銀の鏡
「――あれは、装飾のように見えるが、貴族がそれぞれ掲げる紋章をかたどったものだ」
馬車と待ち合わせている場所へ戻る途中、ユリシスはおもむろに口を開いた。
国、王族に紋章があるように、貴族にもそれぞれ紋章がある。公の場所で身に付ける装飾品に刻んだり刺繍するなどして使ったりが主で、貴族同士でも知らないことも珍しくない。
「ユリシスは知ってるの? あの紋章が、どの家のものか」
「あぁ」
答えるユリシスの声は、あまり明るいとはいえない。
何かあるのだと、マツリはすぐにわかった。
周囲を軽く見回すようにして、ユリシスは小さな声で言う。
「……あれは、セヴレス家のものだ」
「セヴレス……って、あの? 嘘でしょう?」
「本当だ。波紋と蓮を描く紋章を掲げるのはセヴレスと、その分家のみだ」
そして――蓮の花の大きさから考えて、あれは『本家』に違いない。言いながら、ユリシスはパっと見えないところにある自身のもつライアードの紋章を、マツリに見せる。
本家の跡取り息子の嫁である彼女が身に付ける紋章と違い、確かに装飾が控えめでどこかシンプルで簡素なデザインだ。あまり意識しないが、本家と分家はこういう違いもあるらしい。
「ただ、手鏡というのが気になる」
「え?」
「かなり年季の入った手鏡だから、おそらく姫様のために作られたものではない。そうなると前の持ち主は女性ということになるが……だとしたら、伯爵の隠し子という可能性は無いと言っていいだろう。伯爵は一人っ子で姉妹はなく、その母君は親戚関係のない他家から嫁がれたと聞く。セヴレスの名を持つ令嬢は、もう何十年も生まれていないはずだ。それも、本家には」
「久しぶりの令嬢がクリスティーヌ様というわけなのね……え、ハッカは」
「もしかすると、姫様はセヴレス家の生まれではあるが、伯爵の子ではないかもしれない」
当時、セヴレス本家には伯爵夫妻と、二人の幼い子供達しかいなかった。
ネディカ・セヴレスには兄弟がおらず、つまりハッカは彼の子である可能性が高い。しかしそれにしては手鏡は古びたもので、彼女が生まれるより前からあったと考えるのが自然だ。
だが一族に代々伝わる、というほど古くもない。
そう、その微妙な古さはまるで――母の持ち物を子に渡すような。
考えてもその答えは出ないが、とりあえずハッカにはセヴレス家との何らかの繋がりがあるらしいということはわかった。それがわかっただけでも、充分に収穫といえるだろう。
わざわざハッカから離れ、街まで出てきたかいがあったというものだ。
「もし夫妻の言葉が真実ならば、このことは確固たる姫様の後ろ盾にはなる」
だが、とユリシスはそこで言葉を濁す。
ユリシスが言う通り、セヴレス伯爵家というものは比類なき後ろ盾だ。病に伏す前に彼がその手で作り上げたものは、伯爵でありながらも時として公爵すらも凌駕するほどである。
国内外に太い人脈を作り上げる、この国にとって必要不可欠の存在だ。
そんな男の――隠し子とはいえ実娘なら、反対していた貴族も声を上げられなくなる。仮に親戚であったとしても、身分を根拠に異を唱える貴族への抑止力にはなるだろう。
貴族、しかも本家の紋章入りの品など、そうそう手に入るものではない。没落し、滅亡したというならともかく、セヴレス家は今も力を持つれっきとした貴族。ユリシスが知る限り過去に家財道具を売らねばならないほど、その財力などが傾いたという話も聞かない。
ハッカとの繋がりや、彼女を手放しロージエ夫妻に預けた事情については、何となく二人には予想がついた。あの夫人ならば、何をしでかすかわかったものではない。
そう付き合いが無いマツリや、興味が無いユリシスでも夫人の奇行は知っていた。
とにかく我が子、特に息子を彼女は溺愛している。未だに放蕩三昧だという息子を何かしらの役職につけるため、一時期は夜会に姿を見ない日はなかったという話だ。
娘も大事にしているようだし、実際クリスティーヌの衣服はとても高級なもの。エルディクスに連れられて顔を合わせたことがある、隣国の姫君に引けをとらないものばかりだ。
「どちらにせよ、いよいよ警戒しなきゃいけない相手ね」
呟きながら、二人は道端の木陰に入る。
本当は今すぐにでも帰りたいのだが、帰るための足がまだ来ない。思いのほか時間がかからず、あらかじめ決めておいた待ち合わせの時間よりかなり早く到着してしまったためだ。
