1章(1) 天に惑う
ネルガン・セペリアノ・ホルへ・デ=ヨビスは、黄昏どきの空を仰いで頭を悩ませていた。
異国との交易を経て、商会の支店責任者からの依頼を受けて復路に。
重要な依頼だった。
荷主とクルー達はネルガンを呼ぶ。
これは、正確ではない。
厳密な荷主は商会であり、ネルガンはその一部、あるいは半分ほどについて責任を負い、また利益を得る。
このような仕組みは元手が少ない人間でも利益の大きい交易に参入でき、また商会からしても人員を集めるのに苦慮せず、出資が少なくて済むという大きなメリットのある構造だ。
リスクの分散もできるのだから、いうことはない。
ただ、このようなケースは本来であれば、船に乗るのは商会の代理人である。
共同出資をしたとしても、船に乗ることには大きな危険がある。
それこそ死の危険が。
出資者は、代理人を立てて街でその帰りを待つというのがトレンドではある。
しかし、ネルガンはそれが好きではない。
現地に赴き、人脈を広げ、面白いものや、あるいは異文化に触れる。
それこそが商人を成長させる水であり、将来へとつながる播種である。
帳簿と睨めっこを行い、不正がないかどうか、手紙を書いて読んで、首尾はどうだなどとそのようなことを延々と行うことがどうにも好きでない。
海があるのであれば、船で割る。
商会の一員という肩書きはあるが、ネルガンという人物として売買の相手と真っ向からぶつかる。
これこそが商売。
これこそが、人生。
これほど愉快なことはなく、これほど味わい深いことはない。
責任はある。
己の判断に、あるいは数十人の命が関わってくる。
故にこそ、やりがいがある。
男であれば、そのくらいは飲みこまねばならない。
海原の広さを見よ。
そうだ、海はいい。
今回の旅は、その海が牙を向いた。
細々とした問題はあった。
長期の旅に伴う食あたりや、あるいは船の小さな損傷。
それを乗り越え、復路も中ごろに差し掛かった。
そこで、〈船飲み〉と出会ってしまった。
かの海の災いと。
どうして、南の海に棲むはずの化け物鯨が当船を襲ったのか。
それに、あの大嵐。
出会ったこともないような悪天だった。
水主、つまり、海の神に愛されたあの子でさえ、どうしようもなかった。
端的にいって悪夢だった。
終わりのない絶望。
そして、極め付けは〈聖地〉だ。
噂では聞いたことがあったが、よもや実際に目にすることになるとは。
空は青く、森も翠く、砂浜は漂白したように白い、あまりに美しい孤島。
あれは、夢だったのか。
いや、夢ではない。
自分は、結果として『彼』を船に乗せたのだから。
熱帯を思わせるような、生暖かく、しかし海上であるための湿った風が吹く。
ネルガンの赤毛が撫でられて、後ろに流しつけた部分が少しばかり崩れた。
水夫たちが甲板の上で何やら談笑をしている声が聞こえる。
さざなみの音。
夕日の橙の色を立ち上げては下ろす海面。
塗りたくられたタール特有の、焦げたような、あるいは強烈な薬のような香り。
海の男たちの平穏がそこにある。
予定通り、ある程度の休息は取れている。
ネルガンと商会が半分ずつ出資をしている交易船。
小ぶりで少しばかり古いが、実に足の速い面白いやつ。
〈船飲み〉から逃げられたのは、クルーやそれこそあの子のお陰でもあるが、こいつの力添えもある。
よくやってくれた。
〈船飲み〉から受けた損傷はそれなりにある。
手すりも一部破損して、ひしゃげている箇所もある。
ネルガンは、船のマストを撫でた。
湿って、少しばかり冷たい。
良く走ってくれた。
ありがとう。
お前をきっと祖国へと帰す。
船乗りにとって、船は恋人のようなもの。
最後までエスコートをするのが男の甲斐性だ。
そうだ。
我々は、帰る。
全員を家に帰してやりたい。
しかし。
ネルガンは再び、黄昏を追い越していく夜空を仰いだ。
そこに散らされた星々は、宝石箱をひっくり返したような輝きを放っている。
色とりどりの星光で紡がれる、輝かしい星斗。
知らない。
なんだこれは。
この時期、この時間帯に、このような星の座はあり得ない。
