泉のほとり 1
今朝方の王子のセリフを思い出すと、どう考えてもこのまま王子のいるあの部屋に戻れない。
──今夜は本気で行くぞ?
あれはつまり、そう言うことだろう。
にも関わらず、こんな姿で帰ろうものなら、さあどうぞ、私もやる気満々ですと言っているようなものではないか。
冗談じゃないと思う反面、本当にそうかと自問自答する。
今朝のキスが脳裏をかすめ、腹の底をきゅっと甘く掴まれるような痛みが走る。
今になって、心臓がドキドキしてきた。
次に抵抗できる自信がない。それが本音だった。
誰かに姿を見られる前に服を着替えた。
そもそもケリーにはこの村に留まる必要がない。この村周辺でしか生えない、目当ての薬草もすでにたくさん摘めた。
迎えの待ち合わせの約束より1日早いが、まぁなんとかなるだろう。確か街道沿いの外れの森の中に猟師小屋があったはずだ。一晩ぐらいならそこで過ごせばいい。このところ随分暖かい。
姿を見られないよう村の入り口まで行こうとして、声を荒げる誰かの気配でケリーは慌てて物陰に隠れ、そっと声のする方をうかがった。
教会の前には、鬱陶しそうに顔をしかめるラウルの前で、部下を従え何かしきりに訴えているアベリがいる。怒っているようだが、ここからでは遠くて何を言っているのかまでは聞こえない。
ラウルは明らかに話半分で聞き流している。遠目に見ているケリーからしてそれがわかるのだから、目の前にいるアベリはさぞや腹が煮えくり返る思いだろう。
くわばらくわばらだ。ケリーはそれを横目に、くすしの道具と、ローラの家に寄って預けてあった荷物を担ぎ、ローラに短いお礼とお別れの手紙を残してそっと村を出た。
重くてかさばる荷物を担ぎ、街道を急いでいると、しばらくして後ろから何頭もの馬の蹄が近づいてくる音がした。邪魔にならないよう脇にそれる。
ドカドカと通り過ぎてゆくのは、甲冑を身につけた騎馬隊だった。十頭ほどいる。捲きあがる土埃をうっかり吸い込み、ゴホゴホと咳き込んでいると、先頭の騎馬兵がふいに戻ってきた。残りも後に続くが、先頭の誰かが手を振って指示を出すと、半分はそのまま街道を立ち去って行った。
「──?」
残りの騎馬がケリーの前で止まると、先頭の甲冑の武将が面白いものを見つけたと言うようにニヤッと笑った。
「小僧、貴様か」
アベリだ。
ケリーは考える前にパッと踵を返した。騎馬兵にナイフでは立ち向かえない。
街道脇の森に逃げ込もうとして捕まった。
かさばる荷物があだになったのだ。
「離せ!!」
すぐに荷物を放り出して逃げ出そうとしたが、素早く馬から降りてきた兵士に首根っこを掴まれた。
懐のナイフを抜こうとして、いきなり腹に拳を叩き込まれた。
「ぐふっ」
肺から空気が叩き出され、痛みとショックで身体が二つに折れる。
気が遠くなった。
「──……」
どれほど気を失っていたのか、ゆらゆらと揺すぶられ、ふと気づくと誰かの肩に担ぎ上げられ、何処かへ運ばれている。
森の中だ。
アベリの部下のひとりがケリーを担ぎ上げ、街道を外れた森の奥に連れ込もうとしているのだ。それほど長い時間ではなく、気を失っていたのはほんの数分のようだ。
とっさにもがいて逃れようとしたが、ドサリと地面に放り出されただけだった。
「おまえ、娘だったのだな」
アベリがニヤニヤと笑っている。
幸いにも下草は春の雑草で柔らかく、怪我は免れた。
必死に逃げようとしたところを押さえつけられ、背中にアベリがのしかかかってきた。おそらく自分の倍以上の体重がある武将に馬乗りにされ、全く身動きが取れない。
ビリッという音とともに、シャツが引き破られた。
「っっっ!!」
もがいているうちに、仰向けにされた。とっさに胸を隠してしまう。
アベリの残酷な笑顔が、馬乗りになったままケリーを覗き込んでいる。
「ハハハハ!!」
「離せ!! やめろ!!」
「大人しくしろ!!」
バシッ──
頬を張られ、目の前を火花が飛んで意識が朦朧とする。
それでもなんとか弱々しく抵抗しようとするが、アベリが無骨な手でケリーの細い首根っこを抑え、他の二人がケリーの腕を一本ずつ押さえつけるに至って、万事休すと諦めた。だが、恐ろしさと悔しさで涙が溢れてくる。
「ハハハハ! 昨夜の威勢の良さはどうした?」
この世で最も残酷なケダモノは、ケリーの哀れな姿を見ながらますます興奮しているのだ。
胸を大きくはだけられ、せわしなくズボンに手をかけられたところで、唐突にアベリの右の頬から鋭い剣先がぬっと現れ、よく研がれた刃がひたと彼の頬に張り付いた。
途端にアベリが凍りついた。
