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おひさまは何処

 近代的かつ開放的な敷地内にも関わらず、資料室の目印は窓の鉄格子であった。

 ワタクシは行列の出来る人気ドラ焼きを持参し、窓口に出向いた。

「初恋関係者の閲覧は二冊までだべ」

「そこをなんとか。あと一冊」

「今の仕事は複雑案件なのかい?」

「はあ、まあ、色々と」

 窓口の青い猫型妖精は有名店の包装紙をチラチラ見ながら書庫の重い扉を解錠した。

「所長には内緒にするさね」

 甘味は非常に有効であった。早速ワタクシは希望の三冊を抱え、閲覧室に向かう。和綴じの厚い冊子は独特のニオイを放つ。重い木製の椅子に座ると、急ぐ手で各々の閻魔帳を開く。


 閻魔帳の記載はどの人物に関しても至極簡潔なものである。行間の空白に潜む情報を読み解くのはコツが要るが、ワタクシはその作業が昔から得意であった。

 江口家の冊子、江口兄弟のページは後ろから二枚。江口シュウトの配偶者欄には岩野田の名前がある。

(チッ。リンキーの言葉通りじゃん)

 前世も確認せねば。眉間に気を入れると、江戸末期の若夫婦が視えた。商家の奥座敷、大勢の親族に囲まれ神経をすり減らす細面の妻と、面倒から逃げがちな元ドラ息子が浮かぶ。結構なダメオトコだが、苦労をかけた恋女房の早世には非常に後悔したらしい。

(成る程。それで江口は今世で岩野田に尽くす予定なのね)

 流れで岩野田家の冊子も開く。岩野田の配偶者欄にも江口の名がある。が、彼女の近い将来には地元進学、地元就職の気配が読めた。母親の病状も暫くは低め安定らしい。落ち着いた生活を祈念したい。

 しかし岩野田の新郎の姿には靄が掛かっていた。

(閻魔帳には配偶者の記載があるのに?)

 何故映像が視えないのか。

 再び江口家の冊子に戻る。目の奥がバシバシと軋み出す。今度は遠い風景である。江口弟は過去世では母親と夫婦と出た。時代は中世ヨーロッパ、父親とは商人仲間。親子間の仲の良さが垣間見えるくだりであった。

 ここでワタクシのこめかみ、右側から火花が散る。次は江口兄弟の過去世の景色である。

 兄弟には親友だった時代があったらしい。平安末期、都で共に御屋敷に仕えている。そこから景色が変わる。南へ下る山道。青く光る海。不思議な形の船。

(彼の地は紀州だわ。都落ちかしら。地元民と忌地のトラブルが遭ったのね。弟が早くに亡くなってる)

 江口には弟を助けられなかった悔いがあった。兄弟間の対抗意識の無さはこの負い目であろうか。

 一瞬、スガワラのくだらない提案がワタクシの脳裏をよぎる。

(ここに岩野田を巡って兄弟間で何か起こったら?)

 やはり辞めるべきだ。無駄に因縁が増えてしまうではないか。

 頭をブンブン振る。振り出しに戻ろう。今ワタクシが最も知りたいのは河合と岩野田の繋がりだ。三冊目、河合家の冊子に手を伸ばす。だが河合の頁はもっと簡潔であった。

 ・少年期に何らかで名を馳せる

 ・青年期より国内外で活躍

 以上であった。

(これは難儀だわ。見当がつかない)

