4・不貞した夫なんて刺して当然でしょう?
フレッグは絶叫を上げるが、その身体から血が噴き出すことはない。代わりに、強い光が溢れ出す。
(熱い……。力を感じる……、っ!?)
その瞬間――ライラの頭の中で、何かが弾けた。
光の剣で魔王を貫いたという、膨大な超常の力の発生によって、ライラの中に眠っていた記憶が蘇ったのだ。
(これは……っ、前世の記憶……?)
――ライラの前世は、日本人だった。名は森下紫乃。冴えない独身の二十代で、毎日普通に暮らしていたが事故によって命を落とした。そしてこの世界に転生したのだが、今まで前世の記憶を失っており、転生者の自覚はなかった。
けれど――前世の記憶を取り戻したからこそ、わかった。今までのこの夫との関係は全て間違っていたのだ、と。
この国では親同士の決定による結婚は一般的で、配偶者が横暴であっても黙って泣き寝入りせざるをえない令嬢が多い。
「紫乃」は……まだ十九でありながら望まぬ結婚をして夫は傍若無人、しかも不貞という裏切りを受け、日々心を擦り減らす「ライラ」に同情した。一応自分自身でありながら、他人のように「守りたい」という感情が芽生えた。
(このままフレッグに支配され続ける人生なんて、ライラのためにならない。『私』は……許さないわ)
だから、この攻撃で死なないにせよ……自分の行いを死ぬまで悔いてもらおう。
【ク……ッ。誤算だった、まさか光の剣が、持ち主を変えることができるなど……】
そのとき、フレッグのものではない声が響いた。フレッグの身体を乗っ取っていた魔王の思念だろう。
【だが、我は四属性の魔王の中でも、最も階級が低い。他の魔王はこうはいかぬぞ……】
(『ククク……奴は四天王の中でも最弱』みたいなこと、自分で言った……)
そうして、フレッグの身体から滲み出ていた赤黒い瘴気のようなものが消え――彼の身体は、ドサリとその場に崩れ落ちる。
騎士団や周囲の人々は驚愕し――しかし、すぐに盛大な拍手をライラに送った。
「魔王が! 魔王が倒された!」
「すごい! あの女性はこの国の英雄だ!」
わあっと、誰もがライラに感謝と尊敬の眼差しを向け――
フレッグが長年欲してやまなかった、渇望していた称号で、彼女を呼ぶ。
フレッグは石畳の上に倒れたまま、呆然としていた。
「ま、待て! 見ていただろう、この女は、俺を刺したんだぞ! 英雄なんかじゃない、とんでもない凶悪女だ、殺人鬼だ!」
「まあ、何を言っているのです、旦那様。あなたは死んでいないし、傷一つついていないでしょう」
「ふざけるな! だからってこの俺を刺していいと思っているのか!?」
「はい」
周囲の人々の視線が全てライラとフレッグに集まっている、この状況で。
彼女は光の剣を持ったまま、「それ」を口にした。
「――不貞した夫なんて、刺して当然でしょう?」
――フレッグが不貞した、という事実を。この公衆の面前で聞かせたのだ。
人々が、フレッグに同情しないように。「哀れにも魔王に身体を乗っ取られてしまった被害者」などと、悲劇のヒーローにさせないためにも。
フレッグはぎょっと間抜け面をし、顔面を蒼白にする。
「な、何を言っている!? 言いがかりだ、俺は不貞なんてしていない! いつも優しくしてやっているというのに、この恩知らずめ!」
否定するということは、不貞が悪いことだという自覚はあるのだろう。……周りに知られてはいけない悪事だとわかっていながら、今までライラにはたいしたことないかのように言い、我慢を強要してきたのだ。
(でも、シラを切るなんて、させない。……自分をしたことを、思い知りなさい)
「あらまあ、『優しくしてやった』ですか。――フレッグ様が、私に妻としてどんなことをお求めになったかは、全てこの契約書に書いてあるでしょう」
ライラが鞄から取り出したのは、結婚当初、フレッグに無理矢理署名させられた契約書だ。「夫が何をしたとしても決して文句は言わない」「家事は全てこなし、親の面倒も見ること」など、身勝手なことばかりが、フレッグ本人の字で書き連ねてある。
「な……お前、何故そんなものを持ち歩いている!?」
「もともと、あなたとの生活は限界でしたから。いつでも公表できるように持ち歩いていたんです」
契約書は一枚のみで、ライラに写しが渡されていたわけではない。フレッグが自分で隠していたが――そもそもフレッグの部屋を掃除しているのはライラなのだ。隠し場所などすぐにわかった。
そう。前世の記憶を取り戻す前から、ライラはもう限界だったのだ。
フレッグを信じようとしたことがある。歩み寄ろうとしたことがある。だが、全て無駄だった。彼はライラの気持ちを何もかも踏みにじり、打ち砕いてきたのだから。これは、その報いだ。
「だ、だがお前はその契約書に署名しただろう! なのに俺にこんな恥をかかすようなことをするなど、契約違反だ! 訴えてやる!」
「まあ、愚かですこと。教会や役場などの公的な機関を通していないこんな契約書に、法的な力などありません。ただの紙切れですわ。あなたがいかに非道な人間かという証明にはなってくれますが」
二人のやりとりを見て、周囲の人々はヒソヒソと話しながらフレッグに軽蔑の目を向ける。
「フレッグさんって、そういう人だったのね……」
「まあでも、納得かもな。光の剣を持っているというだけで、誰かを守ったわけでもないのに、いつも偉そうにしていたし……」
「しかも確かにこの前、若い女と歩いているのを見たことがあるぞ。それだけでは不貞と断ずることはできなかったが……やっぱり、か」
騎士団の面々をはじめとし、多くの人々がこの現場を目撃していた。フレッグが本当はどんな人間だったかということは、すぐ街中に広まってくれるだろう。もう二度と、彼を英雄扱いする者など現れるまい。
「そういうわけで、フレッグ様。これまでの理不尽な振る舞いのうえ、回復士見習いリリアナさんとの不貞。あまつさえ、さんざん英雄だと主張しておきながら、魔王に身体を乗っ取られるという醜態。もはやあなたの妻でいる理由などありませんわ」
言葉の中でさらっと、不貞相手がリリアナだということも周囲に聞かせておく。フレッグが妻帯者であると知っておきながら、身体の関係をもった女。人の夫を寝取った女として噂が広まれば、今後良縁など望めないだろう。かといって、英雄の称号を失った今のフレッグと結ばれることを、あの女が望むとも思えない。これより先は、どうあがいても地獄だ。
「そういうわけで――離縁してくださいませ、旦那様」
ライラは、フレッグの眼前に離縁届けと万年筆を突きつける。
これも、いつで出せるよう、常に持ち歩いていたのだ。既にライラの名は記入済みである。
「ぐ……ぐぅ……」
これだけ人の目がある中だ。逆上してライラに暴力を振るうこともできない。フレッグは、情けない呻き声を上げ、離縁届けに署名をした。
「さようなら、旦那様。……ああ、『元』旦那様ですね」
がくりと項垂れるフレッグに、ライラは初めてにっこりと、心からの笑みを浮かべたのだった――