そしてゾッとするほど冷ややかな声が言った。
「アベリ、貴様、それ以上僅かでも動いてみろ、首を落とす」
「ラ、ラウル殿下」
ケリーの腕を抑えていた兵士が逃げようとしたのか剣を抜こうとしたのか、一瞬ケリーの右手が自由になったと思った瞬間、銀色の何かがヒラリと一度だけ目の前で閃いた。
パッと頬に生暖かいものが数滴飛んできたと思ったら、頭上で何か重いものがドサリと倒れる音がして両腕が自由になった。
「ひっ」
ケリーの上で、アベリの目が大きく見開かれた。
アベリはケリーに馬乗りになったまま、固まったように動けないでいる。そのせいで、ケリーはまだ地面に仰向けに縫い付けられたままで、おまけにアベリのでかい図体が視界の殆どを遮っている。
「で、で、殿下、どうか、どうかお鎮まりを!! い、今、この娘から離れてよろしいか⁉」
アベリがガタガタと震えながら必死に言う。
「当たり前だ。さっさとしろ」
アベリがぎこちない動作でケリーの上からどいて、やっとケリーの視界が晴れた。
そこには、ゾっとするほど冷ややかな黒い眼で、アベリを見下ろすラウルの姿があった。彼の剣の切先は、まっすぐ跪くアベリに向いている。
その目がふとケリーを見つめた。
「ケリー」
ラウルがそう言って静かに左手を差し出し、慌てて起き上がったケリーの手をとって優しく自分に引き寄せ、マントで包まれた。
ケリーの目に、先ほどまで自分の左腕を抑えていたらしい兵士が、まだ温かい血溜まりの中で絶命しているのが見えた。
全身から血の気が引いた。
「で、殿下、ど、どうか……ウッ──」
ラウルが小さくヒラリと剣先を動かすと、パツッとアベリの左耳が削ぎ落とされた。
実に正確で迷いのない動きだった。
「グアアアアッ――!」
アベリが耳を抑えながら地面を転がった。
「俺の騎士団では、戦勝国へのあらゆる略奪を厳しく禁じていのはおまえも知っているな? ましてや昨夜のタリサ村は敵国ですらない。そしてこの娘は旅の医師だ。おまえのように下賤な者が、好きに蹂躙していい理由などひとかけらもない。よって上官である俺が厳罰に処する」
ラウルの腕がもう一度振りかぶった時、その腰にケリーがしがみついた。
辺りに血の匂いが充満している。
「お、王子!! やめろ!! もういい! もういいから!!」
ラウルの動きが止まった。
ケリーが慌てて、腰を抜かしている兵士に向かって言った。
「お、おまえ、そいつを連れてさっさと行け!」
ケリーがそう言うと、兵士は弾かれたように立ち上がり、必死にアベリを抱えてその場をヨロヨロと立ち去って行った。
残されたのはラウルに首を落とされ、まだ傷口から大量の血を流している無残な骸だけだった。
ラウルはそれに短い一瞥をくれると、マントにくるまっているケリーに、更に自分の上着をかけてくれた。そして、肩を抱えて静かに歩き出す。
「歩けるか?」
「あ、ああ……」
街道まで出ると、ラウルの乗った馬がいて、ケリーはラウルに促されて仕方なくその馬に跨った。彼の懐に抱えられるような格好だ。ラウルが鐙を軽く蹴ると、馬が静かに歩き出す。
「なぜ俺に黙って行こうとした?」
「え?」
ラウルは感情を押し殺したように無表情だったが、収まりきらない冷ややかな怒りの気配が漂っている。
ケリーが逃げ出したことを怒っているらしい。
だが、ケリーからすればそれはあまりにも理不尽ではないか。そもそも、ひどい目に遭ったのはケリーの方なのだ。
「なんでいちいち王子に報告しなければならない。私は旅の医師だ」
ムッとしてそう反論すると、王子は意外にも素直に謝った。
「……すまん」
「え?」
「すまない。そんなことを言いたかったんじゃないんだ。俺のせいだ、俺のせいでおまえをあんな……」
そんな風にまっすぐ謝られてしまうと、ケリーの気持ちもたちまち軟化してしまう。
「い、いや、あれは半分は私の……」
「違う。俺だ。俺のせいだ」
「………」
ラウルが腹を立てていたのは己自身だったようだ。その怒りが過ぎるとひどく落ち込んでしまっている。
ケリーはどうしていいかわからない。とりあえず、話題を変えようとして言った。
「どこへ行くんだ?」
さっきから馬は街道を外れてザッパザッパと軽快に森の奥に向かって歩いてゆく。
「知らん」
「え?」
「………」
「あの、ラウル王子……」
「王子って呼ぶな。虫唾が走る」
「では殿下?」
「バカ、同じだ。そして、どこへ行くかは馬任せだ。俺も知らん」
「えーと……」
「……」
森の木々の間を飛び回る、鳥の囀りだけが賑やかだ。
