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たぐりたい戦果

「本当に舌を噛み切ったらどうすんだ」

 リンキーの音声で冷笑されたのはきっと空耳であろうが、

「さっきからマンガン社さんをお見かけしませんが」

「本日は代休だそうです」「代休!」

 スガワラ代理社員の苛々は現実であった。

「問題ありません。本日のメインは河合へのチューニビョン散布ですし、ワタクシが延長しますので」

「あ、河合が帰ってしまいますっ」

「そちらも想定内ですから大丈夫です。スガワラさんはどうぞご安全に、散布後の二十分待機を」

「薬事法なんぞ適当でいいでしょう。そもそも終了時が来月末に伸びたのは何故ですかっ」

 納期変更のクレームは末端社員ではどうしようもないのであった。

「申し訳ありません、その件は当社規定の関わる話でしたので、直接お問い合わせいただけると助かります」

 不服そうだがワタクシ的には知ったことではない。

「尚、今回の散布は弊社持ち込みとなっております」「えっ」

「ちなみに散布責任者はワタクシです」「あっ」

 スガワラ社員は急に口をモゴモゴさせた。

 チューニビョンの効果は絶大だが高額薬品でもある。妖精間での取扱いでは注意が必要で、更に今月より法改定で散布責任者の現場報告が義務付けられてしまった。どなたも機会に依存しがちな昨今。手足引っ張る輩に口出しする権利は全く無い。

「御承知の通り河合の行動力は侮れませんので、ワタクシも経過観察を怠らぬ様に致します。ですが部活学業面はスガワラさん無くしては語れません。どうぞ宜しくお願い致します」

 深々と頭を下げ相手のメンツだけ立てた後「では二十分経ちましたので」と、散布後の清掃に入ったのであった。


 可哀相に岩野田はコテンパンである。当然だ。当たられる理由が判らない。

(私、何か気に障るコトした?)

 何もしてないよ。可哀想に。八つ当たりって、優しくしてくれる人に降り掛かるモノなのだよ。

(誰かにもう付き合うなって言われたかな)

 運動部の交際禁止令なんて時代錯誤ね。

(全国に向けて集中したいのかも)

 そちらこそ思い当たるフシがあり過ぎる。それにしても言い方。

 酷い雨。心が痛くて仕方ない。冷たい空気。身体の芯が凍ってゆく。


 青ざめ座り込む岩野田を見つけたのは大家だった。

「全然帰って来ないから。どうした、具合悪い?」

「……急に頭とお腹が痛くなって」

「今月来た?」「まだ、もうすぐ」「うん、わかった」

 今度は月の面倒が岩野田に降り掛かる。大家は茨木常備の痛み止めと吉野先輩のハーフケットを調達し、観客席にリラックスシートを誂えた。しかし枕の代用が、何の因果か河合のタオルである。厨二病のおバカさんは先程いきなり我に返り脱兎の帰宅、その際に置き忘れていったのだ。顔を埋める羽目になった岩野田は複雑そのものである。

 マネ達の動きを見た江口は、そそくさと休憩時間にホットの缶入りコーンスープを購入する。

「岩野田さん寒くて冷えたでしょ。この缶お腹にあてときなよ。ホカホカだよ」

「あ、ありがと。でもなんで?」

「うちの姉ちゃんもよく寝込むからさ。女の子は毎月大変だね」

 岩野田は固まった。生理痛を見透かす男子とおぼこムスメの未来に光は差すのか。

「あの男のコ、根っこはスーパーダーリンですけどね、言うタイミングがね」

 岩野田後ろの全母連スタッフ様も、十代センシティブについて気を揉まれるのであった。


 案の定、翌日は欠席の岩野田である。体調不良の愛娘に父は右往左往。入院中の母に携帯で指示を仰ぎ、心づくしの朝食も食卓に並べ、後ろ髪を引かれつつ出勤した。

 岩野田の回復はその日の午後である。モソモソと見繕いと小さい家事を済ませ、お腹の催促で父親メイドの卵と野菜のサンドイッチを食す。洗濯機を回る音を聞きながら味わう、マヨネーズ多めのジャンク味。

(お母さんが作ると辛子バターだよね)

 紅茶も追加でいただきながら小さな観察。きっと将来思い出す家庭の味だ。

 食器を片付けていたら洗濯機の仕上がり音が響いた。ベランダに出ると氷川中の校舎が見える。この時間はまだ授業中。今の河合の気持ちはどんなだろう。だけど岩野田からは連絡も出来ず、当然向こうからも何も無い。途端に寂しさがまた襲う。

 洗濯物の中には昨日の河合のタオルもある。岩野田はそれをむんずと掴む。

(ホントに、もう、)

 岩野田だって怒りたい。

(ふざけん、な!)

