序章(終) 光の風の先に
夜の名残を抱えた美しい浜に、櫂の水音が落ちた。
波に逆らうように、力強い声と共に小舟が漕がれる。
沖合の船から、小舟が静かに往復している。
かの火は消え、灰は冷えた。
だが、船の灯はまだ残っていた。
アスラはてきぱきと縄で荷物を縛りながら、翡翠の瞳でその動きを眺めている。
「さて、どうにかなるといいんだが…」
暁の薄明かりの中、ドーブが干し肉を指で弾いた。
薄く裂かれた肉は石のように硬く、乾いた音が浜に小さく響く。
「ならなければ死ぬだけだろう」
我ながら装飾を捨てた本音が、高い声で口から漏れ出る。
ドーブが、お手本のような苦笑いをして、ため息を吐いた。
船への物資の運び込み。
太陽が若干顔を出した明け方の早い時間、気温は比較的に涼しく動きやすい。
猛暑の時間帯を避けた効率的な作業の段取りであり、指揮をとっているであろうネルガンの冷静さが匂い立つ。
夜通しの作業が結実し、見事食糧は必要数が揃った。
15日分はあるといっていい。
先日行っていた燻製は、実は通常の方法ではない。
肉塊を燻煙するのではなく、薄切りにした肉をジャーキーのようにするという手法なのだ。
これは実に面白かった。
ネルガンとドーブから聞いたところによると、海上の湿気というのは異常の一言だという。
保存食というからには10日、あるいは20日程度は持つものでなければならない。
これは塩漬けや、あるいは酢漬けといったものが望ましいが、前者は作成に時間がかかりすぎるし、後者においても大量のビネガーがなければならないので、不可能だ。
今回の準備は、極端に短い時間制限と、限られた手持ちの物資を駆使して保存食を作成するという二重苦の中にあったと言っていい。
では燻煙はどうかといえば、実のところ海上ではそこまで有効な策ではないという。
内部に水気が残るような中途半端な燻を行ったところで、内部から腐ってしまい、数日しか持たない。
そこで、薄切りにした肉をジャーキーのようにして徹底的に乾燥させる手法が提案された。
短時間で行え、かつ内容も伴う良策。
これを考えついたのは、ドーブ・エットラである。
アスラも、機転が効くな、と思わず彼を褒めたし、ネルガンも深く頷いて妥当性を認めていた。
ドーブは、照れくさそうにして、はにかんでいた。
まあ、やはり少し可愛いやつである。
その他、ある程度の水と、木材、果物、薪などの燃料、それに薬草。
また、黄虎の毛皮についてもネルガンは興味を持った。
〈守り人〉からすれば、それなりに貴重ではあるが、手に入らないこともない素材。
実際に、アスラも鎧がわりに身に纏っている。
流石に多少は暑いが、それにしても丈夫な毛皮で、生半なことでは傷がつかない天然の帷子だ。
完全な皮なめしは難しかったが、アスラは恐るべき手腕を持ってして、ほとんど傷まないような状態にまで加工をし、それをネルガンに提供した。
ネルガンは目を丸くしていた。
器用さもそうだが、単純に暗すぎて手元などよく見えない。
加えて、燻煙の面倒を見ながらである。
けれども、アスラは唇を尖らせながらむすっとやってのけた。
ネルガンは恐縮しながらも喜んで、買い取ると言っていた。
そう、アスラは『外貨』が欲しかったのだ。
価値交換媒体。
これは非常に面白い概念だ。
島での物資のやり取りなどは、基本的に物々交換というのが主だ。
これはいくつかの不便がどうしても存在する。
まずは、需要の重なりへの依存とでも形容すればいいのか。
物々交換は、自分が欲しいものを持っている人間が、たまたま自分の持っているものを欲しがっているという状況が前提になる。
これは、当該取引の最大の煩わしさではなかろうか。
ある種、奇跡のような偶然がなければ本当の意味での完全な価値交換は成立しない。
次に、尺度の氾濫。
