地下の王国
ファビアンは、これまでにないほど上機嫌だった。泥底の不快な臭いも、ボルゴの無礼な態度も、今の彼にはバラ色の未来へのスパイスにしか感じられない。彼は軽やかな足取りでゴミ山を後にすると、王都の光り輝く華やかな歓楽街へと姿を消していった。今夜は祝杯だ。自分が世界の王となる、その前祝いのために。一方、その様子を冷ややかに見送った影があった。
忍者、シュペーアーは、ファビアンとは逆の方向、王都の外れにある平民街へと向かっていた。そこは泥底に比べれば遥かに整った町並みで、質素ながらも手入れの行き届いた小さな家々が密集している。日は完全に暮れ、それぞれの窓からは温かな生活の灯りが漏れていた。シュペーアーはその町並みを迷いなく闊歩し、ある一軒の何の変哲もない家へと入っていく。家の内部は、絵に描いたような平民の住まいだった。木製のテーブル、棚に並んだ食器、控えめな調度の家具。しかし、そこには決定的な違和感があった。すべてが完璧に揃っていながら、人の温もりが一切ない。生活の汚れも、料理の匂いもない。まるで時が止まったモデルハウスのような、無機質な空間だった。
シュペーアーは戸惑うことなく歩みを進め、行き止まりであるはずの壁に向かって、そのまま真っ直ぐにぶつかりに行った。
『スッ……』
シュペーアーの体は抵抗なく壁を透過し、隠された小さな小部屋へと入り込んだ。そこには、下へと続く暗い階段が1つあるだけだった。シュペーアーが足を踏み入れると、壁の魔導灯が音もなく青白い火を灯した。
約50段の階段を降り切った先で、風景は一変した。 目の前に現れたのは、少し大きめの通路。その両壁は、本物の黄金のように眩い輝きを放っていた。地下深く、平民街の喧騒から隔絶された場所に存在する黄金の回廊。その豪華絢爛な通路の突き当たりに、禍々しくも美しい真っ赤な大扉が鎮座していた。高さ3メートルはあろうかという巨大な扉。 だが、その滑らかな表面には、取っ手も、鍵穴も、ドアノブさえも存在しない。
シュペーアーは扉の前で立ち止まり、深く息を吸い込むと、組織の理念を刻み込んだ開門の詠唱を低く、厳かに唱え始めた。
「天上の光は瞳を焼き、偽りの温もりは心を腐らせる。沈まぬ太陽など不要。今こそ万物に永劫の影を、我らが深淵に真実の黒を」
詠唱に合わせて、赤い扉の表面に血管のような光の筋が走り、周囲の黄金の壁が共鳴するように微震を始める。
「来たれ、黒き太陽」
その瞬間、ガツン! と巨大な閂が外れるような重低音が響いた。 3メートルの巨扉が、内側から溢れ出す圧倒的な闇を伴って、静かに、そして重々しく開かれていく。扉の先に広がっていたのは、想像を絶する巨大な円形ホールだった。直径300メートルはあろうかという広大な空間。その4方、そして床に至るまで、すべての壁面は光を吸収するような漆黒に塗りつぶされている。シュペーアーがふと天井を見上げれば、そこには組織の象徴である巨大な黒き太陽の紋章が、圧倒的な威圧感をもって描かれていた。
それは完璧な真円の黒であり、その周囲からは不規則にうねる黒い炎のような光輪が立ち昇っている。特筆すべきは紋章の縁だ。そこからは、まるで黒いタールか血が滴り落ちるかのような滴が壁を伝って細密に描かれており、見上げる者は、巨大な黒い目に睨まれ、涙を流されているかのような錯覚に陥る。すべてを喰らい尽くし、世界を黒い涙で染め上げる。 その絶望を体現した紋章の下、ホールを照らしているのは、規則的に並んだ魔法灯。しかし、その光は温かみのある橙色ではなく、毒々しく不気味な紫色を放っていた。紫の光が黒い壁に反射し、空間全体を怪しく、底冷えのするような緊張感で満たしている。
ホールの周囲には、今シュペーアーが通ってきたものと同じ、巨大な赤い扉が他に2つ存在した。1つ1つの扉が、別の隠れ家や重要な拠点へと繋がっているのだろう。だが、シュペーアーが迷うことなく歩みを進めたのは、そのどれでもなかった。
ホールの最奥。 そこには、漆黒の壁よりもさらに深く、光さえも届かぬほど黒よりも黒い不気味な扉が、無言の圧力を放って立ちはだかっていた。その扉は、まるでそこだけ世界に穴が開いているかのような、絶対的な虚無を体現していた。
シュペーアーはその扉の前に膝をつき、深く頭を垂れた。
「ご報告があります」
その低い声が広いホールに反響し、紫色の光が波打つように揺れた。 刹那、何の音も立てず、その黒よりも黒い扉が吸い込まれるように内側へと開いていった。




