彼女の狂気
『シアには手を出さないでね』
最後にそんな声をつづり、彼が笑顔でうなづくのを見てから、箱の中に入る。
すぐに蓋が閉められて、紐か何かで梱包する音が聞こえた。かすかにシアが泣いている声が聞こえたけれど、いつの間にかその声も消える。彼女も別の箱に押し込められているようだ。
しばらくするとどたばたと、人が行き交う音がして箱が持ち上がる。
どこかに運び出しているのだろうと、ぼんやり考えた。
外が見えないから、今どこにいるのかわからない。
……シアも、一緒に運ばれているのかな。
ひざを抱えて、あたしは少しの後悔と疑念に抗っていた。
ディオン・セヴレスは、信じるに値する相手なのか否かと。
彼を疑うことは簡単だった。そもそも信じてもいない相手だし、全部否定すればそれで終わるようなものだ。でも、そうすると同時に彼が話した母に関することも疑わなきゃいけない。
信じている方がおかしいんだと、今は思う。
しかし疑いきれない、すがるような気持ちがあたしの中にあった。
きっと、こう思わせることで抵抗の意思を削ぐのが、彼の目的の一つだと思うのに。目の前にぶら下がったそれに、手を伸ばさずにはいられなかった。
自己嫌悪で泣きそうになる中、あたしが入った箱は途中で馬車に乗せられた。外は見えないけれど音と、それから揺れがそういう感じだった。どうも、どこかに運ばれていくらしい。
普通なら出入り口で箱を改められるはず、だけどそれがないのはなぜだろう。途中、やけににぎやかな場所を通過したけれど、もしかして第二の出入り口があったのだろうか。
だとしたら、これはかなり念入りに組まれた計画になる。
クリスティーヌだって、王妃を目指して後宮に来たわけでもないのかもしれない。こうやってあたしに直接何かするための、ただの足がかりなのかもしれない。
馬車は石畳らしき場所を、かぽかぽと進んでいる。
揺れをあまり感じないところからして、粗悪な荷馬車の類ではなさそうだ。すぐ傍に人の気配もあるし、もしかするとディオンが日頃使っている馬車かもしれない。
たぶん、その方が目立たないだろうし。
そうこうするうちに、馬車はどこかで止まる。また人の手で箱が運ばれていって、何度も扉が開け閉めされる音がした。民家か何かに、荷物よろしく運び込まれてしまったのだろうか。
中にあたしが入っているのを知っているのか、箱はゆっくりと下ろされた。
「そっちの箱は本宅じゃなくて、奥の森にある家に運ぶんだ。もう一つはそこら辺でいい」
その直後、ディオンの声がそう離れていない場所から聞こえる。
――奥の森?
それはどこのことなんだろう。
疑問に思うあたしを他所に、彼の言葉を合図に再び箱は移動する。
もう一つの箱というのは、シアが入ったものだろうか。
だったらいいな。
彼女が、無事だったらそれでいい。
ディオンの言った、自分の花嫁、という言葉の意味は深く考えたくなかった。森の奥にあるという家に、あたしが運ばれていく意味も。シアが無事なら、あたしは。
「お待ちなさい」
移動を再開してすぐ、女性の声が呼び止めてきた。
若くない、どこか威圧的な声だ。
運んでいる使用人か何からしい男性が、奥様、と声の主を呼ぶ。
奥様――まさか、セヴレス伯爵夫人、なんだろうか。これまでの会話からしてここはおそらくディオンの家、つまりセヴレス伯爵の屋敷だと思われるから、彼があたしを『連れ帰る』場所にいる『奥様』だとすると夫人であるという可能性が高い、というかこれが正解だろう。
問題は、このことを彼女が知っているか否か。
知っていて……どう、動くのか。
「その箱を開けなさい」
「で、ですが坊ちゃまが」
「わたくしの命令が聞けないというの? いいから、中身を見せなさい」
周囲からうろたえるような動きが伝わる。
