ep.9 術士マッキーナの合流
──唐突だけれど。
ハルが一年ほど同じ家で生活を共にした少女・皐月を、これまでで一番怒らせてしまったエピソード。
仕事から帰ってくるなり、シャワーを浴びようと思ってうっかり扉を開けたなら、そこではなんと、すでにシャワーを浴び終えた皐月が着替えをしている最中だった。
……あの瞬間、ハルが生まれて初めて経験したのは二つ。
ひとつは、女の子の裸を初めて見てしまったこと。
もうひとつは、友だちに借りた漫画でしか見たことがない女の子の『平手打ち』をお見舞いされてしまったことだった。
あれ以来、家ではそれぞれの部屋の扉は、開ける前に絶対にノックするという『規則』が追加された。
ウィルさんはいろんなルールを面倒臭がったり嫌ったりしているらしいけれど、時にはそのルールが役に立つことだってあるんだよ、と。いつか、あのおじさんには教えてあげたい。
――と、いうわけで。
「お……お姉さん……?」
いや、女の子なんだから、お姉さんではなく妹さんと呼ぶべきか? いやいやいやっ、そういう問題じゃなくて!
ハルは自分がシングルベッドの上で、上半身裸、パンツ一丁の状態で、両手両足を万歳させられた状態で錠をかけられている現実に直面し。
「何してるんデスカ?」
まったく初対面の少女に、顔面蒼白でそう問いかけたのだった。
⁂
少女の方はちゃんと服を着ていた。
黒のポンチョに身を包み、ワインレッドのスカートに黒いタイツを履いていて、ハルとは対照的に、それはもう暖かそうな格好で椅子に座っていた。
両膝を行儀良く合わせては、分厚い本とホッチキス留めの紙切れを交互に読みふけっている。机の上には、昨晩にはなかった文房具の数々と、三角錐の形をした謎の物体と、何冊か積み上げられた本の山が散らばっていた。
初対面のはずなのに、それをハルにあまり強く感じさせないのは、少女の顔立ち、髪の色、何より『茜色』の瞳が、昨日会話した女性とそっくりだったからだろう。
「あんたこそ何言ってんの?」
「へえ???」
「決まってんでしょ。『鍵』作ってんのよ」
少女は平然と答えた。ハルの裸を拝んでおきながら、眉のひとつも動かさず。
「『鍵』!? いいいいい、今!?」
「だってあんた、いつまで経っても起きてこないから。いったい何時だと思ってるわけ?」
ちなみに、この地下室には時計がない。
そそそそそ、そんなまさか! 全身をひん剥かれるまで気が付かない、なんて馬鹿なことがあるのか!?
フライパンの轟音に甘え続けた日頃の自分を呪いながら、ハルは動かない首をギギギと無理矢理にでも動かしては、隣のベッドをなんとか確認する。
──案の定、そこにウィルの姿はなかった。
少女はハルと歳が近そうな顔立ちだ。しかし、同年代は同年代でも皐月だったならこんな状況、間違いなく顔を真っ赤にする大事件だ。激怒するだけじゃない、色んな意味で頬を真っ赤に染めるはずだ。
「こ、これ、君がやったの!?」
「違うわよ。あたしはウィンリィ・ドーラに呼ばれただけだから」
ウィリ…………ドー……? いや、誰だ!
