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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

『きみがため、』

溺死せん

作者: 本宮愁

前作:「出ずる想いに」

 眠れる龍が目を覚ますとき。

 人の世は、仮初めの日常に幕を閉じる。


 龍が見る、永い永い夢のあいだ。

 人の世は、仮初めの平穏を謳歌する。


 龍が夢見るあいだ、人もまた夢見る。そして、いつしか夢であることさえ忘れ、甘やかな楽園に、溺れていく。


 胡蝶の夢。――いつか、ワタリが語った話は、なかなかに興味深かった。


 楽園を築き、崩壊を迎える。幾度もくり返されてきた輪廻。夢か。現実か。どちらが真か。どちらも偽か。異界の話は皮肉めいて重なり、問うてくる。


 夢を、見ていた。

 永い、夢を。


 現実は、すぐそこに迫っている。



*****



「干ばつが激しい地域ではありますが、ほかの問題は特に起こっていないようです」

「揺れは?」

「ゆれ……ですか?」

「いえ、なんでもありません」



 不思議そうに首を傾げたのは、いつぞやと同じ、年少の隊員だった。


 主力を都から離すわけにはいかない現状のなかで、査察組に編成されてしまったらしい。梓勑の采配だろう。


 常であれば、気を回した結果として、好ましくも思えるのだが。……皮肉なことだ。



「珠光さま?」

「……領主の面会は、明日でしたね」

「はい、昼過ぎまでには、と」



 資料を揃える時間が欲しい、との答えを受けとったのは、昨日のことだ。梏杜がくるものと考えていた領主は、身構えていただけ肩すかしを食らったらしい。


 光色の副官がやってくると聞いて、あわてて対応を変えた杜撰さが、いたるところに散見された。


 まったく、呑気なものだ。


 見下げられていることは、わかっていた。ただでさえ、貴族における光色の扱いは低い。重ねて、都を離れるほど、軍部を軽視する傾向は強まる。


 そもそも、第七が査察を担当するのも、梏杜の威光を借るためなのだから、情けない。


 しかし、いまの珠光に、それを咎める気はなかった。むしろ、自由が効くだけ都合がいいとさえ考える。



「珠光さま、どちらへ?」

「すこし、出てきます。あなたは、こちらで待機を」

「でも……」

「上官の前ですよ」



 年相応の幼さをのぞかせた少年を、やんわりと窘めて、珠光は宿を出た。



 薄闇のなかを、進んでいく。街を外れ、人通りのない郊外を、ひとり珠光は歩いていた。地龍の影を、探し求めて。


 ベルデは、城に――梏杜のもとに置いてきた。


 北領に足を踏み入れて以来、地龍の呼びかけは、ぴたりと途絶えた。それが、むしろ不穏に感じられる。


 地龍は、地の底に住まう獣だ。文字どおり、地底に身を潜ませて、永い年月を眠りつづける。


 その巨体は黄金に輝き、光なき地の底ですら、その鮮やかさは薄れることがないのだという。広げた翼は、城ひとつ包むほどに大きく。万物を丸呑みするという顎には、大剣も形無しの頑強な牙が並ぶ。


