13.黄金獣のブラシと雷の魔石キャンディ
「この歌を知っているか?」
聞こえてくる耳慣れない旋律に、ナディアが無言でかぶりを振るとレオポルドは淡々と告げる。
「ならば覚えるがいい。マウナカイアに伝わる人魚の恋唄、失った半身を焦がれ慕う唄だ……」
そういって歌いだした青年の声は、信じられないほどの哀愁を帯びていて。
長い指がリールから紡ぎだす旋律は物悲しいのに力強く響き、秘められた炎のような情熱が内側からはじけてあふれだす。
太陽が沈みきり、世界が闇に包まれる前の数刻、空は黄昏色に染まる。
星々のきらめきごと瞳に溶かしこんだような薄紫、あの瞳を自分に向けられ、あの声でささやかれたら……だれもが我を忘れてしまうだろう。
遠く離れた恋人を想う唄は、いますぐ駆け寄って彼を抱きしめたい誘惑にかられる。
その恋人が自分ではないことがわかっているのに。よく通る声は精霊のような美しい姿とも相まって、聞く者たちの魂を揺さぶる。
リールの音がやみ彼が口をつぐむまで、ナディアだけでなく、その場にいた全員がひと言も声を発せず、身動きもできなかった。
ただ彼の足もとにいた白猫だけがゴキゲンなようすで小さな体をすりつける。
「満足したか?」
問いかけは猫に向けてのものだった。
『うん、満足したー眠くなった』
ナナはゴロゴロとのどを鳴らして本当に眠そうだ。リールをナディアに返すと、彼女はキッとレオポルドをにらみつけた。
「人魚の恋唄ね……マスターしてやるわ。また聴きにきてちょうだい」
「ニャオ」
「ナナも楽しみか……ならばまた来よう」
うなずいたレオポルドは、白猫に話しかけて立ちあがった。
「では明日、魔石鉱床に向かう」
「お、おう」
ロイが軽く片手を挙げてレオポルドの言葉に応じれば、転移陣がまばゆく光り、白猫ごと魔術師の姿は消えた。
ざわめきが戻った店内で、リールを握りしめたナディアが唇をかむ。
「なんてこと……歌い手のプライドがズタボロよ。悔しいったらありゃしない」
「ま、一晩寝れば忘れちまうさ。それにあの魔術師だってナディアの唄を聞いたから、あの声がだせたんだろ」
「そうかしら……」
ロイは陽気に話しかけるが、ナディアは不機嫌なままだ。
「ナディアの歌は人を素直にする。欲望も願いも心に隠しておけなくなる。俺だって……」
彼女のみごとな黒髪を持ちあげ、口づけを落としたロイの手を、歌姫は乱暴に払いのけた。
「悪いけどそんな気分じゃないの。目を閉じればあの歌が聞こえてきそう……今夜中にマスターしてやるわ」
「ふみゃっ⁉︎」
魔石亭の最上階にある部屋に戻って、いきなり浄化の魔法を使われた白猫は悲鳴をあげた。
使い魔のナナはさすがに浄化の魔法までは使えない。でかけたがるわりにきれい好きなので、頼まれればレオポルドがかけてやるのだが。
「何いきなり……」
やつ当たりのような予告なしの魔術に文句をいおうとしたナナは、レオポルドが収納鞄からとりだした、黄金獣の毛を束ねたブラシに黄緑の目を丸くした。
むしろポカンとしたといっていい。マリス女史に強引に持たされたブラシを、彼はいままで使おうとしたことはなかった。
「浄化の魔法だけでは足りないな、毛並みが乱れてる」
『え、そう?』
ナナはあわてて小さな舌をだしたが、毛づくろいをする前に、レオポルドがむんずとつかまえる。
『ひぁ?な、何?』
「ブラッシングにきまっているだろう。使い魔がただの飼い猫にまちがわれては困る」
白猫はあてられたブラシに身をよじったが、レオポルドはかまわず手を動かした。
いくらブラッシングしても、白猫の毛が抜けることはない。それでも彼の手に当たる小さな体は、やわらかく温かい。
ブラシが毛並みを滑らかにしてツヤがでると、白猫は満足そうにゴロゴロとのどを鳴らして体をのばす。
『はじめてだね、ブラッシングしてくれるの。うふふ、レオポルドの使い魔になってよかったよ!』
「そうだな……」
瞳の黄昏色が揺らぎ、レオポルドの手つきが優しく丁寧になった。
「少し大人げなかったか」
生成りのストンとした寝間着に着替え、レオポルドは軽く反省した。ナナがあの歌姫の唄に聞き惚れていたからといって、彼女からリールをとりあげて歌う必要などなかった。
『ナディアさん、きれいな歌声だったね。また聴くの楽しみ……うぉおー、パチパチ君だ!』
ベッドの上で白猫のナナが〝雷の魔石キャンディ〟をなめ、ヒゲをぶるるっと震わせた。
『レオポルドもなめてみる?』
「私はいい」
『いっしょになめようよー』
スリスリしてくるナナにうながされ、レオポルドはため息をつくと魔石キャンディの袋に手をのばした。
猫のくせにさびしがり屋のナナは、いっしょに何かをしたがることがある。今回はキャンディをいっしょになめてほしいらしい。
「ん……」
だが黄色い〝雷の魔石キャンディ〟を、口にしたとたん、頭蓋から背骨にかけてビリビリとしびれるような刺激があり、体の奥がカッと熱くなる。店主が「夜に食べろ」というわけだ。
『パチパチするねーおもしろいねー』
白猫は何も感じないのか、のんきに口をむにゅむにゅ動かしながらゴロゴロしている。レオポルドは口に含んだキャンディをガリガリとかみ砕く。
『ちょっ、もったいないよその食べかた……』
「知らん。もう寝るぞ」
『じゃあ、レオポルドがお布団ね』
ナナはもぞもぞと彼の胸元に潜りこみ、その胸に頭をのっけると満足そうにニャゴニャゴつぶやいた。
『きょうも楽しかったぁ、ルルスで魔石鉱床見るの楽しみだね』
「私の歌はどうだった?」
『んとね、レオポルドの歌はマウナカイアで聴かせてほしいな。沖合に干潮のときだけ顔をだす砂浜があってね……』
そこまでいってナナはしゃべるのをやめた。
「ナナ?」
『わたしね、お魚になったの。お魚になって泳いでその砂浜にいったの。おかしいね、猫なのに』
レオポルドはナナの小さな白い体をぎゅっと抱く。
『おかしいよね、猫なのに。夢でも見たのかな……夢ならまた見たいな、お魚とね、泳いだの。とっても……とってもキレイなんだよ』
「そうか」
『夢ならさ……レオポルドといっしょに……泳げたらいいなぁ』
レオポルドはギョッとしてニャゴニャゴとつぶやく白猫を、胸からつまみあげた。
『ふにゅ⁉️』
「私は行かないぞ!」
ナナは黄緑の目をまんまるにして、手足をぶらんとしたまま、レオポルドにたずねた。
『ふぇ、行かないってどこへ?』
「マウナカイアだ!カイがいるだろう!」
『?カイじゃなくてロイ。あした行くのはルルスの魔石鉱床だよ?……ぷぎゃ!』
みぃみぃともがく白猫を自分の胸に押しつけるようにして、レオポルドは深く大きなため息をついた。胸が大きく上下して、白猫はあわてて彼の寝巻きにしがみつく。
『ちょっとー寝ぼけないでよー』
それには返事をせず、彼は白猫を胸にのせたままでまぶたを閉じた。