ぐーたら ゆうれい
しんりはひとつ しんこうはひとつ つまり しゅうきょうは ひとつのはずである はたして せけんの しゅうきょうは どれがただしいのか?
ひとのからだは にくたいと れいたいから できている
ふたつが ひとつになっている じょうたいを いきているといい べつべつになると しんだと いわれる
いちどへつべつになってから ふたたび れいたいが にくたいにもどると
いきかえったと いわれる
この れいたいのことを いっぱんどは たましいという
たましいがぬけた にくたいを したいといい にくたいをはなれて れいかいにいかない たましいを ゆうれいという
たましいが れいかいに いくことを じょうぶつというが じょうぶつせずに ゆうれいになっている りゆうは ひとそれぞれである
このよに みれんがあるものがおおい こいのみれん うらみのみれん しんぱいごとのみれん いろいろなみれんがあるが なかには ただただ れいかいにいくのが めんどうだから ゆうれいに なっているものもいる
サブロウも そんなゆうれいの ひとりである
こういうと サブロウが ぐーたらななんげんだったように きこえるが サブロウは たいへいようせんそうのときは りくぐんこうくうたいの パイロットで ほんどぼうえいのために B29に たいあたりして せんしした わかものであった
が サブロウが せんしして ほどなくしてはいせん サブロウは みょうなむなしさにとらわれて じょうぶつすることを やめてしまった
それいらい サブロウは ゆうれいとして せんごの ニッポンを ながめてきた とうきょうオリンピックは 2かいみた おおさかばんぱくも 2かいみた じょせいが そうりだいじんになった みんなみんな みてきたが やすくにじんじゃには いかなくなった
サブロウ「てんのうへいかが さんぱいをこばむじんじゃを かりにも ていこくぐんじんとして つとめをはたしたじぶんが へいかをむしして さんぱいはできない」
と やすくにが けがされたとき なかまの ゆうれいにはなしていたが サブロウは そのいしを かえてはいない
サブロウ「オレはへいかのめいをうけ ニッポンをまもるために たたかった B29につっこんだのも そのためだ あんな とうじょうないかくのために たたかったんじゃないし オレは ていこくぐんじんであっても うよくどもとはちがう あいこくしゃと うよくとは ちがうことを せいじかは まなぶべきだ」
サブロウは じょせいそうりの となりにたって
サブロウ「このねーちゃんに それがわかるかどうか」
と なかまの ゆうれいに かたる なかまは わらってこたえる
「ムリだろな〜 わかるくらいなら やすくにを きよめるはずだよ そんなきは なさそうだ」
なかまは しげしげと じょせいそうりの かおをのぞきこんだ
もちろん かれらは ゆうれいなのでそうりには みえていない
じっさいに ゆうれいたちを みることのできるものは すくない もしも マスコミに でてくるほど れいのうしゃが おおいなら ゆうれいの おおさに あきれるだろう なにしろ あすかじだいよりふるくから れいかいにいかず ぐーたらに さまよっているゆうれいは いまの にほんじんのかずより おおいのだから
じぶんの しそんに とりついているものは しゅごれいとよばれ うらみのあるものに とりつくと あくりょうといわれる そのばしょが きにいったから ながいこといると じばくれいとよばれる にんぎょうあそびをすると にんぎょうに とりついているとか かこに わるさをしたりすると おんりょうと よばれかねない
では れいかいにいったら どうかといえば じごくは たいくつはしないが くつうをともなう てんごくは かみさまの てつだいをするのだが
てんごくは うえることも かわくこともなく かみさまは やすむことも ねることもなく はたらいておられる つまり てんごくとは のもずくわずで ふっみんふきゅうで はたらくばしょなのだ
サブロウはおもう
サブロウ(てんごくも ぢごくも ゴメンだ オレは ここで のんべんだらりと くらす うえることも かわくことも あついことも さむいこともない ねたければねて おきたいときにおきる だれも えいきょうは うけない なにしろ ゆうれいだから ひとにはみえないし どこにでもいける こんなよいせいかつは やめられない)
サブロウは きょうも どこかに ただよっている サブロウだけではない たくさんの ゆうれいたちが いたるところを はいかいしている ただ にんげんには みえないが・・・
わたしが ゆうれいなら おさない こどもあいてに あそぼう かれらは ゆうれいが みえるこが おおいから




