面影に恋をする
リードは真面目で高潔だ。
彼らの目論見が全部達成されても、あたしを手放すことはないという。王妃になれなくても目の届くところで、何らかの庇護を与え続けるだろう、と。しかしそれではいけないという。
ディオンの目的はあたしだ。
あたしを手に入れることが目的なのだ。
それを叶えるには、リードがあたしを手放すしか無い。
「僕の願いを叶えるには、君と彼の繋がりをすべて絶たないといけなかった。完全にね」
伸びてきた手が、あたしの頬をすっと撫でる。
あたしは、動けずにされるがまま。
彼が語る『物語』に、酔ったように意識を奪われていたから。
「そのために、クリスをやった。今頃、王子の上で、好い声で啼いているだろうな」
『どういう意味』
「薄暗い部屋のベッド。そこで年頃の異性二人がすることなど、一つしかない」
一瞬、二人が一緒にいる姿が浮かんだ。それは何度か見かけた、散歩中に偶然会ったとかいう光景ではない。見慣れた執務室の隣にある仮眠室で、肌もあらわに互いを求め合う二人。
そんな光景を見たことなど一度も無いはずなのに、彼の雰囲気に飲まれていくあたしの頭はさも当然というように、二人の姿を思考の中心に晒してみせた。
華奢で、小さくて、貧相なあたしと違う、年頃の娘相応の体つきを持つクリスティーヌ。
想像の中の彼女は想像の中の彼と、とても釣り合いが取れているように思える。
『リードは、しない。そんなことしない』
震える手で、必死に答える。声が震えてしまう。一瞬でも浮かんだその光景を、あたしは必死に頭から追いだそうと、軽く横に降った。髪がばしばしと頬に辺り、少し痛かった。
信じている。
リードは、そんな浅はかな行動はしない。
気に入らない相手には、ちゃんとそれを伝えられる人だ。だから、神託を携えて彼の前に立たされたあたしに彼は否を伝えたのだから。だからクリスティーヌにだって、抵抗する。
でもディオンは、そんなあたしの抵抗を笑った。
「クリスは母に似て男を狂わせる色香がある。そうなるよう、母が仕込んだのでね。王子のところにいかずとも、いずれは道具として使われる運命のかわいそうな子だ。相手が彼ならまだ良い方ではないのかな。少なくとも責め殺すという、残虐な遊びを好む人ではないだろう」
だから、とディオンは続ける。
あたしの抵抗も、彼がしているかもしれない抵抗も無駄だと、言うように。
「いかに王子といえども、欲求には抗えないさ。若ければ若いほど。禁欲的な生活を送っていればなおさら。それに知っているかな。彼女ほどの年齢が、君より子を身篭りやすいことを」
あたしの希望を一つ一つ、踏み潰して砕いていく。
子を産む状態に身体が切り替わるのは、十五歳前後だと言われている。だから結婚が許される年齢なども、だいたいそこら辺を目安にして制度として定められたのだと勉強した。
しかし、身体がいくらそうなっていても、幼すぎるとうまくはいかない。熟さない果実が甘くないように、切り替わってからある程度時間が必要なのだそうだ。
身体が変化に慣れ始めるのが、ちょうど十八歳ごろ。
つまり――クリスティーヌはまさに、身体が変化になじんだ頃合なのだ。
加えてリードは若い。
異性に関するいろんなものが、押さえ切れない年齢だと、ディオンは言う。
「ほんの少し刺激するだけで、彼はただの獣になり、クリスを貪るだろう」
その先にあるのは、新たにこの世界にもたらされる命。
結婚などをしていないとはいえ、彼女が身ごもるのは王子の子供。決して彼女に危害は加えられないだろうし、そんな動きがあったとしてもリードがそれを止めるだろう。
生まれる子が男児であれ女児であれ、クリスティーヌの立場は王妃にならざるを得ない。
尊き王族の子を産んだ、稀有であり誉れ高い女性になる。
「王子は優しい。きっとクリスを大事にし、愛するようになるだろう」
身分について何の問題はなく、子を産めばさらにその権力と存在は重くなる。神託以外に何も持たないあたしは、その身分の低さと神託ゆえに扱いがさらに面倒な存在になるだろう。