 白地図である。大いなる可能性ともいう。配偶者も当然の様に空欄。将来有望と言われたる所以であり、如何な様にも変化する為の余白である。

 ならばせめて過去世を視せていただこうじゃないか。ワタクシは目を凝らした。当然の様に、各分野で活躍する姿が、次々と現れた。


「早速来やがったぜ」

 またもやリンキーは式神を握りしめていた。その式神は強く締められ過ぎた為、既にグッタリしている。

「そんな持ち方したら死んじゃいますよ!」

「でもアンタ宛だよ。スガワラ経由の辞令じゃね」

 嫌な気配の茶封筒。宛先はワタクシの整理番号である。中身は見なくても分かった。


 修了申請書

 営業部三課〇〇年度3 51831603号

 市立氷川中等学校 二年三組 河井マサキ

 道立氷川商業高等学校 情報処理科 一年B組 岩野田みかこ


「本当に終わらせるんだ。上もバッカだねえ」

「リンキーさんもそうお思いですか」

「だって全然触る必要無い案件じゃん。弊社に余ってる労力あんのかよ」

 何と心強い。うっかり吹き出したら、

「なんだ、思ったより冷静だね」

「閻魔帳の閲覧で肝が座りました」

「そうか。ともかく労力の無駄使い大反対いいい」

 嘘偽りない言葉であろう。デスヨネーと頷きながら、ワタクシは内容を再確認する。

「あ」「どした」「コレ、日付が違ってます」


 終了日 ○年七月三十一日


「七月じゃないのか」

「スガワラからは今月末でって頼まれてました」

「そうなんだ。あっ。発動場所も空白じゃん」

確認すると、部長経由での回答は単純に掲載ミスとの事。判断に迷い更にお伺いを立ててみれば、全て捺印済み故このまま行っちゃえとの仰せであった。

「ラフですね」

「ウチは紙は神だからな。捺印がある以上は発動されるだろ」

「だけど七月三十一日は岩野田の誕生日なんですよ。可哀想です」

「ナニ感傷に浸ってんの。それとも謀反でも起こすのか」

「しませんよ。けど」「いいネタあんの?」「無いっスけど」

 ワタクシは先日の閻魔帳から掴んだ映像が頭から離れない。因縁カテゴリーのボーダーも見えはしない。

 ふた妖精でグダグダしていたら、ケンジさんが三課にやってきた。

「カワイさんちょっといいかな。よかったらリンキーさんも」

 手渡されるは一課に届いた申請書である

「ウチに来たからには将来はゴールインなんだけどさ、どうよコレ」

「うわあ」

 ワタクシ達もうっかり声を上げてしまう。


 営業部一課〇〇年度1 018112201号

 先手①:道立氷川商業高等学校流通ビジネス科 一年F組 江口シュウト

 先手②:市立氷川北中等学校 二年B組 江口ハヤト

 後手:道立氷川商業高等学校情報処理科 一年B組 岩野田みかこ

 発動開始日 〇年七月三十一日 氷川市立体育館ロビー 


「この①と②って何ですかイヤラシイ」

「そのまんまだよ。三角関係。または両天秤。困るよねこんな案件」

「ヒドイ。岩野田はそんなコじゃありません!」

「大体これから家庭愛に繋げるのに兄弟を揉めさせる必要があるのかね。この間のスガワラの話と随分違うじゃないよ。ねえ?」

「そうか。江口家の大いなる因縁か。あたし手伝うよ」

 リンキーの恐ろしい申し出を丁重に断り、ケンジさんも部長と共に上に出向いた。だがこの件も「もう捺印済みだから」「ウチは紙は神だから」と押し切られるのはどういう事であろう。

「ねね、これってやっぱ因縁増やしたいんじゃね」

「リンキーさんは黙っててください」

「僕だってこんなのヤダよ。上層部はナニやってんだよ」

 現場は困惑するのであった。


 だが決定項は動かしようはなく、真田さんの悲しい表情がワタクシの胸を突く。

「カワイさんは上手くこなしていたのにね」

「ご期待に添えず申し訳ありませんでした。終了の余波が大澤達に行かぬ様、善処致します」

「美しい幕引きを祈るわ。二人の引き継ぎも宜しくね」

 ケンジさんからの報告によると、先日の江口兄弟の会話の中で、弟は氷川商マネ達のことを「皆さん優しそうで良い人達っぽいね」とコメントしたそうだ。真田さん達も今後の展開には頭が痛いという。



 **


 婚約騒動以降、プライベートの大澤は大いに浮かれていた。河合も公私の落差に振り回されがちである。尚、のべつ幕無しに惚気を聞かされ顔から火が出る日々である現状もお知らせしておきたい。

