白龍の国
朝からすっぽりと頭を覆っていたヴェールが取られ、ラウルがようやく婚約者殿のご尊顔を拝めたのは昼過ぎだった。
結婚式は三日後の予定だ。明日からは賓客である各国王家も続々と集まってくるだろう。
今日はとりあえず、顔合わせのお披露目といったところだ。
ラウルの婚約者の第一印象は──
うん、まぁ、老婆ではなさそうだ──
というものだ。
正直、どういう容貌なのかよくわからない。年齢も不詳だ。
なぜなら、厚いヴェールの下から現れたのは、白塗りこってりの仮面のような厚化粧だったからだ。
おまけに目や眉は、筆を使って丁寧に縁取りされたり紅が指されたりしているものだから、容貌を正確に把握するにはまるで信用がおけない。
そしてこの強烈な化粧は、シン王家の特徴である見事な銀髪と神秘的なグレーの瞳を完全に台無しにしている。
いや、まぁ、これでは他の王家の特徴も台無しにするかと、ラウルは思い直した。
シン王がなぜ名指しで自分に白羽の矢を立てたのかまるでわからない。
王族なら誰でもいいということであればわからなくもないが、シンがゴダールでなくとも、どこかの王家と急遽繋がりを持たなければならない切羽詰まった理由がまるで思い当たらない。
ここへきて、改めてそれがよくわかった。
一言で言って、思っている以上に豊かなのだ。港から王宮に至るまでの道のり、民の顔は皆一様に明るかった。何よりもどの通りも清潔なのだ。それは、行政が整い更に民に自分の土地以外も綺麗にしようという余裕のある証拠だ。
この数十年、いや、下手をすれば数百年かもしれないが、シンは国交を必要としなかった。
どうでもいい国として世界中から半ば無視されているというより、それだけきちんと自立できていると見て侮るべきではなかったのだ。
それなのに、今更なぜ?
今日会ったばかりの婚約者殿を、チラッと横目で見た。ララという名前だったか。
陽気がいいからか、羽虫が一匹寄ってきて、女王の高く結い上げた見事な銀髪に留まった。
あ。
つい、手で払ってしまった。
女王がラウルの動きに気づいてこちらを見た。
笑った──
うん、あれは笑ったと言っていいと思う。口角がわずかに上がったのだ。
そして、手を持ち上げて口元を袖で隠した。変わった衣装だ。
高価で豪奢には違いないが、幾重にも重ねた着物や帯はさぞ重かろう。そして、髪飾りをふんだんに挿して高く結い上げた髷は奇妙な紙細工みたいだ。
いや、髪が銀色なので銀細工といったほうが相応しいかもしれない。
ぷーん……
羽虫がまた寄ってきてしつこく女王の髷を目指す。
よく見ると一匹ではない。三匹もいる。
もう一度払ってやると、女王は小さく肩を震わせて笑っている。何がそんなにおかしいのか。
ドンッ、ドンッ
腹に響く空砲の音で我に返った。
バルコニーに向かって、女王と並んで歩いた。
と、女王ががくりとよろけたので慌てて支えた。
「かたじけない」
小さな声で囁いた女王に笑顔を返した。
この婚約者殿は、どこまで利用できるだろうか──
この縁談があっという間に取りまとめられる間、ラウルの頭を占めていたのはそのことばかりだった。
いずれにせよ、この縁談は政略結婚以外の何ものでもない。だとすれば、シンはラウル・トゥルース・ゴダールの国益につながるなんらかの付加価値を見ていると考えるべきだ。
そしてそれは、ラウルの思い通りになるものなのかどうか。もしそうなら、自分はシン国と対等な取引ができる。
取引が成立するなら兵を借りて、俺は必ずゴダールを──
「この衣装と化粧は、先代が苦心惨憺して編み出したあつらえなのだそうだ」
「え……?」
ラウルのそんな思いを知ってか知らずか、女王が周囲に聞こえぬようそっとラウルに囁いた。
「そ、それは、えーと……」
「ふふ、すごかろ? 色々な効能があるのだ」
女王はくすくすと笑っている。
「は、はぁ……」
「姫様! またそのようなことを申されて。殿下がお困りではないですか」
鋭い叱声が後ろから飛んだ。
歓迎式典の間中、ずっとぴったり婚約者殿に付いているレイチェルという名の女官だ。
レイチェルの叱責に女王が肩をすくめた。
薄暗い王宮の広間から、明るい光の差すバルコニーに向かってラウルと女王は粛々と進んだ。
その後ろには、ゴダール王と妃、王子である息子たちやその忠実な臣下が続く。
神秘のヴェールを脱いだシン国に興味津々と言ったところだ。
この縁談のお陰で、国交に他国より大きくリードを広げたことに満足というところだろう。権力闘争に明け暮れる彼らも、今日ばかりは機嫌がいい。
バルコニーの眩しい日差しに目を細めた途端、わあっという歓声が聞こえた。
今日のために解放された王宮の中庭には、歓迎式典に訪れた多くの人々が集っている。シンが他国から賓客を招くこと自体が珍しいのだ。
空砲が鳴り響き、楽隊が賑やかに演奏を始め、正装した近衛兵が馬上から敬礼している。
「ラウル、手を……」
女王にそう言われて、ラウルはぼうっとただ突っ立っていたことに気づいた。
慌てて右手を挙げた。
歓声がさらに大きくなった。
わああっ──
