ディオンという男
いきなりだった。
リードからの命令として、ディオン・セヴレスに近寄るなとか言われたのは。
わざわざ『命令』として言われるまでもなく、あたしから彼に近寄るつもりは微塵もなかったしそう思われてはいないはずだけど、あえて言うということは何かあったのだろうか。
この命令は、あたしとシアが二人っきりの時に告げられた。彼女はいつになく真剣な表情をしていて、これが冗談の類ではないことはすぐにわかる。
この前あたし一人だけのけ者にされていた間に、他のみんなが集まっていたようだけど、その時に何か話し合ったのだろう。部屋から出ることを禁じられた、あの時に。
一緒に部屋に閉じ込められてくれたナタリア達を先生にした、貴族令嬢についての勉強は面白かった。やっぱり本物の貴族令嬢による解説は、リアルで実地的で参考になる。
どうせならシアも一緒だったらよかったのにって、あたしは思っていた。
仕事で忙しいのかなと思ってたけど、なるほどなるほど。
ふーん。
「うぅ、そんな目で見ないでよー」
じとりとした目でシアを見ていると、彼女が申し訳なさそうにする。まぁ、あんまり責めても仕方が無いし、あたしのためでもあったのだから、機嫌の悪いフリはやめておこう。
っていうかさ肝心なところを、みんな間違えているよね。
『頼まれても、あたしはあの人には近寄らないから』
気にならないと言ったら嘘になる。だけどそれを超える不信感がある。それが拭い切れない限りあたしはディオンには近づかないよ。頼まれても絶対に。
……そう、気にはなっている。
それは事実。
彼が知っているかもしれない、あたしのこと。当事者であるあたしが知らないこと、彼はもしかすると知っているのかもしれない。それを知りたいと思う気持ちは、やっぱり消えない。
でも、やっぱり胡散臭いというか怪しいから。
間違っても彼から聞き出すのは、よくないんだろうなっていう予感がしている。
この予感が消えない限り、あたしは彼に詳しいことは聞いたりしない。
あいにく、そこまで頭の中カラッポじゃないからね。これでも、上流階級よりはぬるいだろうけどそれなりにシビアな世界に生きてきたんだ、その程度の知恵は培っている。
あまり、バカにしないでほしいな。
「ん、そうだよね。ごめん」
『いいよ。心配させているのは、わかってるから』
そう、痛いぐらいにわかっている。
あたしが立っている舞台は、あまりにも狭く、砂を水で固めただけの塊のように脆い。ちょっと体重の掛け具合を間違えるだけで、この世界はたやすく崩れてしまうだろう。
それを少しでも固めるのが、今のあたしの仕事のようなものだ。
それは勉強だったり、近々やらされるらしい『お茶会』での交流だったり。
だけど、それはあまり楽観できる内容じゃない。いくら神託があったって、貴族の一部にある孤児を見下す感情は、きっと永遠に消えることはないんだ。あたしが来じであるかぎりは。
あたしはうかつな一歩を踏み出せず、必要な動きすらもままならず。
ゆっくりと、足場を固めて前に進んでいくばかり。とても情けないことに、足場を固めるためにあたしができることは、数える程度しかない。できないことがあまりにも多い。
あまりにも、あたし一人ではままならなくて。
ほんと、面倒な世界に飛び込んでしまったものだ。
最初の頃なら、周囲のせいにしてわめくこともできたけど、今は違う。あたしは、自分の意志でここに留まるつもりだ。ゆえに、あたしはもう『逃げ場所』を失ったのだ。
いや、自分から捨てたのかもしれない。
エルディクスとマツリのこととか、リードのこと。
いろいろあって、ここで生きていくことに、自分で決めて。それ以外を――もしかしたら手に入れる可能性とか、取り戻す可能性があったかもしれない『自由』を、捨てたのかも。
だけど、あたしの心の中に後悔は無かった。ぐるりと見回す室内は、相変わらず気持ち悪く思えるほど豪華だけど、これもそのうち慣れていくのだろう。
ここが、いつかあたしが生きて死ぬ世界になるのだ。
それにあたしにはシアもいるし、周囲との関係も良好だから大丈夫。あたしはきっと、同じようにいきなり庶民から祭り上げられた人よりは、比較的恵まれているはずだ。
それの上で怠けないよう、あたしはただ、ただ頑張らなければ。
そんなことを改めて思っているうちに、シアは別の用事があるとかで出て行ってしまう。
あたしの世話に、侍女の手伝いに……シアは本当に働き者だ。合間には、ユリシスに護身術というか、武器を用いらないような戦い方を教わったりしているという。
あの小柄で華奢な彼女でも使えるもので、殴る蹴るというよりも、突っ込んでくる相手の力を利用して攻撃するという、ちょっと変わったものなのだという。マツリの故郷には似たような武術があるらしく、シアとユリシスの稽古を見たという彼女がいうには。
――アイキドウとジュウドウが混ざった感じかも。
とのこと。
