生還
「その杖の形状を、覚えているか?」
ヴァレリウスの問いは、先ほどまでの冷徹な響きとは異なっていた。仮面の奥から漏れ出す声には、喉を焼くような渇望と、必死に抑え込もうとして抑えきれない微かな震えが混じっている。アルトは記憶の糸をたぐるように、視線を斜め上に向けて考え込んだ。
「ええと……たしか、全体が吸い込まれるような真っ白な色をしていました。先端には、慈愛に満ちた神の姿を模したような美しい彫刻があって……その背中から、幻想的な羽根が7枚、扇状に広がっているデザインだったと思います」
アルトが語ったその姿こそ、レーベンフェルト王国の始祖にまつわる伝説の至宝、原初の王笏の真の姿であった。
この国で育った者なら、幼い頃に誰もが1度は【建国王の伝説】として耳にするおとぎ話だ。白銀よりも気高く輝き、7枚の羽根で国を築いたという聖なる杖。だが、それはあくまで絵本の中の出来事であり、大半の国民にとっては、実在を信じるべくもない空想上の産物に過ぎない。しかし、貧しい村の出身で、物語に触れる余裕すらなかったアルトだけが、その価値を知らぬまま実物を手にしていたのだ。
「……ッ、ハ……ハハハ……!!」
アルトの証言を聞いた瞬間、ヴァレリウスはもはや自制をかなぐり捨てた。それまでの威厳あるトーンは消え失せ、部屋全体を震わせるような、歓喜に満ちた狂った笑い声が吹き上がる。
「素晴らしい……! 実に素晴らしいぞ、アルト!」
仮面の下で口角を吊り上げ、ヴァレリウスは身を乗り出すようにして再び問うた。
「その杖は、いつ見つけたのだ。時期を思い出せ!」
「僕がゴミ山で働き始めて、たしか4日後くらいだったと思います」
アルトの返答に、ヴァレリウスは確信した。ゴミ山に入ってわずか4日。トビーは極めて早い段階で、この世界のパワーバランスを覆すほどの至宝を手にしていたのだ。没落したとはいえ、元伯爵家の嫡男であったトビーが、その白い杖の正体に気づかないはずがない。彼は原初の王笏の真価を理解した上で、それを誰の手にも渡らぬよう、泥底の闇の中に秘匿していたのだ。
「アルト、貴重な情報をありがとう。……お前たちの役目は終わった。もう下がってよいぞ」
ヴァレリウスは満足げに、寛大な仕草で二人を促した。
「失礼いたします……!」
恐怖から解放されたファビアンが弾かれたように一礼し、アルトもそれに倣って深々と頭を下げる。2人はシュペーアーに導かれ、重厚な赤い扉の向こう側へと、静かに謁見の間を後にした。
重厚な赤い扉が閉まり、静寂に包まれた本館の廊下を抜けて外へ出た瞬間、ファビアンを支配していた死の恐怖は、劇的な歓喜へと塗り替えられた。真っ白な大理石の壁に反射する陽光を浴びながら、彼は膝の震えを抑えることも忘れて、天を仰いだ。
「助かった……! 俺は、俺は助かったんだ!!」
裏切りという大罪を追及されることもなく、命を奪われることもなかった。その事実が、彼の喉から獣のような叫びを絞り出させた。突然大声を上げたファビアンに、隣を歩いていたアルトは肩を跳ねさせて驚き、丸い目をパチパチとさせた。
「ファ、ファビアンさん? 突然どうしたんですか、そんなに大声を出して」
「いや……なんでもない。なんでもないんだ、アルト!」
ファビアンは、これまでの憔悴が嘘のような満面の笑みを浮かべた。命を拾った喜びが、彼の理性を一時的に麻痺させていた。その様子を見て、アルトも安堵したように微笑み、本館を振り返って呟いた。
「ヴァレリウス様は、本当に良い人ですね」
アルトにとって、ヴァレリウスは愛するルーナを救い出し、自分たちを救ってくれた大恩人に他ならない。そんなアルトの純粋な言葉に、ファビアンは一瞬、複雑な表情を浮かべた。
「……ああ、そうだな」
処分を下さなかったという意味では良い人かもしれない。だが、それは同時に、自分という男がヴァレリウスにとって、怒りをぶつける価値すらない取るに足らない存在だと断じられた証左でもあった。助かった喜びの影で、プライドを粉々に砕かれた虚しさが、じわりと胸を焼く。しかし、立ち止まっている暇はなかった。ファビアンは気持ちを切り替えるように、本館の向かいに立つ別の建物を指差した。
「アルト。ゴミ山での仕事はなくなったが、ボスはお前に期待している。明日から別の仕事を用意してあるんだ。……明日は、あの西館へ来てくれ」
指し示された西館は、白亜の本館とは対照的な佇まいをしていた。琥珀色の焼き瓦が陽に映え、風雪に耐え抜いた重厚な石積みの外壁が、歴史の重みを静かに語っている。装飾こそ削ぎ落とされているが、倉庫としての堅牢さを重視したその二層の建物は、この屋敷の財産を守り続けてきた質実剛健な威容を誇っていた。
「分かりました! じゃあ、明日からまたよろしくお願いします!」
アルトは元気よく返事をすると、軽やかな足取りで屋敷を去っていった。1人残されたファビアンは、指差したままの西館を、今度は重苦しい目で見つめた。あそこには、組織の者がいる。1度は組織を裏切り、私欲のために動いた自分をどんな目で迎えるだろうか。命は助かった。だが、裏切り者という烙印を背負いながら、再びあの堅牢な石造りの館へと足を踏み入れる緊張に、ファビアンの足取りは再び鉛のように重くなっていった。