そうなれば――あたしに、帰る場所は。
「案ずることはないよ」
さらり、と髪を撫でられる。
いつの間にか、ディオンがすぐ傍にいた。
隣に座って、あたしの肩に手を伸ばしている。
「適当な頃合に僕が身請けを申し出れば彼はうなづく。形ばかり名ばかりの王妃は、あるいはそれですらない籠の鳥は、あまりにも哀れだから。彼は頷く以外の道などないよ」
耳に吹き込まれる声。
抱える石版の冷たさと硬さがなければ、一瞬で絡め捕られそうだ。ずっと考え、でも日々の努力で重石をして見えないふりをしていたものを、的確に彼は引っ張りだして暴いていく。
ずるずると、抗えないまま彼の側へと引きずられていく。
これがもし捨てられるという話なら、あたしは怒りで正気を保った。彼はそんなやつじゃないと反発することだってできた。揺らぐ心を真っ直ぐにして、ディオンを睨み返せた。
だけど彼の言い方は、あたしを守るために、という形をしているから厄介だ。
城にいても幸せになれないなら、どこかの貴族に嫁いだ方がいい。自ら名乗り出るならきっと幸せにしてくれるだろう。クリスティーヌが王妃になっていれば発言力は強い。
あたしの中は、二つに分かれた。
リードは女の色香に惑わされないと思うあたしと、楽な方へ逃げたいハッカに――このまま彼らの思惑通りに進み、リードに捨てられるよりはと思っている『あたし』に、分かれた。
肩をつかまれ、抱き寄せられる。
されるまま、あたしは彼に身をゆだねることになった。
真っ二つの心だから、身体はうまく動かない。
「母からも守る。どうせ、正気と狂気のすれすれにある方だ。長くはないさ。あの人はくだらない妄執だけで生きている。それ以外はもう擦り切れ、ボロ布にも劣るものになっている。それでもすることは的確にこなすから恐ろしい。……そうだ、母の言ったことは真実だよ」
ディオンの言葉を要約すると、夫人が言ったことは全部本当のことだった。ひと目見ただけでも精神的に危うい彼女は、その所業に関しては何の乱れもなく、滞り無く片付けた。
彼女はここに住んでいたレイアの夫を金で雇った連中に殺させ、身の危険を感じて逃げ出したレイアを探しだし同じように始末して。あたしのお父さんとお母さんも、弟も……。
人の命も、存在も、地位も名誉も、愛も。
すべてお金で購える。
人の生き死にすら金でどうにでもなる。
そう言い切ったに値することを、言い切るだけのことを。
あの人は、重ねてきたんだ。
「何の違和感もない、貴族なんて大なり小なりどういうものだ。ライアード家だって、それなりに後ろ暗いものを抱えている。母の実家ほどではないだろうけれど。あの人の生家はそれが当たり前の家だったそうだからね。……かつては王妃を狙い、派手にやったそうだ」
そして没落したのだけれど、とディオンは笑う。
ディオンの母、つまり伯爵夫人は元々侯爵令嬢だったという。王妃を狙える程度には権力や財力があったのだが、『やり過ぎた』ために彼女は財力も親類一同も失い一人になった。
生きていくには結婚しかないのに、周りの眼鏡にかなう男性はみんな結婚済み。
低い身分の令息しかいない中、彼女はそれでも嫁ぐことを嫌がったそうだ。自分が名乗る家の爵位が、下になるのが気に入らなくて。少ない選択肢を、更にすり減らしながら選り好み。
しかしやむにやまれぬ事情が生まれ、彼女はしぶしぶ伯爵に嫁いだ。
いや、嫁いであげた、という感じだろう、きっと。
なのに伯爵は、身分などないだろう娘を愛人にして子まで与えた。自分はこんなにも妥協に妥協を重ねて苦渋の選択をしたのに、彼ばかり欲しいものを手に入れて人生を謳歌する。
それが許せないと、彼女は。
「今もあの人は、伯爵――義父に、弱い毒を盛っているよ。ゆっくり死ぬように」
自分の父親のことなのに、ディオンは笑っている。
そもそも二人に男女の関係は、ただの一度もないのだと彼は言った。