「離れてるからさあ、未来の予測が嬉しいんだよう」

「未・来・の・予・側」

 歯の浮く台詞の連発。大澤ファンに知れたら阿鼻叫喚であろうか。糖度の高さに溶けるやもしれぬ。

 だが醒めた目の河合に大澤は口を尖らした。

「気付けないだろうけど、マサキ達は恵まれてるんだぞ。物理的に近いって素晴らしいべさ」

 言われてみればそうだ。早苗叔母の電話牽制も結果的には放課後デートの習慣化を促し、怪我の巧妙となっている。逢瀬の大切さを噛み締める硝子の十代なのである。


 そう、硝子の十代なのだ。ならば思いっきり厨二路線でフィナーレを飾ってもよかろう。

「彼等の障害といえば早苗叔母ですが、今回そのネタは一切使いません。岩野田の後ろには全母連スタッフさんも待機中ですから」

「あい分かった。早苗叔母の専属は滅法恐ろしいからな」

 リンキーにヘルプを要請し、ワタクシは仕掛けの構想を練り始めていた。

 放課後の夕方、いつものコンビニ。下校途中の岩野田を待つ河合を草場の影から見守る。

「今日から仕掛ける?」

「まだ。まだ早いです」

 薄暗闇の中、岩野田を見つけて表情を緩める河合。店舗に向かう彼女に右手で合図。出会えて心底嬉しそうな二人。

(そんな表情、きっと親御さん達も見たことないんでしょ)

 少年少女の大人みの出始める瞬間である。良い思い出を作りたい。

「ようよう、今日のアイツ等はやけにくっついてんな」

「先日より間が五センチ縮まりましたね。本来なら仲が深まる時期ですから」

「早めに人払いしとく?」

「そうですね。リンキーさんは南西お願いします。ワタクシは北東を……」

 指示する矢先、二人は角を曲がった小さな公園、プラタナスの木の下で立ち止まる。

「おい、ちょ、マジか。カワイさん、北東の人払い急がないと!」

「むっ、ワタクシ間に合いません……リンキーさん、全方向お願いします!」

「全部かよ、なんっだよこれだから中ボウは!」

 リンキーは走った。ワタクシも急遽ブレーキ業務に勤しむ羽目になる。河合め。舌入れなぞ決してさせぬ、大人のフリなぞ百年早いぞ。

(させるかよ!)

 エネルギーの強いコの担当は体力勝負である。ワタクシの額に汗が滲む。


 岩野田はドキがムネムネの真っ盛りであった。

(河合君、時々違う人みたいになるね)

 さっきまで普通に話していたのに、急に立ち止まって、どうしたのかなと思ったら。

(ええと……せっかちな所もあるね)

 繋いだ手と手の体温が熱く感じるのは、季節が夏に向かっているからか。

(き、今日は……今日もちょっと、顔が近いなあ)

