ルーナの運命
アルトは小刻みに体を震わせながら、その場で立ち尽くしていた。頭の中では、警鐘が鳴り響いている。トビーに騙された時と同じ感覚。ファビアンという男は、親切な顔をして自分を借金地獄へ引きずり込もうとしているのかもしれない。これは罠だ。理性はそう叫んでいた。だが、アルトの脳裏には、ルーナのあの悲しげな後ろ姿が焼き付いて離れなかった。「嘘です」と言って自分を突き放した時の、あの震える声。自分を守るために、わざと悪女を演じて見せたあの態度。
(あれが演技なわけがない。あの涙に、嘘など微塵も感じることはできなかった……!)
アルトには、故郷で待つ母親の病気を治すための薬を買い、実家へ仕送りをするという、何よりも大事な使命がある。ここで大金を借金することは、母の命を危険に晒すことと同義かもしれない。それでも。目の前で泣いていた女性を、自分の生活が大事だからという理由で見捨てることなど、アルトにはできなかった。
(僕は……ルーナさんを見捨てることなんてできない)
アルトは拳を強く握りしめた。自分は【ハズレ職業】だ。でも、アルトにはゴミ山から拾ったガラクタをお宝に変える力がある。トビーやファビアンが認めた通り、アルトは大金を稼ぐことができる。
(母さんも、ルーナさんも、僕が両方救うんだ!)
アルトは震えを止め、顔を上げた。その瞳には、迷いを断ち切った強い光が宿っていた。
「ファビアンさん」
アルトは、目の前の男を真っ直ぐに見据えて言い放った。
「はっきり言います。僕はあなたを信用していません」
その言葉に、ファビアンは眉をピクリと動かしたが、口元の笑みは消えない。
「でも……ルーナさんのことは信じています。ルーナさんは、僕のために嘘を付いて、僕を拒絶したのです。あんな優しい人を、この場所に残していくことはできません」
アルトは、覚悟を込めて告げた。
「僕はルーナさんを助けたいです。ファビアンさん……ヴァレリウス様の力を貸してもらってください」
それは、アルトが自ら悪魔との契約を望んだ瞬間だった。ファビアンは、アルトの覚悟の言葉を聞くと、まるで最高級のワインを味わったかのように、満足げに笑みを浮かべた。
「ククッ……いいだろう。アルトが疑い深くなるのは当然だ。トビーの一件があったばかりだからな。だが、俺はそんな些細なことなど気にしないから、安心してくれたまえ」
ファビアンは、ベッドの上でふんぞり返り、鷹揚に言った。
「君の望み通り、俺からヴァレリウス様には話をつけてくる。君の才能と覚悟があれば、きっと良い返事がもらえるはずだ」
ファビアンはそこで言葉を切ると、部屋の奥に控えていた女性を手招きした。
「さぁ、堅苦しい話はこれで終わりだ。俺はこれから第2ラウンドを楽しむところなんでね」
女性が艶めかしくファビアンに寄り添う。ファビアンはアルトに向かって、シッシッと手を振った。
「明日、職業案内所で落ち合おう。そこで全ての手続きを行う。……いい返事を期待して待っていろ」
「……わかりました」
アルトは一礼すると、男女の熱気が充満し始めた部屋から背を向け、静かに出て行った。
翌日。約束通り、アルトとファビアンは泥底にある職業案内所で待ち合わせた。この場所は、泥底の貧しさを凝縮したような建物だ。錆びついた鉄骨と腐りかけた木材で組まれた簡素な骨組み。窓は割れて板で塞がれ、中は昼間でも薄暗く、埃っぽい空気が淀んでいる。壁は剥き出しのセメントで、至る所に亀裂が走り、天井からは煤けたオイルランプが数個、心細く揺れる灯りを落としているだけだった。正面には手垢で黒ずんだ簡素な木製のカウンターがあり、普段なら仕事にあぶれた労働者たちが殺気立って並んでいる場所だ。しかし、ファビアンが姿を見せると、空気は一変した。カウンターの奥にいた受付嬢は、ファビアンの姿を見つけると、処理していた業務を即座に放り出し、慌ててカウンターから出てきた。
「ファビアン様! お待ちしておりました。すぐに特別室へご案内いたします」
彼女は他の労働者たちを無視して、恭しく2人を建物の奥へと導いた。案内された扉が開かれた瞬間、アルトは我が目を疑った。その来客室だけは、泥底の薄汚れた世界から切り離されたような、異質の豪華さを誇っていたのだ。
壁は真新しい高級な壁紙で覆われ、床にはフカフカの絨毯が敷き詰められている。煤けたオイルランプではなく、魔石を動力とした明るい照明が室内を照らし、中央には黒檀の重厚なテーブルと、革張りのソファーが鎮座している。ここは、黄金の蜘蛛の幹部や、ヴァレリウスの配下が密談を行うためだけに用意された、選ばれた者だけの聖域だった。
ファビアンは当然のようにソファーに腰を下ろし、アルトにも座るよう促した。重い扉が閉まり、外の喧騒が遮断されると、アルトは緊張した面持ちで、膝の上で拳を握りしめながら尋ねた。
「ファビアンさん……ルーナさんの件は、どうなったのですか」
心臓が早鐘を打つ。断られれば、ルーナは救われない。ファビアンは、アルトの不安を吹き飛ばすような、晴れやかな笑顔で答えた。
「安心しろ、アルト。ヴァレリウス様からの許可が下りた」
「本当ですか!」
「あぁ、あのお方は、無利子での大金貨5枚の貸し付けを許可してくださった。それだけじゃない。ルーナの新しい職場も手配してくれたぞ。これでルーナは、体を売らなくても家族への仕送りができるようになる」
アルトはファビアンの話を聞いて、張り詰めていた糸がプツリと切れ、全身から力が抜けた。安堵感が波のように押し寄せ、頬が緩み、どうしようもなく顔がにやけてしまう。
「よかった……。ルーナさん、本当によかったです……!」
アルトの目には、うっすらと涙が浮かんでいた。自分の決断は間違っていなかった。これで彼女は救われるのだ。
「だが、アルト」
ファビアンの声色が、僅かに低くなった。
「この契約を履行する条件として1つだけやって欲しいことがある」
アルトは表情を引き締めた。当然だ。大金貨5枚もの大金を借りるのだ。タダで済むはずがない。これから提示されるのは、奴隷のような過酷な労働か、あるいは危険な犯罪への加担か。アルトはどんな無理難題でも受け入れる覚悟を決めていた。
「はい。僕にできることなら、なんでもします。命を削ってでも働きます」
アルトは悲壮な決意を目に宿して答えた。しかし、ファビアンの口から出た言葉は、アルトの予想を遥かに下回るものだった。
「そんなに意気込むなアルト、簡単なことだ。ゴミ山から、ある特定の品を見つけ出してほしいのだ」
「……え?」
アルトはポカンと口を開け、間の抜けた声を出した。
「……それだけ、ですか?」
「ああ、それだけだ。だが、見つかる保証もないガラクタの中から探し出すので、お前の良品を見極める目が必要なのだ」
アルトは唖然とした。
もっと恐ろしい、身の毛もよだつような代償を求められると身構えていたのに、提示されたのはゴミ山から物を探すという、彼の日常の延長線上にある仕事だったのだ。




