小さな家
運びこまれたのは、小さな家。
一人で暮らすにはちょうどいい大きさの、一軒家。
すごく好みで、こんな家に住んでみたかったな、と思ってしまう。
思い出すのはディオンから聞かされたレイア、お母さんの話。彼は貴族だから子供のうちはそう出歩かないだろうし、こんなところに小綺麗な家があるのは不自然だ。
もしかすると、話にあった家とは、ここなのではないか。
ディオンの話が本当で、夫人の話も本当だったら。
彼女はここにいて、夫がいて、なのに伯爵とも関係があって。そしてあたしは伯爵か夫どちらかの血を引く子供で、巡り巡ってここに戻ってきた。連れ戻された、とも言えるか。
じゃああたしは、誰の娘なんだろう。
誰を、お父さんと呼べば……いいんだろう。
「気に入ってくれたら嬉しい」
荷物のように抱えられていたあたしは、そのリビング部分で下ろされる。落ち着いた色調の家具。整頓された室内。話からして、もう十何年は使われてないのに綺麗なものだ。
定期的に、掃除か何かしているのかもしれない。
誰かをこうして――囲えるように。
「痛かったかな」
頬に触れてくるディオンの手は、やけに冷たくて少し気持ちよかった。
じわんじわん、と熱とも痺れともいえる感覚が、わずかに消えたような気がする。
「とりあえず、これを返しておこうか」
と、渡されるのは石版だ。
一応は武器として充分に使える『鈍器』だけど、実際に似たものを武器として使って人の意識を奪えたけれど、彼はためらい無くあたしに渡す。それなりの重さが、手の中に馴染んだ。
武器となるものを返す、その理由はわからない。
あたしに、そこまでする力がないと思っているのだろうか。
彼から返された石版に、何を綴るべきか考える。お礼は、何か違う。そもそも彼が誘拐してこなければ、あたしはひっぱたかれることも無かった。全部ディオンが悪い、彼のせいだ。
しかし文句も、たぶん通じないのだろう。
――結局、あたしは彼に視線で示されるまま、とりあえずソファーに腰をおろした。
どうせあたし一人じゃ、ここから逃げるなんてできない。シアもいるし、まずこの屋敷がどこにあるのかってところが不明だ。一歩外に出たら、迷子になって余計大変なことになる。
王都のどこかなのは、たぶん間違いない。
確か城の周囲に、高級住宅街があったはずだし、中には『森』と呼べる広大な敷地を持つ屋敷もあるって聞いたことがある。そのうちの一つが、セヴレス伯爵の屋敷なのかもしれない。
仮に王都のどの辺りかわかったところで、あたしには別の壁がある。
そう――目の前の男を出し抜き、屋敷から脱出しなければいけないということ。
いくら森でも自宅の敷地、塀か何かがぐるりと囲んでいるに違いない。それを乗り越えるのは難しいから、逃げるとなるとあたしは正面突破するしかない。で、そうなるとまずディオンを出しぬき森を抜け、あの屋敷へ戻らなければならないわけなんだけど、これが面倒。
夫人に言われた内容に頭が真っ白で、道を全然覚えてないから。
結構、長い距離を歩いた気がするから、あてずっぽうに走り回るわけにもいかず。
仮に屋敷にたどり着いたところで、そこからがまた面倒で。シアのこと、道のこと、それから敵の妨害など、あたしがユリシスやマツリみたいな力がない以上、何もできない。
……結局、おとなしくするだけだ。
ディオンをどうにかしても、それで即解決ではないから。
あたし一人では、どうにもならないのが歯がゆい。
待っていることしか、できなかった。ミスティリエ達や、それ以外の誰かがあたしの失踪に気づいてくれるまで。ここに助けに来てくれるまで、おとなしくしているしかなかった。
一応、あたしが後宮に出むいたことを、知っている人は多い。
数時間ぐらい滞在することも少なくないけど、それを越えれば怪しんでもらえるはずだ。
シアが一緒に捕まっているのが気がかりだ。彼女自身も心配だし、あたしに関することで彼女の右に出る人はいないから、そういう意味ではかなり出遅れるのではないかと不安になる。
……それでも、今のリードとか、マツリとかなら。