少女はパタリと本を閉じ、片手に資料、もう片手に黒いペンを携えて椅子から立ち上がる。
革のローファーをつかつかと鳴らしながら、
「一秒当たりのメトリア速度は前例のデータから換算した想定値の半分以下。『開錠』術式を刻むぶんの、最低限のメトリアはこっちで補填するとして。……でもあんた、本当に『星剣』の取得資格は取れるんでしょうね?」
ちょちょちょ、ちょっと待って。説明ゼロの呪文は勘弁してクダサイ。
「じゃなくて! え、なにこれ!? 君がやったんじゃないなら助けてよ!」
がちゃがちゃと、四肢を懸命に動かそうとするハルに、
「暴れるんじゃないわよ、書き損じたらどうすんの」
「はへえっ!?!!?」
「鍵作んのは──今からなんだから」
そう宣告しながら目前まで迫り、ハルを見下ろす少女の右手に握られた黒いペン。
――ジュ、と。
握られたペンの先端が、赤く変色しては。
「――ひぎやぁあっ!?」
赤い先端を、胸板のど真ん中に当てがわれる。
その痛みが『熱さ』がゆえだと認識するまでに、ハルの脳はかなりの処理時間を要した。
「あっつう!?!!?」
「『炎』の免疫も全然足りてないわね。まあ良いわよ。『術式』を刻むのはこっちの仕事だから。あんたは『能士』の仕事だけ果たしてくれれば」
――そのための『臨時契約』なんだから、と。
無表情さながらの平然たる様子で、その胸板に淡々と落書きしていく少女に、ハルは何度も悲鳴を上げながら、男気のかけらもない醜態を晒し続けたのだった。
⁂
地下書庫の隣室において突如発生した、少女の拷問から脱出したハルを、階段を登った先で待っていたのはウィルとマスキードだった。
ビブリオ図書館のラウンジで、屋根まで届きそうな無数の本棚に囲まれた大人たち。脇にずしんと置かれた古びた大時計は、『十』の数字を示していた。
片やコーヒー、片やレモンティーを悠々と嗜む大人たちの、ハルのまだ裸なままだった上半身を見てもあまりに平然とした様子に、ハルはむかむかと心臓を燃やす。
「おはようハル。鍵はできたかね?」
ハルの真っ赤な顔は、ウィルにはすでに読めていたものだったのだろう。
「なんデスカ、これは。なんですかこれは!」
「マスキード殿に代わって、その子に鍵の作成を依頼したのだよ。どうだねご当主、『術式』の状態は?」
さんざん落書きされたハルの胸板は、すでに火傷の跡が完全に消えている。
どんな第六感を使ってその火傷跡を見ているのか知らないが、マスキードはまじまじと胸板を見つめて、
「問題ないのではないでしょうか」
「問題大有りだよ!? めっちゃ痛かったんだけど!?」
しかも下まで脱がされた理由がわからない。結局上の方しか触ってなくない?
真っ赤な顔で抗議するハルに、後ろから階段を登って少女がハルたちのところまで追いついてくる。
少女は追いついてくるなり、
「痛いのはあんたに免疫が足りてないだけよ。『術式』を直接身体に刻むとそうなんの」
「免……直……? な、なに!?!!?」
「なんだ、免疫なかったのか? 私の『読み』とは違うなあ。まあもっとも――『女性』への免疫であったなら、ハルに不足はないと踏んでいたのだがね」
わざとらしく口角を上げたウィルを、ハルはギギギと睨みつける。
あの拘束……ま、間違いない!
「おじさんの仕業だな……!」
「読むのが得意だと言っただろう? 常にとはいかないが、君の身体を流れる『水』を読めば、意識を起こさずしてその身体を調べることも、もちろん干渉も可能なのだよ」
便利だろう? と、なぜか誇らしげに笑っている。
なあにが便利なものか。メトリアの使い方が害悪すぎる。友だちが言ってたぞ、『毒・麻痺・眠り』は魔法攻撃の三大害悪だって!
……さてはこのおじさん、昨日マスキードさんに言われた『一点張り』だの『芸無し』だの、あれらの罵倒を根に持ってる!? おおおおお、おっとなげねえ! 僕で発散するなよ、そのいらいらを!
すると、ウィルは椅子から立ち上がり。
「とにかく、これで『鍵』は出来た。あとは現地に行って、天文台の『鍵穴』と照合させるだけだな」
そう言って今度は、怒らずとも赤い瞳をした少女の方へと視線を移す。
ハルよりもひとまわり背丈が低く、大きくも少しつんとした鋭い目つきでウィルを見返した少女は、
「……付いてこい、って言いたいわけ?」
その言葉に、ハルは赤い顔が冷えないままで少女へ振り返る。
じとり、と少女の茜色の視線が痛い。え……つ、付いてくるって、どこに?
