噂に尾ひれがついたなら
私には、子どもの頃から魚が見える。
何もない宙空を音もなく、ふよふよと泳ぐ半透明の魚たち。彼らは社会の至るところを漂っていて、屋内だろうが屋外だろうが構わず自由に泳ぎ回っている。
しかし私以外の人にはどうやら、あの魚たちがまったく見えていないらしい。
「ねえ、聞いた? 総務課の北村さんの話……」
「聞いた聞いた! 先週の飲み会のあと、四ノ宮課長と一緒にホテルに入ってくのを見たって話でしょ?」
「やばいよね。あの噂、マジだったんだーって。ほら、北村さんが体調不良で休んだ日に、課長の社用車が彼女のアパートに停まってたって……」
「いやー、でも正直アヤシイと思ってたんだよねー。だってふたり揃って同じ日に休んだりとか、ちょいちょいあったしさ……」
「だけど普通にショックー。よりにもよってなんで北村さん? ぶっちゃけ課長と全然釣り合ってないよね。ブスってほどでもないけど大してかわいくもないし、なんか暗くてオタクっぽいっていうか……話しかけてもおどおどしてるし、会話続かないし、昼休みもいつもひとりでごはん食べてるし」
「しかもお弁当食べ終わったらあとは寝てるだけっていうね! 実際あいつオタクらしいよ。スマホの待ち受けがなんかのアニメの画像だったって聞いたことある」
「えー、社会人にもなってアニメとか、わりと引くんだけど! しかもスマホの待ち受けにまでしてるってガチのオタクじゃん。キモー!」
「オタクはオタクらしく二次元のイケメンにでも恋してろって感じだよね~」
「ほんとそれ! でも実は課長もそういうのが趣味だったりするのかな? だからオタク同士気が合ったとか……」
「ちょっとやめてよ~! 課長のイメージ壊れる~!」
「キャハハハ! さすがにないでしょ~!」
……なんて会話が、今日も今日とて給湯室から漏れ聞こえる。まったく仕事中に揃いも揃ってお暇なことで、と両目を細めながら、私は扉も仕切りもない給湯室の入り口を見やった。そこには一匹の魚が浮いていて、給湯室から飛んでくるシャボン玉みたいなものをパクパクとしきりに啄んでいる。私の目には中身も何もないスカスカの泡にしか見えないのだけれど、どうやらあれが魚たちのエサらしい。
そうしてエサをたらふく食べた魚はすくすく成長する。あの魚はもうずっとうちの会社に棲み着いていて、最初に見たときには金魚くらいの大きさだったのが、気づけばあっという間に小さなマグロくらいのサイズまで成長していた。しかも、彼──という形容が正しいのかはさておき──には尾ひれが生え始めている。
私だけが目にすることのできる魚たちはみんな、尻尾を根もとからちょん切られたような姿をしていて尾ひれを持たないのに。ああしてエサをたくさん食べて成長すると、稀に尾ひれの生えてくるものがいるらしい。
そして最終的には、体格に不釣り合いなほど尾ひればかりが大きくなって……。
「あ、鳥井さん。Bブースも打ち合わせ終わったから、片づけお願いね」
ところが私が一生懸命エサを啄む魚に見とれていると、たまたま通りすがった営業さんにそう声をかけられた。そこではっと我に返った私は「分かりました」と笑顔で返事をしながら、両手に持ったままのトレーの存在をようやく思い出す。
せっかくのエサの時間に割り込むのは気が引けるけど……そろそろ仕事に戻らなくっちゃ。私はAブースから運んできたコーヒーカップを一度流しへ下ろすべく、未だ甲高い笑い声が絶えない給湯室へとお邪魔した。
「お疲れ様でーす」
「あ。お疲れ様~」
と、何でもない風を装って入り口をくぐった私を、中にいた若い女性社員たちが少しぎょっとした様子で振り向いてくる。どうやらお喋りに夢中で私の足音にも気づかなかったらしい。彼女らは受付嬢の仕事をしに来た私を見るなり、軽い目配せを合図にそそくさと給湯室をあとにした。別に上司に告げ口したりしないから、気にせず井戸端会議をしてくれて構わないのに。
なんて思いながら空のコーヒーカップを流しに置き、さらにBブースで商談に使われた飲み物一式も同じように運んでくると、私はさっさと洗い物を済ませて持ち場へ戻った。するとそこには予想外の客人がいる。さっきの女性社員たちが噂していた、うちの課の四ノ宮課長だ。つまり私の直属の上司。
