2..ある日の調教師のお話
道化師だって夢を見る。悪魔は夢を見ることはないが、生憎、道化師は悪魔ではなかった。悪魔の歌声を持つ歌姫の膝の上で、ノラは目を瞑り夢を見ていた。もう気が遠くなるほど遠い遠い過去の夢。ノラとララが出会った時の夢。かつて二人は若かった。世界を知らず、己を知ることもまた知ろうという意思も知らなかった時、二人は出会った。
「…ノラ様、貴方はもう過去に縛られる必要はないの…だから、そんな夢…見なくていいのよ」
ララの声音は赤子をあやす聖なる母の様で、ノラは薄く瞼を開いてララの姿を瞳に収めると、その瞳から涙を流した。
◆
今日も今日とて人が死ぬ。そんなのはこの貧富の差が激しく別たれるこの世界において、至極当然のことである。しかし根は臆病でお人好しのサラにとってただ人生に希望を失っただけの五体満足の人間をわざわざ殺すというの大変堪える所業であった。一座の協調性のなさのせいで随分と遅くなってしまった夕餉時、サラはもう何度も攻撃を受けてボロボロのガタガタな木のテーブルをドンッと拳で殴り、女性にしては随分低めな声で怒鳴った。
「いつまでこんなこと続けるつもりだ!!」
先ほどやっと昼寝から目を覚まし食事が始まってもずっと眠たそうに大欠伸をしていた大男ドラは、サラの機嫌の悪さを察しちゃっかり夕飯が駄目にならないように皿を手に持ちながらパンをかじっていた。サラの妹セラも姉をたしなめる様子なく冷静に皿を手に持って、美味しそうに料理を食べていた。機嫌の悪さは察することができても空気を読むのが苦手なドラは、またあくびをしてサラに問いかけた。
「ふわ…何の話?」
「ドラゴン野郎に言ってんじゃねえ、俺はテメーの隣に座ってる道化に言ってンだよ」
垂れ目の三白眼でノラを憎らしげに見下ろしながらサラは言った。怒鳴られている張本人、団長のノラはわざとか否か食事の大参事を回避しようとしなかったため、ほぼ湯とも言える味気ないスープはテーブルの上にぶちまけられてしまった。ノラは残念そうに零れたスープを見遣りながらバケットから一つパンを取り、ため息一つしてサラの言葉に返した。
「サラぁ~食事時くらい静かにできないのかい??キミの愚痴はさぁ、別に今するお話じゃないでショ」
「うるせえ、俺が今聞きたいと思ったからこうしてテメーに問いかけてんだろが。いつもいつも俺をおちょくって話をはぐらかしやがって、今日という今日は否が応でも聞き出してやる。」
苛立ちを隠そうともしないサラの言葉にノラは口を噤んでサラの両の目を見つめた。口元に弧を描かせ、しかし、ノラの虹色の瞳は決して笑んではいなかった。早々にスープを平らげたドラはあ~またかと今から始まる論争を察し面倒くさそうにバケットのパンに手を伸ばした。乾いたパンを無心で齧りため息を一つつく。こうしてみんなで食事をしている時くらい、仲よくすればいいのにと。ただでさえ極貧で味気ない料理が、さらに不味くなってしまうではないかと。
そも、サラセラの姉妹がノラによってサーカスに連れてこられた幼き頃から、ノラとサラの相性は誰がどう見てもすこぶる悪かった。サラが道化師の冗談に堪えられないほど小心者なだけだというのもあるが、それだけにしても二人はほぼ毎日のように喧嘩している。これを相性悪という以外に何があるというのだ。
「…キミがその台詞をボクに吐くのは、7196回目だねえサラ?そして…ボクがこうしてキミを諭すのも、7174回目だ」
「はあ?んな喧嘩してねーだろ、アタマ沸いてんのか。」
「まあキミが覚えていられないのは必然だから仕方ないよォ。ん~~で、何だっけ?“いつまでこんなこと続けるつもりだ!!”?」
ノラは相変わらずおどけながら先ほどのサラの物真似をして、ガタガタボロボロの木のテーブルを叩いた。手のひらが机に叩き付けられるバンッという音と共に、食器がぶつかり合って音を鳴らす。既に全員の皿からスープは消え失せていたため、零れる心配はなかった。ノラが零したスープは跳ね、床に零れ落ちた。