ものを渡して何かを得る際に、極めて抽象的な、いわば混沌といっても過言ではないほどのパターンがそこに生まれいでるということ。
例えば、塩が2杯で薬が1つ。
干し肉1つで薬が1つ。
樹の芽であれば薬が2つ。
非常に複雑で、ややこしい。
しかもこれが、状態の悪い干し肉であれば2つ、あるいは3つないと薬が貰えないなどとなれば、有事ではいよいよ困る。
上と連なる部分もあるが、最後は劣化。
生鮮物は腐り、そうでない物も傷むし、次第に朽ちる。
特に、足の早い物はずっと横に流すことができない。
やりようはあるが、途中で何かに価値を変換しなければならない煩雑さは間違いなくあるだろう。
これを解決する良質な交換媒体が、島でいう『武術』だ。
ある種それは知識と言ってよく、これは少なくとも劣化はせず、横に流せないこともない優れた資産だ。
高名な武芸者の手解きを受けられるとなれば、大概の物は差し出され、手に入る。
無論、武術の深淵に触れるほどの戦士は、欲求が次第に希薄になるので、そのような価値交換は殆ど行わない。
だからこそ高い需要があり、尊ばれる。
まあ、ある種では面白い文化ではなかろうか。
これを外界では、どうにも『金子』というさらに普遍的なものにて取り行うというのだ。
実に効率的だ。
運用の際の担保や信頼をどこから持ってきているかは不明だが、面白い。
手に取って見てみたい。
アスラは、目の前の青年を見た。
彼は、護衛だ。
ネルガンの船を外敵から守ることで、金子を得ている。
逆説的に言えば、かの船は護衛に価値を見出すほどに重要な荷を運んでいるということだ。
ドーブは、流石に少し眠そうである。
薄らと隈のようなものが出来ている気がする。
けれども、どこか楽しそうに荷造りを行っていた。
縄の結び目も、固く、立派なものだ。
なんでも、アスラを船に誘えたことが嬉しいのだとか。
ドーブは、薄らと垂れた汗を拭いながら、ふう、と息を吐いた。
ブロンドの髪がきらきらとしている。
戦力を得た喜びか。
いや、勧誘そのものの成功を嬉しがっている顔だ。
変な奴。
馬鹿ではないが馬鹿だ。
明るさが増してきた頃合いで荷物の積み込みは終わった。
休憩を挟んで、出航ということになる。
アスラは、ネルガンとドーブに申し述べて暇を貰った。
誰も異論は唱えなかった。
それだけの仕事をしたのだ。
数日寝ない程度でガタがくるようなこともなく、アスラは集落跡へと帰った。
本当の、出発準備である。
アスラは、自宅に居住まいを正して座り込んでいた。
茶を淹れて、しかし口が付かずにただ絨毯の上に置く。
白い湯気がたちのぼって、空気の中に消えてゆく。
静かだ。
何故だろうか。
思い出が湧いてくる。
座高も少しばかり下がって、未だに若干の違和感のある屋内。
薪と香草の匂い。
埃らしい埃もない整然とした居間。
暗い部屋を照らす窓の明かりが、何かをそこへとうつしだす。
赤ん坊を抱く妻が見える。
おんおんと泣く赤子。
頭を手で包むようにかかえられて、小さく揺らされている。
困ったような、嬉しいような顔の妻。
どんな気持ちだったのか。
彼女の瞳は、いつも少し遠くを見ていた。
それが誰の方角だったのか、アスラは問わなかった。
冷めた恋愛では、ないだろう。
そんなもの。
人は、独りでは生きられない。
彼女も、自分も。
理解してくれる相手が欲しかった。
誰もかれもが居なくなる。
〈守り人〉の民は、勇壮で大きく、逞しい。
けれども、この世界の大きさに比べればあまりに矮小だ。
剣が首に触れれば。
獣の爪が心の臓を捉えれば。
奇病におかされれば。
生きているのが辛くなれば。
ひとは死ぬ。
あまりに呆気もなく死ぬ。
その中で、身を寄せ合って人は営む。
ずっと幼い頃に考えたことがある。
一人でいれば、何も痛くなく、何も辛くない。
彼女が嗜めた。
それはとても悲しいこと。
