op.15-1 並行する魔境①
十歳にも満たない男の子だった。
なんのメトリアも持たない──力を持たない男の子だった。
戦えるはずもなかった。
守れるはずもなかった。
そして──守ってくれる『人』すらも。
あの日のことは、何歳になっても思い出す。
メトリアも『星剣』もなかった頃を、何の力も持たなかった、かつての自分を。
――思い出されるは、『僕』が初めて出会った『魔獣』の影。
あの日、あの時、あの瞬間。
僕の目の前で、あの影に呑まれていったのは――
⁂
『魔境』という名の世界については、いまだに不明なことが多い。
どんな段取りで、何をきっかけに『目』が出現するのかがまったく判明していない。
王宮は魔獣の出現が確認されたならば、その出現地を中心とした辺り一帯を『魔境』として指定する。
アルファ、ベータ、シータ……と番号付けされた領域を、ハンターや術士たちが探索していく。
そうして遭遇した魔境の番人──『魔獣』を倒しつつ、魔境の『目』を見つけ出す。
目が潰えない限り、その異世界が蓋を閉じることはない。
いつまでも魔獣は大陸世界に現れる。奴らを放っておけば、いずれは人間の集落にも迷い込んでくるだろう。
⁂
ウィルが走らせた車が、刻一刻と、そんな危険地帯の入り口へと近づいていく。
協会本部を出発してから大して代わり映えのしない森林を、車窓越しに眺めながらウィルが告げる。
「車で移動するのは入り口までだ。そこから先は『羅針盤』と『探知器』、そして『標識』が目的地までの頼みとなる」
もっとも、今回のウィルたちは目的地──魔境の『目』まで到達することを最終目標としていない。
今回はあくまでも、ムンクが日常的にこなしている『魔獣狩り』への同行が、ハルとダイヤの任務だった。
「『目』は狙って探すよりも、魔獣を探していたら偶然発見するような、感覚と幸運で見付かるような代物だと考えておいた方が良い」
「感覚はともかく、幸運ならハルは結構持ってる方だぜ。なあ、ハル?」
──そそそ、そんな感覚で付属してくるような幸運なんて持ち合わせてないけど!?
ダイヤの楽観的な発言をハルはたしなめる。
サントラの少年二人がそんな明るいやり取りを続けている間も、ムンクは『羅針盤』片手に車窓の景色を眺めていた。
──いや、ただ眺めているのではない。
空気の緊張感、景色の些細な変化、大陸世界と魔境との見えざる『境界線』を。
《《協会本部で申告していた通り》》──『風のメトリア』で、辺りの空気を読んでいるかのような面持ちだった。
やがて、ウィルがゆったりと車を停める。
エンジン音が完全に消えた頃、入り口だ、とムンクが小さく呟いた。
「魔獣って、ひとつの魔境に一体しかいないのか?」
木々のさざめきしか聞こえない世界で、ダイヤが声を潜めて問いかける。返事をしたのはムンクだった。
「魔境による。大物一体が番を務めていることもある。群れで『目』を守っていることもある」
「……それって、入る前にある程度調べられねえのか?」
ムンクが小さく首を横に振れば、うへえ、と間の抜けた声が返ってくる。
「だが、この辺りで出没した魔獣の目撃証言はすでに上がっているだろう?」
ウィルがコートの内ポケットから紙切れを取り出して、
「全長三メートル強、二足歩行をする『牛』のような姿をした魔獣だったと、本部の報告書には書かれている。これまでの前例データから推測すれば、ここ魔境『シグマ』ではおそらく、魔獣が『群れ』を為して襲ってくることはないだろうな」
「へ〜、何でそういうの分かるわけ?」
「普通の動物の習性から考えてみれば良い。野生に生きる動物で群れを成すのは、大概、身体が小さき者たちだよ」
一体しかいないとまでは言わずとも、三メートル強が十体や二十体で暮らしていることはない、とウィルが言い加えた。
しきりに頷いているダイヤが、その腰に提げているのは闘技大会で使った木製剣──ではなかった。
新たに『大地のメトリア』を宿した上に、自ら『ダイヤモンド・スピア』という必殺技を編み出したダイヤ。
そんな彼に対して、酒場の店長・ニールセンが新しい武器をこしらえてくれた。
それは槍というよりも、まさしく狩りで使えそうな『銛』によく似た形をしていた。
片手剣とあまり変わらない長さで、しかし、その柄は金属ベルトを外せば、さらに長さを伸ばすことができる。王国軍の警備兵がよく使っている、『警棒』の構造を参考に開発されたニールセンお手製の新武器だ。
「まさに『ダイヤモンド・スピア』そのものって感じだろ? あの店長、意外とセンス良いよな!」
「ああ。『大地』でより硬度を上げることができる『槍』に、『風』で軌道を変えられる『弓』。そして、高い威力と長い飛距離を両立した剣撃が持ち味の『星剣』アストロ。魔獣討伐にはこれ以上なくバランスの整った編成じゃないか」
そう呑気に笑っているウィルは、見るからに武器の類を持たない丸腰だったけれど。
怪訝そうに頭暴君おじさんを見上げているハルの、視線に気がついたウィルが肩をすくめては。
「いや、今日はさすがに私も武器は持っているよ?」
──ざく、ざく。
「そうなの……? メトリア以外に?」
──ざく、ざっざっ。
「メトリア以外にだ。余計な荷物だとは思ったんだがね、念を押して王宮からわざわざ持ってきたのだよ?」
──ざく、ざくざく。
「武器はある意味一番大事な荷物だと思いマスケド……? ていうか、その武器、どこにあるの?」
──ま、またそのコートの四次元にか!?
⁂
ざくん。
ハルとウィルがそんなくだらない会話をしている間に、ムンクは地面へと『標識』を挿していく。
木々に囲まれた中で、その地面は水気を多く含んだまま、ムンクの黒い靴に軽く泥を付けてくる。
ムンクはその泥にも構うことなく、車を置いたこの入り口を決して見失ってしまわないよう、帰ってくるべき道を忘れてしまわないように、ざく、ざくりと棒切れを突き刺して。
「……じゃ、行くっスよ」
──顔を上げる。
ムンクが顔を上げた先で、
「よ、よろしくお願いシマス……って…………あ、れ……?」
ハル──だけが返事をした。
ムンクの声に応えることができたのは、ハルただ一人だった。
ウィルとダイヤの姿は、彼らが今立っている世界のどこにもいなかったのだから。