それからノラは自身の細い指でサラの顎を撫でた。とんでもなく不快で気持ち悪いが、しかしここで表情を歪ませてはノラの思うつぼだとサラは不快感に何とか耐えて表情を変えずにいた。耐えられたご褒美と言わんばかりにサラの白黒の左右非対称の髪を撫でて、子犬をあやすかのような甘い声で、ノラは言った。
「んん…そうだねェいつまで。それはね―――ボクが死ぬまでさ」
顎を撫でる指だけでなく耳にかかる吐息から与える二重の不快感に耐えきれなくなり、おもむろにノラを突き飛ばして床へ叩き付けた。その男とも女とも分からない道化は素直に床へと倒れこみ、くすくす、くすくすと厭らしく笑いながら虚勢を張る子犬を見上げる。
テメーが死んで終わるなら今ここで殺してやる。そう言ってやるつもりだったのに、ノラから与えられた不快感に邪魔をされて言葉が詰まる。いいやもしかしたら、本能的に不可能だと察していたのかもしれない。
「じゃあ、テメーはいつ、死ぬんだよ…」
テーブルについていた者たちは既に食事を終えて食器を片づけ、そそくさと自分の寝床のあるテントに戻っていた。周りから人が居なくなった瞬間にノラの表情が刹那無に還ったのが見えて、背筋が冷たく凍るのを感じた。ノラの七色に移ろう不思議な瞳が氷の様な冷たい青色に染まる…何を感じているのかサラの理解に及ばなくて、恐ろしくなった。色が直接的な感情に連結しているわけではないことは、とっくの昔に知りえた事実だ。しかし、これは余りに冷ややかすぎる。
「……ナァイショ♡」
ノラの満面の笑みから心理を読み取るという難儀なことは、サラには到底不可能であった。
◆
ったくアイツは、何考えてやがんだ。出会ったあの時から何も変わらず気色悪い。年を取らない(様に見える)し、口から放つ言葉は要領を得ないし、大事な所は全て“ナイショ”だ。
苛立った気分のままテントに入ると、そこには先に帰っていた妹のセラがいた。不細工で背が低くて何もかもあたしとは正反対の、要領器量共によしな背が高い妹。セラはやはり腐っても自分の妹なので、生まれた時からずっと世話をしてきた…と思う。特別好きと言うわけではなかったが、親を失って頼るものが居ないため、今までずっと行動してきた。
妹はいつもあたしといるとニコニコと微笑んでいるけど、あたしが話しかけない限り必要最低限のこと以外はあまり喋らない。だから普段から何を考えて何を感じているのか、姉のあたしでも理解できない。あたしを慕う妹を可愛いとは思っても、理解しえないという恐怖が姉妹の間に距離を作っている。ノラの殺しにも何とも思っていないように見えるし、あたしと同じ環境で育ったくせに文字とか読めちゃうし、本当にあたしの妹なのか?
「セラ…なに、読んでるんだ?」
「新聞ですよ。お姉ちゃんもお読みになります?」
「俺は、読めないから…いい。」
「では私が読んであげましょうか?」
「…う、うん」
なんで妹に文書を読み聞かせられなきゃいけねーんだよ。いや、あたしが文字読めないのが悪いんだけどさ。あたしもそろそろ簡単な文章くらい読み書きできなきゃいけないのかな…。値札とかなら読めるし、服屋とか本屋とか簡単な単語は読めるから、あんまり苦労はしていないんだが。
それにしてもさっきから何言ってるかさっぱり分かんねえ。フツーの奴らってこんな小難しいモノ読んでるのか…。
「そういえばお姉ちゃん、団長さんに聞きたいことは聞けたのですか?」
「ん…アイツ、またはぐらかしやがって。死んだら終わりっていうけどよ、そんなん全員そうだろ。いつ死ぬのかって訊いたら内緒だとよ。ったく、腹が立つ」
「…お姉ちゃんが望むなら、殺して差し上げてもいいのですが…。お姉ちゃんが飢えと寒さに苦しむのは私は嫌です」
「は?…いや、いいいいや、ダメだろ殺しちゃ。何言ってんだ」
「団長さんを殺したいんじゃ、なかったのですか?…嘘なら、それはそれで構わないのですが。」