暑さや寒さを感じなくなることは良いことかもしれないけれど、暖かさや涼しさまで感じられなくなるのは、とても辛いこと。
妻が苦笑いを浮かべながらこちらを見ている。
なれない様子で、赤子を抱く己。
腕の中を見れば、命がそこにある。
なんと小さいのか。
軽いのか。
これほどにか弱いのか。
けれども、強い息吹を感じる。
きゅっとつむられた瞳。
威勢の良い鳴き声。
血色のよい肌。
今でも、その感覚が両手に残る。
アスラは、視線を落とした。
長い手甲に包まれて、冷たく照る赤い腕。
随分と細くなったものだ。
だが、確かに抱いたのだ。
この、諸腕で。
薄い明かりの中に、また人影を見た。
褐色肌の女性、それに子供が二人。
妻と、息子、それに娘。
それなりに大きくなって、娘はようやく歩けるようになった頃か。
食卓を囲んで、そこにある。
戦時中。
ぽつり、ぽつりと会話のある、静かだが、暖かい家庭。
息子が戦争を嫌い、妻は人ばかり殺すアスラを理解しつつもやや軽蔑し、娘は首を傾げながら興味のありそうな話題を繰り返す。
戦争の中の、地獄の中の日常。
歪んだ日々。
これを守りたかった。
まだ壊れていなかった。
どうしてもこの光景を、一抹の幸福を捨てたくなかった。
アスラは、ゆっくりと立ち上がった。
冷めたお茶を飲み干して、容器を洗う。
壁際の水切りに置いて、屋内を再度見回す。
いつもと変わりない、誰もない家。
すでに、荷造りは終わらせていた。
挨拶をするものもいない。
武装、服、装身具、薬草、楽器、小鍋、水筒。
そして、昨夜集落の倉庫から見繕ってきた長い鉄の棒。
全体として野宿を見据えた携帯品。
棒については杖代わりにもなり、そして調理をする際の補助具にもなる。
それなりに良い鉄を鍛えたもので、槍を使うカルナ氏の練習用具だったものだろう。
あまり意味も無いと分かってはいるが、戸締りをする。
炉の火を消して、燃え残りがないように土をかける。
窓枠に木の板をはめ込み、棒でつっかえて封鎖する。
空き巣などを気にするわけではないが、風雨にさらされると家が傷む。
少しずつ明るさが退いていって、やがて玄関からの光しかなくなる。
暗い。
ただ、まだ見える。
落ち着いて光の方へと歩き、外へと出る。
薄い黄色と、青色の混じった緑ともつかないような空が広がっている。
風は緩く、少しばかり気温が上がってきた。
玄関も、木の板と布で閉じる。
荷物を背嚢のようにして背負い、我が家を見る。
石造りの、きめ細やかであったであろう家屋。
積んだ石は、アスラが手ずから岩を切り出したもの。
ある崖の白っぽいような岩盤を剣でくり抜き、丁寧に整えて積み石を作った。
妻から、どうして全て自分でやろうとするのか、と怪訝な顔をされたことを思い出す。
野暮をいうものではない。
こういうことが、ちょっと面白いのだ。
間取りを考え、良いと思った建築を見て、やり方や構造を学ぶ。
子供は何人を想定するか。
居間は広い方が良いか。
炉はどこにすべきか。
淡々と何らかの装置のように行っていた記憶もあるが、確かに過去の己の熱をこの家に感じる。
そうだ。
彼女の残り火が、熾火のように静かに燃えている。
さあ、この島に別れを告げねば。
♢
鳥の囀りが、まるで歌の斉唱のように降り注いでいる。
巨大すぎる樹木は、大人が何人腕を伸ばせば抱えられるのだろうか。
燐光を放つような、半透明の蝶が飛んでいる。
新芽の芽吹く、あまりに濃く芳しい命の香り。
土の湿った冷たい匂い。
川のせせらぎが、耳に届いてくる。
湯気の中にいるような猛烈な湿度と、気温。
この森は、やはり生命そのものだ。
アスラは木々の枝や安定しそうな岩など、足場を飛びつたいながら聖域の方へと進んでいた。
鮮やかだった緑が、より青く、そして暗く、色を深めてゆく。
アスラは、ふと立ち止まった。
そこに、輝きがある。
