Forget Me Not
2018年5月に公開したものを再編集したものです。エブリスタにて開催の三行から参加できる超・妄想コンテスト「優しい嘘/悲しい嘘」参加作。
ピピピピピピピピピピピ……。
ベッドサイドで目覚まし時計が鳴っている。午前六時。起床時間だ。
真っ白なシーツがかかったダブルベッドから手を伸ばし、けたたましく鳴り響く目覚ましを止めようと指先をさまよわせる。薄く開けた瞼の向こうには、カーテンを透かして射し込む爽やかな朝日。最近暖かくなってきたからだろうか、スズメが賑やかに鳴いている。いつもと変わらぬ穏やかな朝。
「おはよう、姫子」
と、ようよう目覚まし時計のスイッチを押し込んだところで後ろから寝ぼけた声がした。衣擦れの音を鳴らして振り向けば、ふかふかの枕に頭を半分沈めたまま、眠たそうな目を嬉しげに細めている夫の姿。
「おはよう、拓樹さん」
「あー。ほら、またさん付けで呼ぶ」
「ごめんごめん……朝からヘソ曲げないで、拓樹」
彼と一つ屋根の下で暮らし始めて早三ヶ月。未だに抜けない呼び方のクセを指摘された姫子は苦笑しながら、そっとベッドから抜け出した。
今日は火曜日、平日だ。女は働かなくていいからと念押しされている姫子とは違い、会社員の拓樹は八時前には家を出なくてはならない。
彼が起き出し、出勤の準備を整えるまでに自分も朝食の支度を済ませなくては。
「今日は目玉焼きと玉子焼き、どっちがいい?」
「玉子焼きー」
ベッドの中から気の抜けた答えが返ってくる。
まだ目が覚めないのか、モゾモゾと布団の中で体を丸めている夫にふっと目尻を綻ばせてから、姫子は薄手のカーディガンを羽織って部屋を出た。
ようやく自分の家だと思えるようになってきた1LDKの新築マンション。
リビングへ出るや否やバルコニーへ続く掃き出し窓のカーテンをサッと開けて、射し込む朝日を全身に浴びる。そうしてしばし地上十四階からの眺めをぼうっと満喫してからキッチンへ向かった。
目覚まし時計と同じ時間にセットした炊飯器がきちんと仕事をしてくれたことを確かめ、昨夜作った味噌汁を温めつつ、ボウルに卵を割っていく。
姫子は朝は洋食派だが、拓樹はここ四年ほど、朝食は和食を作ってもらっていたようだ。だから頑張って苦手な和食を必死で覚えた。
できる限り、彼の舌が覚えている味と同じものが作れるように。ほどなく着替えと髭剃りを終えて戻ってきた拓樹を迎える。ちょっと緊張しながらごはんを盛りつけ、味噌汁、焼きししゃも、そして玉子焼きと一緒に食卓へ並べた。「いただきます」と嬉しそうに手を合わせた拓樹は、いの一番に玉子焼きへ手をつける。
少しだけドキリとした。自分も向かいの席で茶碗を手にしながら、食事の手を止めてじっと拓樹の反応を待つ。
「ん、うまい。やっともとの味に戻ったんじゃない?」
「ほんと?」
「うん。最初のしょっぱい玉子焼きに比べたらずいぶん甘くなったよ。おいしい」
拓樹は好物を与えられた子どもみたいににこにこして、四切れあった玉子焼きをすべてぺろりとたいらげた。お弁当にも入れてあるから、と言えば嬉しそうに礼を言われて、内心ひどくほっとする。
「姫子さ。やっぱり事故のあとちょっと変だったけど、ようやく前の感じに戻ってきたよね。ほんとよかったよ、姫子が無事で」
「うん……心配かけてごめんね。他にも前と違ってることがあったら、遠慮しないで言ってね。事故の前の暮らしを少しでもたくさん思い出すことが、後遺症の治療に一番いいって先生も言ってくれてるし」
そんな会話をしながら朝食を終えて、洗い物も済ませ、出勤する拓樹の見送りに立った。いつもどおり玄関で黒革のビジネスシューズを履いた拓樹が、廊下に置いた鞄を持ち上げるついでに振り返る。
「じゃ、いってきます」
「いってらっしゃい。気をつけてね」
何の変哲もない夫婦の会話だった。
見送りの言葉をかけられた拓樹はにこりと笑って家を出ていく。彼の足音がエレベーターの方角へ遠ざかっていくのを、姫子は緊張して聞いていた。
やがて完全に聞こえなくなったことを確かめると、胸に手を当て息を震わせる。安堵のあまり泣いてしまいそうだった。いや、泣きたい理由はそれだけじゃない。