 文献に語られる龍は、まさに神にも等しい偉大なる獣だった。


 地龍は、暴虐のかぎりを尽くした後に、地底を貪り、その空間に身を横たえるという。どこに眠っているのか。正確な位置は、誰に知る由もない。


 目覚めと同時に、天井を割り開き、龍は地表へと出てくる。その頭上に存在したものを、例外なく地の底へと崩落させながら。


 その兆候は、あるときをもって、すべて消え失せた。残るは、枯れ果てた大地のみ。いつになく乾燥した大気だけが、龍の眠りの浅さを訴えてくる。


 しかし……術が、無いわけではない。


 いまならば、あの獣は、珠光の誘いに乗るだろう。地の底から、その頭をもたげ、這い出てくるにちがいない。


 腰にさげた細剣を、静かに引きぬく。


 民家もない長閑な北の外れで、少なくもない血を吸ってきた武器が、不似合いに煌めく。刃に映る月を見据えながら、珠光は自嘲した。


 あれを操れる人など、存在しない。

 地龍を、人は、利用できない。


 ならば、この身は、人の枠を外れているのだろう。



「母なる獣よ――」



 心にもない賛辞を呟きながら、握りこみ、血を纏わせた刀身を、地の底へ突きたてる。いつかとおなじように、深く。


 掠れた唸りを聞くと同時に、珠光の足もとに、亀裂が走った。


 音もなく震える大地が、開いていく。落ちたはなから、土が消える。闇に融けるように、消え失せていく。


 ――夢の終わりが、訪れる。


 落ちていく。黄金に輝く巨躯が眠る、闇の底へと。



「わが身を喰らいて糧とするもよし。この命、もはや散るも散らぬもおなじこと。この身ひとつで鎮まる心ではあらねど、どうか願わくは、かの方を害することのなきよう」



 闇に浮かぶ、黄金の巨躯。文献に語られるとおりの獣にむけて、用意してきた口上を、ただ、語る。


 喰らうだろうか。この獣は。

 目覚めたばかりの激しい空腹を、この身で満たそうとするだろうか。


 自身とまるでおなじ、『虫のようだ』と揶揄された黄玉の瞳が、珠光を、射抜いている。



「共も連れず飛びこんだ愚かなヒトの子に、塵ほどの慈悲を投げかけてはいただけぬか」



 珠光の口もとが、ゆるやかに弧を描く。


 慈悲など、塵ほどもないだろう。地龍にあるのは、慾望のみ。喰らいたくて、たまらないのだろう。その腹を満たし得る、この血肉を。


 ――喰らうならば、喰らえばいい。


 眠れる龍を目覚めさせた不届きものは、貪られるが定め。たとえ、それが、逃れえぬ宿縁であろうとも。


 闇の底。光さえも差し込まぬその場所で、偉大なる獣は、その顎を大きく開けた。



*****



 身体が重い。ベルデに背を預けた姿勢から、身動きもままならない。


 地龍の牙は、容赦無く肉を抉りとった。戯れに嬲った結果、獲物を飲み下し損ねた獣の怒りは、想像するに恐ろしい。


 意識を保つことさえ難しいなかで、珠光は、恨みがましく正面を睨みあげた。



「……なぜ、貴方が、いるのですか」



 宵闇に溶けこむ、黒い影。見間違えようもない主の姿が、そこにある。



「ほんとうに、どうしようもないひとだ」



 仮にも、王弟が。国の宝剣と称えられる第七師団の主が。単身、最前線に踊りこもうなどと、誰が考える。


 まして、――地龍を、地の底に沈めようとは。


 なかば眠りのなかにあったとはいえ、梏杜は、かの獣を退けた。……退けてしまった。


 そして、黄金の巨体を割いた黒き長剣は、いまは珠光に向けられている。



「俺との縁より、地龍とのそれを望んだか」

「……いいえ」

「ならば、なぜ」

「貴方は」



 ベルデに、体重を預けたまま、珠光は告げた。



「光でした。私にとって、唯一、無二……決して、失うわけにはいかない、光でした」



 他のなにを失っても、手離すわけにはいかなかった。伝えずにおこうと思っていた、己の執着心を、とつとつと語る。



「ワタリに、謝罪せねば、なりません。……これは、私の独断。私の欲。……貴方を、損ないたく、なかった……貴方を裏切る、くらいならば」