知っている星がひとつたりともない。
星読みの技術は重要だ。
進むべき方角。
そして、さらに通暁をすれば己のいる大まかな位置。
それを夜空が教えてくれるようになる。
ネルガンから言わせれば、これが世界との対話だ。
あの子は本当に世界と話すのだろうが、商人流であればこれが深いコミュニケーションになる。
本来であれば。
だが、意思の疎通ができない。
なんだこの空は。
あの島は、一体この世のどこに存在していたのだ。
この船が本来あるであろう座標というのは、〈中央大陸〉と呼ばれる陸塊と、異国のある陸塊との間。
それも、復路であり、長い時間〈船飲み〉から逃げたということを考えれば、本交易の始点である〈中央大陸〉により近いとも言えるかもしれない。
とはいえ、あの嵐と混乱だ。
方角を見失った可能性も大いにありうる。
この船の執務室には、一種の時計がある。
1日の時間をかけて落ちる不思議な砂時計。
それで、約2日に渡って〈船飲み〉との逃避行は行われた。
ドーブが船から落ちてすぐに動き回っていたのは流石におどろいたが、こればかりは腕利きの剣士である彼を尊敬せざるをえない。
無論、コルビンスの献身もある。
立派な男だった。
話が逸れたが、ネルガンは執務室にて海図を広げ、いくつかの作図を試みた。
〈船飲み〉と遭遇する前までは予定通りの航路を進んでいたとして、そこから航路が散らばるとする。
移動時間は2日。
すると、どうだ。
妙な場所には出ないのだ。
それも、あの島は大きかった。
近海での交易の頻度を考えれば、まず発見されていないということはない。
加えて、かの島は〈聖地〉でもある。
冒険家やそれこそ国家が、名声や資源、栄光と繁栄をもとめて食指を伸ばしていても良い。
そのような話は、商会の中でも、あるいは港でも一切聞いたことがない。
何が言いたいのか。
遭難。
今、我々は遭難をしている。
しかし、これはただの遭難ではない。
惑っている。
天に。
そして、この世界にだ。
〈聖地〉というのは、基本的に秘境の中に存在することが多い。
人が足を運ばない地域。
天険。
要害。
魔境。
逆を言えば、人を遠ざけるようにある場所でもある。
では、例えば。
それこそ、世界に隠された脇道のようなものがあって。
そこは、完全に秘されている。
何かの拍子に、とてつもない幸運があって、我々はそこへと行くことができた。
だとすれば。
それほどの秘所だとすれば。
あの島は。
天の国のようなあの島は。
この世界において、有数の、あるいは最も神聖なる〈聖地〉であったのではないか。
そのようなことが思いつく。
(流石に、推し進めすぎだな…)
まあ、馬鹿げた妄想か。
現実逃避だ。
少し疲れているかもしれない。
目の前の難題から目を背けたかった。
まあ、この不運をそのように捉えることもできるということ。
何よりも、どう帰るか。
ネルガンは船尾のほうを振り返った。
夕日が、甲板を照らしている。
橙色の残る空に、暗いシルエットが浮かび上がっている。
かたや、大柄な男性。
そして、鳥のような足、獰猛な腕、毛皮、長い耳のようなもの。
護衛のドーブ・エットラと『彼』。
そう。
アスラだ。
〈聖地〉に住まう剣客。
およそ、人智を超越した強さを誇る鬼札。
危うい賭けだった。
リソースを使い果たして、船員の体力も底をついた中に現れた劇薬。
食料や資材を手にするため、そして〈船飲み〉のような災いへの対処のため。
加えて、コルビンスの願い。
ドーブの提案。
総合して、彼を船に乗せることを、断ることができないような状況だった。
大きなリスクのある選択。
異文化の強者を、動く閉鎖空間へと誘うという行為。
幸いなことに、知的水準は相当に高い。
商会の見習いや給仕などは全く比較にならないだろう。
粗野な振る舞いはまずしないと見ていい。
いや、むしろそれと対極に位置するような論点で難儀する可能性すら含んでいる。
彼は一見すると高潔な武人のように見えるが、どうにも今回の交渉の着地が丁寧におさまりすぎているような気もする。