 暗くなりつつあるとはいえ、人通りが無いわけじゃない。空気を変えよう。少し距離を作りつつ「あのね」と問いかける。

「何」

「前に河合君、私が中学の時によく泣いてたって言ってたでしょ」「ん?」

「いつ見たの。そんな所」「ああ、」

 河合は脳内の記憶の引き出しを開けた。

「何回か見た。美術室とか」

 受験前のセンシティブ時代ね。これは岩野田も覚えがある。

「後、その時期の校内の。廊下とか」

 同じ時期なら受験前だ。これも覚えがある。赤面案件である。

「でも最初に見たのは四月最後の美化委員会」

「美化委員会?」

 これは岩野田も覚えていなかった。

「五月連休の水撒き当番が決まらなくて。あの時の委員長、立候補したくせに仕事内容を全然わかってなくて。結局岩野田さんが会議を回して」

 ええと、そういえばそんな事もあったような。

「でも遅れてきた顧問がクダラナイ拘りで全部やり直しさせるから、結局会議が長引いて。部活のある子達、みんな遅刻になって」

 そういえば、そんな事もあったな。

「岩野田さん、遅れるとヤバい部活の顧問に謝りに行ってたでしょ。女テニとか吹奏楽とかのコに付き添って」

 ああ、そんな事もあったな。

「馬鹿げたやり直しのせいで可哀想だって思った。よくやってるなあ、って」

「あの、私、泣いてたっけ?」

 河合は少し黙った。それから、

「堪えてたから。偉いなあって思った」

 岩野田の手を引くと、「遅くなった。送るよ」と言った。


「なあ、本当に終わらせるのか?」

 リンキーに言われずともワタクシも憤っている。

「コレ、終わらせる必要あるのか?」

「全っ然思わないです」「だよな」

 誰もが同意見であろう。河合の後ろに憑いておられるマンガンさんが涙目なのが見えた。

「今日は河合担当のスガワラの姿が見当たらないな」

「あの方々は本来プライベートにはお憑きにならないんですよ。お勉強や部活の時だけ」

「昔より合理主義に徹してるんだな。経費節減か」

「弊社は持ち出しが多いですよね」

 溢しつつ、ワタクシはマイ管狐を召喚した。それを見たリンキーは「ほほう」とニヤニヤし、

「持ち出しが陰徳に繋がりますように」

 と、意味有りげに呟いた。



 **


 江口は江口なりに精一杯の努力をしている。現に一年で唯一ベンチ入りを果たし、次期エースとしてのポジションも確立しつつある。お馬鹿キャラも意外性としてモテ路線に加算され、傍目にはいよいよ絶好調、マネ達も不思議な諦めと悟りを開かざるを得ない状況なのであった。

 岩野田へのおマヌケ言動はひとえに初恋免疫不全だ。故に彼は現在、大層滅入っていた。

「マネの皆さん、みんな優しそうでいい人達っぽいね。ひとり綺麗な人がいたね」

 ひとり綺麗な人がいたね。弟から余計な感想など聞くのではなかった。

(岩野田さんが気に入ったのかな)

 昔から弟が可愛くて仕方なかった。確かにオノレのコンプレックスを刺激もするが、それ以上に有能さが眩しい自慢の弟である。いいお兄ちゃんでありたいと、無駄に力む癖もついている。


「江口どうしたの!」

 長引く雨ですっかり薄ら寒い市民体育館、北側廊下である。更衣室から出た岩野田が見かけたのは、上半身濡れ鼠の江口なのであった。

「蛇口が壊れてて頭からかぶった」

「取り敢えず早く拭いて」

「タオル鞄から出してなくて」

「取り敢えずコレ使って」

 タオルの貸し借りは通算何本目なのか。

「あ、この間のも返すの忘れてた。今日持ってきてるけど」

「それも今日貸すからとにかく拭いて。風邪ひくよ」

 世話の焼ける次期エースであった。


 その日の河合は朝からの雨で憂鬱だった。悪天候は体調に直結するし、市大会直前で部内ムードもピリピリである。しかも今日の練習会場は市民体育館、学校からの移動も面倒だ。特に今年度の上半期コート予約が全て氷川商と同時間ときたら。

(岩野田さんを見かけられるのは嬉しいけど)

 当然ながら交流環境は一切無い。むしろご遠慮したい状況ばかりなのは何の因果か。


 ワタクシは同情をもって河合を見守る。彼はそろそろ無駄に苦しむ時期だろう。弊社の「紙は神」規定。終了申請書が発行された時点で、恋の終わりが始まる。少しずつ効力が見えつつある時期であった。


(あの水色のって、岩野田さんのだよな)

 本日の初手は江口が首に掛けているタオル。河合の目に入った瞬間、珍しく彼の頭に血がのぼった。

(江口さん、また借りたのか)

 途端に呼吸が浅くなった。

(勘弁してくれよ)

 只でさえ天候不順時の体調管理は手間なのに。

(これから練習なのに)

 そうだよ、もうすぐ市大会なのに。

 江口のヒトの懐に入りこむ天然ぶりを、河合は羨望していた。あの人あしらいは狙って出来るモノではない。が、今日は何故かそのユルさが癇に障った。それは今まで蓋をしていた自身の奥底に潜む暗い感情である。

(江口さん、自分の世話くらい自分でしろよ)

 その自立の無さが競技に影響している事を、どうしてあの人は判らないんだろう。

(そうだよ。まずは自分の至らない部分を何とかしろよ)


 いよいよ始まってしまった。

 普段の河合からは想像つかない思考が引き出された。これが終了証の効力である。ワタクシはギリギリまで見守りに徹する。だが終了証は容赦が無いので、見ている方が辛いのであるが。


(オレ達を羨む奴等って、一体何なんだよ)

 ひとつ感情の蓋がひらくと、次の感情の蓋もあく。その現象に河合は戸惑った。それはとうに消化された筈の、封印された葛籠つづらである。

 氷川中の特待生は良くも悪くも注目の的で、称賛と同時にやっかみも受ける。最近では大澤の留学ゴシップが分かり易い例であろうか。

(グチャグチャ煩いんだよ)

 河合も日々それなりに面倒があり、受け流すのも板に付いた。だが消化出来ない棘もある。

(いちいち馬鹿馬鹿しいんだよ)

 そうさ、バカバカしいべさ。だけどオレは今ナニ思い出してんだ?

