初恋
男っ気のないままララが二十歳を超えた頃から、カリアはめっきり旅に同行することが少なくなってしまった。
シンをララに貸し出し──と言うか、シンはカリアかララ以外の人間を背中に乗せることを嫌うので、最近はもっぱらひとり旅だ。
現地に着いてからは白馬の姿に変身してくれるのだが、目立たず旅ができるかと言うとそうでもなく、一言で言ってララが乗るにはシンの白馬は立派すぎるのである。
実際、何度か馬を狙う盗賊に襲われた。
幼い頃から仕込まれた体術とナイフ術でなんとか凌いだが、それでもダメならシンの出番となるわけで、そうなるとシンは尻尾のひと薙ぎか、鋭い蹄──こういう時はナイフのように鋭く尖った鉤爪になっている──で皆殺しにしてしまうので、これはできるだけ避けたい。
その遺体の有様たるや、惨憺たるものなのである。
大体、シンの変身は案外雑で、よく見ると胴体のところどころが鱗になっているし、尻尾が龍のままになっていることもある。
稀に耳の後ろにはさりげなくツノが付いていたりするので誤魔化すのが大変だ。
カリアと一緒の時は完璧なのに、自分の時はどうも気を抜いているらしい。
次期王候補なのに、舐められたものである。
シンに文句を言ってもどこ吹く風なので、もう諦めた。
胴体の鱗や尻尾は鞍の下に粗末な布をかけたりしているが、ツノを見咎められた時は「おもしろい仮装でしょう? 子供が喜ぶんですよ」と笑って誤魔化すことにしている。
まさか目の前の馬が神龍とは誰も思わないので、みんなわりとアッサリ騙された。
そんなわけで、最近では白馬のシンに乗るのは避けているのだが、それだとカリアが旅を許してくれないので、もっぱら上空で待機させている。
シンの白銀の鱗は周囲の景色を写し撮り、空にうまく紛れてしまうのだ。
だけど今回の旅だけは、本当に共のないひとり旅だ。カリアの具合がいよいよ悪くシンが側を離れない。
本当は自分もそばに居たかったが、カリアの弱った心臓に効く薬草が、ゴダールの外れにあるタリサ村でしか採れないので、無理やり出かけることにした。
「どうしたの、ケリー、浮かない顔して? 何か心配事?」
仲良くなったローラという村娘だ。ララより2歳年上で、結婚して今はお腹に赤ちゃんがいる大事な時期だ。
ララが来るといつもこの家のご厄介になっている。
「ああ、なんでもない。天気が悪くなってきたから、薬草採りはここらで切り上げようかと考えてた」
「そう? 帰る?」
「うん、行こう。雨になりそうだ。手伝ってくれてありがとう」
「いいのよ、いつも村のみんながお世話になってるもの」
ローラと二人、薬草の入った籠を持って村に引き上げた。
おばあさまの死期が近づいている。神龍の加護を持つと言えども王は不死ではない。わかってはいたが辛い。
夜半から降り続いた雨は、明け方にタリサ村の西外れで土砂崩れを起こし、午後遅く、黒髪の美しい王子を連れてきた。
王都から遠く離れた僻地での遠征に駆り出されるぐらいなのだから、それほど王に近くないのかもしれない。
王に近ければ近いほど龍王色がよく現れるが、稀に遠縁でもポツンと生まれることがあるし、近くとも一般庶民の茶髪に茶色の目ということもあるので一概には言えない。
でもまぁ、そんなことより今は、目の前で起きたことに激怒し、騒ぎを起こして王子に囚われてしまったことの方が問題だ。
あの場では、ローラのために膝に乗せようとしたとしか言わなかったが、あのアベリとかいうケダモノは、あろうことか嫌がるローラのスカートの中に手を入れ、汚らわしい手で執拗にまさぐっていたのだ。
それを見た瞬間、激しい嫌悪と怒りで全身が総毛立った。考える前に身体が動いていた。怒りに我を忘れ、広間にいたゴダール兵士全員を敵に回すつもりになっていた。いざとなったらシンで皆殺しだと思ったのだ。
