秘密の庭 1
ケリー編になります
ララが薬草のスケッチをするのに飽きて、ついアマガエルを捕まえることに夢中になっていると、後ろからおばあさまに呼ばれて飛び上がった。
「ララ」
「わ、わかってる、アマガエル触った後はよく手を洗う!」
弱いが毒があるのだ。触れた手でうっかり目を擦ると、炎症を起こすことがある。
慌てて手の中のアマガエルをエプロンのポケットに突っ込んで、そうっとおばあさまの方を向くと、ララより少し大きな男の子がおばあさまに手を引かれてボンヤリと立っていた。
見たこともない黒い瞳と黒い髪で、あんまり珍しいので近寄ってまじまじ見ていると、ポケットのアマガエルが男の子の頬にぺたんと張り付いてしまった。
「あ」
思わずそれを捕まえようとして、反動で頬をパチンと叩いてしまった。
「あ、ごめん!」
慌てて謝ったけど、男の子はまるで何事もなかったかのようにボンヤリと立ったままだ。
そしてよく見ると、左の首の付け根のところに大きな怪我をしていた。
「……おばあさま、この子どうしたの?」
「心を深い深いところに隠しておるのじゃな」
「ふうん、なんで?」
「とても恐ろしい嫌なことがあったからだろうの」
「ふーん、じゃあ私と同じだ」
ララの両親は去年山火事で死んだ。
山菜採りに出かけて、乾燥した草むらの真ん中で、気付いた時にはすでに周囲を炎に囲まれていた。
炎は逃げ場を失ったララの両親を次々に飲み込んだ。そして、次にお母さんの胸に抱かれていたララにジリジリ迫ってきたとき、危機一髪でおばあさまに救われた。
ララはまだ三つだったけど、その時のことを不意に思い出して息苦しくなることがある。
お母さんの髪がボウっと燃え上がり、悲鳴の形に大きく口を開いているのに、その口はぽっかり開いたまま無音だった。
ララはそれが恐ろしくて恐ろしくて、必死でお母さんの代わりに悲鳴をあげた。
すると、突然白い大きな龍が現れて、お母さんにしつこく纏わりついていた炎を一息でぶわっと払い、胸に抱かれていたララをパクッとひと飲みすると、サッと空に舞い上がった。
ララは龍に食われる寸前、お母さんが再び巨大な炎に飲み込まれながら、捩れた真っ黒な影になってしまうのを見た。お父さんは影すら見つけられなかった。その時のララはそれどころではなくて、龍の大きな口の中でモグモグと味見されていた。ペッと吐き出されたときは、全身龍の唾液でベトベトになって「うへえ」と思ったけれど、ヒリヒリと熱くて痛い火傷の跡が、スーッと消えて行くのを感じた。
ララが龍に吐き出されたところは、雑草だらけの花壇のある広いおうちの前だった。食べられなかったのは、ララがやせっぽちだから美味しくなかったのかもしれない。何にしても食べられなくてよかった。
ララが涎まみれのズルズルの全身で立ち上がると、龍の背中から真っ白な小さなおばあさんが降りてきてララの体を丁寧に改めて言った。
「うん、唾液だけでなんとかなったようじゃの。おまえの母親とシンに感謝せねばな」
そういって、おばあさんが白龍の巨大な顎の辺りをゴシゴシ撫ででやると、龍は気持ち良さそうに金色の目を細めた。
以来ララは、まったく口が利けなくなってしまい、そのおばあさまと白い龍から離れられなくなった。
なにを話しかけられても口を利かなかったから叱られるかなと思ったけれど、おばあさまはまるで気にすることなく、丁寧に字を教えてくれて、綺麗な絵の具をくれた。
そして、夜はおばあさまの寝台で一緒に眠ってくれた。おばあさまの真っ白な髪は日向の香りがした。
おばあさまはこの国の女王様で、龍はシンという名前の神様だと教えてもらった。だから、雑草だらけの花壇を持つこの広いお家は王宮なのだそうだ。
王宮にはたくさんの動物がいて、それ以上にたくさんの人が出入りしていたけれど、出入りしているほとんどの人が身体をどこかしら悪くしていたので、あまりかまってはもらえなかった。
みんなおばあさまの薬草と、治療を必要としていたのだ。花壇に生えている雑草も、みんな貴重な薬草だと教えてもらった。ララはおばあさまのそばで、おばあさまが次々に身体の悪い人を治してゆくのを見ていた。
ララは王宮とはこういうものだと思っていたけれど、ずいぶん大きくなってから、王宮というよりここは、治療院や病院と呼ばれる方がふさわしいのだと知った。
そして、王宮を病院替わりに使っている変わり者の女王もシンだけなのだと。
ごく稀に、外国のお客様を王宮にお招きするときは、病棟に使っている西側の棟とは反対側の東の棟に、大人たちが急場の豪華な部屋を拵えて体裁を整えていたのだった。
でも、薬草を煎じるヘンテコな匂いだけは隠しようもなく、気取った煌びやかなお客様が、時々そっと鼻を摘むのを見てみんなで笑った。