あまりに大きな苔むした岩の上に、身を丸めて陽にあたる虎がある。
木漏れ日で光って見えるのではない。
口元のひげは長く、稲光のような首元の毛もまた長く、尾は優美なほどにたおやかだ。
黄虎。
それも、老虎。
あまりに技術が完成されすぎるがあまり、常に黄金の輝き、金剛毛を纏う。
この穢土の天地において、最速の歩法とも言われる雷足の真の担い手。
にわかに緊張感が漂う。
老虎が、静かに瞳を開けた。
アスラと、視線が交わる。
雷のような音が轟いた。
鳥が、虫が、いっせいに飛び立つ。
雷足。
金の閃光が、アスラを伝うように通り抜ける。
老虎は地べたを滑るわけでもなく、四足で柔く触れるように地面に足をついた。
アスラは、剣に赤い手をかけたように見える。
森がざわめく。
風が、アスラの髪飾りと黄虎の金の毛を靡かせる。
老虎は、前の足を見た。
金剛の鎧に浅い切り傷ができ、血が滲んでいる。
アスラが、すれ違いに斬ったのだ。
抜刀も、納刀すらも追えないような剣。
手をかけていたのは、残心に過ぎない。
老虎は、少しばかり出血を見て、アスラの方を振り返った。
アスラも、ほとんど同時に翻る。
闘争の獣。
黄虎の老虎は、己が認めた相手に挨拶を試みるケースがある。
これは、戦士の刃を合わせる儀式と良く似ており、故に彼らは四つ足の戦士などとも呼ばれる。
黙然と、獣と人間は見合った。
老虎は、金の輝きを少し弱めた。
アスラも、剣から手を離した。
老虎は、案内をするようなそぶりで、ゆっくりと歩み出す。
森の奥へと通じる、彼らの獣道。
金の脈。
この森の中にあって最もパブ=ダ神の膝下に近い、輝ける魔の道。
黄虎が、この道を示すとは。
何かある。
強い獣の香りがする。
巨大な木々に光をほとんど奪われた影の中。
金の毛が所々にこぼれて落ちている。
黄虎の放つ光が、道の先を微かに照らす。
苔むした樹木が太すぎる根を不恰好な階段のように張り巡らせ、その上を走るわけでもなく静かに歩む。
妙な感覚。
アスラは、後ろを振り返った。
別の黄虎がいる。
ここは彼らの獣道。
複数頭いてもおかしくはないが、後ろに連なるのは実に7頭。
異常だ。
そもそも、先日の〈船飲み〉を仕留めた、黄虎の若い個体もどうして浜まで足を伸ばした。
彼らは、森の深奥を好む。
これほどに浮き足が立っているのは何故だ。
集団で襲われる、ということは考えなかった。
黄虎は誇り高い。
複数頭で一つの獲物を仕留めようなどとはしない。
勝ち目の無い相手であっても、かの若い個体のように、己が全力を尽くして華々と散る。
極めて武張った生き様を好む獣なのだ。
非常に危険な猛獣だが、生態にどこか共感がある。
故に、あのような異名がつく。
種族の違う戦士。
獣の同胞。
これが、〈守り人〉の民の黄虎への見かたである。
金の脈を進む。
黄虎の数は、なんと10頭にまで増えた。
なんだ。
何が起きている。
気配を探って見れば、どうにも黄虎だけではない。
少し離れた位置に、獣の息遣いを無数に感じる。
森の生物が、奥地へと歩んでいる。
精霊の樹。
かの霊木が鎮座する聖域へと、すべての生命が吸い寄せられている。
あるいは、アスラもそうだ。
島からの出航を目前にして、この森がアスラを誘った。
いや、〈守り人〉を導いたのか。
空気が変わった。
考えられないような湿度も、気温も、少しずつましになってくる。
清浄な空気がより一層と清められて、冷たいような気さえする。
近い。
森の聖域が。
アスラは、にわかに異臭を感じた。
血が溶けた土のような、泥のような、それがさらに腐っている。
形容のしようがないような悍ましい気配。
澄んだ空気が、汚されるのを感じる。
これは。
馬鹿な、この穢れた臭いは。
樹々の柱の中に、赤い何かが蠢く。
血のうねりが森を這いずるようにして進んでいる。
巨大な蛇。
それも、首が3つあり、目がそれぞれに3つある。
