ep.7-1 図書館:メトリアのADSR①
太陽が地の果てへと沈む頃、ハルとウィルが案内されたのは喫茶店だった。
小さな家と、大きな家がひとつに連なった、ひときわ目を引く赤レンガの建物。
『BIBLIO』と彫られた看板を見れば、そこが当初の目的地であることはすぐに分かった。
(……なんか。さみしいな……?)
小さい方の家に連れられながら、素直な感想と共にハルは周囲を見渡した。
駅があった都市の中心部は、黒い人影がそれなりにあったし、建物も道沿いにびっしり詰まっていたように見えた。
しかし、ビブリオ図書館の周辺に建物はなく、ぱらぱらと通りに点在している一軒家の間から、冬の冷やっこい風が直接肌に当たってくる。
もちろん、サントラなんかよりはずっと建物が立っている。しかし、同じ町だというのに、この差は一体なんだろう。郊外ってやつかな?
――ライブハウスのあったコーラルの方が、ずっと賑やかだったんじゃないかと思えるほどに。
「この少年、新たにメトリアを発現させたんだ」
喫茶店に入るなり、ウィルはマスキードにそう打ち明ける。老婆はいつの間にか姿を消していて、店には誰一人として客がいない。
唯一、カウンター席の向かいには店員と思わしき男性が行儀良く立っていた。町長と歳が近そうだな、とやっぱりハルは吟味した。
「メトリアの種類はなんでしょう」
「『星』だ」
「……………………」
星、という単語に。
マスキードよりもむしろ、その男性の方が仰天していたんじゃないかと思う。
急につかつかと革靴を鳴らしながらこちらへ駆けてくれば、やや乱暴気味にハルのフードを剥ぎ取った。
「…………………………………………」
――本当にびっくりした時って、声すらも上げられなくなるらしい。
何、そんなに『星のメトリア』ってすごいの? みんなも術士なんだから、自分のメトリア、持ってるんじゃないの?
「……はあ」
マスキードは金髪碧眼を一瞥しては、いっそう面倒そうに、忌々しそうにウィルを見据えた。やはり駅前での会話では、きちんとハルの顔立ちを確認していなかったらしい。
「協会に報告は?」
「悪いな、内密に頼むよ」
――チッ。
うわ、舌打ちしたぞ。いっそう気分を害したと言わんばかりの舌打ちをしたぞ、この美人のおばさん。
いらいらしたからって、舌打ちはお行儀悪いから絶対駄目とか、皐月はよく言っているのに。
「メトリア量の計測と、『鍵』の作成だ。頼めるかね?」
「……蔵書の延滞料金と併せて一括払いしていただきます」
「言い値で構わないよ」
今は手持ちがないが、と付け加えて、それはもう綺麗に微笑んだウィルであった。
交渉は手短にと、ウィルとマスキードの間だけで交わされた暗黙の了解を、ハルはただ呆然と眺めているしかなかった。
――実は。
ウィルが協会本部への記帳を渋ったのは、自分の怠慢や無駄な意地っ張りよりも。
むしろ、ハルという『存在』そのものの隠匿であったことを、この時のハルはまだ知る由もなかったのである。
⁂
その喫茶店は、サントラの酒場を想起させるようなカウンター席とテーブル席が用意された店住まいだった。
ただし、酒場はいつも段ボール箱と空き瓶が部屋のあちこちに転がっていたけれど、この店にはそういった余計な荷物は置かれていない。
喫茶店はおしゃれな場所だと聞いたことがあるけれど……うん、確かに綺麗だ。
窓際のテーブル席に案内されれば、メニューが書かれた三つ折りの紙がハルの前に提示される。
「食事も済ませろよ。他にまともな飯屋はこの町にはないからな」
「え? 都市なのに……」
ウィルの言葉に首を傾げていると、二人を見下ろすマスキードが、
「喫茶店にて食事は付属ですよ。ただの趣味です。他にすることがありませんから」
カウンター席の奥では、男性が透明の瓶に詰まったコーヒー豆をポットへ開けている。話によれば、図書館も喫茶店も、マスキードとあの男性――旦那さんと夫婦で経営しているらしい。
特に喫茶店は、旦那さんの方の趣味とのことで。つまりは、料理を作るのも全部あの旦那さん。
「料理って、女の人がするものじゃないんだ……」
まあ、それを言うなら酒場だって、店長が料理しているけども。だってあの店一人しかいないし。
でも、あれ? じゃあマスキードさんは、いったい何をするんだ?
「料理する彼を見物するのが趣味なんです」
まさかの『見る専』!?
