乱れた髪を整え、曇天の夜へと身体を晒した。
暗い。
月の明かりすらもなく、風のすさぶ音ばかりが聞こえる。
闇の中で、張り巡らされたロープが揺れて軋んでいる。
船自体も上下が激しい。
服の袖がはためいて、赤い手甲に包まれた腕が中頃まで露見した。
なるほど、今夜は気が休まらないかもしれない。
自前の風呂敷で包んだセトナの食事を手にして、彼女の部屋へ歩く。
見ればどうにも明かりが漏れていない。
寝ているのか。
あるいは、何か大事があったか。
彼女は病み上がりの身だ。
もしかすると、〈耳の深酒〉がぶり返して倒れている、という事もなくはない。
アスラはまず気配を探った。
人はいる。
数は一人だ。
ただ、動きがない。
呼吸は深く、そして長い。
寝ているのか。
あるいは、意識を失っているのか。
妙に希薄な気配だ。
内通者の事もある。
あるいは、闇討ちにあったという可能性も否定できない。
アスラは扉を軽く数回叩いた。
これは、『ノック』という文化で、用事がある、あるいは入室する、という意思を言外に伝える作法だという。
返事は、返ってこない。
アスラは翡翠の瞳を細めた。
扉は施錠されているわけではなかった。
静かに押して開く。
船内は一段と暗い。
けれども、アスラの目であれば見えないということはない。
瞬時に暗順応が働き、部屋の概形が視界に映りこむ。
風が、背後から中へ入り込んだ。
アスラは、思わずそれに見入ってしまった。
屋内の暗がりの中で、若い娘が静かに祈っていた。
膝をつき、顎をひき、入ってきた風に黙って髪をいじらせながらも、双眸を固く閉じて雑念をまじえない。
小さな祭壇と見られるものには、小ぶりの貝殻と珊瑚のようなものが質素に供えられている。
海か。
彼女は、海へと祈りを捧げているのか。
どれほどの時間が経ったのだろうか。
いつしか崩れかかった天候は持ち直し、曇りの空ばかりが平坦に広がって、風も勢いを削がれた。
波も荒さがなくなり、夜の静謐さが漆のようにそこへ満ちる。
アスラは、ふと空を見上げた。
何かが、闇の中を舞っている。
穏やかな海風が、アスラの元へとそれを運んできた。
雪。
風花だ。
島では、白鳥の巣くう常夜の薮以外ではまず目にしないもの。
どうして、寒くもないのにこれが舞う。
そして、悪天を祈り一つでどうして押しとどめることができる。
呪い師。
ドーブ曰く、世界を謀るもの。
アスラも戦場で嫌になるほどに、悪辣かつ凄絶な術を目の当たりにしてきた。
それでも、慣れはしない。
再び屋内に視線を戻す。
丁度、セトナも祈りを終えたようだった。
アスラの存在に今気づいたのか、えっ、などと声を漏らしている。
よほど集中していたのだろう。
個室を当てがわれるのも無理はない。
女性かつ年若いというのもあるのだろうが、これでは外部からの干渉に無防備すぎる。
例えば、謎の怪しい用心棒などが許可も得ずに扉を開く、などということに対して。
アスラは静かに息を吐いた。
基本的には、平手打ちの一発や二発は覚悟の上だ。
子供の親を何年やっていたと思っているのだ。
プライベートの空間を侵犯するということが、若年層の心をどれだけささくれ立たせるのか、アスラは知っている。
それが一定の妥当性がある越権だったとしても、それは最早治外法権なのだ。
食事を持ってきただとか、返事が無くて心配だったなどと、そのような些事は関係がない。
どうしようか。
アスラは子供は好きだが苦が手だ。
正確には、アスラは己が本当に好きなものは須く苦が手だ。
謎の沈黙が降りる。
アスラもセトナも何も言葉を口にしない。
ただ、セトナはアスラの手にある風呂敷をじっと見ている。
食料だということに気がついたのか。
時間からすれば、食事が配られるということを察知してもいい。
「素敵な図柄の風呂敷ですね」
セトナは、小さく微笑んでそう言った。
はて、とアスラは肩透かしを食らった気分になった。
風呂敷の話題とは。
これはアスラが暇つぶしに紡いだものだ。
なかなか良くできており、知り合いの評判は良かった。
「おれが作った」
アスラはかすかに笑みを浮かべて言った。
目は、小さく細まっている。
セトナは、意外そうに受け取って、すぐにまた控えめな笑顔をたたえた。
「アスラさんは、剣士ではないのですか?