 パアンと弾いて日向に干す。

『岩野田さんが、好き過ぎてダメなんだ』

 見よ。この厨二満載の赤面台詞。将来に渡り双方の記憶に泰然と燻る、痛い想い出の完成である。

 ここで岩野田は大変な事実にも気付く。

(そういえば私、ちゃんと『好き』って言われたの、初めてなんだけど)

 そうなんだよね。それ故のチューニビョン散布なのだよ。色々不首尾な河合であった。

(でも『好き』って言われたのと同時に『ダメ』って言われてるんだけど!)

 思い出してまた泣きそうになる岩野田であった。

 河合の邪魔にだけはなりたくない。それが彼女の矜持である。今が諦念の時期なのか。岩野田は迷い大きく揺れる。


 だがワタクシは声を大にして言いたい。恋の狩人は貪欲かつ我儘身勝手であればこそ。それを相手に悟らせない技術を磨いてこそ、真の猛者と言えよう。

(岩野田、矜持と諦念は別物なのよ)

 ワタクシは既に岩野田を応援出来る立場ではない。今後は彼女自身の運気の強さが鍵となる。

「それにしても痛いな」「何が」

 うっかり零したグチを聞き逃さない因縁リンキー様よ。

「チューニビョンの二割自己負担です。もう少し下げて欲しいです」

「仕方ないよ。チューニビョン高価いもん。乱発されたら会社潰れるもん」

「でも薄給だからマジで痛いです。営業手当吹っ飛びます」

「仕方ないよ。三課の査定低いもん。だからリストラ候補じゃん」

 ちょっと待て。ちょっと待って。

「リンキーさん、今なんて言いました」

 因縁妖精の表情が固まった。

「三課がリストラ候補って、今言いました?」

「……カワイさん、やっぱ気付いてなかったんだ」

 ワタクシの衝撃を、どなたもお分かりいただけるであろうか。

「春先にあたしが来た時点で、課長は察したらしいよ」誰か。誰か。

「もう他の社員も薄々気付いてるし」誰か、嘘って言って。

「でもカワイさんの様子を見てると、まだ判ってないのなって、ちょっと不安だったんだけど」

 空耳だよと、笑って言って。



 **


「お願いだから嘘って言ってえ」

「そういう台詞を吐く奴、めっさ重いしめっさキモい!」

 アホ丸出しのワタクシを叱責する発信元のリンキー様よ。

「リストラされたくなかったら実績作りやがれくださーい」

「実績って何ですかー今の方向性でワタクシは間違ってないんですかあー」

「読みが実績の全てに繋がっている事実に気付きやがれくださーいグッバイ!」

 言い放たれて逃げやがったのであるよ。

(うー)

 ワタクシの喉の奥を涙が伝う。いきなり生活がのしかかる。

(チューニビョン、今回使うんじゃなかった?)

 元々安易に使う薬品でもない。リスクも恐れず走るしかない。ワタクシはちーんと鼻をかんだ。


 リスク回避に余念のないのはスガワラであろう。本社より新たに派遣された黒装束の牛頭部隊は迅速かつ合理的に河合の歪みを隠蔽、瞬く間に顧問達の不安を払拭した。エネミーながら天晴れな手腕であった。