どうやらこの誘拐事件はディオン個人の考えと動きで、他は誰も関わっていない計画なんだろう。もしかすると、妹のクリスティーヌは一枚かんでいるのかもしれないけど。
なら、『奥様』とやらはこのことに、息子を叱り付けてくれるだろうか。
あたしとシアを開放してくれるだろうか。
さすがにあたしとシアを誘拐するのはまずいだろうし。いや、事情はどうあれ自分からついてきたといわれたら、確かにそうなんだけど……そこは脅迫が行われたに等しいわけで。
などと考えていると、紐が解かれるしゅるしゅるという音がする。
かぱ、と軽い音を立てて、あたしを閉じ込める蓋が頭上から消えた。
「……これは」
箱の中に納まるあたしを、その人はじっと見ていた。
一瞬抱いた希望は、未だかつてない勢いで砕け散ってかけらも残らない。
その瞳に浮かんでいるのは、見たこともないほど深い憎悪。ディオンが母にも言わず独断で動いた意味や理由を、あたしはこの瞳を見た瞬間に何となく察してしまった。
彼はきっと、あたしを手に入れたいのだろう。
愛人的なものや、愛玩的な意味合いで。
花嫁というぐらいだから、たぶん『結婚したい』とかいう感じなんだろうと、思う。
けれどこの人は違う、気がした。この人がもしあたしを欲しいというなら、それはあたしにいろんな意味で害を与えたいという理由だろうなと、そう思わせるような目をしていた。
憎悪と嫌悪と、殺意。
今までよくない感情をいくつも向けられたけど、そのどれよりも深くて暗い。
あぁ、と何かを納得した声を、彼女は発する。
「これが、あの忌々しい女狐の娘なのですね」
あたしをじとりと見下ろすのは、長い黒髪の、青い瞳を持つ女性。
彼女は瞳の青よりも冷たい視線を、あたしに降り注がせた。
■ □ ■
伯爵夫人の命令により、あたしは箱から引きずり出された。
そして彼女に、なぜかいきなり平手打ちされる。数人の男性使用人があたしの腕を掴んでいるから、逃げることも何もできない。自分を守ることもできず、一方的に叩かれ続ける。
一発では収まらなかったのか、二発、三発と高い音が響く。
拘束されて逃げられないあたしにできることといえば、ただ睨むだけだった。
けれど夫人は、その睨みに更なる打撃を返す。
「なんて醜い目なんでしょう」
まるで子供のような口調で、彼女はつぶやき、何発目かの平手が頬に見舞われる。みにくいみにくい、なんてみにくい、なまいきな、あぁなんてなまいきな。そう彼女は呟いている。
声だけは、本当に声だけは『大人』なのに、なぜかその動きは子供のようだった。
駄々をこねた子供が、ぬいぐるみやベッドに八つ当たりするような動き。口走っている内容だってどこか舌足らずというか、うわ言、寝言のような不安定さ。
「その髪も醜いし汚い。何もかも気に入りません」
何度も何度も、あたしにはわからない感情を彼女はぶつけてくる。いやだいやだ、こんなのいやだ、そう淡々と唇からこぼれる、心の声ともいえるだろう単純な言葉。
あたしに言っているというより、本当に心の中の声をそのまま流している感じだ。
平坦な声なのに、荒々しさを感じるのは、そこに憎悪があるからなのか。それとも、いつかクリスティーヌに感じた深淵が、母親である彼女にも纏わりついて見えるからなのだろうか。
「奥様……」
もうそろそろ、とあたしを抱える使用人の一人が申し出る。
そういえば、あたしは『奥の森』とやらに連れて行かれる途中だった。箱に押し込められていた状況から考えて、連れて行かれるというより運ばれるというべきかもだけど。
それは一応、ディオンの命令だ。
いくら『奥様』といえど、いつまでもこうしているわけには行かないのだろう。
幸いというべきか、あたしを散々平手打ちして満足したらしい奥様は。
「そうね、森の奥にあるあの家は、この汚らわしい小娘にはちょうどいい檻でしょう」
――檻?