普段の穏やかな物腰からは想像もできないくらいバリバリに仕事ができて、三十歳で早くも課長に抜擢された総務課のホープは、受付嬢のいないカウンターを覗き込んでいる様子だった。だから私も後ろから声をかける。
「課長。どうかされましたか?」
「ん、ああ、鳥井さん。明日のブースの予約を取りたくて、空き状況を確認しに来たんだけど……」
「明日、何時からですか?」
「十三時から一時間くらい、どこか空いてるかな。産業医の先生がいらっしゃるのに、部屋を取るのをすっかり忘れててね……」
「十三時からでしたら……Cブースが空いてますよ。お取りしておきます」
「ありがとう。助かるよ」
そう言って笑いかけてくれた課長の笑顔は、何だかいつもより疲れているように見えた。スーツも若干くたびれたような着こなしで、以前はカッチリ清潔感のある服装をしていた課長らしくない。けれど私には理由が分かっている。
ちらりと目を向けた先で、背後からじっと課長を見下ろしている一匹の魚……。
大きさはさっき給湯室で見かけた子よりふた回りほど小さい。
でも、幸いまだ尾ひれは生えていないみたい。
課長は真面目で人当たりもいい上に、社内での発言力もそこそこあって、何より仕事がデキる人だから、きっと周りも口さがない噂を立てづらいのだろう。
「……課長。何だか顔色がよくないみたいですけど、大丈夫ですか?」
「え? あ、ああ、そうかな……昨夜は夢見が悪くてよく眠れなかったから、寝不足でね。おかげで朝から眠たくてさ、そのせいかな」
「でしたらあとでコーヒーをお持ちしましょうか。このあとAブースでまた打ち合わせがあるんで、今、ちょうど抽出してるところなんです。少し多めに作ってますから、十分くらいで準備できると思いますけど」
「ありがとう。じゃあ、せっかくだしいただこうかな。カフェインを取れば、少しは頭がすっきりするかも」
「はい。それじゃ、入ったら席まで届けますね。でも、あの……」
「ん? どうした?」
「……気に障ったらすみません。ただ……あんまり気に病まれないで下さいね。私は信じてませんから、あんな噂」
「…………噂って?」
「いえ、ご存知ないならいいんです。忘れて下さい」
そう言って課長に微笑みかけてから、私はカウンターの中にある自席へ戻った。
そうして何事もなかったかのようにPCへ向かい、課長から頼まれた予約をブースの使用予定表に入力する。課長はそんな私の横顔を何か言いたげに見つめていたけれど、やがて踵を返してオフィスへ戻ったようだった。少しして約束どおりコーヒーを届けると、カップを受け取った課長は席からじっと私を見上げて、
「ありがとう」
と噛み締めるように言う。コーヒーを手渡す際に触れた課長の指先は熱かった。
私は課長を安心させるようにもう一度微笑むと、再び持ち場へ戻るべく身を翻す。そのときちらりと目をやった、総務課の島の末席で。
業務用端末の前に座り、しかし泣き出しそうにうつむいた北村さんのすぐ後ろ、そこでさっきの魚がゆっくりと尾ひれをくねらせているのを見て取って。
私は唇の端が人知れず吊り上がるのを、どうしても止められなかった。
*****
小学生の頃、クラスでいじめに遭っていた女の子が、巨大な尾ひれのついた魚に呑み込まれた日の光景を、私は今でも覚えている。
その子は魚に丸呑みにされた翌日、学校に来なかった。彼女が登校中に踏切へ飛び込んで自殺したと担任から知らされたのは、翌々日のことだった。
「……嘘だ。そんなの、聞いてない……」
と、私は呻く。
頭を抱え、暗い部屋で見下ろしたスマホの画面には、四ノ宮課長のアカウントから送信されてきた一通のLINEメッセージ。そこにはこう書かれてある。
『四ノ宮悠介の妻です。興信所を通じて、あなた方の不倫の証拠を揃えました。後日、弁護士を通して正式に法的手続きを取らせていただきます。慰謝料の支払い準備をしてお待ち下さい』
嘘だ。嘘だ。嘘だ。
課長に奥さんがいたなんて聞いてない。だってあの人は結婚指輪もつけてなかったし。実は奥さんも子どももいるなんて、社内の誰も知らなかった。どうして?