 異変を見抜いたのは大澤のみである。

「岩野田さんと何かあったな」

 問うても口を割る河合ではない。大澤は独自のルートで情報を入手、さっさと浄化を促すのであった。

「独自のルートってミヤコさんじゃないか」

「女子の社交は光より速いんだ。とにかくマサキが悪いからとっとと謝れ」

 事実なのでぐうの音も出ない。

「土曜だって会うかもしれないのに」

 今年度の氷川商バスケ部は絶好調、インターハイ予選も順調に勝ち進み、週末はいよいよ決勝戦。河合達はお勉強の為に観戦予定ときたもんだ。

「ボヤボヤしてるとまたエロ先輩が」

「わかってるよ!」

 年相応にぶんむくれる河合である。踏ん張りどころであろう。


 氷川商のインターハイ出場はここ数年の悲願であった。会場の総合体育館は、父兄から各年代OBまで集う盛況さである。

 対戦相手が積年のライバル校なのも話題を呼んだ。稲熊高校は大澤の地元所在のスポーツで名を馳す私立校、監督もバスケ界のエライ人。各大学や企業関係者の姿も垣間見え、試合前からなかなかの熱量である。

 全てに公正さを促すべく、マンガン社員は全員ヘルメットと安全靴を着用し最前線に常勤、弊社の後方支援には、全母連スタッフ様らが待機する手筈となった。

 江口は今回も一年で唯一レギュラー入りを果たし、ベンチマネには吉野先輩がスタンバイ。岩野田達は他の部員と観客席に集合である。応援リーダーと打ち合わせをしながら、一年組は緊張した。関係者として迎える決勝前の独特の雰囲気。勿論全てが初経験。酩酊するのも無理はない。


 天井に近い観客席上段には氷川中バスケ部が陣取った。応援の邪魔にならず、かつ全貌を見渡す位置である。岩野田は気付かぬフリをし、黙って仲間達と座る。

「稲熊高って大澤君が小学校の時に練習に行ってた学校なんだって」

「へえ、流石大澤君だね。でもなんで茨木がそんな事知ってんの?」

「弟から聞いたの。大澤君と河合君の事はみんな興味津々なんだって。大澤君は留学の噂もあったし、高校の推薦入学も沢山あるって。ね、岩野田。岩野田?」

「え、あ、うん」

 茨木の声に相槌を打ちながら、岩野田は大澤達の現状に面食らう。

(推薦入学は見当がついてたけど……留学?)思い知らされてしまう。

(……そうなんだ)改めて客観的な現実が見えてしまう。

(そうだよね。私が河合君と仲良しになれたなんて、めっちゃ奇跡なんだよね)

 世代層の最も下らない常識の筆頭は校内カーストであるが、残念ながら岩野田もその文化に浸っている。もう少し雑に過ごした方が気持ちも楽なのだが。

(もし河合君が別れたいのなら、もう潮時なんだよね)

 だからそういうの、もう止しなさいってば。


 岩野田が感情を押し殺す理由はもうひとつある。母の退院が決まったのだ。打ちのめされた直後の待望の知らせに、岩野田は察した。

(お母さんが帰ってこれる。じゃあ河合君は諦めなくちゃ)

 ひとつ良い事がある代わりに、大事なモノをひとつ手放す。そんなシステムは決してこの世には無いのだが。

(だって、いつでもそうだもの)

 おばあちゃん達がお母さんが嫌うから、お父さんが怒って今の家に引っ越した。お母さんが可哀想じゃなくなったら、今度はお父さんの会社が潰れた。お父さんの仕事が見つかって落ち着いた途端、次はお母さんの病気が見つかって。

(でもお母さんが帰ってくる。だから私は河合君に酷いコト言われても仕方ない)

 今までの岩野田家の流れが、理不尽を受け入れさせてしまう。

(仕方ないよ。お母さんが戻ってこれるもの)

 本当は胸が苦しくてどうしようもないのに。

(だって私の家は、良いコトはひとつだけだもの)