 流石に河合は優秀だ。感情の起伏に違和感を察知し、直ぐに天井を見上げ息を整える。

(思い出すのよそうぜ。くだらない)

 屋根に落ちる雫達だろうか。雨の音がよく聞こえる。


 市民体育館、二面コートの境。緑のネットの網目から見えてしまう光景は、しかしいつも以上に不快である。先程浮かんだ影の棘は、そぐわぬ気持ちも噴きこぼす。

(なんでグチャグチャするんだ?)

 意識を変えた筈なのに。暴走するシナプスは何だ。次に浮かぶは先日の放課後、角の公園の記憶であった。

(おい、なんだよ)

 あの夕刻の景色であった。

 目を閉じるのが遅れて見つめあった数ミリ先の彼女。ほのかな体温。睫毛が落とす影の長さ。触れた柔らかさ。記憶の無秩序な再生。同時に誰かに奪われる予感。

(今は関係ないだろ、なんで急に)

 胸が軋む。息が詰まる。努めて切り離す思考をする。だが体育館という限られた空間である。彼岸と此岸がその場にあれば、多少バグるのは致し方ない。

 緑のネットの幕向こう、仲間と準備中の岩野田に近づく江口。話しかけられ、細々と応じる岩野田が見える。

(なんて表情してんだ)

 外は大地を潤す雨。

(岩野田さん。なんでそんな奴に)

 水滴に覆われる市民体育館。

(なんでそんな風に笑うんだ)

 僅かな側面に僅かな観客席を持つだけの二面のコートである。

(なんで笑うんだよ)(そんな奴に)

 氷川中のコートと氷川商のコート。

(なんでそんな笑顔)(なんでそいつに見せんだよ)

 岩野田に何かを催促され、緑のファイルを提出する江口。

(なんで触んだよ)

 ただの手渡しである。触れるという程触れてはいないが。

(触んなよ)(触んな)

 無駄な感情が隙間に入る。河合は自分のブレにも気付く。

(あ、やばい)(おかしい)

 僅かな冷静さを取り戻す。

(今日の自分、すげえおかしい)

 体調の落ちる時はいつもそうだった。全てに後ろ向きに、消極的に、悲観的になる。

(……いつもの自分じゃない)

 無意識に穴に落ちる。下らない闇に籠る。

(体調?)(でも、発作じゃない)

 河合はベンチに下がる。無駄な鼓動。

(吸入するべきか。いや違う)

 顧問は声を掛ける。

「どうした、具合が悪いか?」

「いえ、まだ大丈夫です」

「そうか。無理するなよ」

 後輩に椅子を借り、背筋を伸ばして深呼吸をする。

(違う)(必要なのは吸入じゃない)

 目を閉じる。息を吐き切る。それからゆっくり息を吸う。順に腹の奥に入れる。意識を飛ばす。出来るだけ遠くに。

(落ち着けよ)(落ち着けよ、自分)


 ちゃんと出来たつもりだった。いつも通りのつもりだった。だがいざコートに入ってみると、まるで出来てはいなかった。

「もう今日は下がれ」

 大澤に指摘されるまで気づかなかった。

「マサキ、オマエおかしいぞ。怪我する前に引け」

 そんなに乱れているなんて、屈辱だった。

 下がって直ぐに、顧問に追い打ちをかけられたのも初めてだった。

「今日は体調だけじゃないな」

 顧問は生徒の状況もよく把握していた。氷川商のコートをチラ、と眺めると、

「オレも経験が無い訳じゃない。お前達が心揺れる時期なのも承知だ」

 顧問の顔色を察して、河合は歯をくいしばる。

「だが間違えるなよ。今のお前の不出来さと彼女は無関係だぞ。全部自分のせいだぞ」

 自身のせい。自分の弱さのせいだ。

「もうわかってるんだな」

 顧問は河合の表情を見極めると、静かに告げた。

「先に学校に戻りなさい」

 河合は言われるままに荷物を纏めコートに一礼し、独りで廊下に出た。



 **


「貴方達は目指すものがあってここに来ているんでしょう?」

 廊下に出た瞬間、早苗叔母の顔が浮かんだ。

 目指すものがあってここに来ているんでしょう?

(叔母さんの言葉に真理があるってこと?)