なんらかの意図が背後にあって、誘導されていた、ということも否定ができない。
己が出した質問も、のらりくらりと躱されて、芯は食えていない。
意図を見透かされている。
様々な面で油断がならない相手。
獅子身中の虫、かもしれない。
優秀と脅威は表裏一体。
動向を、静かに見定めたい。
だが、悠長に構えてはいられなくなった。
圧倒的な不穏が眼前にある。
世界の袋小路に迷い込んだかもしれないという懸念。
おそらく、彼の力が必要だ。
かの島から出港をするその少し前。
アスラを待ちながら、最終の準備を整えているその最中。
船にいたすべての人員が〈耳の深酒〉を酷くした。
深い森の奥に、美麗な白い鳥が群れをなして飛んでゆくのを見た。
しばらくして、光の風が、空へと帰って行った。
それが、なんだったかは分からない。
ただ、本能が警鐘を鳴らした。
かの島で、大きな事態が起こっているであろうということを。
ネルガンは、船員に口々に言われた。
もう出よう。
こんな所にはいられない。
確かにアスラは恩人だ。
しかし、絶大な恐怖がそこにある。
未知。
そして、神秘。
後者は一見すると魅力的だが、人間も咀嚼して飲みこめる量はそう多くない。
船員らは、生理的な拒絶をしていたのだ。
それでもネルガンはアスラを待った。
無論、あの家での話し合いのこともある。
けれども、彼の力を借りる時がきっと来ると、そう感じていた。
ドーブも説得に手を貸してくれた。
コルビンスの言葉が、クルーたちをどうにか押しとどめた。
結果として、それらの対処はおそらく正しかった。
ここらの気象や環境に最も詳しいのは、原住民であるアスラに違いない。
助力を乞うべきだ。
今や彼は、この船の一員なのだから。
♢
夜もふけた頃合い。
ネルガンはアスラを執務室へと呼んだ。
もともと、例の話し合いで彼にとっての『外界』の知識を教えるというものがあった。
おかしなことは何もない。
しかしながら、薄ら寒い何かを感じる。
文化を知らないということ以外において、アスラの挨拶や交渉は隙が無かった。
情報の照らし合わせや、文化的な痛点の隠匿。
高い戦力を持っていることを客観視し、無駄な威嚇は一切しない。
それによって、扱いやすさのようなものをある程度匂わせる。
老練ささえ匂うような狡知。
これは、商人にすればかなりの所までいくだろう。
魚が、水を得ようとしているのかもしれない。
問題は畏怖される外観と、やや人嫌いなような雰囲気か。
船員は未だ気味悪がって近づかないものも多いが、そもそも社交的とは言い難い気配がある。
衣装については信仰や風俗のこともあるだろうから仕様がないのは理解できるが、それにしても穏やかならぬ風采ではある。
素顔がわからないのも不気味だ。
船の揺れと、波の音ばかりが意識の中を満たす。
執務机に乗せられた古いランプがゆらゆらとした火を湛えている。
作図をした海図が、ペンの影の下にある。
ほとんどが落書きといっていいほどの散らかった線。
今の船の現状を表したような懊悩に満ちた進路図。
何を話すか。
妙な緊張感がある。
ピリピリとした勇み立つような感覚。
手強い相手を前にする際によくある高揚感だ。
〈耳の深酒〉も殆ど快復をした。
ネルガンは、部屋の奥をのぞいた。
水手の娘がハンモックに横になっている。
あの子が体調を戻せば、一応は体制は整う。
その前に、この船の主としてやれることをやる。
足音が聞こえる。
ふう、とネルガンは深呼吸をした。
心を落ち着ける。
扉が、ゆっくりと開かれた。
アスラが、潮風と共に静かに入ってくる。
おや、とネルガンは拍子を崩された。
そうだ、彼はノックなどという文化を知らない。
鬼のように強く、加えて頭の切れ味も抜群だが、さすがに稚拙な部分もある。
どこか安心する自分がいる。
「失礼致す」
アスラはそう言って扉を閉めた。
礼儀の作法は無いが、所作は丁寧だ。
それも、教え込めばすぐさまに吸収しそうな怖さを感じる。
油を用いたランプの灯りに、彼の姿が照らされる。
包帯にまみれた顔に、横に突き出た袋をかぶった耳のようなにか。