まぁとにかく、ララはおばあさまとシンがいないとなにもできなかったので、おばあさまはララに薬草や人の身体の仕組みについていろいろ教えてくれた。そのうち自分でもいろいろ興味が出てきた。
そこらに生えている──実際は険しい山の崖などから採取して花壇に注意深く植え替えていたのだが──葉っぱや木の皮を刻んだり煮詰めたりして作った、臭い匂いのするネバネバやドロドロが、怪我を治したり熱を下げたりするのが面白くて仕方なかったのだ。
「ララは私の後を継いでくすしになるかい?」
おばあさまにそう聞かれて、ララはなんの疑いもなく「なる!」と答えた。
あの山火事の日以来、ララが喋った最初の一言だった。声がかすれてうまく言えなかったので、ララはもう一度「くすしになる」と今度はハッキリ言えた。
「そうかい。じゃあ、王はどうかね?」
おばあさまは、ララが突然喋ったことに驚くでもなく、いつものようにニコニコしながら言った。でも、いつもララのお世話をしてくれるレイチェルが、口を両手で抑えてポロポロ泣くのを見てしまった。驚かせてごめんね、レイチェル。でも、おばあさまはいつもと同じように普通にしていてくれたので、ララはそれをきっかけに、以前のように普通に話すことができたと思う。
「おう? おうってシンのお世話する人?」
「うん、まぁ、あの神龍と、この国のたくさんの人々をお世話する人のことだよ」
王宮には本当にたくさん動物がいる。犬のココも猫のニノもヤギや羊や馬だって、最近は全部ララがお世話を手伝っているのだから、そのぐらいはどうってことないと思った。ララはこれからもっと大きくなるのだから。
それに、シンは王宮で一番大きくて一番賢くて一番美しい動物で、ララのことも助けてくれた。
その上、気が向くと、稀に白馬に化けて背中に乗せてくれるのだ。ララはシンが大好きだった。
「いいよ! おばあさまお年だもんね。私がシンのお世話してあげる。あの子は何を食べるの?」
「ふぉっふぉっ、今すぐじゃなくていい。神龍は大きいからね。まぁ、ゆっくり考えなさい」
そんなわけで、ララは日々くすしになるための勉強に勤しんでいるというわけだ。
目の前のこの男の子の場合はきっと、目を開けたら恐ろしいものが見えそうな気がして心ごと閉じちゃってるんだ。
悲鳴だけなら黙っていれば済むけど、何かを見たくないときは、眠るしかないもんね。
ララはこの子のお世話はきっと私がしっかりやろうと心に決めた。
ララはこの頃にはやっと、少しぐらいならシンやおばあさまがいなくても、ひとりで何でもできるようになっていた。
「名前は? おばあさま、この子の名前はなんて言うの?」
「そうだね、ララが好きに呼べばいいよ」
「うーん、じゃあ、トト! あんたは今日からここではトトよ」
トトはボンヤリしたままなんの反応もないけれど、ララは気にしなかった。
手を引くと素直についてきたので、ララはくすしの勉強の合間に、王宮の色々なところを引っ張り回した。
そして、その二人の後を、王宮に勝手に住み着いたり飼われている様々な動物たちがついて歩いた。
世話係が二人を探して王宮中をかけまわらなくとも、動物についていけば二人は必ずいた。二人は王宮に住み着いた二匹の愛らしい動物のようだった。
トトは毎日何もせず、何も言わず、なんの感情も表さなかったが、夜眠るときだけは、ララがいないと眠らなかった。
ララよりお兄さんなのに困ったものだ。仕方がないので、ララはいつもトトを抱き寄せ、おばあさまがしてくれたみたいに、トトの背中を小さな手でトントン叩きながら一緒に眠った。時々おばあさまのベッドで三人で眠った。
そんなある日、王宮の池で大きなヒキガエルを捕まえることに凝っていたララは、バケツがいっぱいになったので、トトに一匹持っててもらって、もう一匹ずつトトの膝と頭の上に乗せた。
トトの手や頭が体温で温かいので、ヒキガエルはそこで案外大人しくしているのだ。そうして次の狩に勤しんで、あともう少しで今日一番の大物を捕まえ損ね、ララが歯噛みしていると声がした。
「トト! どうしたんだい⁉」
見るとポルドがトトに屈みこんで抱き上げている。急いで戻ると、動物たちもトトを抱き上げたポルドのそばに集まっていた。
ポルドはいつもララとトトを世話してくれるレイチェルの旦那さんで、ダイジンのヒショをしている明るくて面白いおじさんだ。
「ど、どーしたの、トト!」
びっくりしてララが駆け寄ると、トトは両手でヒキガエルの胴をしっかり持って、ポロポロ泣きながら、蚊の鳴くような声で「きもちわるい……」と言った。
「⁉」
その一言でポルドも驚き、膝の上にトトを抱え直すと、顔色を見ながら熱がないかと慌てて額に手をやっている。
なんだろう。どこが気持ち悪いんだろう。お腹かな?