 決して絶対、そんな仕組みは無いのだけれど。

「あのね、これが岩野田の今の課題なんです。その思い癖を無くしてほしいの。家庭の流れは気にせずに、幸せは自ら掴みに行かないと」

 岩野田担当の全母連スタッフさんも憂いていらっしゃる。前任のスガワラ社員さんと同じだ。誰もが岩野田の課題に悩む。

 だがもうクリアにさせたい。ワタクシは拳を握りしめた。可愛い恋の妖精さんとして、本分を全うしたいのだ。岩野田を幸せにしてみせる。未来の相手が誰であっても。

 マイ管狐はまだ戻らない。だが全てのお膳立てをしなければ。


 試合は大接戦であった。誰もが声を枯らして応援し、観客席最上段の氷川中生達も身を乗り出して行方を追った。

「稲熊、そんなにヤバいか?」

「悪くない、今年の氷川商がいい」

 ラスト一分。氷川商が投入したのは新人の江口である。

「氷川商、替えが無い訳じゃないよな」

「うん、敢えてのエロ先輩だ」

 河合達は益々身を乗り出す。氷川商の応援はクライマックスを迎える。

「シュウトーーーーー」

 声援で体育館内がビリビリ響く。これはシュートを決めろという意味ではない。江口のファーストネーム、そのままルーキーへの歓声だ。

 大澤は河合の耳元で呟く。

「ミヤコから聞いたんだけど」「ん」

「リク達、先週末に南中と練習試合したんだと」「うん?」

「太田が伸びてきてるんだと」

 南中は中学全道大会で必ず決勝リーグに上がる強豪校である。太田の存在は勿論、河合も知っている。

 両校の応援と悲鳴と歓声が再び体育館を揺らし、決着のホイッスルが鳴った。沸き起こる渦は再びみたび館内を揺らす。ラストは江口の見事なカットであった。氷川商側からまたコールが起きた。

「シュウトーーーーー」

 江口への称賛が再び河合の身体にビリビリ響く。大澤が低い声でまた呟く。

「今はたまたまオレらが持ち上げられてるだけだ。これから誰が伸びるかなんてわかんね。太田だって、エロ先輩だってそうだ。これからの事なんて、そんなもん、誰にも見えないべ」

 マンガン社、弊社、全母連タッグによる決勝シフトは非常に見事であった。氷川商はインターハイの切符を手にした。



 **


 試合終了後の熱気は体育館の天井をも空に押し上げそうな勢いであった。コート中央では氷川商メンバーが地方紙の取材と写真撮影を受けている。河合と大澤は体育会系の偉いヒトに拉致られ、有難いお説教を受ける羽目になる。

 岩野田も興奮のるつぼの最中にいたが、それでもいち早くマネ仕事に戻った。中央玄関前のエントランスは帰途につく観客の波でごった返している。応援団の生徒や諸先輩達を見送り、部員の帰宅準備を待つ。

「岩野田さん、今日もタオルを貸してくれてありがとう!」

 本日のヒーロー江口は忘れ物番長にも忘れず君臨した模様。

「本番では絶対忘れちゃダメだよ」

「うん、気をつける」

「内地の宿舎でも吉野先輩に迷惑かけないようにね」

「うん、大丈夫だよ、おかあさん」

「おかあさん?」

 呼び名がオカンから進化してしまった。岩野田のコメカミに青筋が。

「うん。岩野田さん、もうおかあさんになってよ。オレおとうさんになるからさ。あ、そこに居ると邪魔だ」

 江口は岩野田の右腕を掴むと、行き交う人波に当たらぬ様、彼女を壁側に寄せた。変則的壁ドンでもある。不意の接近に焦る岩野田。

「ちょ、ちょっと江口、過保護!」

「いやいや危ないよおかあさん」

「危なくないって!」

 流れるヒトの波。右腕を握る大きな手。目と鼻の前に江口のティシャツの胸元。パーソナルスペースの侵害。

「岩野田さん、いつもオレの面倒見てくれてありがとう」

 江口の声がつむじの上から聞こえる。岩野田もうんと上に向かって言葉を返す。

「いいえ、マネとして当然だよ」

「知ってる。義務でもありがとう」

 こんな密着の最中に交わす会話の事務的固さよ。

「オレ、誰かにこんなに優しくされたコトないよ。言い寄られるのは多いけどいつもすぐ振られるからさ」

 思い当たる節があり過ぎて返事に困るよ。

「だから岩野田さんには感謝してる。面倒見が良くて率直で裏表も色気も無くて」

 さりげにディスられてまたアオスジが立つよ。

「だから、河合を別れたら真っ先に教えてね」

「え」

「オレ、マジでいいおとうさん目指す」

 ヒトの波が引きはじめる。江口も岩野田の腕を離す。

「もう負けたくないんだよね」

「何に?」

 岩野田の問いに江口は黙って笑った。

 その現場を遠巻きに河合が目撃してしまうのも、終了書の効力である。河合の腕が、握り拳が硬く強張るのを、大澤だけが横目で気付く。


 さて河合と別れたら真っ先に教えてと江口に言われた岩野田だが、「彼女と別れたら次は私ね」と常に口説かれ続けているのも河合のリアルである。

 本日も河合の端末に続々届くメッセージ。特筆すべきは別れの予感を嗅ぎつけた恋のハンター達であろう。

『マサキ、最近寂しそう』『彼女と何かあったの?』

(ひいー)