あれ、あたし自分で何言ってんだ?そうだよセラの言うとおり、あたしはアイツが憎くて憎くて仕方なくて、殺したがっていたはずだ。だけどあいつはあたしには殺せない…あたしは、人も殺せないくらい弱いから。こうして男みたいな言葉使って去勢張ってるし、頭では本当にノラを殺したい、憎くて仕方ないって思ってるけど、実際リアルに口に出されると、足がすくんでしまう。
でもきっとセラなら頼めばノラを殺してくれるだろう。セラはあたしと違って強い。でもそれって、きっとすごく卑怯なことなんじゃないだろうか。誰かに誰かを殺させるのなんて、罪をなすりつけているだけじゃないか。
「嘘じゃ、ない…けど…お前に、殺させるのは…」
「……何を言っているの、お姉ちゃん。あの時だって私、やって差し上げたではないですか。あの時と違って、私は大人なんですから…もっともっとお姉ちゃんの役に立ちたいわ」
「その話はするな!…その話は、もう二度としないって誓っただろ…。」
忘れてしまいたくても忘れられないことはたくさんある。セラが今口走った“あの時”もそうだ。あたしは多くの人間を憎んで憎んで殺してやると叫んだ。しかしあたしは誰一人殺せない。今まであたしと目をあわせて喋っていた人間が、もう二度と喋ることも目を合わせることも、動くこともない屍になってしまうという事実はひどく恐ろしい。あたしにはそれができるほどの勇気が…ない。
だけど実際は多くの人間を殺してきた。このセラという女を使って、あたしはあの時……いや、この話はやめよう。思い出すだけで胸糞悪くなる。とにかくあたしは酷い奴だ、自分の手を汚さずに誰かの手を汚させているのだから。
「…ごめんなさいお姉ちゃん。でも自分を責めることはないのですよ、私が自ら望んで彼らを抹殺したのですから」
「………そうだよな、頼まれて誰でも殺してくれるなら、俺のこともとっくに殺してくれてたもんな。…うるさいッ!自分の意思で殺すなら自分で考えてご勝手にやりやがれ!俺の意思なんか関係なしにな!!」
あたしはどうしようもない苛立ちを新聞紙にぶつけて、その衝動のままテントを出た。あたしがどんなに死にたいと嘆いても、セラは絶対にあたしを殺さない。あたしがちょっと一言「殺す」と言っただけで、次の日には骨になってた奴だっているのに。セラはあたしの本質を見抜いているのだろうか?死ぬことも、殺すことも怖くて仕方がない臆病なあたしの本質を。
…といったところだろうか、サラの心情というものは。人の心というものは元来読みやすいものだが、サラはわざわざ読もうと思わなくてもその心の声がダダ漏れだ。顔にも出やすい、態度にも出やすい、どれだけ自分を偽って壁を取り繕おうが、ちょっとつつけばすぐに崩れる。尤も、彼女はボクに弱みを見せまいとしてああいう風な行動を起こしているわけなのだけれども。チョット気を遣う部分がずれてるよね。
苛立ったサラは木の上から監視していたボク―ノラに気付くことなく、心を鎮めるための道具を買いに町へと出ていった。大方、大好物の甘味でも買いに行ったんだろうね。数日後また体重計に乗って悲鳴をあげるサラの姿が目に浮かんでくるようだよ。
悩んだり怒ったり悲しんだり、サラの心はいつだって忙しそうだねえ。そんなキミの心がボクの命日を聞いたところで休まることはないなんて阿呆でもわかる。残り少ない刻限を目の当たりにしてしまったなら、キミの心に渦巻く感情が心を飲み込んでしまって、きっとキミはつまらない人間になるだろう。ボクの身を案じてボクに気を遣うキミなんて、魂がすり替わってしまったも同然さ。
「だからキミは、知る必要なんてないんだよ…♪もうじき世界が終わることなんてサ」
だからこそボクらは殺さなければならない。終わりの近い世界だからこそ、貴族も平民も貧民も困り果て、今日も今日とて人が死ぬ。それはとても、好都合なことなんだ。ボクの夢をかなえるには、とても、とてもね。
だけど命の刻限が迫ってからでなくちゃ、こんなふうに都合のいい世界にならないなんて、やはり矛盾してるよねぇ?