他には何も、これだけあれば
「こっちこい、抱き枕」
ちょいちょい、と猫か何かを呼ぶように手招きした。
これから昼寝をするつもりらしいけれど、その呼び名が気に入らない。ぱたんと読みかけの本にしおりを挟んで閉じて、あたしはリードの傍に向かう。
『あたし、抱き枕じゃない』
……確かに、そう呼ばれてもおかしくない状態で眠るけど。
でも何だか、それは認めちゃいけないと思った。
「同じだろ……あぁ、もういいから寝る。寝るからなー」
立ち上がって、よろよろと隣の部屋に消えていく。
途中、まるで脱皮するようにリードが脱ぎ捨てていく上着を丁寧に拾って、少し迷ってから結局ソファーの背もたれにかけた。ハンガーとかあればよかったけど、見当たらなかった。
次に部屋の外にいるユリシスに昼寝することを伝えておく。
何も知らずに来た人が、リードがいないと大騒ぎするかもしれないからだ。いつもなら昼寝から起きている時間だから、何も知らない場合は騒ぎになってしまうかもしれない。
わかった、と答えるユリシスに背を向け、あたしはそっと扉を閉じた。
執務室の明かりを消して仮眠用の部屋にいくと、仮眠用と言いつつも普通にご立派なベッドの上で、リードは力尽きたようにばたりと横たわっていた。まるで子供だ、あれは。
とりあえず、あのまま寝かしてはいけない。
服がしわになってしまう。もっとラフな格好になってもらわないと。
「……ん、だよ」
半分寝入った彼をゆすり起こし、服を脱がしていく。
ちょっとした来賓にも対応できる仕様だという立派な服をめりめりと剥ぎ取り、きちんとたたんでこれもソファーの上に。はきっぱなしの靴も脱がして、上掛けをそっと身体にかけた。
それからカーテンを半分ほど閉めて、彼の隣に腰掛ける。
もろもろの作業の間に、リードはすっかり夢の中だ。
夜もしっかり眠っているのだけど、執務の疲れが休息を上回っているのだろう。
少しやせたようにも見えるほほを撫でて、おやすみを伝える。
「……なぁ」
ぱりち、と少し目を開き、リードがあたしを見た。
薄暗い中でもはっきりと見える、オレンジ色の瞳に一瞬どきりとする。
すっかり見慣れたはずのその色に、なぜどきりとしたのかはわからない。いつもは色に似合う強く暖かい光を宿す瞳が、ずいぶんとくすんで見えたせいなのか。
あたしは動揺を必死に抑え、リードの言葉を待つ。
「前に、お前に父上と母上の話をした……よな」
こくん、とうなづく。
あれはこの城に来て間もない頃、だったと思う。城の中に飾られていた肖像画の前で足を止めていた彼と出会い、少しだけ話をした。思えば、あの辺りから認識が変わったように思う。
ただただ、現状を受け入れず駄々をこねるように反発するばかりだったあたし。
呪うように、罵詈雑言を吐き出すだけだったあたし。
そこに、ぽつんと落とされたのが、彼が語った両親の思い出だった。
理解なんてできないとさえ思った王族の、それでも庶民と変わらないもの。あの話を聞いた頃から、あたしは少しだけ前を向くようになったと思う。
周囲を拒絶するばかりじゃなくて、自分の目でちゃんと見るようにしていたと思う。
その結果が、きっと今の穏やかさなのだろう。
こうして彼と昼寝をするなんて、あの頃のあたしは信じないに違いない。
「母上はさ、ちょっとだけお前に似てるよ」
ちょっとだけだからな、と重ねられる言葉。
リードの母親は、決して病弱な人ではなかったそうだ。肖像画に描かれた見た目は温和そうだったけれど、あれで馬に乗ったり、そのまま狩りに出かけたりするような人だったという。
ちょっとした剣術も嗜む、どちらかというと活発で生命力にあふれた女性。
けれど彼女は、リードを出産した時に体調を崩してしまう。珍しいはなしじゃない。そのまま我が子を抱かずに命を落とす母親も、けっして少ないわけじゃない。
王妃様は死は免れたけれど、季節の変わり目などに寝込むことが増えたという。隊長にもよるけれど普段は満足にベッドからも出られない王妃に、次の子をと言うのはあまりにも酷。
そうして愛人だの、離縁するだの話が出て、それが王妃様のためだと建前を並べる貴族なんかも出て、それを聞いた国王が一切合切を拒否して突っぱねるのが日常の一部だったという。
自分が愛するのは、王妃以外にはありえない。
彼は娘を差し出そうとする周囲に、何度も宣言した。
そして、愛する妻の面影を強く引く息子を、とても大事にした。
「俺は、大事にされたんだ……俺のせいだっていう人も、いたのに」
リードの声が震えて、かすれる。
腕が伸ばされて、あたしに触れようとして、でも直前で引っ込んだ。
逃げるように離れるその手をあたしから手を伸ばして握り返して、力を込める。
励ますように、そして――もういいよって、伝えるために。
彼は誰にも言えない思いや考えを、長い時間、心の中にじわりじわりと溜め込んでいたのかもしれない。誰だって親に、自分を憎いと思ったかなんて、尋ねられない。それを肯定されるのもつらいけれど、自分の言葉が思いもしない形で相手を傷つけてしまうこともあるから。
言わなくてよかったと、リードはきっと思ったはずだ。
でも、同時に――訪ねておけばよかったとも、思ったのだろう。
後悔はそういうもの。
あたしだって、あるから。