長髪は髪飾りが多く混じって、赤と黒の色に見える。
服は古そうだが実に複雑な意匠がこらしてあり、白地で清潔な法衣のようだ。
凶悪な鳥の足のような鉤爪の靴に、長い爪の生えた真っ赤な手袋。
いや、長い手甲か。
きらきらと明かりをはなつ金の虎の毛皮をその上から巻いている。
なんだろうか。
改めて見ると、まあ異教というか、未開の文明というような印象しかない。
だが、これはまさに悪いバイアスだ。
外観から全ての情報を集められないといういい例だ。
後学のためにも、戒めておいた方が人生の糧になる。
「夜分にご足労いただいて申し訳ない、アスラ殿」
さてはて、どうするべきか。
正直なところ、単刀直入でもいい。
実際に、この船は今第三の窮状に陥っている。
化け物、嵐、そして世界規模の遭難だ。
得られる情報はすべて集めるべきだろう。
「いえ、お気遣いは無用に。
神への務めを終えたところ故。
どうぞ、お心置きなく」
古い言葉だ。
意味は通るが、なんと古いのだ。
ネルガンはこの違和感も見過ごせるものではないと思った。
この言語は〈東アルヤート語〉と呼ばれる言語だ。
言語というのは移ろうもの。
時間の経過で単語も、発音も、下手をすれば文法すら変じる。
この言語は、『固い言葉』という異名を持つ。
商会の前身となったとされる船乗りの互助の会は、言葉に非常に厳しい規律があったという。
冒険家の集まりであったという先人らは、言葉遣いや所作こそが第一の印象を決めるとして、極めて丁寧な言葉遣いを会の伝統としたのだ。
そうしていつしか人員は増え、商会が立ち上がり、〈中央大陸〉の東岸部に勢力を広げ始めると、〈東アルヤート語〉は変化の少ない言葉として有名になった。
つまり、この言語がこれほどに古い訛りがあるというのは、通常おかしい。
『固い言葉』と呼ばれるとはいえ、それでも数世代を越えれば細部は変わる。
そう、数世代だ。
下手をすると、数百年という規模感になる。
なぜそうとまで言えるかといえば、商会の黎明期の文章はこれに極めて近いような言い回しや含みをする。
かの、歴史ある商会の設立当初の文章だ。
どこで習った。
どうやって古典といえるような〈東アルヤート語〉を、流暢に話せるようになったのだ。
時間の流れの断絶。
嫌な予感がする。
「そう言っていただけますと有り難い次第で。
さて、実はアスラ殿にご助力を願いたいことがありまして。
いや、作業の手伝いなどではないのですが」
言うと、アスラは静かに目を細めた。
彼の長い睫毛にランプの赤い光が細く乗っている。
目元だけ見れば、涼やかだ。
怜悧といってもいい。
「承知致した。
如何なる用かえ?」
高めの声で返事がくる。
酷く古めかしい言葉遣いだ。
実のところ、これは商会の中ではかなり印象がいいだろう。
古典の〈東アルヤート語〉は、重要な催しなどでしばしば用いられることがある。
つまり、商会の中では本当の意味での規律と伝統を示す言語がこれだ。
商会の支店長以上の責任者は、教養としてこれを身につけているケースが多い。
それでも、これほど滑らかに操ることは難しいだろう。
謎は深まる。
「アスラ殿。
貴殿の島における、気象と天体の動きについてお伺いしたいのです。
はっきりと申しますが、今現在この船は遭難をしている状況にあります。
星読みができねば、それを打開するのも難しい。
お知恵をお借りしたい」
端的な要求。
嘘も偽りもない。
アスラは例のごとく目をとじて話を聞いている。
「委細承知致した。
拙の愚見でよろしければ、何なりとお尋ねを」
アスラは、頷いてそう言った。
助かる。
救いの神とまではいかないが、有用な情報のソースにはなってくれるだろう。
「ありがとうございます。
では、お尋ねしたいのですが…。
本島において太陽はどちらから上がって、どちらへ沈むのですか?」
馬鹿のような質問だ。
船乗りでこれを知らないのは致命的である。
しかし、はっきりと言うがこれも分からない。
第一、空そのものが我々の常識と違うという可能性があるのだ。
あらゆるものを疑わなければならない。