毎日ご飯を用意してくれる、我が家の優秀な三つ編み少女を思い出しては、ハルは目前に佇む癖毛の茶髪を貼り付けた笑顔で見つめたのだった。
……皐月先生。いつも美味しいご飯をありがとうゴザイマス。
注文を取り終え、もはや料理を待っているだけのマスキードに、ウィルは別の注文を取り付ける。
「ハルにメトリアの講義をしてやってくれないか? ビブリオ家当主どの」
「……あなたが講義すれば良いのでは」
「専門家から聞いた方が説得力が増すだろう?」
――あなたも『専門家』では? と。
マスキードとハルの心情が完全に一致したのは、これが最初で最後だった。……あと、足りないのは説得力じゃなくて、ウィルさんに対する信用度だよ。
「えっと、おばさんがここの当主? 旦那さんもいるのに――」
「『お姉さん』です」
ぴしゃり。
たった一言の威圧が、ハルの心臓に突き刺さった。
そして、もう「お姉さん」て歳じゃないだろう、と後に続けやがったウィルさんは、やっぱり色々と信用できないと思う。本当に『水』とやらを読んでいるのか、この失礼なおじさんは?
……この『水』使い、どうやら火には水だけでなく、油を注ぐ技術も持ち合わせていたらしい。
先程の老婆にも劣らぬ睨みを効かせながら、マスキードは答えた。
「彼がお婿さんだからという要因もありますが、もとより術士の家系は女性が当主になるケースが多いんです」
「ど、どうして、デスカ」
「メトリアの貯蔵限界が違います」
「ストレージ?」
「人間の体内にどれほどメトリアを溜め込めるかという問題です。メトリアの『量』と言えば伝わりますか? 個人差や年齢差がありますが、エレメント協会の統計によれば、女性のほうが男性よりも貯蔵限界が大きく、より若い時期にピークへ到達しやすいという傾向がすでにデータとして挙げられています」
あくまで傾向の話ですが、と前置いてから、マスキードは近くの椅子を引き寄せ二人の前に腰掛けた。
……向かいの椅子でぴしりと背筋を伸ばしたマスキードが、ただの口の悪い淑女からビブリオ家当主という『肩書き』に、いっそう強い意味を帯びた状態で座っていた。
⁂
――『図書館』の番人マスキード先生の、メトリア『講義』によれば。
術士であろうと、なかろうと。
メトリアを行使するときに、しばしば重要視されている要点があるらしい。
「エレメント協会ではそれらの項目を、合わせて『ADSR』と呼んでいます」
『Attack』『Decay』『Sustain』『Release』――合わせて『ADSR』。
体内に溜め込んだメトリアを、外へと放つ、その順番にわざわざ『ADSR』という名前を付けているらしい。四つの段階を表している、とでも言い換えれば良いだろうか。
「メトリアの運用という、『技術』の探究ですから。技術の探究を職業にしているのですから、それらの説明は理論的に行えなければ仕事になりません」
感覚じゃ駄目なんです、とマスキードは言い加えた。……なぜかウィルの方を見据えながら。
──メトリアをいかにコントロールし、自らの思いのままに、そのメトリアを具現化させることができるか。
「単にメトリアを放出するだけならば、それほど難しくありません。なにせ持っているものを出すだけですから。何も考えずとも、個人で有しているメトリアの『量』に物を言わせることができるのですから――ですが、放出するメトリアに細かく加減を付ける、その性質や効果が持続する時間を設定する、そして目的に不必要な量のメトリアは再び体内に還元するなど、メトリアを行使する手順には膨大なバリエーションが存在しているのです」
いろいろな手順を模索すればするほど、いろいろなメトリアの使い方が見えてくる。
「そういった、メトリアの用途を追求し続ける行いが、私たち術士の本懐にして、存在意義に相当する部分なのです」
――うん。なるほどぉ?
「いや絶対分かってないだろう、君」
──口をぽかんと開けていたら馬鹿にされた。むっとしてウィルを見上げると、
「あなたも大概お得意ではないでしょう」
ウィルに対して向けられた、マスキードの思いがけない言葉。ハルはえっと驚いて、
「え……ウィルさんも『専門家』って……」
「知識を持っていることと実践することは同義ではありませんから。彼はまさしく、『量』に物を言わせるだけの、初動一点張りの芸無しなのですよ、少年」
――そ、そうだったんデスカ?
ウィルが頬を掻いている。どうやら、この職業術士の分析はあながち間違っていないらしい。
なんだよ、あんなに偉そうにメトリアの分析とかしてたのに。ああでも、そういえばウィルさん、自分の『水』を使うのは得意じゃないとか自白していたっけ。
⁂
……なんか、このおじさん。
最初に電車で会った時はすごい人なのかと思っていたのに。
金メッキを『水』で追い払った時は、もっとすごい人だと、なんでもできる人だと。
きっと、なんでも知っているんだと――
「あなたの『先代』も同様ですよ、少年」
──凍る。
店内が、その一言で凍る。
「……センダイ?」
「ええ。この『暴君』も、あなたの先代――『マイスター』こそ、量に物を言わせた『アタック』一点張りで、このエレメント協会ごと我々術士の面子を潰してくれた、営業妨害甚だしい害悪だったわけです」
まあ、その害悪で『世界』を救ったのでしょうけれど――と。
マスキードは冷めた茜色で、ハルにそう告げたのである。