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天国からまた地獄へ

 アルトは手に握った黒ずんだペンダントを虚ろな目で見つめていた。その汚れた金属は誰の目から見ても無価値に見える。しかし、アルトが「これを綺麗にすれば売れるのでは」という閃きを得た瞬間、アルトの頭の中で鋭い電撃が走った。それは、大神殿で授かったハズレ職業【フリーター】に付随する、神から与えられた特殊な力だった。


 ペンダントを見ただけで、【この金属の黒ずみには、どの程度の酸が必要か】【この彫刻の隙間を掃除するのに最適な道具の形状は何か】といった膨大な量の雑務方法が、最適な手順として頭の中に溢れ出したのだ。


 (この金属の黒ずみは、硫化のせいだ。貴金属用の研磨剤は買えないが、酸性と微細な研磨力があれば落ちる)

 (この鷲の彫刻の隙間に詰まった泥は、物理的に掻き出すしかない。細く、硬い道具が必要だ)


 アルトはもはや絶望に飲まれた夢遊病者ではなかった。アルトの瞳には王都で自分を笑った傲慢な者たち、そして自分を騙して金と信頼を奪った者たちを見返すため、そして何よりも母の治療費を必ず稼ぎ出すという、鋼のような強い意志の光が宿っていた。


 アルトはすぐに周囲のゴミ山を漁り始めた。アルトは鼻を突く悪臭も、不潔なゴミの感触など気にしない。ただひたすらに、脳内でシミュレーションされた修復に必要な【道具】を探す。


 まず見つけたのは、廃棄された樽の破片の周りから滲み出た、発酵した果実の残骸と、酸味を帯びたワインの(おり)だった。アルトはそれを、平らな石にできた小さな窪みに集めて洗浄剤とした。次に燃え殻の山をまさぐり、木を燃やした後に残った灰の中から、特に粒子の細かい粉末を研磨剤として確保する。そして、硬く尖った動物の骨片や、手に馴染む平たい石を工具として確保した。


 準備が整うとアルトはペンダントを酸性の液体に浸して硬く乾いた泥と油汚れを緩めた。そして、骨片を削って作った自作の針を使い、緻密な鷲の彫刻の隙間に詰まった黒い塊を、1つ残らず、異常なほどの集中力で掻き出していく。その手つきはまさにフリーターの力が導き出した最適解の実行であり、わずかな力加減で装飾を傷つけずに汚れを剥離させた。泥が落ちた金属部分には、次に研磨の工程が施された。アルトは灰の粉末をボロ布につけ、酸性の液体と相まって黒ずんだ金属の表面を磨き始めた。灰は弱い研磨剤として働き、長年の汚れと硫化による黒ずみを少しずつ、しかし着実に剥がしていく。


 『ガリ、ゴシ、ガリ……』


 夜のゴミ山に、地道な研磨の音だけが響く。アルトは自分の手の感覚だけを信じ、光が戻るまで磨き続けた。


 数十分後。


 泥と灰にまみれたアルトの手の中で、ペンダントは完全にその姿を変えていた。

 黒ずんでいた銀の鎖は、夜の赤い月光を反射し、鈍くも上品な銀色を取り戻した。緻密な鷲の彫刻は、泥が全て取り払われたことで、まるで生きているかのように繊細に浮かび上がる。飾りとして埋め込まれていた小さなガラス玉は、光を反射する透明な輝きを放っていた。それは、もはやゴミではなかった。誰かが捨てた価値のある商品だった。


 アルトは、磨き上げられたペンダントをじっと見つめながら確信した。


 (これなら、銀貨2枚……いや、それ以上の価値になるかもしれない)


 絶望の底でアルトはゼロから価値を生み出すという最初の成功体験を掴んだのだった。


 アルトは修復を終えたペンダントを握りしめたまま、その場に崩れ落ちた。ゼロから価値を生み出した達成感と徹夜の作業による極度の疲労が同時に押し寄せ、彼はすぐに泥にまみれたゴミ山のくぼ地で眠りこけてしまった。


 彼が目を覚ましたのは、夜の不気味な赤い月ではなく、王都の空から差す朝日の光によってだった。


 アルトはすぐにペンダントを確認する。その上品な輝きは本物だった。アルトはこれを売れば当面の利子を支払えるどころか、宿に泊まることさえできるかもしれないという希望を胸に立ち上がった。


 王都の店が開くまでにはまだ時間がある。アルトは真っ先に取るべき行動を思いついた。昨夜のぼったくりとトビーによる強盗を衛兵に報告することだ。


 アルトは、王都の【治安維持院】へと向かうため、泥底から王都の中心街へと足を踏み入れた。しかし、アルトは気付いていなかった。


 アルトは昨日まで着ていた唯一の清潔な服をゴミ山で一夜を過ごしたことで、体中が悪臭と埃にまみれている。その姿は一見して、泥底でも滅多に見かけないほどの酷い身なりだった。王都の磨かれた石畳の美しい街並みに、その異様な姿が現れるとすれ違う人々は次々に顔をしかめた。


「くっさ!」

「なんだあの汚い野郎は!衛兵を呼べ!」


 アルトの存在は清潔な王都の風景にとって、あまりにも異質なノイズだった。人々は露骨に嫌な顔をして道を避け、中には「臭い!」と怒鳴る者までいる。アルトは人々の視線と悪意ある声に戸惑いながらも必死で歩き続けた。しかし、アルトが治安維持院の建物に近づく前に、市民からの通報はすぐに衛兵隊に通達された。


「おい、そこの汚い男!立ち止まれ!」


 2人の衛兵がまるで汚物に触れるのを嫌がるかのようにアルトに近づいてきた。アルトが事情を説明しようと口を開いた瞬間、衛兵の一人が怒鳴る。


「黙れ!汚い体で王都の中心をうろつくとは何事だ!大人しく身柄を拘束する!」


 アルトは抵抗することなく捕らえられ、目的地の治安維持院に併設された収容所へと連行された。


 収容所の尋問室で、アルトは必死に訴えた。


「僕は被害者です!昨日、食堂で金を盗まれ、さらに不当な契約書にサインさせられたんです!」


 しかし、彼の話など聞く耳を持つ者はいなかった。衛兵たちは、ゴミまみれのアルトが語る、【お金を盗まれたこと】と【食堂のぼったくり】という話を狂人のたわごとだと一蹴した。


 その時、衛兵の一人がアルトの手元に目を留めた。


 「待て。貴様、そのペンダントは何だ?」


 アルトは必死に説明した。


「これはゴミ山で拾ったんです!これを売って金を稼ごうと……」


 衛兵は鼻で笑った。


 「ゴミ山で拾っただと?こんなに装飾の施された物を?嘘をつくな!貴様、誰かの屋敷に忍び込んで盗んだのだろう!」


 衛兵の勝手な断定により、アルトの話は全て裏目に出た。彼は証拠もなく、盗みの罪を問われて、ペンダントは没収されて、そのまま収容所の薄暗い牢屋に閉じ込められてしまった。



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