「時と場合による」
涼やかな声。
そして、涼やかではない回答。
ネルガンは、一瞬頭を抱えそうになった。
この男は何を言っているのだ。
太陽が昇る方向が変わると、そう言ったのか。
まさしく馬鹿な言。
高い知性を事前に見せてもらわなければ、歯牙にもかけぬであろう発言。
逆説的に、彼が真っ直ぐにそう答えたということは、現実の観測に基づいているということ。
なんだそれは。
〈聖地〉は頭がおかしいのか。
いいや、〈聖地〉の成り立ちを考えれば、通常の世界の方がおかしいのか。
「そ、それはなんとも…。
いや、うむ…。
では、なんらかの周期や規則性はありますか?」
見るからに混沌だと、処理を諦めるのは下策だ。
大概の物事というのは、紐解くことができる。
複雑に絡み合っているように見えて、存外にほぐすことが可能なのだ。
冷静さを失ってはいけない。
落ち着くのだ、ネルガン。
「『巡る』と解するのが、概ね間違いではない。
一所を始点と定めれば、日を経て左右のいずれかへと振れてまいる。
時に急変を来すこともあるが…。
確かなる定めというよりは、一つの指標としてお捉えくだされ」
ダメかもしれない。
脳が焼かれそうだ。
動くな。
右や左に動くんじゃない。
何をやっているのだ、かの島の太陽は。
指標と彼は言うが、指標じゃない。
いや、あるいは。
そうだ、島自体が動いているというのはどうだ。
天体が動いて見えるのは、島が回っているから。
いや、だとすれば、船が引きずられないのはおかしい。
投錨をした後であれば、最悪船は海底の錨に引かれて転覆する筈。
本当に天体が動き回るのか。
彼が冗談を言っているのではないかと、思いたい。
けれども、この船の窓から見える星空はその考えを肯定してくれない。
「それは、それは…。
うむ…。
分かりました…。
では、月はどうでしょう?
これものぼる方角が変わりますか?
移ろいは?」
分かっていない。
けれども、聞く。
ほとんど意味をなさない質問だ。
〈聖地〉の異常性の再確認でしかない。
とりあえず、ここまでで良い。
碌でもない法則しか出てこないような気がする。
「無論、昇る方角は常に一定にあらず、絶えず移ろうもの。
その変遷は、新月期、遷移期、満月期の巡りに準じている」
無論、登る方角は変わってほしくないが、まあ良い。
一見すると、どうだろうか。
大きな違いは、上述の縦横無尽な位置どりくらいだろうか。
月の移ろい方は、同じと見て良い。
ただ、言い方が気になる。
神経質すぎる可能性もあるが、含みがあるような気がしてならない。
「なるほど…。
ちなみに、その期というのは?」
「これは、月の満ち欠けの大きな区切りだ。
新月期は、まったく月がない。
大暗月という。
遷移期は、月の形が絶えず移ろう。
遷月という。
満月期は、月の輝きが続く。
大明月という」
不穏な気配がしてくる。
この説明の仕方では、新月や満月が長く続くように取れる。
暦はどうなっている。
どうやって月齢を数えているのだ。
彼は何歳だ。
いや、それよりも。
分かりきっていたことだが、わからない。
何一つとして満足に吟味することができない。
お手上げだ。
わからないということが、分かった。
「ふむ…。
いや、大変に参考になりました。
ありがとうございます。
そういえば、アスラ殿におかれては、操船などのご経験はおありか?」
藁にも縋る思いで聞く。
彼は相当に器用だ。
皮なめしから、燻煙、荷造りまで、なんのこともなくこなす。
あるいは、操船の経験があって、この海の渡り方を知っているということはないか。
可能性は低い。
けれども、希望がないわけではない。
「ありませぬ」
無かった。
ネルガンは肩を落とした。
万事意味不明。
狂った世界に、損傷した交易船一つで挑む無謀極まる挑戦。
命知らずの冒険家でも、このようなことはしない。
けれども、やらねば。
無性に酒が恋しい。
だが、無駄に飲料を消費するわけにはいかない。
「そうですか。
ありがとうございました。
しかし、アスラ殿はどこでその言葉を習われたのですか?