 硬直する河合にスガワラ牛頭部隊が更に結界を強化、ワタクシ達すら近寄らせぬスクランブル体制を取った。

「雑魚は要らぬ!」「おととい来やがれ!」

 河合を狙う色情霊を容赦無く牛刀でなぎ倒す牛頭部隊。中には弊社の片思い案件も少なからず有るのが正直遺憾であるが、我々は彼等の真骨頂を観た。これにより河合のバリアは完璧、全国制覇に向け学業・競技に専念する手筈となった。

 全母連のバックアップも盤石であった。

(マサキの周辺がいつにも増して煩いんだけど)

 表に立ちはだかるは全母連・北支部長預かりの早苗叔母である。

(お行儀の悪い子は目障りなんだけど!)

 自宅周辺を物欲しげに徘徊する十代女子を見かけるや否や、

「氷川中の生徒さんね。何年何組かしら。学年主任の〇〇先生に宜しくお伝えしてね。遅くなると危ないから気をつけて帰ってね。はいサヨーナラッ」

 地域の大人を装いシッシッと蹴散らすのであった。

 時おり「私、河合君と約束してるんです」と特攻をかます勝気女子もいたが、

「そう言ってきた女の子はアナタでもう〇人目よ。お名前伺っていいかしら。シーズン直前で大事な時なの。静かに見守ってあげてね」

 そう一刀両断し、番号札を渡す荒技を展開した。魔除けのお札だったかもしれぬ。

 そして早苗叔母は察した。

(今まで見たコ達の中で岩野田さんが一番良いわ)(マサキは見る目があったのね)(そういえば岩野田さんは良いお嬢さんだって、みんな言ってたわ)

 ワタクシは早苗叔母にお願いしたい。友人知人情報を、あらためてご査収くださいませ。




 七月の初めに母が退院の運びとなり、岩野田家にも安穏なる日々が戻った。自宅のドアを開けた瞬間のひとの気配、ご飯の支度の温度、あかりの灯る部屋。待ち焦がれた家庭の風景であった。

(お母さんのいる匂いだ)

「ただいま」「お帰り」

 これは学校から帰ってきた分の挨拶。

「お母さんもおかえり」

「はいただいま。長いお留守番どうもありがとう」

 こちらは退院おめでとうの挨拶。

 自宅療養なので岩野田のお手伝い免除は当分先だ。だが父が帰宅時に母の好物の老舗ババロアを購入、その夜は華やかな晩餐になった。症状に一喜一憂する日々からのひと時の解放である。


「河合君とちゃんと話をした方がいいよ」

 それ故だろうか。佐藤ミヤコに促されても、岩野田は多くが望めない。心の奥底に出来た枷は硬く、元来の引っ込み思案も顔を出す。

(でもミヤコさん、うち、お母さんが帰ってきたの)

 だがそんな思考はとても言えない。佐藤達から見たら自分はきっと甘ったれだ。

「忙しくて……話すきっかけも無くて」

「気持ちがしんどくて動けない?」

 佐藤は冷静である。

「しんどいなら仕方ないよ。そういう時もあるよね。でも、このままなのは良くないよ」

 真摯な言葉は岩野田の胸に響いた。やっぱり自分は甘ったれだ。

「リュウ君も言ってたけど二人はまだ別れてないよ。これからも四人で仲良しでいたいよ。だからみかこちゃん、全道の決勝戦は一緒に観に行こうね。あのコ達は勝ちあがるよ。私、ひとりで観るのは寂しいよ」

 最後に「今度一緒にお買い物に行こうか」と美少女に明るく誘われ、岩野田の背筋は思い切り伸びたのだった。

(そういえば私、最近お手入れサボってた!)