ジュウドウというのも武術なのだそうだ。マツリも実際にやったことがないからよくわからないのだそうだけど、相手を投げ飛ばしたり地面に押さえつけたりするらしい。
人にも寄るらしいが、そういうのを日常的に学んでいる人もいるそうだ。
マツリの故郷はすごそうだな、と思う。
そんなこんなで、シアの日常はとても忙しい。あたしの目が届く限られた範囲でさえそういう感じだから、届かないところでは何をしてどれくらい忙しいのやら。
彼女には休息日、というものがちゃんとあるのだろうか。
それをちゃんと摂取しているのだろうか。
少しぐらい、過剰に休んでもいいと思うんだけどな。
いっそ、あたしと一緒の時に休ませてしまおうかとさえ思う。まぁ、じゃあハッカの休息はいつあるの、とか言われるだろうけど。……たぶんあたしにおやすみなんてないね、うん。
あえて言うなら、こうして一人でいる時間がある意味で休息日と言える。
周囲に誰もいない静かなひととき。一日の中でもあったりなかったり。今日は久しぶりにひとりぼっちを満喫中だ。ナタリア達は外にいて、物音も立てず気配も殺して控えている。
たぶん、あたしが呼び鈴を鳴らすまで、彼女らは部屋に入ってこない。
もちろん怪しい物音には、注意を払ってくれていると思うけど。
あぁ、でもやっぱり一人が一番落ち着く。結構な時間が流れてさすがにたくさんの人に囲まれることに慣れはしたけど、だからといってそれを好きになるかどうかは別問題だ。
ぶっちゃけ、慣れはしたけど好きじゃない。
やっぱり一人が一番、気が楽だ。普段はピンとちぎらんばかりに張り詰めているのが自分でもわかるそれを、ゆるりとほぐしてそこら辺に投げ置くような、この開放感。
ここにいるのは、あたしだけ。
こんな風に、ソファーにだらーんと横たわっても怒られない。
その状態でお腹の上に本を乗せ、本を読むなんてハシタナイとか言われもしない。
傍のテーブルにはほかほかのお茶と、シアお手製の紅茶の葉入りの焼き菓子。シスターから教わった、ある意味であたしにとっての『家庭の味』の二点セット。
教会にいる頃は、よく一緒に作ったっけ。
基本的に、こういう甘味物は手作りするのが普通だった。お店で売っているものは必要ないものが混ざっているから、それだけ少し割高だ。フルーツとかナッツとか要らないし。
だから材料から集めて作る方が、比較的安上がりらしい。
とはいえ、何も混ぜないものばかりでは、さすがの子供達も飽きてしまう。
だから、紅茶の葉を細かく刻んで混ぜたりとかした。使い終わった茶葉でも、そうすれば最後まで美味しくいただける。とてもお安く、香りは少し高級っぽい感じがするのもいい。
ほかにも、教会ではいろいろと節約に節約を重ねた。
形や色が悪く、売り物にならない果物をもらってきてジャムを作ったりね。そんなものここでは一切合切この口に入ることはないんだけど、そこはそれ、シアがいるからちょっとだけ。
この味があれば、まぁ、何とかがんばっていけるような気がしてくる。
なんだかんだ言いながら、あたしには彼女が必要らしい。
久しぶりに『ひとり』になって、あたしはすっかり元の『ハッカ』に戻ってしまう。
孤児院の自室での振る舞いを自然として、だらだら、のびのび。最終的には勉強や読書にも飽きて、ふらふらと寝室に向かうと行儀悪くベッドの上に四肢を広げてごろんと寝転がった。
足をばたつかせて靴を脱ぎ捨て、そのまま仰向けになる。
服が、髪が、と怒られそうだけど、こうしてふっかふかのベッドの上でごろごろするのはやめられない。なんだか気持ちいいんだよね。なーんにも、考えなくていい感じがするから。
半分開けた窓から吹き込むそよ風と、薄いカーテンごしに差し込む陽の光。
ちょっとだけ、眠くなってくる。
どうせやることはないし、何かあれば起こしてくれるだろうし。
石版を枕元において、チョークの入った袋をその上に。
薄い上掛けをお腹に乗せて、さぁ昼寝だ。
寝てしまおう。少し時間がずれているけど、お昼寝だ。いつもリードと一緒だから、一人で昼寝なんて久しぶりな気がする。彼を思うと開放感の中に少しだけ、心配の色がにじむ。
忙しいから昼寝はナシと言っていたけど、大丈夫なんだろうか。
後で様子、見に行こうかな……。
そんなことを思いつつ、ふわつく意識をさぁ手放さんとした時だ。
――コツン、と何かが窓に当たる、かすかな音。
寝る前から寝ぼけたのかと思ったけど、音は不規則にコツンコツンと聞こえている。誰かが意図的に起こしているのは分かった。問題は扉を叩くノックの音じゃないことだ。
身体を起こすが、カーテンの向こうに人影は無い。
どこかに隠れているのか、陰が見えない場所にいるのか。
窓の向こうには巡回する騎士などがいて、部外者は立ち入れなくなっている。じゃあ、この音を立てているのは誰だろうか。脱走してきたリード――というのは、さすがにないかな。
誰だろう、と窓の外を覗き見た瞬間。
あたしは己の不用心さを呪うほど、全力で後悔した。