「ハルに朝食を食わせたらすぐに出発する。『計測器』と『羅針盤』、それから『星地図』の用意も頼めるかね」
少女に引き続き、ウィルまで呪文の言葉を唱え始める。
「なんで王宮から持ってこなかったの?」
「私は現地で調達できるものはわざわざ持ち歩かない主義なんだ」
はあ、とわざとらしいため息を吐いて、少女は登ってきた階段を引き返していく。
⁂
ハルが唖然として少女の背中を見送っていると、
「少年。……うちの娘と仲良くしてやってください」
マスキードの言葉に、ハルが再び振り返って。
「む……すめ……?」
「図書館で本読んでばかりの駄目娘ですけれど。術士に求められる仕事は一通り仕込んでおきましたから」
──料理はできませんけれど、と言い加えるマスキード。
ぱちぱちと目を瞬かせては、ハルはもう一度、
「……娘???」
同じ単語を繰り返す。
ニヤニヤと悪い大人の笑顔が止まらないウィルが、やや顎を前へ突き出したまま硬直しているハルの反応を楽しんでいるうちに、少女が再びラウンジへと階段を登ってくる。
肩掛けのポーチを引っ提げた少女が、
「じゃ。さっさと行くわよ」
「…………あの……」
「何?」
「その、お名前は……?」
「『マッキーナ』」
その少女は母親のような、「エレメント協会サラバンド所属ビブリオ次期当主……」なんて自己紹介は決して唱えなかった。
そして、エレメント協会サラバンド所属ビブリオ『次期』当主マッキーナ・ビブリオは、終始笑顔を見せないまま、母親に差し出されたサンドイッチを渋々手に取った金髪碧眼の少年に、
「早くしてよ」
ただ一言で、その朝食を急かすだけであった。
⁂
メトリア産業を重視するシャラン王国にとって、メトリアの専門家である『術士』という職業の需要は果てしない。
『術式』と呼ばれる文字列または数列を作成し、人間や物体に用いることによって、メトリアをひとつのシステムとして運用していくのが術士の主な仕事内容だった。
魔獣から人間社会を守るための『結界』も然り。
人間と神々の両世界を繋ぐ、聖地の『開錠』も然り。
そして、時には。
自身では『術式』を作成せず、代わりに術士によって制作された『術式』を用いることで、必要に応じたメトリアの行使をする場合もあるのだと、ウィルがハルに説明した。
ハルが怪訝そうに、ううむわからんと首を捻っていると、
「少年は、身体を動かすのと頭を働かせるのと、どちらがお得意ですか?」
マスキードの問いかけに、ハルは内心で焦った──「どっちもそんなに得意じゃない」、とはなかなか言いづらく。
……ちなみに、サントラのうざい《《漫画脳》》のあいつは、ま〜ちがいなく前者だ。店長と一緒。だって、あいつ馬鹿だもん。
「術士に従事する人間は、基本的に頭を働かせる方が得意という傾向があります。協会の長年の調査でもすでに立証されているデータです。ですから、私たち術士は自分が作成した優秀で素晴らしき『術式』を、身体を動かすことを得意とするお馬鹿な人間どもに貸し出すのです」
「へ、へえ……」
「私たちの『術式』を実用する人材のことを、総じて『能士』と呼ぶのです」
「へえ…………」
「従わせるんです」
「…………へえ」
「尽くさせるんです」
「………………」
──とりあえず、マスキードさん。
お姉さんの性格はだいたいワカリマシタ。いや、結局は『お母さん』だったのか。
要するに、今回の天文台においての『星剣』獲得任務は、ハルという能士と、このマッキーナという術士の、二人でこなすことになるらしい。
そんなの初耳だけど、とハルがウィルを見据えると、
「中年のおっさんとの二人旅なんて退屈だろう?」
やはりこのおっさん、ニヤニヤが止まらない。何がそんなに面白いんだ?
「以前からこのご両親に頼まれていたんだ、ひきこもりの娘をなんとかしてくれと。『外』から連れ出す良い機会だ──ハル。君も仲良くしてあげたまえ」
そして、ウィルは言ったのだ。
「この少女──マッキーナと『臨時契約』してもらうぞ」
ふん、と。
マッキーナが鼻を鳴らしているのを、ハルはただただ困惑するだけだった。
……どう見ても、明らかに母親ばりにキツい性格をしていそうなマッキーナ。
ハルはその茜色の瞳を見て純粋にこう思った──「あの『皐月』よりもコロコロ機嫌が変わりそうな子」、なんて。
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