駆け引き開始
あれから数日。
何もなかった頃と同じ平凡で穏やかでのどかな日常と時間が、本当に何もなかったような顔をして過ぎ去っていく。あれもそれも全部、夢だったのではないかとすら思うくらいに。
勉強と、新しいダンスの練習と、各種衣装の作成と。
それから、王族を相手にするような本格的なマナー講座。
すでに数ヶ月も経ったけれど、あたしが覚えるべきことがらはまだまだ多い。
今のあたしは、まだ付け焼刃のご令嬢という感じだ。一国のとても小さい貴族の娘としてなら何とか通用しそうな感じで、とても王妃として人前に出られるものではない。
それでも、少しは前に進んでいると思う。あたしにも読める文字で書かれているということしかわからないくらい難しくて、誰かに内容を尋ねないと理解できなかった本も、今はよほどのことでもない限りは自分なりにこういう内容かな、ということがわかるようになっている。
専門的な知識も身について、わからない、はだいぶ減ったと思う。
これはきっと、進歩したんだと、成長したんだと言っても許されるはずだ。それは勉強だけじゃなくて、マナーだってダンスだってそう。ゆっくりでも、前に進めているはずなんだ。
ただ――心だけが、置き去りになったままなだけ。
あの日から、あたしの心はあの場所に留まったままぼんやりしている。
ディオン・セヴレスの話。
あたしの『母親』だと思われる少女レイア。それらの要素で、あたしの心はこれでもかとかき乱された。かき乱されて、ぐちゃぐちゃになって、いつの間にか心が切り離されていた。
そこにとどまり、囚われている余裕はない。だけど縋りつくように、あたしの一部はそこから動こうとしていない感じ。ふとした瞬間、思い出している……誰にも言えないことを。
そのたびに思い出し、静まった心がまた乱される。
それはとても苦しいけれど、それでも黙っていれば悟られない。あの日、言えなかったことをどうしていまさら口にできるというのか。引っ込みがつかないとは、まさにこのことだ。
幸いというべきか、心の中にあるものを吐き出すことを、あたしはあまりしなかった。基本的に自分のことを人に伝える行為を、面倒というのもあってしたがらない方だ。
何か悩みがあっても、よほど切羽詰まらないかぎり言わない。そのことで何度かシアにお説教されたくらい。だけど逆にそれは、無言が何事もないということへの証明にもなった。
あたしが何も言わないから、シアは何も言ってこない。体調を崩すとか、目に見えて不具合が出始めるまでは、彼女は疑念を抱いてもそれを口にしてこない。
シアが何も言わないということは、当然マツリやエルディクスも気づかない。二人に限ったことではないけど、あたしに関することでシアはかなりの信用を得ている。彼女が何も行ってこないなら何の問題もないだろう。そう思われているのは、何となく理解している。
だからあたしは、何も言えなくなっていく。
今更言いにくいというのもあるけど、これじゃあシアを利用するようだから。
それでも失えなかった。言えば途絶えてしまいそうな手がかりを、やっとこの手の中に転がり込んできたそれを、どうしても失いたくない。見失って、また手探りに戻りたくない。
そんなことを繰り返す中でも、あたしには次々と苦労ばかりが降り注ぐ。
必要最低限のマナーを身に着けたあたしには、次のお仕事が始まっていたのだ。
それは――お茶会。
それもマツリやエルディクスといった、親しい人以外を招き、もてなすもの。
あるいは招かれ、もてなされるもの。
とはいえ当然ながら、招き招かれる相手というのは親しい相手ばかりじゃない。殆ど知らないような相手からの招待も、当然ながらありうるし断ることは難しいだろう。
そこで対象となったのは令嬢達だ。
お誂え向きに城でヒマを持て余す彼女らを使っての、実地訓練というやつだった。
その話をしたせいなんだろう。
ほぼ毎日、あたしは彼女らに呼びつけられている。うん、こっちが招くため準備をする暇も必要も無いぐらい、一日の間に何度も。昼食の量を少し減らしてもらう程度には、たくさん。
彼女らがいる場所は部屋から離れているので、日に何度も往復するのはかなり面倒だ。
いっそあたしも向こうに住んでしまおうかと思うくらいに。
というか、一度ぐらい断ってしまいたい。言い出したのはこっちだけど、さすがにこう頻繁にやられると胃を壊しそう。それほど甘いものが好きではないから、だいぶキツいし。
でも、あたしにお茶会が集中するおかげで、リードは彼女らとの接点を絶てる。四六時中そばをうろちょろされないからなのか、リードの顔色は少し良くなっているようだった。いくら慣れているとはいえ、ああも露骨に媚を押し売りされるのはやっぱり堪えるらしい。
少しでも役に立てているなら、と今日もあたしはお茶会行脚。
「ハッカ、そろそろ時間だよ」
部屋で待機していると、数人の侍女を引き連れたシアが戻ってきた。見知った彼女らはそれぞれ道具を抱えていて、あたしは読みかけの本に栞を挟むとテーブルの上に置いた。
これからそれ相応に着飾り、本日一回目のお茶会に参戦だ。
別に普段着のままでいいのにと思うのだけれど、そうはいかないらしい。