 動悸は心の振動か。河合は北通路の階段に座り込み頭からタオルを被り、深く息を吸った。

 自分の目指すもの。バスケが楽しくて褒められて自分の居場所が出来て、もっとがむしゃらになって、気付いたら此処にいた。それだけなのだけれど。

 河合の退出に岩野田はすぐ気付き、彼の体調不良を案じた。江口は先に岩野田の様子を察し、氷川中のコートを確認して納得した。ベクトルが変化してゆくのを、ワタクシはただジッと眺めている。


 河合の思考は錯綜している。

(そうだよ、自分はどうして此処に居るんだろう)

 きっかけはシンプルだ。小学時代のミニバス全道大会で大澤リュウジを見たからだ。会場中を釘付けにした抜群に上手いデカいヤツ。チームの戦績はイマイチだけど、プレイヤーとして圧倒的。どうしても勝てる気がしなくて、眩しくて羨ましくて悔しかった。

 選抜合宿で一緒になれた時は嬉しかった。中身も真っ当でテンションが上がった。それからヤツの彼女がまさかの歳上で超綺麗だって判明した時も面白かった。先輩達がこぞって悔しがったのが笑えた。

 じゃあオレが歳上の岩野田さんに惹かれたのはアイツの影響かな。いや違う。岩野田さんを見た瞬間に、自分でちゃんと判断した。このひとだって思った。

 そうだ、岩野田さんも本当はリュウジが良かったんだ。リュウジの事、いつも友達と楽しそうに見ていた。でも仕方ない。リュウジはオレ達から見ても格好いい。氷川中に来てからはいつも『河合と大澤』のセットで見られて周りに比較されて、散々ジャッジもされるけど。同じ競技者でも歩く道は全然違うけど……違うんだけどな。

 調子の悪い時ってロクな事を考えやしない。折を見て彼女が廊下に来た事にも気付かない。近くに来ているのに、姿を見つけても、自分の機嫌を直すスイッチすら入らない。

(そうだよ、岩野田さんも)

 岩野田さんも本当は、リュウジがいいんだろ。


 岩野田は河合に話しかけるのを躊躇した。気になって休憩を貰ったはいいけれど、彼は目が合ってもニコリともしない。具合が悪い訳でもなさそうだ。持参のドリンクをそっと出す。

「ありがと」

「体調?」

「いや、大丈夫」

「そう」

 すぐ立ち去ればよかったのに、機会を逃してしまった。河合の気配は近寄り難く、迂闊な物言いもしたくない。

(今って市大会前だよね)

 関わるのもはばかれた。彼には独りの時間が必要なのかも。邪魔せずにさっさと戻ればよかったかも。廊下に反響する部員の掛け声、弾むボールの音、擦れるシューズの音。こういう時って何が正解なんだろう。


 だけどもう正解なんて無い。壊れる為に今があるのだから。

「なんか、情けなくてゴメンな」

 河合の突拍子も無い台詞が二人の間に隙間を作る。岩野田も引き返せなくなってしまった。

「こんな風に膨れっ面されてても困るだけだろ」

「うん?」

 そうだよめっちゃ困るよ、って明るく言って笑いたい。けれど今日は蝦夷梅雨でお空は暗いし、雨の粒子で空気も重い。そんな顔されたら嘘もつけない。

「何かあったのって、聞いていい?」

「岩野田さん。オレと付き合うの大変だろ」

「……なんでそんな話?」

 妙な返答。おかしな波が来た。岸に戻ろうとしたら、流されてもっと離された感じ。

「岩野田さんもホントはリュウジが良かったのに。オレなんかで申し訳なかったなって」

「なんの話をしてるの?」

 流れが速くて、岸辺がどんどん遠ざかる感じ。

(大澤君?)