鋭利な角や鋭い棘が生え散らかった頭部。
あまりに紅い鱗。
空気が抜けるような吐息は、血生臭さと、猛烈な腐臭にまみれている。
赤蛇。
この世で最も穢れた沼地に巣くう、邪悪な怪物。
どうしてあの毒蛇がいる。
不浄の沼から抜け出してきたのか。
腐血の穢毒を持つ大蛇。
アスラの凶悪な手甲は、これの牙と鱗から作られた。
かの蛇の毒は万物を腐らせる。
数少ない対抗手段が、この手甲のような赤蛇の素材を用いた防具か、あるいはかの蛇の蛇石から作られる薬。
それでも完全な抵抗は得られず、四肢を切り落としたり、あるいは命を諦めたりと、予後は最悪の一言。
幸いなことに縄張りは件の沼地に限られ、そこ以外では遭遇することはない。
通常は。
その赤蛇が、実に見える範囲で3匹。
どうした。
明らかな異常行動。
万が一にでもこれらの獣らが争いを始めようものなら、森の深部はおろか、島すらも危うい可能性が高い。
その前にすべて処理できるかといえば、やりようはなくはないが、やるべきではない。
なかなかきな臭くなって来た。
赤蛇は特に攻撃性が高い。
黄虎にちょっかいなど出そうものなら、大事だ。
彼らは、老虎になるほどに儀式や催しのようなものを尊ぶ価値観を持つ。
見れば、それなりに年を重ねた個体がちらほらといる。
まるで火薬庫。
いつ爆発するか、わからない。
ついに、天をつく樹々が姿を消した。
光が、その広場に満ち溢れる。
アスラは、目を見張った。
氷のような透き通る光がそこにとまっている。
麗鳥。
白鳥だ。
夜の薮からこの奥地へ飛んできたのだろう。
この世で最も美しい鳥類。
白亜の嘴、白金の羽毛、日を喰む巨大な翼、漆黒の鉤爪。
陽光を貪り極寒と暗闇を呼び込む、日喰い鳥。
それが、群れを作っている。
考えられぬような地獄。
集落を襲われたら、流石に大きな被害が出るような数。
広場を見る。
島中の獣がそこにあった。
耳の形、体の大きさ、色合い、毛の質、様々なグラデーションが見える。
何もかもが森の聖域という坩堝の中に集まったのだ。
命の揺かご。
無論、大物の姿もある。
黒い巌がそこにあるような蛙。
新緑の木の葉を無数に紡ぎ合わせたような、双頭の不気味な大百足。
巨大な樹から生えているように見える、淡く半透明な蝸牛。
森の生態系における最上位消費者が、霊木の前に一同に会す。
これほどの数がつどっているにも関わらず、あまりに静粛だった。
誰も鳴かず、誰も争わず、誰も動こうとしない。
アスラと黄虎の一行は、なぜか密度が低く、開かれている道に沿うようにして中心へと向かった。
枯れ葉が、聖域の光の中を黒い影になって泳いでいる。
一歩を踏み出すたびに、地べたの錆びた色の葉が、湿ったような、けれどもどこか芯がまだあるような、くしゃくしゃした音を立てる。
目の前を見る。
考えられぬような巨木がそこにあった。
陽光を斜めに浴びて、苔むした幹に白っぽいような化粧をしている。
禿になりつつある枝葉。
いくら歩いても全く大きさが変わらない。
大きな、大きな樹。
〈守り人〉の。
いや、この島に生きるすべての命が尊崇する霊木。
パブ=ダ神を導いた、啓示の木。
黄虎の老虎が列の先頭で止まる。
道を譲るように、アスラを促す。
後ろから、ぞろぞろと黄虎が金の光を放ちながら通りすぎる。
また、老虎と目が合う。
黄金の光が湛えられた黒い瞳。
静謐な視線。
行けと、そう言っている気がした。
アスラは、獣らが作る輪を抜け出て、一人霊木へと歩く。
命の泉は、すでに枯葉に埋もれていた。
水が枯れて久しい。
どうして、〈守り人〉がこの島を離れないのか。
あるいは、執着をするのか。
ひとえに、種族として繁栄をするためには、この樹が、そして泉がなければならないのだ。
〈守り人〉は生殖で増えるわけではない。
この枯れた泉に、命が浮かんでくる。