 そうだよ。二人とも女子として凛々しく生きるのよ。

(ミヤコさんも忙しいのに気を使ってくれた。観戦も誘ってくれて)

 そうなんだよ。佐藤だって岩野田と仲良くなれて嬉しいのだから。

(でも、お母さんが帰ってきたの)

 だからそれが良くない、とはいえ、隠してきた傷が痛むのは自然の流れ。適切に対処しようではないか。


 その後のスケジュールは多忙を極めた。夏休み前の授業は前倒しになり、本番を控えた部活動は熱を帯びる。特に市民体育館で顔を合わせる氷川商・氷川中両校は、それぞれが刺激となり、各ボルテージも加速した。

 岩野田に余裕はまるで無い。当然河合もそれどころではない。お互いの存在は判っていても、リアクションなど出来はしない。

 ネット越しに岩野田は河合の気迫を感じる。河合にも岩野田の献身ぶりが視える。お互いがそれぞれに集中している時、少しのギクシャクが喧噪に紛れる。

 どんどん切れ味が増す河合。どんどん顔つきが大人びてくる岩野田。お互いがそれぞれの成長に気付く。彼の背が伸びている。彼女の髪が伸びている。過ぎた時間が目に見える。

 喧噪から逃れると、見ないフリをしていた痛みが疼きだす。何かを感じて振り向くと、さっきまで視線がこちらに来ていた気配がある。知らないフリをしていても、彼が彼女が、自分を見ているのが背中で判る。


 岩野田が一番辛くなるのは、帰宅して自宅玄関に立った時である。

 思い出すは春の連休。お母さんの病気で落ち込んでいて、初めて家まで送ってもらった夕刻のひととき。

 相反するのが長雨の先月。酷い言葉で傷ついて帰宅した日。玄関に入った途端あの春の日を思い出し、悲しくて訳が判らなくなった。身体の具合も悪くて、河合に対しても珍しくすごく腹が立った。

 今は苦しくて仕方がない。有頂天で気付けなかった過ごした時間の大切さ。泣く度に胸の奥に雪が積もって、シンシンと冷えて氷になって。自分ばかり良くしてもらった。だけど何も返せていなくて、何のお役にも立てなくて。

(でも謝る機会も、多分無いね。もし機会があったとしても、河合君はきっと嫌だね)

 背伸びして気を張る姿も、いつもとても眩しかった。



 **


 成長著しい江口は、体育館での二人を見て瞬時に判断、実働に移していた。

(岩野田さん達、何かあったな)

 既にオノレに正直に生きると心得た江口である。ある意味で容赦も捨てている。

「おかあさん、タオル貸してー」

「え、岩野田、とうとうおかあさんになっちゃったの」

 岩野田の呼び名変更に大家達からも同情され、岩野田もキレ気味に返すのであった。

「おかあさんじゃありません」

「そんな事言わないでよおかあさーん」

「甘えるんじゃないっ」

 疑似親子状態であった。

「借りる前に貸したタオル全部返して」

「うんわかった。でも早く汗拭かないと風邪ひいちゃう」

「ええい、これでも使うがいい!」

 岩野田が投げるタオルは色気皆無の新聞社の粗品である。

「ウチの兄がどうもスミマセンー」

 今度は高い所から声が降る。見れば江口の弟が観覧席から手を振っている。尚、その横には綺麗な社会人風女性が。

「アナタが岩野田さんね。いつも弟がお世話になってます」

 大きめの紙袋を抱えて笑うのは、江口のお姉さんであった。


「シュウトがこんなに沢山のタオルを借りっぱなしで。ご迷惑掛けて御免なさいね」

 有名店の焼き菓子と共にわざわざ返却にお越しくださった美女。色めきだつのは江口の先輩同輩諸君である。

「おい芋、ちゃんと紹介しろ」「姉上様にコートまで来てもらえよ」

 顧問・部員達の鼻の下が伸びきるのは壮観である。素敵なお姉さんを前に皆のテンションが上がる。

(初めてあった気がしないけど、何処かで会ったのかな?)

 コート際に下りてきた江口姉弟と楽しく会話をしながら、しかし岩野田は何も思い出せない。姉弟の登場に江口は無駄に緊張し、弟はニコニコしながら皆を見ていた。和気あいあいであった。


 脳内センサーに翻弄されるのはワタクシである。

(岩野田と江口のお姉さん、以前親友だった過去がある!)