……じゃあ、あなた達は誰の子なの。
「遠方に領地を持つ侯爵だと母はいうが……さて、どうかな。クリスの父は知らないよ。妹の出生については問題はない。母が出る夜会は貴族しか来ない。いくら酒で前後不覚になっていても使用人に身を任せるほど耄碌はしていないだろうし、彼女の生まれは由緒正しいものだ」
どうせ自分も妹も夜会で出会った行きずりの相手が父だろうと、ディオンは笑う。どうして自分の出生について笑えるのか、それに悩んで苦しんできたあたしには理解できなかった。
笑いごととは思えないし、そんなほいほい答えていいことでもないと思う。
彼は知りたくないのだろうか、父親のこととか。
それとも、時としてそういうものが曖昧になるのが貴族、ということなのか。
「自分のルーツなんてどうでもいいんだ。君が手に入るなら」
ぎゅう、とあたしを抱きしめるディオン。
彼の中では、もうすべてのシナリオが完結しているんだろう。
たぶん、夫人が描くシナリオを、塗りつぶすような勢いで。
夫人はあたしの死を願っている。
しかしディオンはそれを望まないから、箱に押し込んであたしをここへ連れてきた。
母親には、何も言わないつもりだったのだろうと、あの出会いからの流れから感じる。
結局は、バレてしまったわけだけど。
「ずっと焦がれていた、愛していた。彼女が父の所有物だと知りながら、そして母のせいで死んだとわかっても。それでも欲しくて欲しくて、餓えを満たす行為にはもう飽きたんだよ。僕はまがい物なんてもう要らない。本物があればいい、本物が手に入るならそれでいい」
それは、とても情熱的な愛の告白だと思う。
彼にされたこと、彼の母にされたこと。彼の妹がしているかもしれないこと。
それらが無かったなら、何かの演劇になりそうなほどの。
でも、あたしの心は冷め切っていた。告白されたし、抱きしめられているというのに、まったく心に響いてこない。当たり前だった。だって彼が好きなのは死んだレイアで、それはあたしじゃないんだから。それに、違う違う、と心が駄々をこねるように叫び続けている。
ぬくもりが違う。
体系が違う。
においが違う。
声が違う、人が違う。
彼じゃない。
リードじゃないと、心が泣くように叫んだ。
「やっと手に入れたよ。王子だろうと、誰だろうと。もう渡さない、絶対に」
そのためなら母すら殺そう。神すら欺き妹を生贄に捧げよう。どこか寄ったようなふわふわした声でディオンがつぶやくのと、あたしの視界がぐるりと回転するのは同時。
気づけばあたしは、天井を見ていた。
天井とあたしの間には、嬉しそうに微笑むディオンの姿。
――押し倒された。
それに気づいた瞬間、あたしは抗うため石版を武器にする選択を選んだ。しかし案の定体重をかけられ、手首をソファーに押し付けられてしまう。ぎりぎりと手首を握られ、痛い。
ごとり、と床に石版が落ちる音がして、あたしは今度は足を使った。
どこでもいい、蹴り飛ばして逃げなければ。
なのに、その足さえ簡単に動きを封じられて、むしろ状況は悪化した。いや、だって、足を振り上げた体勢のまま、それをひょい、と軽い感じに肩に担がれてしまったから。
これは非常によろしくない。
ラフなワンピースを着ているから、それだけでかなり危ういところまで晒されてしまう。
よりによって丈が短めだったものだから、さらに危ない。
「……これはこれは、大胆な花嫁様だ」
舌なめずりをするように、ディオンがにやりと笑う。
その手が当然のように太ももを撫で、ワンピースのすそに触れた。するする、と肌を這う指先が、当然のような動きで服の下へと滑り込んでいく。触るな触るなともがく動きも無意味。
恐怖と嫌悪であたしの身体は満足に動かず、ついに彼に触れられるままになった。
「愛しているよ。だからここで、すべてがほしい」
かすれた声で囁かれ、その手があたしの衣服を剥ぎ取ろうとした瞬間。
遠くから響いたのは――何かが破壊される、轟音だった。