赤子が蓮の葉に包まれて。
ここは、分娩の場所。
天の神々が、魂を流して現世に届けてくださる場所。
誰もがこの聖域で生まれ、またこの霊木にまみえるために武具を取る。
母を、『本当の母』を守る部族。
ゆえに、〈守り人〉。
祭壇が、そこにあった。
命の泉を眼前にのぞむはずの、聖なる場所。
分娩の儀式がとり行われる神聖な祭場。
葉っぱが、その上を覆っている。
蓋がされたように、もうなされないように、枯れた葉が積もっている。
そうだ。
〈守り人〉は再び栄えない。
この世が、あるいは神々が。
強き民を必要としなくなったのかもしれない。
武術を、強さを、無情の神に捧げた歪んだ民族。
滅びの影が、逃れえぬ終焉が、まさに目の前にある。
さらに、樹に近づく。
森の中にさした光の中を歩く。
後ろからの陽光で、影がずっと前を先導する。
風が吹く。
乾いた音が大きく鳴らされ、赤茶けた大きな葉が表裏を静かに変えながら、いく枚も雨のように落ちてくる。
枯れ葉の時雨。
命がこぼれて落とされる。
渡る風に悪意はない。
ただ、葉が枝が、脆く、儚いだけだ。
〈守り人〉もそうだ。
戦と奇病。
逃れ得ぬ、運命のような巨大なうねりに飲まれた。
衰滅とは、そのようなもの。
アスラは、立ち止まった。
まだ、根本からは随分と遠い。
獣らの視線が集まるのを感じる。
樹を、見上げる。
首をいっぱいに持ち上げて、ほとんど後ろに結いまとめた髪が背につくほどに上を向く。
空へと伸びる大樹。
壁にしか見えないような、巨大な幹。
蒼穹の色を傘のように隠さんと広がる枝葉。
なんと雄大なのか。
そして、なんと色褪せているのか。
大きな、大きな、抜け殻のようになってしまった。
命は、すでにそこにはない。
アスラは、妙なものを見た。
蛍の光のような、弱い燐光。
光の粒子が、風に流される。
思わず、目を見開いた。
精霊の樹が、光を放っている。
静謐で、眩くない、ただそこにあるだけのような明るさ。
風が、それを淡い光の風にして運ぶ。
黄虎が、吠える。
いや、獣らがいっせいに声を出す。
泣いているような、あるいは悲しみを漏らすような鳴き声。
アスラは、掌を出した。
宙を泳いでいた木の葉が、アスラの小さくなった手に乗る。
葉が、光っている。
そして、淡い光になって、葉の先から砂の粒が空気に溶けるように、消えようとしている。
アスラは、また樹を見上げた。
光の風が強くなる。
精霊樹は、ほとんど光そのものになっている。
端から、頂上から、次第に希薄になるように、世界にとろける。
声。
声が聞こえる。
なんだ、誰だ。
いや、これは。
暗い山。
闇の中にそびえる骸の山。
脳裏に、どうしてかその映像が流される。
光。
あまりに清い光が差す頂き。
その中に、何かがある。
声がする。
アスラは頭を抑えた。
意識が遠のく。
獣らの鳴き声が鈍く聞こえる。
浮遊感が身体を包む。
黒い山が迫ってくる。
自分の名前が、曖昧になる。
だめだ。
この傾向は不味い。
どうして今こうなるのだ。
ーー『アスラ』。
声がする。
あの声ではない、暖かな声質。
たった、3文字の言葉。
凡庸な名前。
どこにでもいる戦士の名前。
意識が引き戻される。
光が、戻った。
かぶりを振って、また現世へと視界を開く。
風がずっと吹いている。
森全体が大きな音を立てて、鎮魂をしているようだ。
獣らが鳴く。
一息は長く、寂しくて仕様がないように鳴いてみせる。
アスラは、手に乗った葉の葉柄の部分を摘むと、それを胸に抱いて瞳を閉じた。
黙祷。
これでいい。
獣らが泣いてくれている。
思い出す。
最初に、この聖域へと足を運ぶことを許された日。
少しの化粧をされ、祭礼剣を持たされ、年長の戦士らとこの樹を見た。
あれは、未来への希望だった。
よくわかっていなかった。
〈守り人〉という民族。
武術の陰と陽。