でもね、きっとリードが尋ねたら、王様は笑ったと思うよ。なんてふざけたことを言う息子だって、ちょっと怒って、それから笑って、優しく優しく頭を撫でてくれたはずだよ。
根拠なんてないよ。
あたしはリードの両親のことを、姿しか知らないもの。
でも、あの肖像画の『夫婦』からは、そんな思いしか感じ取れないの。
石版は手元にない、だから声を届けられない。だから、あたしはこうして手を握っていることで少しでも伝わるようにする。ゆっくりとでいい、声の代わりになるものを伝える。
あたしの心を、そのままリードに聞かせてあげられたらいいのに。
心ごと、差し出せたらいいのに。
自然と近寄って、そっと頭を撫でた。
リードが、くすぐったそうに目を細め、少し笑う。
「母上は、俺が十歳になるのを見届けるように、死んだ」
それでも、医者の見立てよりはずいぶん長生きしたのだと、リードは言う。
庶民からするとなんということもない十歳という年齢は、貴族の子が社交界にお披露目される年齢だそうだ。それは王族も同じで、母親に正装を着せてもらって、彼はその日に臨んだ。
立派な装いをした息子を見て、王妃様はいつになく嬉しそうにしていたという。
王妃様の死去は、それから数日もしなかった。
最後は夫である王様と、リード。
それから彼女の両親や兄弟に看取られて、静かな眠りについたそうだ。
リードの心に、母親の死はとても重くのしかかった。けれど、それ以上に降りかかったのは石のように硬いもの。次の王妃を狙う者達による、唯一の王子であるリードの懐柔作戦だ。
リードが、ぽつぽつと語るのは、想像するだけでぞっとするような光景。
喪も明けないうちから、次の王妃を狙う者達が王様の周りに集まった。彼の意思が固いとなると、今度は一人息子であるリードにその矛先が向かい、あの手この手で人が群がった。
十歳の子供にとって、異性というのは緊張を運ぶ存在だ。
それは、あたしにも覚えがある。
最初はなかなか、男の子やお兄さん達になじめずにいたから。
同年代でそれなのだから、一回りも違う大人なんて緊張を通り越してもはや恐怖しか抱かないだろう。ましてや相手は獰猛さを隠さないのだから、怖がるなというのは無理な注文だ。
夜会の類に出るたびに、ううん部屋から少し外に出るだけで、ずっと年上の、見知らぬ女性に囲まれて父親への紹介を頼まれる日々。追いかけられて、逃げても逃げてもきりがない。
彼女らの言葉は、だいたいが決まっている。
自分がいかに若いか。
若く、丈夫で、健康であるか。
中にはリードに、兄弟がほしいのではないかといってきた令嬢もいたという。もしも自分が王妃になればリードに兄弟をいくらでも作れると、自信たっぷりに囁いた人もいたそうだ。
でも、それらはちょっと裏返せば。
「母上がダメだったと、連中はいいたかったんだろうな……」
王様とリードにとって最愛の、亡き王妃を侮辱するこの上ない言葉になった。
リードに令嬢が群がっていることを知った王様は、護衛を兼ねてライアード家から二人の少年を城に招いて住まわせることにした。要するにエルディクス、それとユリシスのことだ。
令嬢は二人の、幼いながらも立派な騎士に阻まれて、唯一の頼みの綱であった王子に近寄れなくなった。そうこうするうちに再婚話を、王が完全否定して騒動は収まったらしい。
「で、それが終わったと思ったら父上は病に倒れた。亡くなって……そして、お前が来た」
もぞり、とリードが這うように近寄ってくる。
伸ばす腕であたしの腰をつかんで、自分のように引き寄せようとした。
これは……もしかして、膝枕してほしいのかな。
自分から近寄って彼の頭をひざに乗せてやると、ふわり、とリードが安堵の笑みを浮かべるのが見えた。なでなで、と頭を撫でながら、語られる彼の話を聞く。
眠った方がいいだろうと思うけど、一度話し始めたからには最後まで言いたいのだろう。
「なんで、なんだろうな……」
目を閉じてつぶやかれる声は、とても弱い。
消えそうなほど、弱かった。
「候補がさ、みんなあの女どもに見えるんだ。俺じゃない誰かを、求めてるようで」
リードという『王子様』を使って、『王様』にたどり着こうとした彼女ら。
話に聞くだけでも、それは恐ろしいものだったのだと思う。リードが女性不信や女性嫌いになったらどうするつもりだったのか。いや、そんなこと考えもしなかったんだろう。
彼女らの浅ましい欲望が、どれだけ子供の心を傷つけるかもわからない奴ら。今もわかっているとは思えない。もしかしたら、リードの花嫁にと娘を差し出そうとしているかも。
それが花嫁ではなく愛人でも、きっと差し出すのだろうと思う。
「……愛人だかなんだか知らねぇけど、そんなの要らない。こいつが、ここに」
いるのに、と。
リードはつぶやいて、そのまま静かになる。
やっと眠ってくれたらしい。
問題は、腰に手を回すような形でがっしりとしがみつかれてしまっているから、あたしが動けないことかな。頭が膝に載ってるから、あまり身じろぐと起こしてしまうかもしれないし。
すっかり穏やかな寝顔になっている彼を起こすのは申し訳なくて、あたしは彼が目を覚ますまでずっと膝を貸しつつ、その頭を撫でていた。柔らかい髪を、指ですくようにしながら。
夢でもいいから、少しでも彼の心が安らげますように。
あたしには、そんなことしか……できないから。