 脳内センサーが反応したのだ。浮かぶは江口と岩野田の夫婦時代。当時の江口姉は隣接する酒屋の愛娘なのであった。大所帯で苦労する若嫁の岩野田を、いつも心配し応援していたのだ。江口に苦言を呈すのは今世でもお馴染みの情景である。

 江口姉も岩野田を見た瞬間に(良い子だな。弟と仲良くなってくれないかな)と願っている。ケンジさんの傍観はここも見越してかもしれぬ。慧眼である。


 一方のネットの向こう側、氷川中コートの河合は沈黙を守って練習に勤しんでいる。周囲をスガワラが固め、イロコイの気配は絶賛排除中である。

(おいマサキ、ヤバいぞ。いいのかよ)

 氷川商のコートの様子を察した大澤はひとり焦るが、河合は一言「集中しろ」とだけ返している。だが内心は穏やかではないらしい。チューニビョンの効力は後一カ月弱。

(何だよ意地はって。でもオレは忠告したかんな。後は知らねえぞ)

 大澤も嘆息して終了している。やり取りの簡潔さから二人の信頼が判るが、こちらも深い縁があるからだ。過去で何度も親友や仲間、家族の繋がりをこなしている。

 しかしワタクシの勘の冴え具合はどうだ。勝手に映像が浮かんでは消える。リンキーに感化されたのであろうか。




 氷川商インターハイ壮行会は夏休み前の全校集会後であった。蒸し暑い体育館の壇上、大注目株は江口の存在が大きい男子バスケ部。

「えぐっちゃーん!」「シュウトー!」

 全女子生徒からの黄色い声が館内にコダマする。ニコヤカに佇む江口に対し、しかしマネ達は冷静であった。

(見事なオスマシですネ)(いつもそうやって落ち着いているといいネ)(いいか、そのままボロは出すなよ、出すんじゃないよ)

 どれが誰の心の声かお分かりいただけたであろうか。

 悲願は初戦突破。大きなエールと校歌斉唱に見送られ、レギュラー組と吉野マネは今年度開催地である内地の某県に旅立ち、留守番組は部室のお掃除に取り掛かった。開かずのロッカー内にひそむ歴代思春期男子ご用達雑誌をブチ切れながら全て焼却処分にしたマネ達の武勇伝を、ワタクシは後世に伝えたい。


 疲れ果てた三人はアイス屋さんに寄り道である。

「お掃除風水、効くといいなあ」「勝ち上がって欲しいよね」

 切実なる悲願であった。

「江口はお馬鹿じゃないといいなあ」「吉野先輩を困らせないでほしいね」

 悩みは堂々巡りであった。

「そういえば岩野田の呼び名、おかあさんになっちゃったんだね。大丈夫?」

 大家に心配され、眉間に皺を寄せる岩野田。

「江口はきっと家庭的な暖かさに憧れてるんだね」

 自分はいいおとうさんを目指すって言ってたな、と、ふと思い出す岩野田。江口の真意は迷子になっている模様。

「前から思ってたけど、おかあさん風味なら茨木が適任だよね。義務感しか無い私と違って茨木はマジの優しさだもの。母性を感じるよ」

「そ、そんなことないよ、私はコドモっぽいだけだよ、そ、それに江口の好みは岩野田みたいな冷静な女の子だよ!」

 茨木の異様な慌てぶりは何だ。岩野田と大家に違和感が沸き起こる。

「あの、茨木、もしかして」「ひょっとして」

 茨木の頰は真っ赤である。二人は全てを察した。「今まで気づかなくてゴメン」と謝った。

「そんなんじゃないから!」

「でも江口の何処がいいの。天然なとこ、じゃないか、顔かな」

 茨木の顔が益々赤くなった。

「そうか。顔なのか」

「だったら弟君で良いじゃん。中身が良さげだよ」

「本当にそんなんじゃないから!」

「今後の江口のお世話係は茨木にしようか。適任だよ」

「うん、今までホントにゴメン。江口を散々ディスってきたのもゴメン。好みはそれぞれだよね」

「本当に本当に違うからー!」

 茨木はパニクっていたが、多数決でその場は納められてしまった。数の暴力であろう。


 二日後のインターハイ初日、第三試合。氷川商は見事一回戦を突破し、岩野田達は狂喜乱舞した。氷川中もあっさりと市大会、地区大会を優勝し、全道大会のコマに進んでいる。


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