心を捨てた神の恐ろしさ。
全てが未来という光の中に覆い隠されていた。
そうだ。
間違いは多かった。
ほとんどが誤りだった。
後悔など、しようと思えばいくらでもできる。
ただ、足跡は変わらない。
『アスラ・ウシール・アンラ=マンユ・パブ=ダ・アセド・ラ=スーヤイルム・カルナ』。
この名前に、全ての業が濃縮されている。
だからこそ、これを名乗らなければならない。
隠してはならない。
人は、足を踏みはずす。
真っ直ぐには歩けはしない。
ゆえに、足跡がある。
どう歩いたか、どうして間違ったのか、それを明らかにするために歴史がある。
前を向くしかない。
できることなど、限られている。
それでも、歩みを止めない。
少しずつ、少しずつ、良くなる。
約束。
それは、ほとんど呪いだった。
昔の『アスラ』が死んだ時、それは動く抜け殻だった。
そこへと注ぎ込まれた夢。
願い。
恋慕。
そして、遺言。
それこそが、心の底に唯一ある温度。
大丈夫。
これがある限りは、『アスラ』は死なない。
我ながら、冷血で無愛想で、つまらない人間だが、それでも息はする。
生きている。
アスラは、瞳を開いた。
手には、指と指がくっつく感覚があった。
眼前を見る。
光の残滓が、そこにあった。
空を見上げる。
蒼穹。
日は、かなり高くなった。
淡い光が、風になってその中へと吸い込まれる。
本当に広くなった森の広場で、誰もがその軌跡を追っていた。
文化の終端。
命の終わり。
これでいい。
永遠の美しさや、完璧さなど必要がない。
そういう意味では、今の身体は歪ではある。
これは特異なのか、それとも願いが生んだ本当の奇跡なのか。
ただ、些末なことかもしれない。
ふとして始まって、そしていつかは幕が降りる。
世界は、そのようにできているのだろうから。
♢
最後の墓参りも終わり、アスラは浜へと戻って来ていた。
あまりの光量と暑さ。
白くぎらぎらと輝く陽光が少しばかり弱められてそこにうつされている。
陽炎が立ち上がり、ゆらゆらと景色を揺らす。
交易船から、迎えの小舟が渡される。
白い海面の中に、その影が動く。
見れば、ドーブ・エットラらしきものの姿もある。
浜を歩く。
もしかすると、この歩みがこの島での最後の歩行になるかもしれない。
美しい砂浜は、いく人もの足形がついて、騒がしい。
その中に、アスラのつけたやや歪なような足あとが上に刻まれる。
風が強い。
足を離すたびに砂が少しばかり流される。
衣服も、髪も、風に撫でられて、横合いに揺らされている。
眼前には、海がある。
光に満ちた、洋々とした海原。
かすかに青をたたえて、起伏の多くある波を遠くから寄せさせている。
湿り気のあるような、乾いたような波の音。
波打ち際に、アスラは立った。
寄せる波が、白鳥の素材でこさえた鉤爪の長い靴を洗う。
海鳥が鳴いている。
小舟は、少し強くなった風に難儀して、やや遅れているようだ。
アスラは、手にしている鉄の棒で徐に浜に何かを描いた。
子供が描いたような船の絵。
濡れた砂の凹みが作った、ただの陰影。
波が寄せて、それはすぐさま洗われた。
風が吹く。
その向きが変わる。
なぜか、光を纏っているような風が、森から吹き付ける。
木の葉が舞い、赤い花びらが吹雪のように海へと流れる。
さあ、行こう。
用語集
・白鳥
「日喰鳥」の異名を持つ怪鳥。白金色の美しい羽毛、白亜の嘴、漆黒の鉤爪と、非常に美しい外貌を持ち、最も優美な鳥、麗鳥などとも呼ばれる。
一方で、光を喰らう悍ましい習性を持つ。白鳥の巣食う常夜の藪一帯は、身を切るような寒さと、夜のような静かな闇が垂れ込める。
凍える吐息、日を蝕む翼、闇色の爪の致死の一撃など、島の獣の中でも有数の危険性を持つといっていい。日食が起こったと思ったらば、それは白鳥が腹を空かせて陽光を貪っているだけかもしれない。