いわゆる母語ではないのですよね?
相当にお上手ですが…」
雑談に近いが、尋ねてみる。
聞くだけなら無償だ。
単純に興味がある。
アスラは全体としてあくまで知性的で、教養にも富んでいる気配を感じる。
高度な文明の薫陶を受けたと見るべきだ。
ドーブの話では、かの島は墓標に溢れていたらしい。
実際に、彼の自宅を訪ねた際に集落跡を通りすがったが、もの寂しい廃墟があるばかり。
滅びたのかもしれない。
彼は、その文明の生き残り。
価値のある人材だ。
既知でない知識の引き出しもきっとある。
商人としてではないのであれば、進んで船に乗せていたかもしれない。
境遇も、あまりに同情を誘う。
「古き知己に習った。
貴殿のような、船乗りの徒だった」
なるほど。
思わぬところでよい脱線をしてくれた。
すると、やはり商会に近しい派閥の何者かという説が濃厚だ。
これは良い傾向かもしれない。
加えて、過去にこの島へとたどり着いたものがいるという事実。
つまり、この〈聖地〉へのアクセスの仕方のヒントがあるかもしれない。
商会であれば、知り合いも多い。
行動や、あるいは航路なども憶測でき、少しは参考になる。
できれば、どういう人間か知りたい。
名前など聞けないか。
「なんと、そうでしたか。
実のところ、私は商人でして、それなりに知り合いがいるのですが…。
アスラ殿の知り合いの御名前など伺うことができますか?
わたしの知人であれば、船の種類や、航路、そしてどのあたりを航海することが多いかなどを多少は見知っているのです。
あるいは、今の状態を打開できる策などへ繋げられる可能性も、とは思っているのですが…」
アスラは少し思考した。
まあ、個人的な質問にはなる。
答えてくれないこともあるだろう。
別段、彼の過去をほじくり返したい訳ではない。
現状においては、なによりも有用そうな情報を得ることが先決。
彼が私情を含ませて、それを歪めるなどということになれば、むしろノイズになる。
あまり深入りはせず、期待もしない方がいい。
アスラが瞳を開けた。
翡翠の色が、薄暗い部屋にともる。
「カイ・エッテム」
ネルガンは頭の辞書を引いた。
いや、いない。
共通の知人でも、と思ったが。
しかし、『カイ・エッテム』。
耳覚えのあるような名前。
知人にはいないが、どこかで目にしたことがあるような気がする。
目にした。
目にした、だと。
いや、待て。
『カイ・エッテム』。
知っている。
知っているぞ。
同姓同名の人物を。
それも、確かに商会との縁がある。
しかし、それは。
それは。
(あり得ることではない…)
そうだ。
流石に他人だろう。
同じ人物でいいわけがない。
目の前の人物の見え方が、捉え方が、さらに分からなくなってしまう。
動揺をしながらアスラを見ると、耳らしき部位がぴこぴこと動いていた。
これは、なんだろうか。
どのような感情なのだろうか。
例の、砂浜での問答で見られたもの。
「…どうかなされましたか?」
念の為に尋ねてみる。
嘘。
そうだ。
あるいは、冗談かもしれない。
知っている名前、聞きかじった人物名を口走っただけ。
それを、こちらが重く受け止めてしまって、困っている。
これはどうだ。
「済まぬ。
だが、笛の音が、この耳に届いたのだ」
ネルガンは思わず、はあ、と言ってしまった。
思ってもみないような返答。
笛。
そんな雅な音が聞こえるのか。
耳を澄ませてみる。
船の軋む音、波の音、床と壁に隔てながらもかすかに聞こえてくる雑談。
笛の音など聞こえない。
しているか。
いや、目立つはずだ。
それは異音といっていい。
何のことだ。
彼は何を言っている。
「笛、ですか…?
