第2話 休日の朝
「えーー? まだパジャマのままなんですか? 早くしてくださいよ先輩」
歯ブラシを持ち、洗面所の鏡を覗き込んでいた玉城は、甘ったるいその声にがっくりうなだれて振り返った。
「あのねえ多恵ちゃん、もう一度言うよ? 今日は俺休日なの。オフなの。昼まで寝てたっていい日なんだ。ついでに言うと昨夜は取材が長引いて深夜になって、多恵ちゃんが来る2時間前にやっと寝たんだ」
玉城の視線の先には、まだ学生気分の抜けきれない22歳の菊池多恵がニコニコしながら立っていた。
朝5時、けたたましく連打されたドアホンに起こされ、玉城は眠い目をこすりながら社員寮のドアを開けた。
そこには2年ぶりに会う菊池多恵が微笑んでいた。
多恵の背後にはまだ抜け切れていない台風が轟音と共に玉城を威嚇してる。
2年ぶりだというのに、台風を背負ってやってきた多恵の開口一番のセリフは
「ボロいアパートですね、玉城先輩」だった。
多恵は玉城の高校からの友人、菊池守の妹だった。
守の家に遊びに行く度に、猫のように玉城にじゃれて仲間に入りたがる、
人なつっこい3歳年下の女の子だった。
同じ高校に進学してきたため、多恵は玉城のことを先輩と呼び、
まるで本当に妹のように玉城を慕い、なついていた。
細身で小顔。童顔で、見た目は可愛らしいのだが、遠慮というものがまるでない。
玉城が大学を出て地元を離れてからは、菊池守ともたまにメールのやり取りをするくらいの付き合いだったが、昨夜突然守から電話があった。
「多恵が大東和出版の面接を受けることになったんだ。玉城、そこの仕事もしてるって言ってたよな。妹がいろいろ聞きたいって言ってるんだ。遊びに行かせてもいいかな。初めての面接で不安もあるだろうし」
へえ、もうそんな歳なのか、と感慨に浸りながら快くOKした玉城だが、まさか連絡も無しに次の早朝5時、しかも暴風の中、押し掛けてくるとは思っても見なかった。
「深夜バスが4時に到着しちゃってさ」
多恵の説明はいつも潔い。
「ねえ、風も弱まってきたし、午後の面接の時間までどっか遊びに行こうよ、先輩」
お前の面接への不安はどこへ行ったんだ。玉城は溜息をついた。
それはカーテンじゃないのか? と尋ねたくなるようなレース素材の黒いミニスカート。
きっと暫くしたらその下にスパッツでも履くのだろうと思ったが、残念ながらその気配はない。
トップスは薄地のロングパーカー。隠すどころか大きな胸を強調している。
どうなんだ。
多恵が動くたびに頼りないミニスカートがめくれ上がりそうで、玉城は気が気ではなかった。
「あっ、通った」
ふいにリビングの小窓を見つめて多恵が大きな声を出した。
「え? 何?」
洗顔を済ませ、タオルで顔を拭きながら玉城が多恵の方を見た。
「窓の外を人が通ったのよ」
何気ない調子で多恵が言う。
「へえー。3階なのにご苦労だね」
玉城は子供の冗談につき合ってあげるように小さく反応してやった。
少しカチンときたのか多恵が不満そうに振り向いた。
「冗談だと思ってるんでしょう。本当に見えたのよ。私、たまに見る人なの。霊感あるんだから」
「へえ」
玉城はしばしジッと多恵を見た。多恵は再び頬をふくらます。
「信じてないんでしょ、先輩」
「いや、そんなこと無いよ。そういう力が存在してるっていうことは理解してるよ。最近だけど」
「へえ、そうなんだ。そう言うの信じないタイプだと思ってた。なんだか親近感湧いちゃうなあ」
多恵が嬉しそうに体を寄せてくる。
甘いシャンプーの香りがフワリと揺れた。
「実は俺もある時期からたまに見えるようになったんだ」
玉城はクローゼットの扉を開け、つい立て代わりにして多恵から体を隠すと、パジャマを着替え始めた。
いくら妹同然と言っても、やはり気まずい。
こういう時、霊感の話題などは色気が無くて一番適当な話題に思えた。
「へえー、突然? そんなこともあるんだ」
「ちょうど取材である人と出会った頃からなんだけどな。そいつがすごく霊感強いんだ」
ほんの少し話を簡略化して話しながら、玉城はバタバタと大急ぎでシャツを脱ぎ、綿パンに足を通した。
「ふうん。霊感の強い人と仕事してたんだね」
「そう」
「なるほどね」
「え? 何がなるほど?」
ベルトを締め、シャツを羽織りながら玉城は聞き返す。
「磁石よ、じしゃく。小学生の頃、実験しなかった? 砂鉄とか釘とか使ってさ」
「え? 何だよそれ」
「強い磁石に釘なんかの金属をくっつけて長時間置くとさ、そのくっついた金属に磁力が移っちゃって、それ自体が磁力を持つようになってしまうっていう、あれよ」
シャツのボタンを止め終えた所で玉城は衝立がわりの扉をパタリと閉めた。
まだ何かを探しているのか、多恵は窓から外を眺めている。
「影響受けちゃったのね。その強い磁力に。かわいそうに、先輩。あんなもの見えなきゃ見えない方が幸せなのにね」
そしてゆっくり振り向いてニコッと笑った。
「仕事が終わったらさ、その人には二度と会わない方がいいわね、先輩」
なぜだろう。
本当の妹のように思ってる多恵なのに、その一瞬だけ、玉城にはその笑顔が憎らしく見えた。