気まずい沈黙に困り果て、ケリーはふと思いついたことを聞いてみた。
「……もしかしてあなたは、王族であることを厭うているのか?」
「……今の出来事でわかったろう? 王族なんぞ、盗賊と同じだ。地位と領土の奪い合いに躍起になって、働き者の民から搾取するしか能がない」
ラウルが吐き捨てるように言う。
「そんな俺は王家のあまりもんだ。村に引き連れている兵も、寄せ集めの王の借り物でしかない。王は叔父だが、子沢山の王には野心も才能もある息子が、王宮の奥でゴロゴロひしめき合っている」
「……王族にも王族の苦労があるというわけか」
「しかも俺はわかりやすい黒髪黒目だからな。それなりに使い道もあるわけだ」
同じ王族でも、アベリのような一般民と同じ茶色い髪と目の者もいる。
「厄介者の無能な武将を押し付けて、僻地で起きた面倒な小競り合いに遣わすとか、逆に不利な大戦で先陣を切らせるとかな。あとは、毒にも薬にもならん外交に使うという手もあるぞ。身分だけは無駄に高いからな」
おどけたように言いながら、ラウルの目は昏い。
「……黒は最も忌々しい色だ」
ポツンと呟いた言葉は激しい。
権謀術数渦巻く王宮では、魑魅魍魎が跋扈している。足を引き合い、他者を陥れ、少しでものし上がり心を保とうとするなら、自分なりの正義が必要だ。だが、出発点が間違っていれば、その正義は必ず捩れてゆく。その捩れた正義が横行するなら、真っ当な者ほど生きてゆくのは辛いだろう。
「でもおそらく、あなたのその龍王色が私を救ってくれた。彼らがどれほどあがこうが、その色を持つ者に抗えない」
ラウルが鼻先で「ふん」と面白くなさそうに笑う。ケリーは仕方なく話題の方向を変えた。
「それに、村のみんなはあなたにぞっこんだ。娘たちはみんな、王子が初めて村にやって来た時、胸に恋の雷鳴が轟いたのだそうだ。だからみんな、喜んでその身を王子にささげたいと言っていたぞ」
「……おまえはどうなのだ?」
「私? 私は……」
「おまえは俺を拒絶した」
「あれは、驚いて……」
「おまえは、王族である俺の本性を見抜いているからだろう?」
「そ、そんなんじゃない」
「ラウルと……」
「え?」
「……俺を憎んでいるのでなければ、ただラウルと呼んでくれ」
ラウルの指先が、ケリーの頬についた血しぶきを拭い、殴られて赤くなっている箇所を優しく撫でた。その指先がわずかに震えている。
この美しい王子は、不幸なことに誰よりも真っ当なのだ。
馬の脚がいつの間にか止まっている。
目の前には、小さいが驚くほど澄んだ美しい泉が広がっていた。
澄んだ水の中で水草が揺れ、小さな魚が銀色の鱗を煌めかせ、初夏に咲くはずのスイレンが一足先に花を開いていた。絵に描いたような美しさだ。
二人を背中に乗せたまま、馬が呑気に首を垂れて泉の水を飲んでいる。
「あぁ、これは美しい……」
ラウルが馬を降り、ケリーに手を差し出した。
その手を掴んでケリーが降りると、ラウルは泉の水に布を浸しケリーの腫れた頬を冷やしてくれた。
心配そうにケリーの怪我を確かめているラウルを見つめながら、ケリーはこの傷ついた王子をどうやって癒せばいいのだろうと思った。
「ラウル」
「ん?」
「今朝、今夜は本気で行くと言ったな?」
「え? ああ、しかし……」
ケリーが突然、背伸びしながらラウルにキスした。
「少し早めるのはどうかな?」
「……っ」
ラウルが熱の籠った目でケリーの細い腰を抱き寄せ唇を合わせた。今度はケリーもそのキスに応えてゆく。キスを深くしながら互いのシャツを脱がせ、ケリーがふとラウルの裸の胸を見て、驚きに見開かれた。
「ラウル……」
「え、ああ……」
ラウルが自分の身体に目を落としながら、そういえばと手を止めた。
彼は傷だらけなのだ。傷跡は特に手や腕が酷く、刻むようについた白い跡はいくつあるのか数えきれない。おそらく、戦場で敵と向き合った時、剣や槍を防いだ痕なのだ。肩や背中にはギザギザの星型の酷い矢傷もあるし、左の脇腹の大きな傷は相当深かったろう。
「醜くてすまんな。王族は神龍の加護があるからちょっとやそっとでは死なんが、傷跡ばかりはどうにもならん。ま、戦下手な王族は、せいぜい的になって敵の目を引きつけるのも、丁度いい使い道だ」
王族は極端に頑強で傷の治りも早く長命だ。それでも、不死というわけではないし痛みを感じないわけではない。
「怖いか? 嫌ならシャツを……」
そう言って、シャツに手を伸ばしたラウルの胸にケリーが飛び込んだ。
「ラウル……」
多分、ラウルがこの世に生きているのは奇跡なのだ──