interlude 紅の旋律
シャラン王国ドーラ王朝──『蒼』を司る国。
創立より千年の時が流れてもなお、天空の竜と契約するドーラの威厳は衰える気配を見せない。
そんな王国で暮らす人々が、古くから子孫へ言い伝えてきた習わしがある。
習わし、教訓──警告とも呼ぶべきか。
〝『紅』き瞳に触れることなかれ。さもなくば君に崩落が訪れよう〟
──もっとも。
その崩落も邂逅も、なにひとつ予兆がないままに訪れる災いだけれど。
ここは『王都』ドラグニア。
春の息吹が訪れようと、夜の町並みはやはり静寂の波に身を預けている。
その波を大きく揺るがせたのは、街灯の下を駆ける一人の男だった。
「はあっ、はあ、はあ……っ」
誰もいない街路を駆け、切れかかった息を懸命に継ぐ。
男は辺りを見渡しぐぐんと狭い裏道へ曲がったかと思えば、再び必死の形相で革靴を鳴らした。
──遥か後方から鳴り響く、もうひとつの足音に震えながら。
とん、とん。
その足音はいたって静かだった。
空気を一切揺らすことなく、慌てる素振りも見せずに淡々と男を追いかける。
本当に走っているのかさえ怪しかった。いつまで経っても男との距離が縮まる様子はない。
裏を返せば──離れる様子もなく。
とん、とん。とん……。
裏道に入った足音が、ふいに止む。
いっさい振り返ることなく走り続けていた男が、何度も道を曲がった末に行き着いたのは高い高い壁だった。
「く、っそ……! なぜだ!」
喧騒を自ら生み出す男が、
「なぜ今日なんだ、なぜ俺なんだ! お前は別に、誰が相手でも良いんだろうが!」
そう叫べば、律儀にも男の後を追っていた存在は答えた。
〝私は誰でも構わない。貴様も同じだろう? 『罪人』〟
とん。
男の背後で鳴り止む、崩落の足音。
そこに立っていたのは果たして人間なんだろうか。それとも、人間の形をした別の何かなんだろうか。
いずれにせよ、男が知っていたのはただひとつ。
──それは、『紅色』の瞳を有していた。
〝血の香りがする〟
街灯の影に身を隠して。
〝これまでに何人殺した? 罪人。目的は金か、情欲か、殺戮の快楽か〟
「お前に答える義理はない!」
凶暴な本性を包み隠さない男が叫んだ。
奇妙なものである。男がこれだけ大きな声を上げていながら、彼らの周りに人間が駆けつけるどころか、鳥や野良猫の一匹も寄り付いてこない。
「人を人とも思わぬ『トロイメライ』が! お前こそ、夜な夜な俺たちを狩って周るのがそれほどまでに楽しいか? それともまさか、正義の執行者とでも名乗るつもりか?」
〝快楽や正義には興味がない〟
影は答えた。
〝私は生きるために壊すんだ──この衝動を満たさずして、私に明日は訪れない〟
影は腕を振り上げる。
ひぃ、と情けない声を漏らす男に餞の言葉を紡ぐ。
それはおそらく、災厄なる存在が罪人に与えし慈悲の言葉でもあった。
〝混沌なる罪人に、せめて良き『夢想』が在らんことを〟
⁂
腕が振り下ろされると同時に、街路で奏でられる血塗られた旋律。
その場で音もなく崩れ去る男の身体を、紅の奏者は静かに見下ろした。やがて肉片のひとつも残さずに、赤く染まった地面だけが瞳に映る。
〝……悪いな『人間』〟
ひとりとなった影が呟いて。
〝私は本当に誰でも良いんだけどな〟
自ら壊した男に、言い残していた葉っぱを律儀にも残した。
〝わざわざ『社長』から名簿を出してもらっている手前、お前以外の人間を選ぶ理由も私にはないからさ。せいぜい生まれ変わったら、次は悪いことをしない人間にでもなっておけよ──ああ〟
ひと呼吸置いて。
〝間違っても、私みたいな存在には成り果てるなよ〟
とん、とん。
踵を返し、ゆったりと裏道を抜けては静寂の波に溶けていく。
前触れなく夢想を奏でてはどこかへ消えていく紅色の影。
そして王都の夜に残ったのは、崩落を終えた人間の音のみ。
王都、そして王国に災いをもたらす旋律が、今宵もまたどこかで鳴っている。
次話より新章「少年隊結成」編が開幕です。
これからもハルと愉快な仲間たちの活躍を、どうぞ末長く見守ってください。




