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あの朝のつづき

作者: ごはん

玄関のドアに手をかけるまで、陽菜ひなは何度も深呼吸を繰り返した。


靴はもう履いている。着替えも済ませた。行き先も決まっている。

それでも足は、動かなかった。


あの日から、世界が止まった。


記憶の一部は、霧の中にある。

光がまぶしすぎて、音がとがっていて、人の視線が胸をつらぬいた。


「一過性精神障害ですね」と医師は言った。

急に、すべてが壊れてしまったあの朝。

心が、一瞬にして追いつけなくなっただけ。

そう説明されても、自分が「普通」に戻れる日が来るとは信じられなかった。



休職して三ヶ月が経った。

はじめは、眠ることすらできなかった。

でも、薬のおかげで、少しずつ眠れるようになった。

外の音も怖くなくなってきた。


「ただの風邪じゃないんだから、焦らなくていいよ」と、カウンセラーの言葉が胸に残る。


それでも陽菜は、社会に戻りたかった。

「戻る」というより、「戻りたいと思える自分」に出会いたかった。



今日は、近くの図書館に行く。それだけのこと。

けれど、まるで登山のように心が重い。


「いってきます」

つぶやいて、ようやく玄関を出た。


風が、顔にあたる。ひんやりして、気持ちよかった。

季節は、もう夏の手前まで来ていた。


図書館の自動ドアが開いた瞬間、背中に汗がにじんだ。

でも、逃げ出さなかった。

窓際の席で、静かに本を開いた。


――そういえば、こんなふうに本を読む時間なんて、いつぶりだっただろう。

ページの隙間から、少しずつ「今」が戻ってくる。


小さな女の子が、お母さんに「ねぇ、しずかにね」と言われて笑っていた。

笑い声が心にしみた。怖くなかった。



帰り道、陽菜はふと思った。

「いつからが社会復帰なんだろう?」


職場に戻った日? フルタイムで働けるようになった日?

それとも――今日みたいに、「生きてみよう」と外に出た日?


答えはまだわからないけれど、今日は確かに一歩だった。


雲の隙間から、陽が差していた。

その光が、やさしく背中を押してくれる気がした。

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