いい加減にしろと王子に止められて、やっとシンがそばにいないことを思い出した。
我ながらどうかしていると言わざるを得ない。
何をやっているんだ私は──
黒髪の王子に言われるままにひと仕事させられて、部屋に戻ってきて寝台に倒れ込んで眠ってしまった。
ここ最近、レイチェルに私たちがいるから大丈夫だと言われているのに、おばあさまの傍につききりで寝不足が続いていたのだ。
久しぶりに懐かしい夢を見た、
黒髪黒目の幼い少年とシン王宮の庭で遊んでいる夢。幼い頃から何度も見る夢だ。必ず覚えていようと思うのに、目が覚めるといつも忘れてしまう。
この子は同じ寝台で眠る時はララの寝間着のどこかをぎゅっと掴んで眠る。首のところに怪我をしているけれど、あどけない寝顔がかわいい。
誰なんだろう。
今考えてみればゴダール王族に違いないが、幼い頃の自分にはわからなかった。
初めて外国に行ったのは十二の時だった。赤い髪に紅い目の赤龍の王族を見た時は随分驚いた。
ゴダールに行ったのは十三かそこらだったと思う。今の自分に神龍色は珍しくもないが、久しぶりにこの夢を見たのは、同じ黒髪黒目のあのラウルとかいう王子のせいだと思う。
妙な気配を感じてハッと目を覚ますと、一瞬、その少年が突然大人の男になって自分の体をまさぐっているのかと思った。
「な、なななな何をするっ!」
「何って、男と女のすることなど決まっているだろう?」
戸惑っているうちに、キスされてさらに身体を撫でられた。
「いやっ!」
思わず頬を叩いていた。
でも結局、王子は嫌だといえば楽しそうに笑ってそれ以上のことはしなかった。
心底ほっとした。
これ以上触れられれば、きっと忘れられなくなる。それが怖かった。
ラウルから逃げ出そうとして、あのケダモノに襲われかけ、危ういところで結局ラウルに助けてもらった。
ラウルは表情をなくし、青い顔色で震える指先でララの腫れ上がった頬をそっと撫でる。今にも泣き出さんばかりだ。ラウルはまるで、ララの代わりに傷ついてしまったみたいだ。そんな風にされたら、この人に惹かれずにはいられない。
気づくと自分から彼に口づけをしていた。
傷だらけの逞しい裸を見て、このひとの傷を慰められるなら何でもささげようと思った。
それなのに、ラウルの愛撫に溺れてゆくのは自分だけなのだ。
「ラウル……」
欲望の熱にきらめくラウルの黒い瞳が、彼の落とす愛撫に悶えるララの表情を、余すことなく捕えようと見つめてくる。その視線が恥ずかしくて、両腕で自分の顔を隠すとその腕を外される。
「隠すな」
「で、でも、私、みっともない顔をして……」
「キレイだ。おまえは俺が知るどの女より一番美しくて愛おしい……」
ララを求めて全身を撫でるラウルの大きな手が気持ちいい。その激しい欲望が嬉しい。
ララの心と身体もラウルを求めている。
私はこんなに淫らな女だったのか──。
ラウルの動きがさらに激しさを増す。自分で自分の身体がもうどうにもコントロールできない。意識を保っていられない。快感が弾ける真っ白な世界に飛んで行く。
ああ、息ができない、苦しい、怖い、気持ちいい、愛おしい──
「ああ、ケリー、おまえは俺のものだ――……」
ララは声もなく、ラウルにただしがみつくだけだった。
激しい営みを終えると、草地のマントに二人で寝ころんで、夕暮れの空を見ながらラウルの凄惨な記憶の断片を聞いた。
ラウルの記憶を呼び起こしたのは一閃の稲妻だ。
トト……。
どういう経緯だったのか、ララと同じようにラウルを救ったのもまたカリアとシンだったのだ。
自分の胸の中で安らかに眠るラウルを抱きしめながらララはひとりごちた。