締め上げるほどの肉もない身体は、いつも通りのワンピースタイプのゆったりしたドレスで包んでおく。深い青に花やつる草を刺繍した、手が込んでいるがシンプルなヤツだ。
ここにきてさらに長くなった、もとい切ることを許されなかった髪はそのまま。花を模した髪留めをちょっと飾り付け、青い花飾りのついたサンダルに履き替えておく。
温室で取れる花やハーブを使った、優しい感じの香水を少々。
最後にうっすらと化粧を施せば終わりだ。
それらを、シアを含め数人の侍女が総出でやってくれるけど、やっぱり自分の身支度を人にしてもらうと言うのは慣れない。恥ずかしいし。子供じゃないのだから、と思ってしまう。
これが普通と言うのだから、これも慣れるしかないんだろうな。
脱いだ服などを手にシア以外の侍女が部屋を出ていき、彼女らと入れ替わるようにミスティリエとアイシャが入ってくる。ナタリアは、今日はお休みらしい。
「ハッカちゃん、準備万端ね」
『いつでもいける』
「おーおー、やる気たっぷりね。ま、あそこはすっかり悪魔の巣食う地獄みたいになってるわけだし、気合と根性入れて殺られる前に殺るぐらいの心構えでなきゃね。いい心がけよ」
ミスティリエは笑い、隣にいるアイシャは小さくうなづいている。
悪魔だの地獄だの、殺られる前に殺るだの、なかなかひどい言い方だけど間違ってないから恐ろしい。女性が多くて華やかそうに見えるけれど、本当にあそこは怖いところだ。
他所の国にあるという同じような場所も、書物によると女の執念とか情念とかそういうのがドロドロに渦巻いた怖いところなのだという。まぁ、彼女らにとっては嫁いだ相手の寵愛を得ることと子供を産むことが、生きていくために必要不可欠な使命らしいから仕方ないだろう。
こっちは、そこまで鬼気迫ったものではない。だけど王妃になれるか、そこら辺の貴族に嫁ぐかではやっぱり雲泥の差がある。野望の炎の強さは、きっと同じくらいすごい。
本当は行きたくも無い。
ぶっちゃけ行きたくない帰りたい引きこもっていたい。
だけど、あたしがやらなくちゃ。
それがあたしの仕事でも、あるんだから。
部屋を出て、二人の騎士と一人の侍女を連れ、あたしは歩く。人気のない整えられた廊下を進んで階段を下りて、そこから中庭を横目にしばらく行けば、屈強な男性騎士が守る扉。
この向こうが、例の令嬢らを押し込んだ場所。後宮(仮)だ。ちなみにこの奥に、まだ正式な名前は与えられていない。どうせ使わないんだから個別の名前なんぞいらん、とのこと。
ひと通り片付いたら、別の目的に使う場所として改装する案が出ている。
あの美しい内装をそのままに、こう、なんか違う使い方を。あんな場所がそのまま残ってるのが悪いんだ、というリードの言葉は一理あるだろう。まずは物理的に制度の一端を壊す。
――話を戻そう。
ここから先にいけるのは、決まった騎士と侍女だけだ。あたしの場合、シアだけを連れて行くことができる。まぁ、騎士が厳重に守っている場所だから、問題ないという感じだ。
入り口でミスティリエとアイシャに別れを告げ、あたしはシアと中に入る。重い音を立ててながら、背後で扉が閉まっていった。この音、やっぱり何度聞いても慣れない。
とたん、甘い香りがふわふわと漂って、ここが女の園だと改めて思った。
息を吸い、吐き出し、あたしは目当ての部屋を目指す。
彼女の部屋は入り口からそう遠くない場所で、結構日当たりのいい部屋だったはずだ。
もちろん、逆に日当たりのよくない昼でも薄暗い部屋もある。昔は、その部屋の場所によって寵愛されているかいないかの判断がされていたらしい。日当たりが良いなど、住み心地のいい部屋に住んでいる人は、王様に大事にされている……という感じに。
とはいえ今はそういうわけではなく、単純に早い者勝ちらしいけれど。
「ハッカ、がんばれ」
部屋の前で、シアが小さな声で耳打ちしてくる。
あたしは小さくうなづき、それをみたシアがそっと扉をノックした。
少しして開かれたその向こうには、読書中だったらしいクリスティーヌがいる。離れたところにあるテーブルにはもうお茶の準備があり、本を閉じた彼女はゆっくりと立ち上がった。
「ようこそ、ハッカ様」
どうぞこちらへ、とその手が示すとおりに、あたしは椅子に腰掛ける。
向かい側にに腰掛けたクリスティーヌは、やはり大人びた雰囲気を感じさせた。持ち込まれた家具類は部屋によくあっていて、一見すると地味に見えるクリスティーヌの装いは、この部屋にあわせたものなんだろうなと思う。この部屋には、過度な派手さは邪魔だ。
シアと、扉を開けた侍女が部屋を出ていって、二人っきりになる。
「実家からよい茶葉が届きましたの」
どこか嬉しそうに笑って、彼女はその手でお茶を淹れ始める。準備から進行から、何から何まですべてを侍女任せである他の候補と違って、彼女はできることは自分でしていた。
どうやら昔から淹れていたらしく、その手つきはとても慣れたもの。
初めてのお茶会の後、シアが嫉妬して特訓を開始するぐらいだ。
やっぱりよくわからない人だ。いかにもな貴族、いかにもなお嬢様。そう思われそうな態度を露わにしつつも、内面がどこかちぐはぐな感じがしていて。
だけど彼女が淹れるお茶は、嫌いじゃない。
優しい味で、好きだ。