「姫子」
拓樹がいつも呼ぶ名前を呟いてみる。途端にひどい虚しさに襲われた。
──変だな。自分で決めたことなのに。
*****
早乙女姫子は明るくて活発な女性だった。
人見知りはしないし、よく笑う。
中学、高校と陸上部にいたから運動神経も良かったし、スタイルも良かった。
対して早乙女姫乃はよく言えば内向的、悪く言えばひどく内気な性格。
初めて会う相手の目を見て話せないし、愛想笑いも下手。
中学、高校は吹奏楽部でフルートを吹いていた。
スタイルは決して悪くはないが、姉の姫子と比べると見劣りする。
ふたりはまったく正反対の双子で、顔は同じなのに好きな食べ物も趣味も子供の頃から全然違っていた。けれど両親はそんなふたりを差別して扱うようなことはしなかったし、姫子と姫乃は仲のいい姉妹だった。
欲しがるものややりたいことがいつも真逆だったから、何かを取り合ったり、競争したりということが一度もなかったのだ。ただ姫乃は姫子を羨んでいた。
明るくて人当たりの良い姉の周りには、いつも人が集まっていたから。
そして決定的だったのが、紺野拓樹の存在だ。
ふたりが大学を卒業する間際のこと、姫子は当時付き合っていた拓樹を実家に招き、両親に紹介した。姫子と拓樹は当時からそれはもう仲睦まじく、大学を出て就職したら同棲したいと言い出した。両親は姫子の突然の申し出にかなり驚いていたけれど、驚いたのは姫乃だって同じだ。だってまさか、自分が双子の姉の恋人にひと目惚れしてしまうなんて思いもしなかったから。
姫子と拓樹は同棲を許され、大学を卒業したのち二年を経て結婚した。姫乃はもちろんふたりの結婚式にも呼ばれ、妹として姉の新たな門出を祝福した。
家族や親族、友人知人の喝采と野次を浴びて幸せそうに笑う姉を、心底羨んだことは言うまでもない。されど姫乃は姉の幸福を優先した。自分の気持ちは胸の奥に押し込めた。だって姫子と自分は同じ顔でもこんなに違う。
拓樹はきっと、明るくて人情家で誰にでも好かれる姉を愛したのだ。内気で目立たず、自分の意見も言えない姫乃のことなんか愛してくれるわけがない。
そう、思っていたのに。
あの希望に満ち溢れた結婚式から四年後、姫子は出勤中の交通事故で帰らぬ人となってしまった。おなかには待望の第一子が宿っていたのに、信号無視をして突っ込んできた車とぶつかり、救急車が到着する頃には息を引き取っていた。その後の拓樹の荒れようを、姫乃は見ていられなかったのだ。妻と子を同時に失い、心を病んだ拓樹はついに「姫子は死んでいない」などと言うようになった。姫子を失う前日に些細なことで喧嘩をしたから、きっと怒って姿を隠しているだけなのだと。
通夜も告別式もしめやかに行われたというのに、拓樹の中でそれらはなかったことになっていた。やがて彼は「姫子を返してくれ」と言って友人知人の間を渡り歩き、最後には早乙女家にもやってきた。そして姫乃を見るなり叫んだのだ。
「姫子!」
と。ちょうど会社から帰宅したところだった姫乃は、いきなり拓樹に抱きつかれて凍りついた。彼の腕の中、立ち尽くすことしかできなかった姫乃に向かって拓樹は謝り続けた。そして泣きながら、会いたかった、と。姫乃はそこですべてを悟った。困惑した両親が拓樹を引き離そうとしたがすぐに止めた。
そして拓樹に笑いかけたのだ。
「私も会いたかったわ、拓樹」
と、姉の口調をどうにか真似て。
あれから三ヶ月、早乙女姫乃は今も紺野姫子を演じている。
姉が亡くなって、姫乃は愛する人と一緒になれた。けれど愛する人は、絶対に姫乃の名前を呼んではくれない。姫乃のことを思い出してはくれない。
それが苦しくて苦しくて何度も泣いた。
両親からも馬鹿なことはやめて早く帰ってきなさいと言われている。
だけど姫乃は決めたのだ。この悲しくて優しい嘘を、死ぬまで貫き通すのだと。
「ただいま、姫子」
「おかえり、拓樹」
その日の晩も、姫乃は変わらず姫子として微笑みかける。早乙女姫乃という存在がたとえ世界から消えてしまおうとも、ただ愛する人のために。