 たとえ、なにを傷つけようと。なにを失おうと。



「かまわない、と……」



 梏杜の腕に、ピクリと力がこもり、苛立たしげに長剣が手放された。


 その手のひらへ、珠光は重い腕を伸ばした。もはや感覚が遠い。流れでる血が伝い落ちて、地に触れたはなから、跡形もなく消える。


 地龍が、喰らっているのだ。傷ついた身を癒そうと、いよいよ『暴食』に貪りはじめた。


 残された時間は、少ない。完全に目覚めた龍は怒り狂い、すべてを貪ろうと暴れはじめるだろう。


 あらゆる感覚が遠いなか、手招く龍の息吹が耳にうるさい。


 届かない。滑りおちる指先を、梏杜に掴まれた。そのとき、はじめて、彼が素手であることに気づく。


 あの潔癖な主が。その手で、ベルデを駆り、地龍を貫き、血に濡れることを良しとしたのか。


 ――うぬぼれではなく、この身のために。


 昏い喜びが湧きあがる。この後に及んで、まったく、どうしようもない。



「梏杜さま」



 この爛れた熱情を、そう名付けてよいのならば。



「――愛しております」



 梏杜の眼が、わずかに見開かれる。



「一目あったその瞬間より、わが身のすべては、貴方のために」



 差しだされた手をとった、あの日から。

 梏杜に見出されて、世界が、始まった。


 女の身でありながら、梏杜の側にありたい一心で、軍部に入った。


 神名を捨てた珠光には、もはや梏杜に授けられた通名のほかに、名乗るべき名がない。梏杜の右腕であるほかに、生きるべき場所がない。


 追いかけて、追いかけて、追いかけて。


 振りかえることもない背中を、誇らしく思った。あれから、二度と差しだされることのない手に、誇りを抱いた。


 定められた、唯一無二の主。戴くは、不遜なる闇の御子。

 ――なんと、贅沢な生か。


 梏杜のために生き、梏杜のために死ぬ。いずれ訪れる終わりならば、これ以上、なにを望むことがあるだろう。



「ワタリを、頼みます……私のエゴに、あの子を巻きこんだ……貴方も、また。……贖罪を。そして、その後に」



 叶うならば。



「私のもとへ、堕ちてきてください」



 天になど、上らない。

 深く深く闇の底に息づいて、待ちつづけよう。


 梏杜の唇が、薄く開いた。



「……ああ」



 ぎこちない微笑を、魂に焼きつける。手放してしまう肉体ではなく、もっとずっと本質に近い奥底へ、刻みつける。


 一片たりとて譲りはしない。この身は、梏杜のものだ。地龍が喰らうそれは、まがい物になり下がった脱け殻のみ。


 梏杜のものとして生き、梏杜のものとして散る。仮初めの夢の終わりは、癖になりそうなほどに芳しい。


 そのすべては、珠光のものだ。どう足掻こうとも、決して地龍には得られぬものだ。――暴食の業をもつ憐れなケモノ。約束された勝者が求めたものは、そこにはない。



「この身、果てようとも、――永劫、お側に」



 そして、地の底から。

 ――獣の咆哮が、轟く。



*****



 第七師団長が城にもどったのは、地龍が目覚めたという報を受け、引きとめる間もなく自ら飛びだしていってから、丸一日が過ぎたころだった。


 ベルデに飛び乗り先行した彼ならば、北領まで、一刻とかけずにたどり着いただろう。誇り高き叢林の覇者は、珠光のもとへ駆けつけたくてたまらなかったはずだ。


 梏杜を背に乗せ、この世のものとは思えぬ初速で駆けだしていったトライホーンは、いまは癒えきらぬ傷口から血を滲ませて、城の中庭に身を伏せていた。


 ベルデの背を労わるように撫でて、黒ずくめの男が地に降りたつ。


 軍部において、崇高なる黒をまとうことを許された、数少ない将。血濡れた軍服を引きずって、末の王弟は、黙々と草地を抜け、回廊に足を踏み入れた。



「梏杜……! 珠光は」



 駆けよったワタリは、中途に言葉を呑み込んだ。梏杜とのあいだにすこしの距離を残して。呆然と、立ち尽くしたまま、ワタリは唇を震わせた。


 なにか、言わなくては。

 ――なにを?

 いまの梏杜を前にして、どんな言葉が存在を許されると?