いや、私の耳にはきこえませんが…」
アスラは小首をかしげている。
いや、待て。
ネルガンはじっと彼の側頭部を見た。
包帯から生えた彼の耳。
袋を被っているが、おそらくはそうではないか。
細く尖っているという特徴。
あれは、通常のものよりも遥かに多くの音を拾える証拠。
何と言ったか。
記憶が定かでない。
いわゆる〈邪聴〉の一種だ。
楽師や楽器の職人が何より羨む天恵。
「そうか。
よほど耳を澄まされよ。
まことに甲高い、鋭き調べだ。
四方に響き渡っている」
「甲高い、ですか…」
警笛か。
いや、そんなものはない。
通常の人には聞こえない音では意味もない。
なんらかの、珍しい楽器だろうか。
この船に乗っているクルーは概ねの人格が知れている。
歌や音楽は嫌いでなくとも、笛を吹くという趣味は聞いたことがない。
甲高い音。
甲高い音。
暗闇から聞こえる鳴き声。
海神の魔の手。
どうしてか。
少し前まで、嫌になるほどに聞かされ続けていた恐怖の声。
ある化け物のことが頭を過ぎる。
「そういえば、〈船飲み〉だったか。
浜の近くで響いていたかの鯨の高い音域の波にかなり似ている」
「なん、ですと?」
思わず、なんだと、と口走る所だった。
頭を横から殴りつけられたような衝撃。
見透かされたように〈船飲み〉の話を持ち出されたのもそうだが、その声に似ているだと。
待て。
ドーブが言っていた。
なぜこの大嵐であの化け物はこちらをつけ狙えたのだろう、と。
暗黒の海。
波と風と雨の騒音。
そもそも、〈船飲み〉はここらの海域では目にしない生物。
もしかして。
もしかしてだ。
その、笛のようなものでその怪物を誘導することができたら。
普通の音域より遥かに高い音で、周囲の雑音を無視して笛が響いていたとしたら。
化け物の甲高い声は、それに呼応したものだとしたら。
視界の悪い夜やそれこそ嵐であれば、周囲の目など気にせずに笛を吹ける。
その音色は、常人の耳には届かない。
まさか。
いや、まさか。
(何者かが、この船に〈船飲み〉を招いていた…)
杜撰な推理ではある。
仮にこの船の乗員が化け物を誘っていたとすれば、まずもって船もろとも胃袋におさめられる。
心中を図るような工作。
だが、このようなことも考えられる。
この船が港に帰らなければ、家族に大金を渡す。
あるいは、この船を沈めねばその人質を殺す。
全くあり得ない話ではない。
〈船飲み〉が鳴くのは、一種のコミュニケーションといわれる。
あまりに甲高い鳴き声は、全てが人の耳には届かないとも。
鳥笛というものがある。
一般には猟に用いられるもので、鳥の鳴き声を再現した音を出すことができる笛だ。
声を真似し、そしておびきだす。
では、〈船飲み〉の笛があったら。
用途はともかくとして、あの化け物を寄せることができるとしたら。
どうやって近海に連れてきた、という疑問は残る。
けれども。
きな臭い。
あまりにも不審が募る。
「アスラ殿。
その笛の音は当船に乗られてから初めて聞いたのですか?」
「左様。
これほどまでに高く響く音を、聞き損じるはずもない」
つまり、昼間は音がしていなかった。
辻褄は合う。
明るいうちは、笛などを取り出せば目立つ。
それに、慣れない海での航海に、誰もが神経を尖らせていた。
迂闊な動きはできない。
「どこから聞こえます?」
アスラは瞳を閉じた。
耳らしきものがぴこぴこと動く。
音源を探しているのだ。
「高所だ。
恐らくは、マストなる柱の上だろう」
これも分からないでもない。
船内は個人的に使える場所がまずもってない。
それこそ、船主であるネルガンと祈りを行う水主くらいしか個室はない。