あたしが連れて行かれるのは、いったいどんな場所なんだろう。
というか、記憶が正しければ初対面であるはずのこの人にどうして、あたしはこんなにも嫌われているのだろうか。そこまでのことがあったのか、あたしの知らない何かが。
髪の色を気味悪がられるのは、そう珍しいことじゃない。城に来てすぐの頃は侍女の一部もそういう目であたしを見ていたし、人と違うものはそういう扱いだとあたしは覚悟している。
とはいえ、いきなり平手を食らったのは初めてだった。
そこまでの嫌悪などを向けられたのも。
この人はやっぱり――あたしを、あたしが知らない何かを、知っているのだろうか。
しかし石版は箱の中。
それ以前に腕を拘束されているから、問いかけることはできない。
「それにしても忌々しい。なんて下劣な存在なの……」
ぐい、と髪をつかまれ引っ張られる。
「お前など、この世に生まれなければよかったのです。あの日、あの女と一緒に死ねばよかったのに。生まれてこなければよかったというのに。あぁ、あぁどうして、どうしてなの」
存在をそのものから否定される。
痛みの中、あたしは彼女をじっとにらみつけた。
ここまで言われる理由が、あたしにはわからないから。
「あぁ、思い出すレイア、あの薄汚い売女。あの男の愛人。このわたくしを差し置いて、あの男に大事にされていた小娘。お前と同じ容姿の、汚らわしい売女……あぁ、憎らしい」
あたしがモノを言えないと、知っているのかいないのか。
夫人は、ずいぶんと饒舌に語ってくれた。
あたしが知らない、あたしの話。
「異形の容姿を持つ分際で、すでに夫がある分際で、人の夫を寝取った女。誇り高い、この貴族であるわたくしを嘲笑うような女。あぁ、憎い、どうしてあの女ばかり……あいつばかり」
あごを掴まれて、右へ左へ、揺さぶられる。
聴きたくない言葉が、あたしの耳からゆれる頭の中へと滑り込んでいった。
「娘も同じようなものだったのですね。王妃になるのは、クリスティーヌだというのに。このわたくしの娘である、このわたくしが産み落とした、あの娘であるはずだったというのに」
違う、と言いたかった。
あたしは好きで、あの場所に立ったわけじゃない。クリスティーヌを結果的に押しのけたのかもしれないけれど、それこそ神託が原因で、あたしが好きでしたことじゃない。
勝手に、神託がどうのこうので、強引に連れて行かれただけだ。
あたしの意思なんて、そこには微塵も含まれていないのに。
――本当に?
心の中から問いかける声がして、あたしは言葉に詰まる。
最初は、そうだった。
嫌で嫌で仕方が無かった。
本当は、あんな場所から早く飛び出したかったんだ。王妃なんて真っ平ごめんで、リードと仲良くなんてする気だって、きっとなかった。そもそも嫌い合ってたはずだ、あたしも彼も。
もし、最初の頃、城に来てすぐにクリスティーヌと出会っていたら。
あたしは、彼女と立場を入れ替えようと、いろいろ動いたのかもしれない。
そう思う程度には、あたしはあの頃、現状を拒絶していた。
元の世界に、帰りたかった。
それに、少しだけ思ってしまう。
お城になんて行かなければ、あたしは『実の両親』の話を聞くことはなかった。知らないまま育って生きて、一人か――あるいは物好きな誰かと結婚するかして、平凡に生きて死んだ。
こんな形で、悪し様に言われるのを、知ることもなかった。
――苦しくなかった、何も知らないままそれなりに幸福に生きられた。
そうだね、たしかにそうだ。血を吐くような努力をしても、それでも小馬鹿にされることもなかっただろうし、常に気を張り詰めた日々を送る必要なんてこれっぽっちもなかった。
だけど、それでもあたしは、あたしにできることがあるって知った今が好きだし、みんなのことが好きだし、リードだって、最近はいっしょにいたいと思わないでもない。
そう、だからあたしは負けない。
絶対に帰る、生きて帰る。
好きなだけ殴ればいい、死ななきゃ安い。
うるさい黙れという目で、あたしはじっと彼女を睨みつける。歯を食いしばって、掴まれてほとんど動かない腕を動かそうとしながら。少しでも隙があれば殴ってやろう、その横っ面。
それを、夫人は目を細めてみていた。
心底見下すような、嫌な目だ。
「あの時『始末』したのに、したはずなのに、あぁ、レイア……なぜここにお前の娘がいるというの。あの白が、死んでもまだわたくしをバカにして苦しめる。わたくしの邪魔をする」
……始末?
その言葉に、言いようのない不安が生まれた。
驚きを隠せないあたしに、彼女は蔑みの視線を向ける。
「この世の中は金で動くもの。人の命も、存在も、地位も名誉も、愛も。この世のすべてお金で賄えます。人の生死、生き死にを決める最良すら、金さえあればどうとでもなるのですよ」
くすくすと笑う夫人は――そして語った。
あたしがしらない、すべて。