あのお方
トビーの瞳の奥底には、誰にも見せない冷徹な炎が燃えていた。
トビーの真の目的は、たった1つ。最愛の妹エーデルを、王都の闇を統べる【あのお方】の手から連れ戻すことだ。
トビーは最初から理解していた。【あのお方】にどれだけ金を積もうとも、エーデルが救われることはない。自分たち兄妹は、彼らにとって都合の良い金のなる木であり、一生、奴隷として金を産みだす製造機として使い潰される運命にあることを。
支配者から愛する者を救うには、交渉ではなく、簒奪しかない。【あのお方】よりも強大な力を得て、その首を縦に振らせる以外に道はないのだ。そのために、まずはこの泥底の王になり、力を蓄え、次には王都の闇の王である【あのお方】を潰す。それが、トビーが描いた壮大な復讐のシナリオだった。
泥底に来て一年。泥水をすすり、道化を演じながら、トビーはこの日のために地道に演出を積み重ねてきた。そして今、ついにその幕が上がったのだ。しかし、劇はまだ開幕したばかり。終幕までは、まだまだ遠く険しい道のりがある。今この瞬間からが、話術士トビーの本領が試される時だ。
トビーが手の内をさらけ出し、自身が【あのお方】よりも優れた演出家であることを証明すると、会場の空気は一変した。
パチ、パチ、パチ……。
静寂を破る音が響く。それは、個室にいるベルゼブブとアクネラによるスタンディングオベーションだった。二人の支配者は立ち上がり、トビーという稀代のペテン師へ惜しみない拍手を送った。そして、最初に口を開いたのは、ベルゼブブである。彼は、トビーの才能に魅せられたように笑みを浮かべて声をかけた。
「素晴らしい。お前の提案は非常に魅力的だ。この汚い泥底で甘んじていたワシを、更なる高みへといざなってくれることに、年甲斐もなく心が躍っているぞ」
ベルゼブブは杖をつき、身を乗り出すようにして続けた。
「だが、現実的な問題がある。いきなり奴隷であるお前を泥底の王へと推薦しても、組織の荒くれ者たちが納得するだろうか? 力による統制には限界があるぞ」
ベルゼブブはもっともな疑問を投げかけた。しかし、トビーには既に答えが用意されていた。
「ご懸念には及びません。ベルゼブブ様には、会長という新たな地位をご用意しております」
トビーは即座に答えた。
「実務は私が泥底の王として執り行いますが、組織のトップはあくまで会長であるベルゼブブ様です。それならば、ベルゼブブ様の配下の者たちも、主君の権威が守られたと納得するでしょう」
「カッカッカ! 会長か。悪くない響きだ」
ベルゼブブは満足げに笑い、トビーの配慮と実利を兼ねた提案を受け入れた。すると今度は、アクネラが個室の手すりに頬杖をつき、身を乗り出した。金色のドレスからこぼれ落ちそうなほど豊かな胸元を、トビーに見せつけるように強調する。そして、仮面の奥から、顎を引いた甘えるような上目遣いでトビーに甘い視線を絡ませ、妖艶な声で問いかけた。
「あら、それなら私はあなたの愛人かしら? 支配者の女というのも、悪くない役回りだけど?」
その甘い毒のような誘いに対し、トビーは涼しい顔で、しかし最大限の礼儀をもって切り返した。
「アクネラ様の魅力的なお誘い、誠に嬉しい限りです。しかし、そのような立場に甘んじていただくわけには参りません。アクネラ様には、最高顧問の地位をご用意しております」
「最高顧問?」
「はい。私の経営における美学と指針を決定する、最も重要な役職です。そして、会長と最高顧問のお2人には、今以上の収入を得ることをお約束します」
トビーからの提案を聞き終えたアクネラは、手すりから身を起こしながら、満足そうに吐息を漏らした。
「最高顧問……。フフ。あなた、最高ね」
アクネラは最後にそう言い残し、扇子を広げた。その表情は仮面で隠されていたが、満ち足りた歓喜がその声色から溢れていた。トビーは安堵と共に、胸中に沸き起こる勝利の確信を味わった。
(これで泥底の二大巨頭は掌握した。次のステップへ進める)
トビーは隠しきれない優越感を滲ませ、ニヤリと口角を上げた。
「では、これで泥底の新たな体制への交渉成立ですね」
トビーはそう言って、ベルゼブブとアクネラに向かって頭を下げた。
その瞬間、ベルゼブブが、トビーの後ろに控えるシュペーアーに、不意に問いかけた。
「シュペーアーよ。正直に言え。お前は誰の下についているのだ」
ベルゼブブの鋭い視線がシュペーアーを貫く。シュペーアーは表情1つ変えず、淡々と答えた。
「私は強い者の配下です」
「ほう。では、ワシよりも、この若僧のほうが強い、そう言いたいのだな?」
「はい。そうです」
シュペーアーは一礼した。
「しかし、私はエドワード様とは協力者であり、配下ではございません」
その言葉を聞いたアクネラの瞳の奥が、鋭く光った。
「つまり、あなたは、【あのお方】の配下のままだというのね」
アクネラの指摘に、シュペーアーは初めてベルゼブブから目を離し、トビーを見た。その視線は、冷ややかな氷のようだった。
「その通りでございます。そして、残念ながら、エドワード様がどれほど頑張ろうと、【あのお方】の足元には及びません」
その発言を聞いた瞬間、トビーの顔から笑みが消えた。トビーの額から、一筋の汗が流れ落ちる。初めてトビーが動揺を見せた瞬間だった。
トビーは知っていた。シュペーアーの言う通り、彼はトビーの配下ではなく協力者だ。だが、この場でその事実と【あのお方】の力を誇示することは、トビーの計画の進行上、絶対に口にしない約束になっていたはずだ。シュペーアーは、トビーの微かな動揺を無視し、さらに発言を続ける。
「お待たせいたしました、ヴァレリウス様。本当のショーを始めましょう」
シュペーアーの言葉を合図に、閉ざされていた個室の奥、もう1つの扉の前に張られていた赤いカーテンが、ゆっくりと左右に開いていく。
その奥の豪華な椅子には、顔全体を黒い仮面で隠した一人の男が腰かけていた。その男は、ベルゼブブとアクネラさえもが一瞬で静まり返るほどの、圧倒的な闇の王としての冷たい威圧感を放っていた。それが、王都の闇を統べる真の支配者、ヴァレリウスであった。