 重苦しい沈黙。肌に刺さるような剥き出しの威圧が、彼の心中をあますことなく知らしめてくる。


 やがて、ほとんど呻くように、梏杜は口を開いた。



「あれは、俺のものだ」

「え?」

「この眼で見出した、俺だけのために存在する光だ……」



 闇色の瞳のなかで、昏い炎があやうく揺蕩っている。黒々とした深淵に、赤熱を越え、温度さえも失った激しい熱がある。


 身がすくむ。

 凍えるような、アツさ。


 宿主さえ焼き消すのではないかと思うほどの膨大な熱量が、その一点に収束して、不安定に揺れている。


 行き場を失い、放出することもままならぬ激情が、そこに宿っていた。いっそ、おどろおどろしくも美しい、黒焔。



「くれてやるものか。この身が果てるそのときまでは、天地にさえ、譲らぬ」



 ……そして、この身が果てた後も。


 クッと喉を鳴らした梏杜は、回廊の壁にはまった、身の丈ほどの大窓に歩み寄る。腰に下げた長剣を、荒々しく鞘ごと掴みとると、躊躇いなく硝子面へと振りおろした。



「側を離れることは、許さない――」



 予備動作もなく。最低限の軌跡を描く、黒き刃。衝突音が高らかに響く。無抵抗に砕け散った破片が、あちらこちらに降り注いだ。


 硝子も枠も区別なく粉砕され、きらきらと光を反射しながら舞い散る様は、その行為の暴力性に反して繊細に美しい。


 雅やかな、光の渦。


 その中心に立つ、梏杜は、凛と背筋を伸ばしたまま。苛烈なまなざしを、まぶたの奥に封じて。顔をかばうことさえせずに、鋭利な光の雨を、全身で受け止めていた。


 闇と光が絶妙に交わうその光景は、在りし日の主従の姿を追憶させる。


 美しい。そんな陳腐な言葉では、語り尽くせないほどの、なにかが。胸を静かに貫く。抉りとるのでも打つのでもなく、あまりにも自然に、突き抜けていく。


 それは、ほんの一瞬のできごと。まばたきほどの、短い邂逅。


 ……鳥肌が、立った。


 ワタリは、なにを口にすることもできないまま、ただその幻想を見つめていた。


 まるで、そこに、珠光がいるような。

 しかたのないひとですね、と微笑みながら、梏杜に寄り添って、いるような。


 ひとたび気づいてしまえば、もう、そうとしか見えなくて。



「ワタリ」



 ふたたび、まぶたを上げた梏杜の瞳には、やはり焔が宿っている。



「選べ。エドゥアルドを名乗り俺に傅くか。凡愚に身をやつし生きながらえるか」

「なにを――」



 馬鹿なことを。口をついて出そうになったのは、加護を与え続けてくれた、優しくも厳しい麗人のセリフ。


 はた、と声を止めたワタリを、梏杜は淡々とした瞳で見返す。奥深くに焔を潜ませた黒曜石。いつもの不遜さが上塗りされた、その奥には、たしかに息づくものがある。


 黒珠のなかに浮かぶ一点の光。決して清廉とはいえない。穢れを知った上で、なおも気高くあり続ける。混沌とした感情に、ひとすじの芯を通した輝き。


 けれど、その方が、人類が持つにはふさわしい。身分相応なだけ、その美しさを、尊さを、理解できる。



「俺は、あれほど優しくはない。導いてはやらぬ。この地で、貴族の傀儡となり果てるも、薄っぺらい情話になり下がるも、お前の選択」

「私は……」



 ワタリは、握りしめた手を震わせる。



「貴方の、側に置いて」



 姉であり、兄であり、すべての親愛を捧げた、麗しき保護者のように。


 梏杜は、わずかに目を細めて口の端を上げる。獰猛さと柔和さとを、足して割ったような微笑に。


 ――彼の面影が、重なってみえた。



「人の夢は潰える。訪れるは、龍の世――地獄の渦中まで、ともに踏み入れると?」

「梏杜が、それを望むのなら。……珠光は、そうするでしょう」



 また、黒珠のなかに焔が煌めく。お前もまた。掠れるように、梏杜は、つぶやいた。



「あれを愛したか」



 静かに問う声に、肯定も否定も返さないまま、ワタリはそっと膝を折った。


 砕け散った大窓の中心に立つ、王へ。

 戴くは闇の御子。この夢の終わりまで、ともに。私もまた、地を這う蟻の一となろう。


 ほんの少しでも長く、彼らが愛した夢の余韻が、この地に留まるように――。



*****



 ワタリ。あなたに、聞いてみたい。

 異界から訪れた、純真な娘。


 あなたの目には、この世界は、どう映る?


 終わることを知りながら繁栄し、

 負けることを知りながら抗う。


 我々の生は、どう映る?


 問うてみたいと思っていたのに、

 結局、最後まで、機会を逃してしまった。


 ワタリ。

 あなたの答えを、受けとることはないでしょう。


 それでも、せめて問うてみたい、と。

 諦めきれず筆をとりました。


 この地に生き、この地に散る。

 目に見えた終末を、ほんの少しでも遠ざけるために。

 そのためだけに、剣を抜く。



 ――この生に、あなたは、なにを見る?



 私に、問う権利はないのやもしれません。


 この生は、梏杜さまのもの。

 この死も、また。


 重ねた手のひらに透けた夕陽の色を、忘れた日はない。


 色づく世界を見下ろした、夕闇に浮かぶ明星。融けるように混ざりあう天を背にして、貴方は、私に差しだした。



『みつけた』



 ありったけの所有欲を詰めこんだ、その手に。言葉に。瞳に。


 私は、囚われつづけている。

 囚われていたいと、願いつづけている。



 この声が、届かなければいい。


 できるかぎり遠い、いつか。

 ふたたび、その手を取れたのなら。


 ――闇の底で、貴方を待つ。



*****



君が為、飾る言葉は何を食む?

――出ずる想いに、溺死せん。


キカナイデ

これにて、シリーズ完結となります。

ありがとうございました(´ω`謝)

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