水夫らと護衛らは船倉近くの空間に雑魚寝をしている。
やや鮨詰めといっていい。
空間とは、すなわち懐である。
交易というリスクの高い行為に及ぶ以上、持てるだけ持って、準備を万全に整えれば、自然と空間は埋まる。
そのような場所で、笛などは吹けない。
あるとすれば、交代での観測。
それも、夜半。
ひとけが無く、明かりも満足に無い中であれば、遠慮をすることはない。
アスラを船に乗せると言った時。
誰もが動揺をした。
しかし、一人だけより取り乱しているような様子のものがいた。
ネルガンは、単純にアスラを強く恐れているのだ、と思った。
だが、アスラは強大な戦力。
仮に、〈船飲み〉が再度襲ってきても、水主をしている娘と、アスラが力を合わせれば、撃退することも不可能ではないはず。
思えば、どうだ。
復路で、水主の娘を含めて数人が体調を崩したことがあった。
食料を口にしたところ、気分が悪くなったという。
海上ではよくある食あたりだろうと、心配しながらもネルガンは不審には思わなかった。
船底に小さな穴が空いていた、ということもあった。
コルビンスが迅速に処置をして大事には至らなかったが、あれは人為的なものである可能性もある、と彼は言っていた。
ネルガンは流石にそれはないだろう、とたしなめた。
なぜなら、それは自殺行為だからだ。
そうだ。
全ては復路の海上に出てからしばらくして発生した。
逃げ場のない海の上でそれらは起こった。
破壊工作。
毒を盛り、そして船を壊す。
辻褄が合っている。
ネルガンは船の窓からマストの天辺を見た。
見知らぬ星々が散らされた闇の空に、かすかに人影がある。
アスラはその視線を追っている。
「アスラ殿。
誠に申し訳ないが、もう一つお頼みしたい」
アスラは、頭が回る。
彼が嘘をついているということもあるかもしれない。
己を上手く誑かし、船自体の権限を奪おうとしているのやも。
ネルガンにその音は聞こえない。
彼がそう言っているだけだ。
裏付けがない。
出会って数日。
信用などない。
ただ。
ーーそんなことより、仲間と会ってやれ。
ぶっきらぼうに、そう口にした彼がネルガンは嫌いではなかった。
「報酬は、払います」
ネルガンは、静かに怒りに震えていた。
この船が、どれほどの犠牲を払ったと思っている。
水主の娘は呪いの使いすぎで倒れ。
ドーブは剣を一本失って大怪我をし。
他のクルー達は昼も夜もなく働いて疲れ果て。
あの、声の大きい頼りになる好漢は。
コルビンスは、命を落とした。
もう帰らない。
彼、アスラにしてもそうだ。
故郷の島を離れて、ボロボロの我々に協力をしてくれている。
どれほどの人間を傷つけたのだ。
人生を狂わせたのだ。
何の目的がある。
誰に頼まれた。
「どうされた」
アスラが翡翠の目を細めて訊いてくる。
静寂を押し固めたような声。
高く、冷たい。
ランプの灯りが彼の包帯を橙に染めている。
「あのマストの上の人間に注意を払ってくれませぬか。
彼は。
いいや、奴は。
もしかすると、コルビンスの仇かもしれません」
ランプの炎が勢いを増す。
ネルガンの青い瞳は、燃え盛っていた。
聞こえぬはずの、甲高い音が聞こえる。
アスラは、釣り気味の双眸を再び細めた。
ネルガンの固く握られた拳が、小さく震えている。
用語集
・東アルヤート語
中央大陸東岸部で広く使われる言語。『固い言葉』の異名を持つ。
東岸部において勢力を伸ばす商会の前身にあたる組織が、言葉遣いを厳しく律したことによって、時間の経過での変化を嫌う珍しい特徴を持つようになった。
同商会では古典の東アルヤート語は高い教養の一つとされ、重要な儀礼や催しでは演出や台本に用いられるケースもある。