ユリシスだけ先に帰るという選択肢もあるが、マツリはまだ街中に慣れていない。なにせ彼女はここにきてからのほとんどを、城と屋敷の往復しかしていないのだ。
それも馬車に揺られての移動なので、地理も地名も何もさっぱり。最近は買い物に出ることもあるのでそれなりに覚えたが、なにぶん広い街なのでわからない地域も少なくない。
屋敷に隠されるように暮らす令嬢も多いが、マツリはそれに匹敵するだろう。
ユリシスはある意味、マツリの護衛というやつだ。
――絶対に、ぜーったいに目を離さないでね。
本来ならここにいるべき、というかいたかったに違いない彼女の夫に、しつこく繰り返されたのを思い出す。今頃は仕事をしているのだろうが、おそらく役立たず状態だ。
年齢にしてはずいぶんと小柄なこの愛妻の、安否などを思って悩んで苦しんで仕事どころではないだろう。リードがブチ切れて怒鳴り散らしている姿が、当然のように思い浮かぶ。
仲がいいのはいいことだ、とユリシスは思う。
同時に、それにしたって限度もある、という言葉をそっと付け足した。
「それにしても、ずいぶんとボロ儲けしてるのね、あのお店」
マツリがいらだった声で言う。
誰の何に対するのかは、ここで問う必要も無い。
少し離れた一等地で、にぎやかに商売をするロージエ商会のことだ。いつまでも儲けられるわけでもないし、今のうちに稼げるだけ稼ぎたいのだろう。
だから、それに関する彼女がどうなろうと知ったことではない。むしろ『どうにかなった方が儲けになる』とか、考えていても不思議ではない。そういう態度がありありとしていた。
それだけ、今のロージエ家――ハッカの親類である彼らにとって、彼女は軽い。
「……っ」
ぱち、と耳の後ろで爆ぜる音がする。
小さなそれは、マツリが無意識的に抱いた『殺意』の音だ。一瞬ではあるが魔術が発動した音で、その対象は考えるまでもなく、先ほどまで見ていた建物やその『中身』だろう。
ちゃんと訓練していなければ、今頃は火の海だったかもしれない。
この話題はよくない。
マツリは意識をセヴレス家へと戻した。
「さっきも言ったけど、夫人は娘を『とても大事にしている』と思うの。……でも」
「でも?」
「それは娘を使って、上へ行くためだから」
マツリの故郷『日本』の、古い時代によくあったこと。
娘を権力者に嫁がせて、そこを足がかりにのし上がっていくという『知恵』。跡取りになれない娘の、最大にして、最高の使い方。彼らの感覚で言うなら、リサイクルかもしれない。
この国でも同じようなものだ、余程のことがなければ女性は家を継がずに他所に嫁いでいくものであるし、仮に一人娘の一人っ子でも、家を実際に継ぐのはその夫という仕組みである。
おそらく、伯爵夫人は『道具』として娘を愛している。
ただ上へ差し出すだけでは、甘い汁はすえない。
娘を愛し、娘に愛されなければ、最大限の実入りを得られない。そのために見目を整え着飾らせているのだ。美人を嫌う男はいない、興味を惹かずとも嫌われることはまずないのだ。
「ならば、夫人は相当お怒りだろう。手に入りかけた果実を横取りされたのだから」
ユリシスの言葉に、マツリは小さくうなづく。
ましてや横取りしたのは、夫の隠し子かもしれない孤児の少女。
もしもその秘密を――ただの可能性でも、知ったなら。
マツリは、夜会で見かけた婦人を思い浮かべ、思わず身体を振るわせた。知り合いらしいご夫人と話すその目は、思わず目を背けたくなるほど、見なければと公開するほど暗かった。
覗き込んだら、そのまま落ちていくような感覚がしたのだ。
後でエルディクスに『彼女にはできるだけ近寄らないように』と言われたが、正直なところ土下座して頼まれても近寄りたくない。言われるまでもなく、自分から近寄ってはいない。
遠くから見ただけで無理だと思ったのに、実際にあって話などしたくもなかった。
今なら何とかできるかもしれないが、当時のマツリには無理だった。
もっとも、今も会いたいとは少しも思わないのだが。
「ならば急いだ方がいいな。彼らがどういう意図を持っているのかは、ともかくとして」
そこで、ユリシスは言葉を一度切って。
わずかに周囲を確認するように視線をめぐらせてから、小さな声で続けた。
「姫様が危ないのは、確定だ」