小説の中の伝承
ふと、思い出した。
「狼男のさ、満月の夜に狼に変身するってやつ、あれってどっかの設定が大ヒットしたって聞いたことある」
「ああ、小説の設定を気に入った映画監督がそのまま使ったら大ウケだったってやつね」
突然振っても律儀に返してくれたアオイは、話しかける前と同じく手にした文庫本をめくっている。
なんだ。会話に乗ってくれたんじゃないのか。
少しがっかりしながら、そのきれいな指が紙を支えるのを見ていた。
「その噂が本当ってことは、狼男の変身に満月とか月の光は必要ないってこと?」
「そうなるな」
本を開いていたその両手が僅かに緩められ、文庫が閉じられかけた。
会話内容が小説だったからだろうか、ほんの少しはこちらを気にかけてくれたらしい。
何か思案するようにして、栞を挟んだ。
「でも、月の運行に人が左右されないってことの証明にはならないぞ」
「そうなの?」
顔を上げ、何か考えているアオイの顔を見た。
指と同じくきれいな顔が、物思いに耽ることで一層神秘的に見えた。この横顔を見ていると、幼馴染だからこそ面白くなってくる。学年を越えて上にも下にも黄色い声をかけられるアオイのちょっとした変化を楽しめる特等席で、一見ミロのビーナスかダビデかと思われるほど整った横顔。何かを探すように視線が動いているのが楽しかった。
「ああ。月の満ち欠けや光は太陽と同じく信仰の対象だし、狼男の伝承が単なる小説の設定と考えるのは浅はかかもな」
「……いや、難しい話は着いていけないって。わたしバカなんだからすぐそうやって知識とかを使う方向にいかないでよ」
「話題振ってきたのはお前だろ」
呆れたように溜息交じりに言われた。その顔は、先ほどまであった神秘性などどこにもなかった。ただの幼馴染の顔だ。
どうやら、一時とはいえ読書を邪魔されたのが気にいらなかったようだ。
思慮も足りずに思い付きで話しかけたことをほんの少し後悔し、もう少し賢く会話ができるように努力すればアオイのきれいな顔も見続けられるのになぁと思った。
「それに、今夜は丁度満月だからなぁ。本当に設定や伝承の中だけなのか、試してみようかと思って」
文庫本を大事そうに持つアオイの目が細められ、口元は大きく弧を描いた。
あ、れ?
アオイの、紙をするりと捲っていたきれいな指が、わたしを掴んだ。
「アオイ?」
「……」
距離を詰められ、さ迷っていたはずの目にわたしが映り込んでいる。これは、どういうことだろう。狼狽える心とは逆に、目を離せなかった。
そろりと持ち上がった両手が、ぎゅっとわたしの両頬を引っ張った。
「いっっ痛い!」
「読書の邪魔した罰だからね」
詰められた距離そのままで、アオイはもう一度だけ頬を引っ張ってからその手で文庫本を開いた。
じんじんと痛む両頬に手のひらをあてるが、邪魔をしたのは事実だし読書タイムを少なくしたのも事実だ。罰を甘んじて受け入れたが、痛みに唸るくらいは許されたい。