 その話をどの角度から受け取ればいいんだろう。

(中学時代に友達と騒いでいた頃のコトかな)

 でも今はまるで関係の無い話だ。どこから解きほぐせばいいのだろう。沖に流されるような不安。

「河合君、どうかしたの」

「岩野田さんは」

 なんで大きな声出すの。

「岩野田さんはもう、オレと無理して付き合わなくていいよ」

 なんでそんな話になるの。


 河合も戸惑っていた。なんて事を口にしたんだろう。確かに今の自分の気分は最悪で滅入っている。滅入ってはいるけど、こんな状況など微塵も望んではいない。だのにどうしてこんな言葉を放つんだろう。どうして口が勝手に動くんだろう。

「聞いたよ。岩野田さん、氷川商で可愛いって評判なんだろ」

「え、え?」

 岩野田はもっと戸惑った。今度は何の話だろう。面白くない内容ばかり。だが放った河合本人も予測がつかなくなっている。

「江口さんも岩野田さんの事褒めてたし、いい話も沢山あるんじゃね」

「そんな話、何も無いよ」

「無理しなくていいよ、マジで」

「無理してないよ」

「オレみたいなガキじゃなくてさ、」

 何を話してるんだろう。だけど吐き出す度に何故か身体はどんどん楽になる。おかしい。どうして肩が軽くなるんだろう。

「もっとちゃんとした人と付き合うといいよ」

 何をやらかしているんだろう。河合は自分の言葉に胸が冷えた。浅い呼吸をすると、水分の多い空気でますます冷えた。つめたい廊下。固い階段。痛んだ床。岩野田は河合の目の前にぺたんと座り込む。

「ごめん、あの、意味が、ちょっとよくわからないんだけど、」

 彼女の小さな声を聞いて、ようやく河合も我に返った。

「河合君、なんの話をしてるの」

 本当に。今何を言ったんだろう。

 改めて彼女の顔を見た。自分より少し下にある目線。冷静に見えるけれど、歯を食いしばって堪える顔。この表情って、中学の美化委員の時に見た顔だ。あの時、理不尽に堪えて可哀想だと思って見ていた彼女だ。なんで自分がこんな顔させてんだ。なんで泣かそうとしてんだ。

(オレは今、何をした?)

 雨の音が強くなった。湿度が上がる。ガラスが曇る。


 ただ、岩野田だって以前とは違っている。ちゃんとしなやかさもしたたかさも、少しだけど身についてきた。ほんの少しだけど。

「私はそんな事、思った事ないよ」

 喉が熱くて締め付けられて痛いけど、小さい声だけど、ちゃんと言えた。

「考えた事も、なかった、けど」

 涙を堪えて胸が苦しくて、言葉がうまく出ないけれど。

「でも、河合君は、もう辞めたいのかな」

 言われて河合はオノレの大事に気付く。そんな事ない。

「終わった方が、いい?」

 そんな事は一切思ってはいない。河合の混乱がまた戻る。岩野田の言葉で、逆の錯乱が始まる。自分が自分じゃない衝動。雨の音。天井に掛かる音。今日の雨量。厚い雲。

「だけど、もしそうなら、ちゃんと自分で決めてね」

 そんな事、絶対したくない。

「私、河合君の邪魔したくないよ」

 全然、全然邪魔じゃない。

「でも、狡い言い方はダメだよ」

 オレは狡くない。

「そういうの、河合君らしくないよ」

「らしくないって何だよ!」

 絶対違う。絶対違う。しまった。八つ当たりした。何故だ。これは彼女に言う事じゃない。それにそんなんじゃない。そんな風に思ってない。だのに思っている事とまるで違う言葉が放たれるのは何故だ。勝手に口が動くのは何故だ。

「オレらしいって何だよ。オレの何を知ってるんだよ!」

 岩野田さんは悪くない。全然悪くない。全部オマエのせいだって、さっき顧問も言った。

 ああ、そうだよ、全部オレが悪いんだよ。だから彼女の側に居る資格なんて、オレには全然無かったんだよ。

「じゃあ、離れてくれ」

 違う。そんな事一切思ってない。彼女を怯えさせた。怖がらせた。なんて顔させるんだ。言葉ってなんて鋭いんだ。

「もうオレから離れてくれよ」

 違うのに。そうは思ってないのに。コレはなんの衝動だよ。

「オレは、」

 舌禍だ。これは舌禍だ。堪えろよ。なんで堪えられないんだ。

(それじゃ駄目だろ、だからオレは駄目なんだろう!)

 堪えろよ、堪えろよ、堪えろよ自分。

「オレは」

 息が浅いぞ。落ち着けよ自分。堪えろ。

「岩野田さんが、好き過ぎて駄目なんだ」

 堪え切れない自分。どうしようもない自分。熱量とブレーキの効かない、分別の無い自分。

 何を言ったんだ自分は。舌を噛み切れ。


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