ラウルはトトだったのだ。晴れた空に瞬く稲妻はシンの合図だ。すぐそばまで来ている。
だが、その話を聞いてララもトトのことを思い出した。
ラウルの身体に刻まれた無数の古傷の中に、左の首根っこに残る見覚えのある薄い小さな傷が何よりの証明だ。
私はどうして、あんなにも大好きだったトトのことを忘れていたのだろう
今夜はまだ暖かい。
ラウルを起こさないよう、そっと起き上がって泉に足を入れた。
凍りつくような冷たい水で身体を洗う。
ララはシンの女王になるんだよ──
幼い頃から周囲の大人たちにそう言い聞かされて育ってきた。
だから、そういうものだと思ってきたしそうするつもりでいた。
それに何より、王にしか作れない薬というのは、鱗や爪や唾液といった、シンの身体の一部を原料にしたものなのだ。
それが作れなければ、大勢の人が病で苦しむことになる。シンを失うわけにはいかない。
うちに帰ろう──
でも、今度は絶対に忘れない。
月を見上げながら、ラウルとの別れを決意した。
あの壮絶な炎の中で身の危険を顧みず幼いララを救い、育て、愛し、慈しんでくれたそれが、おばあさまやみんなへの恩返しだとララは思っている。
このまま何も言わずに行こう──……。
岸辺の木に繋いである馬のところへ行き、着替えを持ってきてくれと書いたメモを轡に挟み、手綱を解いて首を撫でながら馬に話しかけた。
「いい子だから、タリサ村に戻って、ラウルといつも一緒にいるじいやをここへ案内してきておくれ」
ラウルの白い馬は、首を何度か振って小さくブルルと嘶くと、ゆっくりと街道の方へ向かって歩き始めた。
その後ろ姿を見送りながら、もう一度ララはラウルを見た。
ラウルの安らかな寝息が今は寂しい。
ケリーでいる時間はもう終わりだ。
森の奥で白い影が揺れている。迎えはそこでララを辛抱強く待っている。
早咲きのシロツメグサを見つけて花冠を作った。それをラウルの頭に乗せた。最後に四つ葉を髪に結んでキスした。
「さようなら、トト……」
幼い頃のあの王宮の庭では、ラウルもララも何者でもなくただの子供だった。たくさんの生き物や植物に囲まれ、泥にまみれて遊びまわり、お腹が空けば大人が出してくれたご飯を食べればよかった。
でも今の二人が背負うものは重く、養わなければならないものは多く、どれも大切なものばかりだ。
私たちは、なんて遠くまで来てしまったんだろう──……。
背負い慣れた荷物を肩にかけると、その重みがずしっと身体にこたえた。
そこから一時間ほど歩いた待ち合わせ場所に行くと、シンがその真っ白な巨躯を深い緑の中でくねらせた。
ララのそばまでやって来て、いつものように鼻先を首の所に擦り付けると、ふんふんと鼻をひくつかせ黄金の目を細めた。
〈………トトがいたのか〉
頭の中でシンの声が響く。
なぜわかったのかとギョッとした。
幼い頃からシンの声は時々聞こえた。おばあさまはそんな経験は一度もないと言ったが、シンに言わせると、自分はみなに等しく話しかけていると言うから、聞こえる者と聞こえない者がいるらしい。
ここ最近、おばあさまの具合がいよいよ悪くなってさらにシンの声がよく聞こえるようになった。それが何を意味するかと考えただけで、憂鬱になる。
「覚えているのか?」
〈……昔、背中に乗せたことがある〉
ラウルが母親に殺されそうにあったあの日のことなのだろう。
ああ、そしてゴダールに帰っていった日だ──
「王宮に帰ろう」
〈ああ……〉
「おばあさまの具合は?」
〈………〉
「なんでお前はいつも、大事なこととなると口をつぐむ」
少しイラっとしてつい声を荒げてしまった。
シンはまるで気にしない様子で静かに言った。
〈お前もわかっているだろう?〉
「…………」
今度はララが口をつぐんだ。