繕いごとがお好き?」
セトナが、どこか嬉しそうに訊いてくる。
アスラはやはり小さく笑みを浮かべて、
「剣士だ。
けれども、針も嫌いじゃない」
と、穏やかに口にした。
ネルガンから食料の配給を頼まれた、とアスラは風呂敷を丁寧に広げて中のものを出した。
塩は、さらに小さな布で包んである。
セトナはランプに明かりを灯した。
それも、火打ち石を使ったわけではない。
何かに語りかけるような仕草。
指先の熱を容器になびるようにして触れると、ランプはひとりでに火を立ち上げる。
これは、とアスラは注視をした。
呪いだ。
セトナは、明るくなった屋内で、アスラの持参した小さな布を、可愛い、としげしげ見ている。
年頃の娘のようだ。
アスラは気がつけば己の前髪をかきあげていた。
これは、ぼうっとしている時によく出る癖だ。
いかんな、とアスラが気を引き締めようとしたその時、また呪いが行われた。
何も入っていない容器に、水差しで一雫の水が垂らされる。
それはみるみると水かさを増やしてゆき、いつの間にか8割を満たすほどになっている。
なんと便利な。
そうか、とアスラは合点がいった。
ネルガンは食料自体に危機感を覚えていたものの、水に関してはそこまで注意を払っていなかったように思える。
海上では食料もそうだが、当然水の補給も易々とはできない。
雨などに期待をかけるのは無謀だ。
しかし、セトナがいれば、水主がいれば、少なくとも水には困らない。
水の主というのは、その名の通り船上の水源であることを意味しているのかもしれない。
確かにあらゆる意味で、航海に必須の人材だ。
居るのといないのとでは、まるで安心感が違う。
しかし、とアスラはふと手のひらを見た。
捕まえた風花は溶けて、すでに水の滴となっている。
ランプの光が、滴の外周を回るようにその中に映されていた。
セトナの姿が、どこか歪められて小さく水のレンズに像を結んでいる。
アスラはどうにも違和感があった。
何かといえば、セトナにである。
言動に矛盾があるなど、人となりが怪しいというわけではない。
形容しがたい、感覚的な不和。
彼女は気配が薄い。
アスラは先ほど、彼女がじっと祈っているので、一種の環境への同調のような作用があり、存在感が希薄になっているのでは、と考えた。
しかし、どうにもそうではない。
確かに彼女は目の前にいるのだが、この手のひらの風花のように、不意に溶けて消えてしまいそうな、儚さのようなものがセトナにはある気がする。
これは呪い師に特有のものなのか。
世界を誑かす、何らかの副作用の一種なのか。
あるいは、全く違う事情なのか。
アスラには、どうにもそれが分からなかった。
「アスラさん、一緒に食べませんか?」
セトナがどこか遠慮がちに言ってくる。
一人で暇なのかもしれない。
そこに作為はないような気がする。
しかし、随分と印象が改められているようだ。
ネルガンか、あるいは仮眠中にドーブが何か吹き込んだのか。
困ったねどうも、とアスラは肩をすくめた。
もしかすると、ネルガンは単に彼女を心配しているだけなのかもしれない。
確かにセトナは強い力を持っているかもしれないが、まだ子どもだ。
戦闘ができるかどうか、その経験があるのかも怪しい。
馬鹿げた考えを走らせていたのかもな、とアスラは己の冷徹さをにわかに軽蔑した。
戦場に長く身を置きすぎたのかもしれない。
子どもは子どもらしくあるべきだ。
後ろ暗いようなことは、大人が対処すればいい。
「いいよ」
静かに言って、アスラは部屋の扉を閉めた。
セトナは、ぱっと笑顔になった。
アスラは少しばかり苦笑した。
用語集
・水主
船に搭乗する巫女、巫覡の総称。水を律するものとも呼ばれる。
大きな危険が伴う船旅の安定性を高めるために生まれた、海上交通における重要職。祈りによって荒ぶる海を鎮め、海水を清めて淡水にすることなどが主な役割。
水を生むだけでも重宝されるが、特に天候をある程度操作できるほどの水主ともなれば、引く手は数多で、大きな団体に囲われていることが殆ど。逆にいえば、広く世に認められた人気の職でもある。幸運にも呪い師としての才能に恵まれたのであれば、海を割ってゆく勇敢な男たちを導く、船の魔法使いを目指してみても良いかもしれない。




