ヴァレリウス
シュペーアーの「ご報告があります」という言葉に応じるように、その絶対的な虚無を体現した扉が、音もなく吸い込まれるように内側へと開いた。
1歩足を踏み入れると、そこは30畳ほどの広さの部屋であった。これまでのホールと同様、壁は光を拒絶する漆黒に塗りつぶされ、天井の隅に据えられた魔導灯が不気味な紫色の光を放っている。部屋には豪華な調度品などなく、中央に鎮座する大きなベッドだけが異様な存在感を放っていた。
ベッドの上には、四肢のない男性が横たわっている。その肉体はまるで枯れ木のように痩せ細り、ただ微かな呼吸だけが彼が存命であることを示していた。だが、その側には不釣り合いなほど鮮やかな美しさが佇んでいる。黒いナース服を彷彿とさせる、タイトで刺激的な衣装。そこから溢れんばかりの豊満な肉体と、しなやかな脚のラインを持つその女性は、長い黒髪を夜の帳のように背に流していた。彼女の名はイリシア。モデルのような美貌に、王族の血筋を感じさせる高貴さと冷徹さを同居させている。
シュペーアーは、イリシアの足元で深く跪き、頭を下げた。
「イリシア様、ゴミ山の捜索は全く成果はありません。そして、明日にはトビーの復讐の第一手が下されます。これ以上のゴミ山の探索は難しいと思われます」
その報告を聞いても、イリシアは四肢のない男性の髪を愛おしそうに撫でる手を止めず、淡々と答えた。
「……構いません。初めからトビーのような下卑な男の言葉など信じてはおりませんでした。原初の王笏は、おそらく王城にあるはずです。シュペーアー、王城の捜索はどうなっているのでしょうか?」
「王城内の調査は私が直接担当しております。しかし、厳重な警備体制を敷いている区画がいくつか存在し、そこへの侵入は不可能でした。私もイシリア様のおっしゃる通り、王城に隠されている可能性が極めて高いと推測いたします」
シュペーアーの言葉に、イリシアの手が止まる。彼女は冷徹な、しかしどこか試すような視線をシュペーアーへ落とした。
「あなたほどの隠密をもってしても侵入できないのであれば、それ以上の捜索は不可能だと判断するのが妥当でしょう……と、私にそう言ってほしいと思っているわけではありませんよね?」
底冷えのするような問いかけ。だが、シュペーアーは淡々と、しかし確信に満ちた声で返した。
「今は、その時期ではないと考えております。これから王都内は、嫌でも騒がしくなります。その喧騒に紛れ、機が熟せば必ずや侵入し、奪取するつもりです」
「……よろしい」
イリシアは短く答えると、再びベッドの男性へと視線を戻した。部屋の壁には、さらに別の場所へと通じる2つの扉が、沈黙を守っている。
「下がりなさい、シュペーアー。期待しておりますよ」
「御意」
シュペーアーは音もなく立ち上がり、影に溶けるようにして退室した。シュペーアーの気配が完全に消えたことを確認すると、イリシアはそれまでの凍てつくような冷徹さを解き、ベッドに横たわる四肢のない男性へ、恭しく膝をついた。
「ヴァレリウス様」
その名は、かつて組織を、そして王都の闇を震撼させた恐怖の象徴。ベッドの上で肉塊と化したこの無残な男こそが、組織の真の首領、ヴァレリウスその人であった。
「シュペーアーの言動、仕草……その全てを観察いたしましたが、嘘の色を感じ取ることはできませんでした。彼が語った報告は、おそらく真実なのでしょう」
イリシアは自らの瞳を指先でなぞる。彼女の持つレア職業【真贋士】は、対象の微細な筋肉の動きや発言の「真偽」を看破する、超感覚的な洞察力を有している。
「しかし……シュペーアーの職業は忍者です。あの職は隠密行動だけでなく、自らの精神すら欺くことに長けています。私の【真贋士】をもってしても、完全に嘘を塗りつぶしている可能性があるのかもしれません。あるいは決定的な事実だけを口にせず、伏せている可能性もあります」
イリシアの懸念に、ヴァレリウスの瞳が微かに動いた。彼はゆっくりと口をパクパクと動かす。喉を深く断たれ、声帯を無残に斬り裂かれている彼には、もはや言葉を紡ぐ機能は残されていない。だが、イリシアの【真贋士】という力は、言葉の真偽を測るだけでなく、その無音の唇の動きから「意志」を正確に抽出することができた。彼女はヴァレリウスの口の動きを、一文字も漏らさず読み取っていく。
「……『その通りだとワシも思う。処刑するにはまだ時期尚早だ』」
イリシアはヴァレリウスの意思を代弁するように、静かに、しかし冷酷な響きを持って復唱した。
「『原初の王笏を手にするまでは、アイツは生かしておこう』……。左様でございますね。あの男の隠密能力は、王城に眠る秘宝を手中に収めるためには、まだ使い道がございます」
ヴァレリウスの瞳に、昏い悦楽の色が浮かぶ。四肢を失い、声を失い、それでもなお彼はこの地下の深淵から、復讐の炎を燃やし続けているのだ。
「ヴァレリウス様、健国王の3種の神器は必ず私たちが手に入れましょう」
イリシアはヴァレリウスの細い手に自らの手を重ね、妖艶な微笑を浮かべた。紫色の魔法灯に照らされたその光景は、地獄の底で愛を囁き合う亡者のように、美しくも禍々しいものであった。