せっかく、せっかく……課長とお近づきになるためにあの魚を大きく育てて、北村を丸呑みにしてもらったのに。
彼女が──あいつが課長に色目を使ったりするから。ちょっと仕事ができるってだけで課長に気に入られて、調子に乗ってたから……。
だから邪魔な北村を排除して、ついでに部下を亡くして落ち込んでいる彼を「課長のせいなんかじゃありませんよ!」と根気強く励まし続けて。
そうしてやっとのことで彼の心を射止めたと思っていたのに。
なのに、どうしてこんなことに? 私は課長に騙された被害者だ。
だったら何も悪くない。悪くない。悪くない。悪くない……。
「ねえ、聞いた? 総務課の鳥井さんの話……」
「聞いた聞いた! 四ノ宮課長と裏で不倫してたって話でしょ?」
「ていうか、課長に奥さんがいたことがまず驚きなんだけど……」
「だよね。支店長すら知らなかったらしいよ」
「なんで結婚してること隠してたんだろ?」
「そりゃ余所で女を引っかけるためじゃないの? 課長、鳥井さんの前は同じ総務課の北村さんにも手ぇ出してたじゃん」
「いや、けどあれって結局ただの噂だったんだよね? 実際北村さんは課長とは何にもなくて、飲み会の帰りにお持ち帰りされたとか、休みの日に逢い引きしてたとか、全部根も葉もないガセネタだったって……」
「……ていうかさ。あたし思い出したんだけど、最初に北村さんの噂を広めたのって鳥井さんだったような気がするんだよね」
「え? そうだっけ?」
「たぶんだけど、あたしが最初に噂を聞いたのって営業の武者君からでさ。ほら、彼ってめちゃくちゃ口が軽いじゃん。だからその話誰から聞いたのって訊いてみたら、確か〝受付の鳥井さんから〟って……」
「うっそ! じゃあもしかして、鳥井さんが北村さんをハメるために嘘の噂を作って社内に広めたってこと? だとしたらやばすぎない!?」
「でも秘密なんか絶対守りそうにない武者君にわざわざ話すなんて、最初からそれを狙ってたとしか思えなくない? 思えば噂が広まるまで、北村さんって四ノ宮課長のお気に入りだったし……」
「え、じゃああの人、普通に人殺しじゃん……わざと噂を流して北村さんが自殺するように仕向けたってことでしょ? やば……」
「マジでドン引きだよね。四ノ宮課長も鳥井さんも、表向きはいつもにこにこしてて人畜無害そうだったのに、やることエグすぎ!」
「ふたりとも先週から会社に来てないけど、やっぱりクビかな?」
「だろうね。課長の奥さんが弁護士と一緒に乗り込んできて、支店長と話つけてたみたいだし……」
「こわ~。慰謝料どんくらい請求されるんだろうね?」
「完全に人生詰んだよね~。超かわいそ~、キャハハハハ……!」
……なんて噂が、今日も今日とてあの給湯室で交わされているに違いない。
おかげで魚はすくすく育つ。エサを啄み、あっという間に大きくなる。
そいつが今、私の後ろで浮いている。
瞼のない眼を見開いて、立派な尾ひれをゆらゆらさせながら。