ララは慌ててトトからカエルを受け取って、お腹をそうっと撫でていると、トトはホッとしたように泣き止んだ。
「……ララ様、トト様はひょっとしてカエルがお嫌いなのでは……?」
「……え! なんで⁉ そんなことないよね、トト?」
ララが試しにもう一度トトにヒキガエルを持たせようとすると、トトは手をぎゅっと握りしめたまま、頑なに開こうとしなかった。
「……ララ様、どうやらそのようですぞ」
トトが何事もなかったように、またボンヤリと陽だまりを眺めているのを見て、ポルドがホッとしたように言った。
「そんな……」
夕食の席で、ポルドがそのことをおばあさまとレイチェルにバラした。
すると二人は、お腹を抱えて笑いだした。
「あはははは、あの池にいるヒキガエルは子猫ほどもありますもんね」
「ふぁふぁふぁ、慣れないトトはさぞ堪え兼ねたろうよ、ララ」
「む、なんで! ヒキガエル面白いのに! かえる跳び競争しようと思ってトトに一番大きいカエルあげたのに!」
「ララ様、大抵の人は、ヒキガエルを見て面白いとは思わないものですぞ?」
「なんで!」
ララがムキになって怒れば怒るほど、おばあさまとポルドとレイチェルはゲラゲラ笑う。
トトは相変わらず黙ってご飯を食べている。
最初はスプーンで口に持っていかないとご飯を食べなかったトトだったが、この頃にはスプーンを持たせると自分で口に運ぶようになっていた。
トトが来て、そろそろ一年半が過ぎようとしていた。
なんだか納得のいかない思いで、ララは翌日、トトの綺麗な黒髪にシロツメグサの花冠を作って乗せた。これなら大丈夫だろう。
他にもたくさん花を摘んできて、トトの髪を飾っていると、唐突にトトが「痛いよ」といってララを見た。
びっくりしてララが目を丸くしていると、トトは生意気な口調で、子どもがこんなところに来ちゃいけないんだぞと言ったのだ。
なーまーいーきー!
頭にヒキガエル乗っけられただけで泣いてたくせに!
何よと言い返してやったが、ここが自分のうちではないと知ると、トトは急に心許無い様子になってぼんやりと辺りを眺め回した。
また心が潜って行くのはたまらないなと思ったので、池に連れて行き、水鏡で髪飾りを見せてあげた。
てっきり喜んでくれると思ったのに、トトは嫌がって乱暴に外したので冠が壊れてしまった。
でもトトはそれが結構ショックだったようで、素直に謝るので許してあげることにした。
そして、ララがそれを直してみせると目を丸くして驚いていた。手放しでララを褒めてくれたので、なんだかくすぐったくなってシロツメグサの冠の作り方を教えてあげた。
ボンヤリと黙ったまま素直なトトも好きだったけど、こっちのトトの方がずっと素敵だと思った。
そこへおばあさまが帰って来て、トトはうちに帰らなければというので、髪に幸運をもたらす四葉のクローバーを結んでやると、トトは手を振って自分の家に帰って行った。
ああ、本当の名前聞くのを忘れたなと思った。
──まぁ、明日また聞けばいいか。