あたしが誘拐されたこと、事件に巻き込まれたことに気づいてくれるって、信じてる。
「助けは来ないよ」
向かい側に座るディオンが、くすりと笑った。
あたしが傍にいて、死ぬほど嬉しいって顔をしている。そう、好物を前にした――正確にはお菓子を前にした、孤児院の子供達みたいな目。それでいて、あがきを嗤うような目だ。
「ずっとここにいればいい。レイアのように、今度は僕のために」
『リードはすぐに助けに来てくれる。だからあなたの願いは叶わない』
その目を見ないようにしながら、あたしは声を綴る。
そう、どんなに難しくたって、リードやみんなはあたしを助けに来てくれる。こいつらの思い通りになんてなるもんか。みんなはすごい、あたしなんかよりずっとずっとすごいんだ。
そんな思いを抱き、目の前の男をにらみつけると。
「……その目も、いいね」
なぜか彼は、さらに嬉しそうに微笑む。
そこに、薄ら寒いものを、あたしは感じた。
――マツリ、マツリが言ってたことは、きっと正しい。
クリスティーヌの底が見えない目は、この兄と同じようで別物だった。違うところを上げるとすれば、向こうは演技でしかないのだけれど、こっちが本物というところだろう。
底が見えない、底があるのかもわからない。
唯一つ、はっきりしているのは。
この男との『戦い』に勝たなければ、あたしは『帰れない』んだ。
誰がこんな男に、と思うけれど、あたしは十五で彼は二十一。子供と大人、その体格の違いは明らかだ。孤児院育ちのせいだろう、あたしやシアは同年代と比べると全体的に小さい。
一つしか変わらないマツリとは、握りこぶし一つ以上の身長差がある。
彼に抑えこまれたら、あたしの力じゃ抗えない。そもそもシアが敵わない相手に、あたしがどうやって抗えというのだろう。最低限の護身術でもあれば、まだ少しは勝機もあったのに。
石版も、そうなれば武器として使えるかどうか怪しいものだ。
どんなに硬い塊でも、相手にその力を向けられなければ意味がない。手首を押さえ込まれるだけで、あたしは簡単に武器となけなしの抵抗を、いともたやすくあっさり奪われるのだ。
だから、彼は石版を返したのだろう。
それらに意味がないと、わかっているから。
いざとなれば簡単に押さえ込めると彼は信じているし、実際そうだろうなと思う。
やっぱりあたしは、完全なる八方塞で孤立無援。
御伽噺よろしく、助けを待つだけのお姫様ってヤツだった。
なら、とりあえず現状を把握するしかない。
突然情報を与えられて、混乱している間に何かされたら、そっちの方が問題だ。冷静に立ち回らないと、相手を刺激しないよう我が身を守りぬかないといけない、それが最善策だ。
今、知りたいことはいくつかあるけれど、まずは。
『シアの無事と、お母さんのこと、教えて』
「……あの侍女なら、本宅の物置にいるだろうね。いるというか、置かれたというか」
つまり、箱詰めのまま、ということか。シアはあたしよりずっと運動神経もいいし、護衛役として毎日鍛えているから……もしかしたら、きっかけがあればうまく脱出できるかもな。
そんなあたしの考えを、読み取るようにディオンは嘲笑っている。
「そんなことはさせないつもりだけど……はたして、君に帰る場所はあるかな」
『どういう意味?』
「潜入するために、そのためだけに、妹を城に上げたわけではないよ」
意味深に笑い、ディオンは今回のことを話し始める。
元々は、彼らの母が娘を王妃にしたいがため、はじめた策略だった。彼はある思惑を同時進行するために、母の計画の裏でそれを動かしながら手を貸している形なのだそうだ。
伯爵夫人とっての障害はあたしだったけれど、彼にとってのそれは違った。
彼にとって、もっとも速やかに排除しなければいけないもの。
それは――リード。
すべての鍵を握っているのは、あたしだけじゃない。あたしと彼、両方を掌握してこそすべての計画は達成される。そのための布石として、彼女は――クリスティーヌは城にいる。
助けが来ないと言い切るほどの、何かを成すために。