人々の歓迎の笑顔が、まるで他人事のように思えた。
***
「湯浴みを!」
控え室に入った途端、女王が踵の高い靴を脱ぎ捨て、洗面所に向かって裸足のまままっすぐ歩きながら声を張り上げた。
レイチェルがやってきて、女王が次々と脱ぎ捨てる着物を受け取りながら急ぎ足で姫君の後を追う。
その間も女王は、髪に挿した簪を次々に抜き取りながら、とうとう薄い下着だけの姿になってしまった。
ひらひらした薄い着物の裾から覗く脚は、案外長くてスラリと形がいい。
そして、湯の張られた洗面台に行くと、結い上げた髪を頭ごとざぶんとつけてゴシゴシと洗い始めている。
「もっと湯だ!」
そう言われたレイチェルが、大きな水差しに入った湯を他の女官と二人がかりでじゃぶじゃぶ女王の頭にかけている。
ラウルはあまりにも意外なその展開に、なすすべもなく呆然と見守るばかりだ。
女王はあっという間に銀髪を洗うと、濡れ髪を布でゴシゴシ拭いながら言った。
「いやあ、すまないラウル。油で髪を結うと洗い落とすのが大変なので、砂糖水と果汁で髪を固めたのが間違いだった。おかげで羽虫を寄せ付けるとは計算外だ」
「甘い匂いに寄せられたのでしょう。だからあれほど言いましたのに。虫にたかられる姫など、見たことがありません」
レイチェルの直裁な小言に女王がおかしそうに笑っている。
「な、なるほど…」
ラウルはなんとも間抜けな反応を返すしかない。
女王は今度は、顔に油を塗りたくってこってりした化粧を落としているが、油で溶け出した白粉やら、眉や目を描いていた墨やらが顔の中で混ざり合い、この世のものとは思えない顔色になっている。
それをまた、洗面台の湯でザブザブ洗い落とすと、あれよあれよという間に、民が着るような粗末な衣装に着替えると、髪を隠すためか布で頭を覆い、すっぽりとフードを被るとまた短く叫んだ。
「シン!」
窓の外に向かって一声そう叫ぶと、女王は大きく開いた窓枠に足をかけて、外に向かって一気に飛び降りたのである。
「う、うわああ!!」
数十メートルの高さがあったはずだ。
驚愕してラウルが窓枠にかじりついた途端、赤ん坊の頭ほどもある巨大な黄金の眼と眼が合った。
「──ッ⁉」
思わず飛びすさった。
その虹彩は、縦に細長く切れている。
全身が本能的に総毛立った。
窓の外には、黄金の目に全身白銀色の大きな蛇のような生き物が空中に浮遊していた。
銀色のたてがみが風になびいているが、翼はない。鋭い鉤爪のついた手足は短く、四本ついている。
その巨躯は、大人の掌ほどもある鱗に空の色を映しとり、複雑に輝いていた。
は、白龍だ──
ラウルは恐怖で全身を貫かれて動けないのに、その生き物の圧倒的な美しさに唖然と見惚れた。
神龍の加護を受けた五大国の王族と言いながら、ラウルは故国の黒龍を一度も見たことがなかった。
というか、今現存する王家の誰も、本物の龍を見たことがないのではないだろうか。150年ほど前まで頻繁に降臨したらしいが、今は神殿の地底深くで眠っていると言われている。
だがラウルは、神龍を戴くなどと尤もらしい神話を捏造し、なぜか一族だけやたらと頑健な特異体質を利用して、王族の権威を誇っていただけだと思っていた。つまり、ただのおとぎ話の伝説だと。
だが、今、ラウルが見ているこの光景は、あの伝説は本物だといっているのだ。
「本当に存在したのか……」
枝分かれした頭部の銀のツノに捕まり白龍に跨った、見慣れない銀髪に灰色の瞳の女王が言った。
「なんだ、王族なのに龍を見るのは初めてか? 黒龍はどうしているのだ?」
「神殿の地底深くで眠っていると聞いたことがあるが、そもそも俺は、神殿すら子供の頃以来行ったことがない」
「あはは、神龍なのにひどいな。でもラウルはシンには会ったことがあるんだがな」
「え……?」
「ふふ、まぁ、覚えておらんか。私もずっと忘れていた」
「ケリー……」
「ララだ。本当の名前は、ララ・フォーサイス・シン。ケリーは偽名なんだ。すまない。もっと早く迎えに行くつもりだったんだが、なんだかんだと時間がかかってしまった」
「ララ……」
「さぁ……」
ララが手を差し出した。
ラウルは吸い寄せられるように、ララが差し出した手をしっかり掴んで窓枠を超えた。
そして、思い切って白龍のうなじの辺りに足を乗せた。それぐらいではビクともしない白龍の硬い鱗は、よく見ると複雑な色合いに輝いている。
ララはラウルがしっかり白龍に跨ったのを確認すると、白龍の首筋をポンポンと叩いてその耳に囁いた。
「シン、このまままっすぐ上に向かって駆け上がり、空の色に紛れろ」
「ララ……」
「うん?」
銀髪をなびかせ、灰色の目を細めてララが微笑んだ。
「どこへ行く?」
「100年以上身を隠している黒龍に会いに行く」
「なんだって──?」
「今夜の宴までにはまだ時間がある! シン、行け!」
白龍が首をもたげ、まっすぐ空に向かってすごいスピードで駆け上がった。
その様子を遠くから見れば、晴れた空に一閃の稲妻が奔ったように見えただろう。
そしてそれはまもなく、空に溶けて見えなくなった──